3.遠比士の淡島2
『武庫の津の長、乙宇目より、遠比士殿へ』
武庫の津は、つい最近まで敵対していた地域であり、乙宇目はその抗戦の最先鋒であった。なぜ、比士がその一族とやり取りをしているのか。
『伊舎那の幻想には付き合うことには苦い思いはあるが、劉秀率いる偽漢朝への貴殿の抱える憤りには深く共感する。伊舎那が貴殿のものとなり、蓬莱全土を率いて漢へ攻め入る折には、先に従った足納槌や大杜志と供に、必ず協力すると約束させていただく。』
足納槌は出雲、大杜志は因幡の、それぞれ代表ともいえる豪族であり、それぞれが伊舎那に抗戦を表している部族だった。岐峰は、己の足元がぐらりと揺らぐのを感じていた。
「我々はこの書簡を沖の島の沖で手に入れました。夜半に不信な船が出るのを見つけ、船籍を名乗りあった所、我らが巴太の船と判ると襲い掛かってきたのです。向こうの手勢は50といった所でしょうか。こちらが300の軍勢を率いていなければ、やられていたのはこちらだったでしょう。」
淡々と語る布津の声は、雨音にかき消されること無く室内に響いた。
「沖ノ島は、伊舎那に最初に臣従を誓った島でしたね。」
筑紫は、記憶を探るように言う。
「巴太が味方についた事は知っているはず。それが味方を襲うなどと。」
「巴太を群島にたどり着かせるわけには行かなかった、ということか。」
岐峰の言葉を受けて、ぽそり、と撥耶がこぼす。
「廉劫殿が、海上で不慮の事故死を遂げれば、巴太は政治的に無力化する。が、遺志をついで臣従は続く。」
「私さえ死ねば、比士殿は伊舎那の後見の立場を保持できる、というわけですか。」
廉劫は、言葉を発した撥耶を探るように見ながら言葉を紡ぐ。
「推測だ。」
言いながら撥耶は、布津に話の続きを促す。
「とかく、事情がわからぬまま取り押さえ、押収したのがまずこの書簡です。我々はそのまま沖ノ島へ上陸し、沖の領主に事情を聞きました。」
「この書状が真実であると供に、大島、吉備の小島、小豆島もこの計画の下に動いていると。」
最後の廉劫の一言を最後に、重い沈黙が部屋を包んだ。その沈黙を破ったのは、羅子だった。
「例えば、伊舎那全軍に、乙宇目、足納槌、大杜志まで含めて、劉秀の軍に勝てますか?」
「遠家と伊舎那が合わせて1万、乙宇目、足納槌、大杜志合わせて4千ってところか。それに対して漢の軍勢は韓国の駐屯兵だけで4万から5万だ。」
筑紫の計算が正鵠を得ていることは、韓国出身の岐峰にも羅子にもわかった。あまりにも不利な条件である。
「廉劫、この件、少し預けてもらえないだろうか。乙宇目が遠大夫を落とし入れるため用意した書簡である可能性は残っているし、沖の島がそれにしたがっているのだということも考えられる。」
岐峰には、比士がこのような不利な戦を仕掛ける理由がわからなかった。廉劫たちを襲うとも考えられなかった。
「かしこまりました。」
「一つ、聞きたい。何故この場に我らを呼んだ。」
撥耶の言葉に、廉劫は頭をかく。
「正直に申し上げよう。貴殿らの反応を確認したかったというのが第一だ。特に姫君のな。姫君がこの件に関与しているようなら、即刻この婚姻に異議を申し立てるつもりであった。」
「結果は?」
「姫君と貴殿は少なくとも信用できるらしい、という事はわかった。大王、努々(ゆめゆめ)お気をつけなされませ。」
廉劫達は頭を下げ、その場を退出した。その場を、雨音が支配した。
「ご存知のことがあればお教えいただいてよろしかろうか。」
羅子の冷たい言葉が、撥耶に向けられた。
「そうだな。美君はもちろん、俺も特筆お前達と親しい人間だ。遠の一族の中では突出していると言っていい。俺が兄上でも、少なくともこの二人には内密でことを進めるだろう。」
岐峰には撥耶の言葉の裏側に、むしろ大きな落胆が見えた。
「シラをきっているわけではなさそうだぞ、羅子。撥耶殿の言うとおりだ。」
口を挟んだ筑紫を羅子は睨むが、筑紫は構わず続ける。
「事前に知っていれば、まずここに二人は来なかっただろうし、知っていたならその書簡を見たときの反応で廉劫殿だけでなく俺達だって気付く。お二人を監視していたのは俺達も一緒だからな。」
美君は、その書簡を見たときから口をつぐんだまま何も言わずに俯いていた。書簡を見たときの驚きと怒りに満ちた美君の表情が、岐峰の胸から離れることは無かった。
「巴太の船を襲ったと言うのが気にかかる。こちらはこちらで調べてみよう。」
撥耶は、そういうと扉に向かう。
「私は貴方を信用しておりませんよ、撥耶殿。」
「羅子!」
羅子の声に対して岐峰は声を荒げた。それは他ならぬ美君を苛む言葉であったからだ。
「…怪しいと思えば、いつでも首を落とせ。」
撥耶はそう返してから、岐峰を見た。いつか必ず選択に迫られる。それが今だと、言われている気がした。
美君を送るため、岐峰は外に出た。雨は只ひたすらに二人を打ちつけていた。
「美君。」
呼びかけた声に、美君はその不安と悔しさに満ちた眼差しで振り返る。
岐峰は、思わず美君を抱きしめていた。美君は、岐峰の胸に顔を押し当て、ただただ嗚咽を漏らし続ける。
「まだ、決まったわけではない、美君。まだ…。」
それは、半ば己の心に言い聞かせていた。より激しく振り続ける雨は、嵐の到来を予感させた。
この件に対する会合は、引き続き、筑紫の居室で行われた。集まっている理由を問われれば、婚儀のための打ち合わせということに出来るからである。岐峰は、一縷の望みにかけるように、情報を集め続けた。
「廉劫殿が海上で襲われたと?これはただならぬ事でございまするな。」
比士の言葉から、怪しいところは感じられない。少なくとも岐峰から見た比士は、いつもの鷹揚な大夫であった。
「沖の近くならば、よもや大杜志の仕業かもしれませぬな。この雨が開け次第、事実を確かめねばなりませぬのう。」
大杜志と通じていればこそこういうのか、真実大杜志の仕業なのか。岐峰には判別できなかった。
少なくとも、比士を信じたい。自分をここまで支えてくれたこの御仁を信じたいという思いが、自分の疑念を責めさいなんだ。
しかし、望みもむなしく決定的な証拠が出るとともに、事態はさらに悪化した。
床に伏せさせられた使いは確かに遠家の部下であり、漢族側家臣団の若者であった。
「そなたは沖の島の駐留兵だったはずだ、そうだな。」
撥耶に聞かれた兵は、黙秘を続ける。彼が夜半、比士の屋敷から出るところを撥耶の用意した見張りが捉えたのである。
「兄上から預かった書状を見せて欲しい、といっているだけだ。俺に見せる必要はないよ、伊舎那岐峰王にお見せしろ、といっているんだ。」
兵は無言を貫く。
「必要なのはそのものでなく、そのものの持っている書簡でしょう。ならばもっと簡単な方法がありましょう。」
「羅子!」
岐峰は、言った羅子を止めた。遠のものは未だ敵とは決まっていない。そこで血を流すのを岐峰はどうしても避けたかった。
「ならば、私にお見せなさい。貴方の主の娘、遠美君が命じます。」
「…姫様。」
美君の言葉に、ついに観念したのか、懐より書簡を差し出した。兵を羅子に任せて広げたその書簡が、比士の裏切りを物語っていた。
『遠比士より因幡の長、大杜志へ
この長雨により連絡が出来ぬ間にことが悪化した。足納槌の部下が斉州島沖で捉えられ、此度の挙兵が劉秀に漏れた。劉秀は洛陽にて蓬莱打倒の兵を集めていると聞く。ことは一刻を争う事態となった。何とか劉秀の兵が集まりきる前に事を起こさねばならぬ。とかく計画の実行を早めたい。船の用意を急ぎ、雨が開け次第軍を挙げる。日の王を亡き者にして巴太にその罪を着せれば、伊舎那は、王妃の父であるこの遠比士のものとなろう。劉秀の首を取った暁には、大杜志は遠皇帝家の第一の家臣とする事を約束させていただく。何卒協力のほどを。』
その内容が、全てを物語っていた。
「最初から、このつもりだったということですか。」
美君は、顔を上げぬままに言った。
「岐峰に国を作るように進言したのも、私を嫁がせたのも、すべてこのためだったというのですか。自らが、兵を集める隠れ蓑にするために。」
美君の声は、怒りと悔しさに震えていた。しかし、けして顔を上げなかった。
「…まずいな。」
筑紫がこぼす。
「これが事実ならば、…いや、もはや疑うべくもありませんが、漢軍がこの蓬莱に軍を差し向けるということです。伊舎那討伐でも、遠氏討伐でもなく、蓬莱討伐の軍を。船の用意を、とは書いてありますが、海戦での勝利は難しいでしょう。主戦場はこの蓬莱になります。帥王や他の国津の民すべてを巻き込んだ戦が始まりますよ。」
そういって筑紫は岐峰を見た。伊舎那は、漢に飲み込まれて潰されるであろう。かつての韓国が、弁韓がそうであったように。
ふと、外の気配がざわついた。
岐峰が目を上げるや否や、窓から二人、入り口から二人、黒い影が入り込んだ。燭の火を照り返すその抜き身の刃物だけがきらりと光る。
「岐峰!」
美君が叫ぶのと、その白刃が岐峰たちに襲い掛かるのはほぼ同時であった。