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1.伊舎那の民1

闇にうっすらと見えたその島影は、後ろの船団から歓喜のため息をつかせるのに十分な力を持っていた。羅子の灯火に従ってついてくる船の速度も心なしか早い。しかし、と岐峰は気を引き締めざるを得ない。敵方の手がここにあった場合、生き延びられる可能性は著しく低い。槍を握る手が汗ばむのを岐峰は痛いほど感じていた。

 しんがりの船が上陸すると、船と櫂が奏でていた不規則な音は途絶え、浜は単調な波音の支配下に入った。

「人が住んでいるな。」

自分の得物に手をかけながらそういったのは、筑紫つくし

「みんな、剣はいつでも抜けるようにしておけ。」

羅子と共に岐峰にとって兄弟とも思える、最も信頼にたる仲間である。提氏と筑氏は日氏に代々仕える重臣の両翼であった。この戦で彼らも共に多くの家族を失っている。元来筑紫は争いを嫌い、いつも書庫で本を読んでいるような男だった。先の争いにおいても独立を前提とした和睦を最後まで訴えていたのは筑紫だった。

その、穏やかな筑紫がこう言う。今まで経験してきた裏切りの数が彼の心に大きな影を落としているのは言うまでもないことだった。

きりきり、きりきりと弦を絞る音が耳に入ったとき、

「灯を消せ、伏せろ!」

 岐峰は、叫びながら槍を構えていた。

「遇知!撃ってはなりません!ここでの私闘は王にあだをなす行為になります。」

 制止の声は、別の方向から響いた。涼やかな、女の声だった。

「何者です、名乗りなさい。」

「俺は日岐峰。韓国からくにの弁韓の一領主だ。水と油、食料を分けてもらいたい。」

「劉秀の息がかかった追っ手かも知れん。美君様、撃つべきです。」

弦の音が聞こえたのと同じ方向から、男の声でそう聞こえた。制止の声に緩んだ殺気がまた勢いを取り戻す。四方からの殺気。囲まれている。

「そなたらが劉秀の敵だというのなら我々もそうだ。戦う気は無い、武装を解いてくれ!」

声を限りに叫ぶその声は、こだましたまま消え、残ったのは殺気のみだった。

遇知ぐうち。」

先ほどの女の声がまた呼ぶ。

「お人よしも大概になされませ、美君様。今までの敵の誰もがそういった。我々は須く裏切られてきたのだ!」

 弓を構えた兵士たちが立ち上がり、弦を引く。

「撃つな、遇知。」

男の声に、弓兵たちは弓をおろした。たいまつを持ったその男は、岐峰の元まできて、そのたいまつを掲げた。

「弁韓の日氏。日岐陵ひきりょうの子、日岐峰に相違ないか。」

男はまだ若かった。頷く岐峰に男はいう。

「失礼した。夜も遅いし非礼の詫びをしたい。館まで案内しよう。」

そういうと、彼は弓兵たちを率いて去ろうとする。

「こちらはもはや名乗っている。そちらも名乗るのが礼儀ではないのか。」

去り行く男は、言葉を投げかけた岐峰に、悪びれることもなく言う。

「これは、失礼した。俺は遠撥耶。漢水かんすい江南こうなんの生まれだ。」

そういって、また歩き出す。ついていく一団の中に女が一人。先ほどの女だろうか。

岐峰は松明に揺られたその顔に目を奪われた。

‐かように美しいものがこの世にあったのか。

止まっている岐峰に、女は振り向く。

「おいでください。私たちも、貴方達に害をなしません。」

その涼やかな声は、やはり先ほどの女の声だった。

筑紫、羅子が先に立ち、歩き出す。それにつられて、やっと岐峰は我に返る。国から逃れてこの方、女に目を奪われるなどは初めてのことだった。女は岐峰を待っていた。

「私は、遠美君と申します。こちらから問うていながら名乗らず、失礼をしました。」


 筑紫と一族の者たちは、薪と水、食物を分けられ、野営の準備を始める。その中、羅子と岐峰は、遠撥耶と名乗る男の家に呼ばれていた。美君の持ってきた白湯に口をつけながら撥耶はいった。

「ご覧の通り、毒は入っていない。」

「江南漢水の遠氏、といわれたか。」

探るように問う羅子。その名は岐峰も知っていた。反劉秀の軍は、中華全土に広がった。しかし、各地方の豪族の名は別の地域まで伝わるものでもない。半島の岐峰らにその名が知れていると言うことが、遠氏の存在の大きさを物語っている。知れている理由はもう一つあるのだが。

「いかにも、そなたらと同じく炎帝神農の末裔だ。」

炎帝神農。中華神代の皇帝であり、岐峰ら半島の民族の祖先でもある。その炎帝を祖先と仰ぐ騎馬民族、暁族。元は大陸の西北が遠いふるさとだと伝え聞くその一族は、大陸の各地に散っている。その遠い血族として、遠氏の名は岐峰らの耳に入っていた。

「危うくこちらも同族を手にかけるところだった、というわけだ。」

「我らもまた、同属の血を頼ってここまで逃げ延びたのです。」

「ここは…?」

何も知らずにたどり着いた岐峰は、まずそのことが知りたかった。

「蓬莱の一支国いきこくすい王の領国だ。」

撥耶のその言葉に、安堵のあまり力が抜けた。こここそが、岐峰らの目指していた目的地だった。帥氏は岐峰の母の実家であり、現帥王である帥牙比古は岐峰の伯父に当たる。帥王の保護を求めることこそがこの逃避行の唯一の希望だった。

「そうか、一支国にたどり着いたのか…。」

羅子の声もまた、安堵に震えていた。

「明日の朝には帥王に目通りを願えるだろう。せめて今夜は、敵の襲撃に怯えずに休むことが出来る。」

「それと…」

撥耶の言葉に続いて、言い出しにくそうに美君が切り出す。

「先ほどのこと、どうかご容赦くださいませ。我々も、疑うことからはじめねば済まぬほどの裏切りにあってきたのです。」

「いえ…」

 その美しい顔を、苦痛に歪めながら美君が言う。岐峰には、その痛みが身にしみていた。かつての仲間が、身内が、剣を抜き、毒を用いた。己を害するために。

 どたどたという足音と供に、入り口の簾が開く。

「撥耶よ!何故わしを起こさんのだ。危うく朝まで気付かぬ所であったぞ。」

そこに立っていたのは、年の頃は40頃の男。蓄えたひげも寝起きのためか乱れている。

「明日の朝でよかろうと思ったのだ、兄上。」

「何を言う、兵から聞いたぞ。こちらが無礼を働いたのであろう。ならば一族の長であるわしから詫びをせずばなんとする。」

男は、岐峰に向き直り頭を下げた。

「わしはこのものどもの長、江南漢水の遠比士と申すもの。貴殿らの安否には帥王も心を痛めておいででした。」

「お初にお目にかかります。韓国弁韓の、日岐峰です。こちらは家臣の提羅子。薪と水、油を分けていただき、本当に助かりました。このご恩は必ず返させて頂きます。」

「まぁまぁ、そうかしこまられますな。此度は大変な無礼を働いてしまい、陳謝の言葉もありませぬ。このものどものことはもうお分かりか?我が弟の遠撥耶。そして我が娘の遠美君。」

「父上、名乗りあいはもう終わっております。」

やんわりと、美君が差し出した白湯を受け取りながら、比士は腰を下ろした。

「そうかそうか。ならば問題はない。して、岐峰殿。韓国の戦も凄惨なものであったと聞き及んでおりますが…。父君の日岐陵殿やご兄弟は?」

「…皆、死にました。末弟の私のみが生き残り、こうして生き恥をさらしております。」

「おいたわしや…。いやいや、生き恥などと申されず、まずは今日ゆるりと休み、明日そのお顔を帥王に見せられよ。さぞお喜びになることだろうて。」


 話を終え、岐峰らは、暇をつげ、館を出た。館を出たところで、岐峰らを睨み付ける目があった。

「覚えて置け。俺は、まだ貴様らを信じては居ないぞ。東夷のものは必ず裏切る。貴様らだけではない、帥王とてそうだ。貴様ら東夷の人間が図に乗ってよいことなどない。」

 前に出た羅子を止め、鋭くはき捨てたその男に、岐峰は向き直る。鋭い目だ。その目に映る侮蔑が、岐峰には不可思議なものとして映った。

「確かに、我らは夷戎(いてき)だろう。だが、それは暁の民としての誇りだ。あなた方も持つ、炎帝の末裔であるという誇りではないのか。」

「我らが主にはもっと高貴な血が流れている。貴様ら東夷の蛮族などと並べてよいものではない。」

はき捨て、立ち去る男の背中を支配する苛立ちに、岐峰は怒りよりも哀れを覚えた。

「主に向かってのそこまでの暴言は看過できん。せめて名を名乗れ。」

 叫ぶ羅子の声に、男は答えることもなく去っていった。

 夜半、羅子も眠り、食事も取り、後は眠るだけだというのに、眠ることが出来ない。体の疲れも限界まで来ていても、夜襲に怯えるくせは抜けていないのか。それとも、違う理由からか。岐峰は寝付けない体を引きずり、自分達がたどり着いた浜辺まで歩いた。

 暗闇だった。静かに響く波の音が、ただそこに水面が在ることを主張していた。岐峰は、腰を下ろしながら思う。

-そういうことか。

-まだ、先は闇なのだ。

昨日まで、ここにたどり着くことだけが目的だった。一支国にたどり着き、帥王の保護を得る。そうやって、生き残る。生き残るために、全てを失ってきたのだ。それはきっと、自分達を裏切っていったもの達もそうなのだろう。

 そして、その命を掴んだ。その先は、なんだ。何も見えては居ない。闇がただ、茫漠と自分の目の前に広がっている。

 

「…どなたです?」

 涼やかな声が、その波音に割って入った。この夜半に人が来るとは思ってもいなかった。

「いえ、その…」

岐峰は、動転したのか良く分からない声を出していた。

「岐峰殿?」

呼びかけられて、やっと気付く。その涼やかな声は、遠美君であると。

「…美君殿。」

「…寝付かれませんか。」

「ええ。」


少し離れた所に、腰を下ろす気配がする。美君の声はその方角から聞こえてくる。

「私もです。ここの所、眠ることが出来ず。撥耶兄さまによく怒られています。」

岐峰は、その声に何を返していいかわからなかった。ただ、その気配から感じる佳人の微笑を一目みたいと、その見えぬ顔を闇越しに捜すのみであった。その微笑の気配もすぐに鳴りを潜めた。

「うちのものが、重ね重ね、失礼をしました。」

その口調は、何かに耐えるように、重かった。彼女の示す“うちのもの”が、館を出たあとに出会ったあの鋭い目の男のことであると気付くのに、一瞬の間が必要であった。

「あれは、過遇知かぐうちといいます。あれもまた、気が昂っているのです。」

 もっと高貴な血が。そう、その男、過遇知が言ったことを思い出す。その高貴な血がなんなのかは、岐峰も既に知り及んでいた。江南漢水の遠氏には、皇帝の血が流れている。大陸の隅々までその話は伝わっていた。

「今は、あれのいうその血こそが我々を脅かしているというのに。」

 悲しげなため息が、暗闇に溶けた。そう、岐峰らは、おそらくここで命を拾える。帥王の下、一支の国民として野心を表すことさえなければ、劉秀もこの遠い島国まで追求を伸ばすことはないだろう。だが、

 だが、彼女ら遠氏はそう行くまい。彼女らを長く匿えば、中立の一支といえども、いずれ劉秀の兵が及ぶ。帥氏は、劉秀率いる漢軍との全面戦争を強いられるだろう。

 すべては、遠氏に皇帝の血が流れているが故に。そして、南部の叛乱の旗頭であったが故に。

 岐峰は、彼女の身を置く暗闇が、自分などよりさらにさらに深いものであることに気付いた。彼女らはいまだ、命すら拾えていない。

「この暗闇の中では、そのような血など、頼りにもなりはせぬのに。」

岐峰は、ふと天を見上げた。雲の隙間から、1点の星が覗いた。

そう、闇ではない。この夜にすら、星が出る。

「闇などでは、ないのかもしれません。」

「あたりに灯りはありませんよ?」

「上を。」

美君の、あ、という声が、岐峰と同じものを見たことを指し示していた。

「この闇にも、星は光っているようです。ならば、闇ではない。」

ふ、と。美君の口から吹き出す音がする。

「それは屁理屈では?」

雲が晴れていく。雲の奥に隠れていた月が、くすくすと笑う美君を照らした。

お互いの目が合う。その佳人は、花の咲くような笑顔を岐峰に向けた。

「そうですね。星も出れば、かように月も照りましょう。闇などではありませんね。」

岐峰は、この佳人の心底の笑顔が初めて見るものであることに今さらながらに気付いた。


伊舎那の民(2)へ続く

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