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5 過遇知の火

「遠家当主遠撥耶。その臣、兎迂李。あなた方を一支、伊舎那の領内に入れることは罷りなりません。」


和久わくの言葉の意味が、岐峰には判らなかった。


「恐らく貴方は何も知らない。でもそうなってしまったのです。撥耶殿。」


撥耶に向けたその言葉も、岐峰は理解することが出来なかった。


 だが、撥耶は違った。その和久から目をそらすことなく、言葉を返した。


「遠は、美君はどうなった。」


和久は、言葉につまり、目をそらす。美君に、何かが。


岐峰の目線を受けても、和久はまだ苦しそうに口をつぐんでいる。それはまるで、事実を岐峰に伝えることをためらうかのように。


「生きては、居るのだな。」


更に重ねる撥耶の言葉に、和久はかろうじて頷く。


「ならば、俺は美君から事情を聞いたほうがよさそうだ。どこにいるか教えていただけるか、和久殿。」


「いえ、私が、ご案内します。…故郷を救っていただいた貴方へのせめてもの礼儀です。」


和久は、そう言って自軍の艀に移動する。


「岐峰、貴方は淡路に急いで。羅子と筑紫が貴方を待っているわ。」


和久の言葉は、半ば以上岐峰の頭に入らなかった。


「大王様…。」


「迂李。行くぞ。」


困惑した迂李を促し、撥耶は歩き出す。


「撥耶!俺には、一体なんなのか、わからないんだ。これは、一体、」


「だから、それを確かめに赴くんだ。それぞれにな。」


岐峰の言葉に、振り返ることなく、撥耶は返す。羅子と、筑紫が待っている。ここでようやっとそれだけが頭に入った。


 和久の船と供に、撥耶と迂李の乗った艀も遠ざかっていく。それを見送りながら、和久の部下と供に、淡路への進路へ目線を向けた。そこには、船とそれに乗り込む艀が既に用意されていた。


まるで、仲間から放り出されたようだ。乗り込みながら、岐峰は思う。


船は、筑紫の島と周防の国の間の狭門せとをくぐる。


一体、何があったのか。かつて戦い、分かり合い、分かち合った自分の領土であるこの海域が、まるで異郷のように岐峰の目に映った。






岐峰がその狭門をくぐるその2ヶ月前。同じ狭門をくぐりながら美君は驚きと供に周囲を眺めていた。


「これが、この内海の第一の狭門です。」


筑紫の言葉に、思わず振り返り、美君は尋ねる。


「第一の?」


「後の軍議で海図と供に説明しますが、そのように驚かれるとは思っても見ませんでした。」


筑紫は苦笑し、美君を眺める。


「私は、蓬莱は一支と群島しか知らぬのです。」


美君は、半ばふくれながら言う。あえて足せば、岐峰らと供に赴いた巴太はたの陣地、田丹羽を知っているが、それとしても航路は北海を通っていた。美君が内海に入るのはまさしくこれがはじめてであった。


 船の左右を迫った陸地が離れ、広い海域に出たとしてもその陸地自体はけして目から消えることは無い。天然の防壁。美君の目には、両側の陸地がそう映った。


「この先にある安芸の狭門と小島群を第二の防壁とし、吉備の狭門と小島群を第3の防壁として防備を固め、淡路への侵入を守る形になります。」


内海を3重に隔てる狭門と、陸地と山脈による天然の防壁。まさに自然が作り上げた要塞である。


「とても、強固な国なのですね、伊舎那は。」


美君は、感慨と共に言葉を発した。


「それ以上のものにさらされれば、吹いて飛びますがね。」


苦い冗談で返した筑紫に、美君は振り返る。


―それでも、劉秀の軍が押し寄せれば、この陸棚をいともたやすく突破する。―


それは、出雲・石見を治める豪族である足納槌の長、足納槌章柏あしなづちしょうはくの言葉であった。




群島から出発した美君らは、内海に入る前にまず穴戸あなとの港に入った。足納槌からの面会の要請があったためである。


足納槌章柏はその細い体を震わせながら、同席した巴太 廉劫(れんごう)提羅子ていらし、筑紫、過遇知かぐうちを見回した後、美君の前に額づいた。


「お初にお目にかかります、姫君。出雲・石見の足納槌章柏にございます。」


美君には、その言葉が引っかかった。


「姫君ではありません。私はつま、伊舎那岐峰の名代としてここにあります。」


大人気ないとは思いながらもそう返す。章柏はさらに恐縮し頭を下げる。


「た、大変な失礼を。まず、国父であられる遠比士殿が身罷られたとのこと、誠のことでございますか。」


恐縮したまま言葉を重ねようとする章柏。その一言一言が、無性に美君の神経を逆なでした。


「わが父であり、我が夫の同盟者であった遠比士は、確かに死にました。此度の不祥事を恥じ、海の御柱となられました。」


険を隠そうとしない美君の言葉に、章柏は震えたまま声を上げる事も出来ずにいた。


「まず、顔を上げられよ。」


その章柏に助け船を出したのは、廉劫。おそらくそこには、美君をたしなめる思いも含まれていたに違いない。


「足納槌殿、貴殿は我らが主の家臣ではない。なればここで額づく必要もあるまい。それとも、遠家に忠誠を御誓いであったか?」


「いや、かような事は…。」


「なればまず、頭を上げられよ。」


廉劫は章柏の体を起こしながら、筑紫に目配せをする。後は引き継げ、という合図であろう。


「我々伊舎那は、戦をするつもりはありません。ただ今、我らの主が、遠家現当主遠撥耶と共に劉秀帝の元へ戦を食い止めに向かっております。」


「戦を、止める、と?」


章柏の顔は信じられぬものを見るように周囲を見回した。


「そうです。軍が押し寄せる前に劉秀帝に恭順を示し、軍そのものを止めるのです。」


「絵空事であろう。そのようなことが、かなうわけがない。」


声を荒げる章柏のその言葉は、誰しもが分かっている事だった。そしてそれを、それを成し遂げると言った岐峰を信じると決めるまでの葛藤も、美君だけでなく、廉劫も、筑紫も羅子ももはや済ませていた。


「夫は、帰ってくると言いました。私たちは、それを信じて待ちます。」


美君は、そう言って章柏に向き直る。


「しかし、それまでに劉秀の兵が蓬莱を蹂躙してしまえば帰ってくる場所すらなくなってしまいます。私たちはその為に蓬莱を守る準備をします。足納槌章柏殿、どうか、この蓬莱の防衛に力をお貸しください。」


章柏は、言葉を失ったまま、頭を振った。


「終わりだ、蓬莱は、もう、終わりだ。」


そしてその虚ろな言葉を吐いた。


「終わりではない。そのために、我らは本拠地を淡路へ移すのです。北海を破られても、北の陸棚を天然の防壁として…」


「それでも、劉秀の軍が押し寄せれば、こんな陸棚などいともたやすく突破する。」


羅子の言葉は、悲鳴に近い章柏の言葉に遮られた。


「その軍勢に、直にぶつかるのは、我ら足納槌だ…。」


「いえ、まず危険にさらされるのは、一支の帥王。そして北海の伊舎那の民です。」


「知ったことか!我ら国津の民が何故、貴様ら天津の戦に巻き込まれねばならぬのだ!」


美君の反論に対する章柏のその勘気に満ちた言葉は、その場に居た全員の心をえぐった。


それでも、美君は、その章柏に言葉をぶつけた。


「今守らねばならぬのは、この蓬莱です。私達は、貴方に伊舎那の傘下に下れといっているでは在りません。間違っても、自分可愛さに蓬莱を裏切ってくれるなと言っているだけです。どうか、今ここで、それだけをお誓いください。足納槌章柏殿。」


届いていない。それは、見るも明らかだった。美君の言葉も、思いも、この男には届いていない。


「誓ってくれましょうな、章柏殿。漢と戦う決意はもうしておいでのはずです。全てはこの蓬莱のために。」


挟まれた言葉に、誰もが振り返る。口を開いたものの顔を見て、一番びくりとしたのは章柏であった。その男、過遇知は章柏を睥睨する。


 章柏はその視線に耐えかねたかのように、


「…わかった。この戦においては、足納槌は伊舎那に協力しよう。」


恐る恐る言った。美君が届けることが出来なかった章柏の心に、確かに遇知の言葉は届いた。しかし、


美君は、その経緯に嫌な齟齬を感じ、素直に足納槌の承諾を喜べなかった。それはまるで、父比士と供に葬ったはずの謀略の残り香のようであったからである。




「私はこれより足納槌の長と供に北海を行きます。つきましては北海側への使節としての全権を頂きたい。」


 面会を終えた後、港を出る段になり、遇知はこう言った。


「何故、そなたに任せねばならぬ、遇知殿。」


「二手に分かれたほうが効率がよい。なにより、沖、大杜志の説得は足納槌を懐柔せしめた私こそが適任と心得ます故。」


足納槌の懐柔を己の手柄として憚らぬその姿勢に、羅子らは不快感を抑えることができないようである。


 美君は、どうしてもそれを認めたくは無かった。遇知に全権を与えるのはあまりにも危険だと、心の中に警鐘が鳴り続けていた。しかし、遇知の言うことにも理はあった。時間は確かにない。対劉秀軍の防備を固めるために、各豪族への説得の手は多い方がいい。だが、


「私はあくまでも、遠家の臣。伊舎那の家臣である遠撥耶の郎党にございます。それを御信用頂けないということは、我が主遠撥耶を御信用頂けないということ。いえ、奥方様の生家である当家を御信用頂いていないと云う事でございましょう。」


―はたしてそれは、大王の意思に沿うものや否や。-


おそらく、後に続いたその言葉を、遇知は意識的に切った。その切った言葉は、確かに伊舎那家臣らの胸を刻んだ。


「私が同行しよう。」


声を上げたのは、廉劫であった。


「いずれにせよ、北海側の領地に帰り防備を固めねばならぬ。それに、元来蓬莱の民である私が同行した方が交渉も捗ろう。」


廉劫は、そう言って美君を見る。それで収めて欲しいと、目で語っていた。


「奥方様。」


羅子も、そう言って美君を見る。


 内地の権限は、大王の名代である美君に一任されていた。ここで決定を下すのは美君である。美君は、腹を決めた。


「わかりました。北海側の交渉を貴方と廉劫殿に任せます。」


「光栄に存じます。」


「ただし、」


慇懃無礼に礼をする遇知を、美君は言葉で制した。


「正使を廉劫殿とし、貴方を副使とします。遠家の一家臣の貴方が、巴太の長である廉劫殿を差し置いて全権を任せろなどという僭越こそ、我が生家である遠家を汚す行為であることを、心に刻みなさい。」


「御意に。」


額ずく遇知の胸の内は、美君からはかけらも伺い知ることが出来なかった。




そして、遇知、廉劫と別れ、内海を行く今。その事が再び美君の胸に去来していた。蓬莱が一丸となって戦わねばならない今、伊舎那の家中すら一枚岩ではない。まさしく、伊舎那は蓬莱ごといともたやすく破られてしまうだろう。


 安芸の狭門をくぐりながら、美君は思う。破られるのは、この強固な防壁ではない。かつて河南の地で自分達が破られたものと同じもの。疑心による人と人との亀裂をこそ、破られる。せめてその痛みを二度と味わうことのないよう、美君は進む船の前を見据えた。




 船団は夜半、小豆島あずきしまに上陸した。小豆島の領主は、伊舎那への再びの臣従と対劉秀の最終防衛線としての軍備増強を約束してくれた。一夜をこの島で過ごした後、明日の昼にはいよいよ目的地である淡路に着く。


 燭の灯りが地図をゆらゆらと照らす。その灯りは、図面に向かう筑紫のみならず、羅子、廉劫の命で淡路の防備に着くことになった見珂布津みかふつの顔をもゆらゆらと照らしていた。筑紫にあてがわれた部屋で、地図をもとに開かれた作戦会議。そこに照らされた絵と配置された駒を見ながら、改めて美君はこの作戦の難しさを思い知っていた。


「内海の防備はこれでほぼ調いました。足納槌が協力を承諾してくれた以上、安芸以西の防衛線は確保できたと思っていいでしょう。東北の田丹羽は巴太が固めてくれていますから、東の海から回りこまれることはありません。」


筑紫は地図の上の駒を動かしながら、美君らに語りかける。


「南は?」


伊予、讃岐、阿波は伊舎那の傘下である。故に心配はいらないとも思うのだが、美君は外界に向けて開いた南の狭門が気にかかった。南側、阿波の対岸は、人の住まない鬱蒼とした山林が広がる。環境の厳しさから兵の配置もままならない。南から回り込まれれば、淡路はすぐそこである。


「それは、心配に及びません。」


答えたのは羅子だった。


「阿波と淡路の間には大きな渦が巻いております。しかも、木々の半島との間の狭門は、北海の何倍もの速さで潮が流れている。」


「実際にごらんに?」


布津の問いに、羅子はこともなげに答える。


「見ずとも判る。」


天気や地形、海上の地理を未然に読む能力。羅子のその力を、美君は改めて思い出した。


布津は、納得のいかぬままに、また図面に目を落とす。


「それがそうであったとしても、先に伊予の島を破られれば、どちらにしろ淡路は落ちましょう。」


筑紫は、少し口をつぐんだ。海上の防備は確かに万全である。だが、布津が今衝いた点こそこの防衛線の“穴”であった。


実際の所、一か所が破られれば、必ず負ける。


「それまでに、主に帰ってきていただくより他ありますまい。」


筑紫は、苦い冗談として口に出した。伊予を破られ、南から回り込まれるまで戦いが長引けば伊舎那は潰されてしまう。どこまで行こうとも、負けを引き伸ばす防衛線でしかないのである。


「むしろ問題は、こちらだろう。」


羅子はそういって、地図における淡路のすぐ北を指差す。乙宇目おつうめ武庫むこ、そして山脈を挟んで北に位置する大杜志領 田師間たじま


 乙宇目、大杜志供に、伊舎那の仇敵であり、遠比士叛乱の参加者である。この2者が反伊舎那を選び劉秀側につけば、淡路は無防備な状態で劉秀軍と2部族の連合軍に襲われることとなる。


一番の難関である、と言っても過言ではなかった。


「…遠比士の乱が成功していれば、彼らも伊舎那側に付いていたのだろうな。」


ポソリと、羅子のこぼした言葉には筑紫は反応する。


「今なんといった?」


「皮肉なことだが、遠比士の乱が成功していれば、今よりも蓬莱は一枚岩になっていたといったのだ。」


少なくとも遠比士は、大杜志、足納槌、乙宇目らをまとめ兵を起こす直前であったのだ。


‐我ら国津の民が何故、貴様ら天津の戦に巻き込まれねばならぬのだ‐


少なくとも、この言葉は出なかったに違いない。


場を、暗い沈黙が襲った。


「私たちは、」


美君は、その沈黙怖さに半ば闇雲に言葉を発していた。


「私たちは遠比士を謀殺し、この道を選んだのです。それを、今更後悔など出来ようはずもありません。私たちは、私たちのやり方で蓬莱をまとめるしかないのです。」


全員が美君を見ているのがわかった。発した言葉の勢いに自分自身が負けそうになる。その目の端に羅子が頭を下げるのが見えた。


「奥方様。思慮のない発言をしました。お許しを。」


「いえ、こちらこそ、声を荒げてしまいすみませんでした。」


美君は、羅子にそういうと全員を見回す。先行きは厳しい。それでも、進まねばならないから。


筑紫はその目線を受けて、頷いてくれた。


「とかく、淡路に着いたらそこからまず乙宇目との会談に臨みましょう。最初から、我々の持ち前は対話なんですからね。」


暗い空気を振り払うように筑紫は地図をたたむ。


「今日はさっさと寝て、明日に備える。これに限ります。さ、解散いたしましょう。」


筑紫の声かけでそれぞれが部屋に向けて歩き出す。


そんな中、


「いずれにしろ、こうなっていたでしょうな。」


ふと、布津が言葉を発する。それが美君に向けられた言葉だと気付くのに一瞬の時間を要した。


「所詮天津の戦だ、というのがどこまでも彼らの本音であれば。遠比士が率いたところでいずれは内から壊れたでしょう。」


羅子も振り返り、その言葉を聴いていた。


「我らのやり方こそ正しいと思います。だからどうだというわけではありませんが。」


羅子の表情が少し緩むのが見える。美君もまたその心持は同じだった。その心遣いが心底からありがたかった。




翌朝、晴れた海を東に向け船を出す。小豆島を出発し昼前には目的地、淡路穂狭別島あわじのほのさわけじまに到着した。島の中心、見晴らしの良い山の中腹に、淡路領主の館はそびえていた。今後はこの館が伊舎那の政庁となる。


 美君と筑紫は、布津、羅子に淡路の軍備と調整を任せ、北からまた船に乗った。北の陸を湾伝いに進む。湾の最奥部に当たる広岡の地こそ、武庫の領主、乙宇目の本拠地である。


 


「そうか、かような死に方をしたか、遠の大夫は…」


乙宇目の長、乙宇目 嶺蓋(れいがいはそう言って深い息を吐いた。


広岡の館に着いた美君らを出迎えた後、嶺蓋は人払いをした。そして、遠比士の死の真実を聞かせろと迫ったのである。協力如何はそれによって決めると。


美君は、密書の発見から情報の漏洩、比士の謀殺までを隠すことなく話した。それは、一度矛を収めた上で裏切った乙宇目に対する恨み言でもあったかもしれない。その美君の思いは、やはり隠しようが無かった。


聞き終わった嶺蓋の言葉に続くものがないことに苛立ちを覚え、美君は言葉を重ねる。


「どうか、蓬莱の防衛に力をお貸しください、乙宇目嶺蓋殿。それとも、貴方も所詮は天津の戦だとお思いですか。」


切り付けるような美君の目を見て、嶺蓋は苦く笑う。


「いや、遠大夫に協力を申し出たときから既にこれは我等の戦だ。国津も天津もあるまいよ。」


美君はその言葉に少し戸惑ったが、いまだ憤りを抑えることは出来なかった。


「乙宇目殿は我らにとって同盟国である、と言うこの事実は変わっていないものと思っています。陸の最終防衛は貴殿に頼らざるを得ない。どうか、ご協力を。」


美君を抑え、筑紫がそう言って嶺蓋に頭を下げる。


「ひとつ、伺いたい。」


嶺蓋はそう言って美君を見た。


「そなたらにとって、国とはなんだ?」


質問の意図を捉えかね、美君は眉をひそめる。


「そこまでして守ろうとするそなたらの国にそこまでの価値があるものか?私にはそれが判らぬ。遠比士は裏切りの末倒れ、そなたらの理想も形を失いつつあろう。国津は国津、天津は天津、漢は漢、暁は暁だ。それはどうせ相容れぬものよ。それが共にあるということは内に火種を抱え続けると云うことだ。そのような国を何故求め、何故守ろうとする?」


所詮は相容れぬ、と。その言葉が美君の心に、愛おしいつまを思い起こさせた。その、握りあう手の温もりを思い起こさせた。美君は、正面から嶺蓋に向き直った。


「そこまでしてでも、共にありたいと願うからです。」


美君の言葉に、筑紫もふと、顔を上げる。


「共にありたいと願う相手がおり、今争っていようとも、いずれ共にありたいと思えるようになるやもしれぬ相手がいる。その全てを、失いたくないのです。」


あきらめなければ、いつかはそうなるやもしれぬ。自分の人生の暗闇に一点の星が光ったように。その暗闇を輝く月が照らしたように。


「私にとっては、それを望み続ける事を許された地が伊舎那という国なのです。」


嶺蓋は、目をそらさずに聞いていた。そしてまた、大きく息を吐く。


「言い分は、分かった。いずれにせよ、漢と戦う覚悟はしていたのだ。それが韓国であるのか、この蓬莱であるのかの違いしかない。此度の防衛を厭いはせぬ。」


とかく、承諾を得た。その思いが、美君の肩から憤りと緊張を抜いた。


「有難うございます、乙宇目嶺蓋殿。」


足納槌章柏に対してはどうしても出なかったその謝辞が、自然と美君の口からこぼれていた。自分がどこまで伊舎那を、岐峰の理想を伝えられたのかは分からなかった。それでも、腹を割って話してくれた嶺蓋に対して、なんの抵抗もなく頭を下げる事が出来た。


 美君の声から険が取れたのをほっとしたのであろう、筑紫も表情を緩め、続いて嶺蓋に頭を下げた。




 乙宇目の館を出たところで、美君らの前に早馬が止まった。遇知、廉劫らと共に北海を進んだ中にいた、伊舎那の家臣である。


「奥方様、筑紫殿。ようお会いできました。」


馬を下りながら、その男は興奮を隠さず二人に話しかける。見送りに出てきた嶺蓋も目に入っていない様子である。


「大杜志の長、伊和いわ殿は伊舎那への協力を承諾して下さいました。そのうえで、足納槌、大杜志それぞれから300ずつの兵を割き、淡路の防衛兵として派遣して下さるそうです。」


乙宇目の説得が終わった今、大杜志の協力が得られたということは北の防備が完了したということ。何より、本当に蓬莱が一つになったということである。


「廉劫どのは?」


筑紫は、冷静に男に聞く。


「軍の編成の為領地に戻られました。あ、そういえば。」


男は懐から書簡を出し、筑紫に渡す。


「これを筑紫殿にお渡しするようにと、廉劫様より言付かりました。」


筑紫は受け取りながら、表情を険しくしていた。蓬莱の防備完了は、すなわち筑紫の描いた作戦図の完成である。なぜ筑紫がこのような顔をしているのかが、美君にはわからなかった。


「御苦労。奥方様、申し訳ありませんが、先に淡路にお戻りください。そういえば、嶺蓋どのと話し忘れた事がございました。」


「話し忘れた事?」


「いえなに、世間話ですよ。武庫には美人が多いと聞くがどうなのか、とか。美味しい酒の作り方とかね。」


首をかしげる美君に、筑紫は軽口をたたく。早馬の男に向かっても、同様の口調で続けた。




「淡路まで、ようよう奥方様をお守りしてくれ。それと、」


そして、家臣の男に近寄り、囁く。その声は、かろうじて美君の耳にも届いた。


「火が出るやもしれん。消せる限りは消すが、もしでたら火消しには河水を流すと羅子と布津殿に伝えてくれ。それでわかる。」


「はぁ…。」


男は、わからぬまま頷き、歩き出す。それに従いながら、美君は言い知れぬ不安が胸を占めるのを感じていた。




 美君が船を出た後、嶺蓋は筑紫に言うでもなくつぶやいた。


「青いな。幼いというてもよい。」


筑紫もまた、苦く笑う。


「否定はしません。ウチの言い分はやはり子供の戯言に聞こえるでしょう。なんせ顔ぶれが若いですからね。」


岐峰、美君はもちろん、撥耶も羅子も嶺蓋からすれば青二才だろう。廉劫とても嶺蓋から比べれば10ほど若い。


「答えが出るには時間がかかります。良ければもう少し待ってやって下さい。」


ですが、と。筑紫は嶺蓋を見据える。


「その為に、内部から出る火は抑えねばなりません。」


筑紫の目線を受ける嶺蓋とて、本当に女や酒の話をすると思っていたわけではない。だが、


「お話があります。聞いていただけますね。」


その口調に、先ほどの飄々とした軽口の影は残ってはいなかった。




 淡路に戻った美君は、軍備の確認、各責任者の任命等に追われた。追われるうちに瞬く間に翌日の夕方を迎えたが、いまだ筑紫が帰ってこない。


 羅子は、共に帰った家臣の言を聞いてからずっと黙りこんでいる。布津もまた同様だった。


 美君は、淡路の配置図に目を落とす。穴戸、安芸、吉備、小豆島それぞれに防衛兵を配置したため、淡路に残る兵力は実際のところ、韓国から従った伊舎那の直臣100名、それと布津の200名がいるのみであった。大杜志、足納槌の援軍600も来る気配がなかった。


「火とは、なんですか。」


美君は羅子に問いかけた。羅子は表情を変えない。


「何の話でしょう?」


「筑紫が、使いのものに伝えていたのが聞こえたのです。羅子と布津に伝えろと。…盗み聞きのようで気は引けたのですが。」


羅子はふと、ため息をつく。


「あれ一級の謎かけか何かでしょう。奥方様が気になさる事ではない。」


そのような遊びめいたものではなかった。その表情は切迫していたのだ。美君は、納得できぬまま、羅子を見ていた。だが、これ以上何も言ってくれそうにない。


 どたどたと、人の走りこむ足音がし、御簾があいた。慌てた兵士は、口早に言葉を紡ぐ。その言葉の意味を理解するのを、刹那、美君の耳が拒絶した。


「奥方様の御前だ、控えろ。」


その羅子の言葉の意味すら、理解できなかった。


確かに、兵士は言った。


『大杜志、足納槌、乙宇目、反伊舎那を掲げ武庫にて挙兵。敵軍の領袖は、過遇知殿であるとのことです。』


頭に、その言葉が意味を持って入ってきたとき、美君の足は動き出していた。


 部屋を出、北の港へ向かうため厩へ走る。


『敵は、筑紫殿を捕虜として捉え、反伊舎那の第一の成果としている模様。その処刑を持って出陣の知らせとするとのことです。』


走り、厩についたころ、追いついた羅子が立ちはだかった。


「戻られませ、奥方様。」


「武庫へ赴き過遇知を諌めます。お退きなさい。」


「奥方様!」


退こうとしない羅子に苛立ちを覚えながらも、押す。遇知を止めなければ。これ以上、あの人に顔向けできないことを増やしたくない。美君は只、厩へ向かう。


「何故、筑紫がこの事を貴方にお伝えしなかったか、お分かりになられないか。」


羅子の言葉の、激しさの中にある諌める気持ちが、美君の心に耳を傾けるだけの余裕を与えた。


「我々は貴方に、これ以上、御身内を裁かせたくないのです。」


それは、比士を貫いたあの剣のように、確かに美君の心を刺した。羅子の、筑紫のいたわりが、ぐさりと刺さった。


「死を賭して筑紫が残ったのは、戦を起こさせないためです。じかに過遇知と話し、諌めるためです。貴方が動いてはならない。」


それでも。それでも美君は、


「ごめんなさい。」


美君には遇知が赦せなかった。相手の隙を縫い、厩へ走り、馬にまたがる。


 港についた頃には日は落ちかけていたが、水夫を一人捕まえることが出来た。頼み込み、武庫に全速力で船を出してもらう。真夜中の暗い海の中、対岸の広岡は、陣屋の火が煌々と照っていた。叛乱の火。美君の目にはそれが新たなる伊舎那の深部を焼く、煉獄の火に見えた。


 疲れた水夫に隠れ、休むようにいい、美君は乙宇目の館に向かって駆け出した。もつれる足を動かし続け、北に走り続けた先に、つい先日訪れたはずの乙宇目の館が、恐ろしい威容を供え、そびえていた。


 


「奥方様!」


陣屋の中に入った美君をみた筑紫が、声を上げる。奥の柱に縛り付けられ、身動きが取れぬままに、美君の下に動こうとする。


「奥方様、何故お一人で!」


「遇知を呼びなさい。伊舎那岐峰王が妻、伊舎那美君の名の下に命じます。」


凛と、その姿勢だけは失わずに済むように、美君は声を上げる。


陣屋の中を見回す。乙宇目嶺蓋、足納槌章柏が武具を身につけ座っている。その反対側にいるのは大杜志伊和であろうか。そして、そこここに伊舎那を離れた旧遠家の家臣たちが散在していた。


遇知は、防衛を求める対話を利用し、この勢力の結集を狙っていたのだ。ギリ、と。不愉快な音とともに美君は歯に痛みを感じた。あまりに強くかみ締めた歯が、きしんだ音だった。


「これはこれは、姫様。お待ち申し上げておりました。貴方は必ず一人で来てくださると思っておりました。」


遇知。奥から兵を率い歩いてくるその男を、美君は心底から憎いと思った。


「兵を解散なさい、遇知。乙宇目殿、足納槌殿。あなた方は三度、我らとの約定を反故にするおつもりか。今は蓬莱が一丸となり守りに着かねばならぬ折、その折にかような乱を起こしてなんとされる!」


陣屋内にこだまするその言葉に、びくりとした足納槌章柏が、逃げようとする。それを押さえ、遇知は美君の前に立ちはだかった。


「お分かりにならないか。姫様。これをもって蓬莱が一丸となるのです。全てはわが主が考えられた反劉秀の絵図の通りに。」


「伊舎那を裏切ることすら、父に則ろうというのですか、遇知。」


「いえ、これをもって伊舎那は、やっと我が国と呼べる国となりましょう。」


ゴッ、と。美君の腹部に鈍い衝撃が走る。遠のく意識の中、遇知の高らかな宣言が聞こえる。


「伊舎那の妃にして、遠の姫である遠美君様をここに保護した。我らは、伊舎那を不当に牛耳る日氏を討ち、正しき伊舎那を具現するための嚆矢となろう!」


遠のく意識の中で、美君は思う。羅子の言うとおりだったのだ。自分が動くことすら遇知の作戦だったならば、私だけは動いてはならなかったのだと。私こそが、皆の気持ちを踏みにじったのだ、と。意識の底、住み慣れた暗闇に、感じなれた己を苛む刃が美君を待っていた。




 倒れた美君が横になるのを見て、再度、筑紫は陣屋内に目を向けた。美君を確保した以上、彼らは筑紫の処刑を待つ必要はなくなった。


「目指すは淡路の伊舎那本拠地。やつらが淡路に置いているのは300の兵のみ。ここにある我ら1300の兵を以てすればこれを叩くことは赤子の手をひねるようなものぞ!」


遇知の檄に合わせ、応、と鬨の声が上がる。


「遇知殿!今なら、かろうじて間に合う。兵を引かれよ。」


声を限りに、叫んだ筑紫の言葉に、振り返った遇知は冷笑で返す。


「全軍、出陣!」


兵たちが、陣屋を出発する。戦が、始まった。




 淡路の本拠地に守るべき玉がない今、羅子たちは淡路にある300の兵を全て海上に出した。西の防備は小豆島の部隊に任せ、東北方面の港から羅子、布津指揮下300が布陣した。


「我らは淡路を守る壁だ。けして敵を通すな。」


羅子の言葉に陣は湾の中心まで進み防衛線を展開する。


 対する広岡の陣からは、1300のうちの大半850を以て淡路にこぎ出した。倍以上の兵力差を目の当たりにした兵たちに動揺が走る。その動揺を見越したのか、敵陣から矢が放たれた。


それか開戦の嚆矢となった。引き続き放たれる矢は、雨となり羅子たちの上に降り注ぐ。


「勝とうと思うな、ただ守れ。」


盾で身を守りながら、檄を飛ばす羅子。頼みの綱は、“河水”。盾の隙間、矢の合間から広岡を臨む。戦の顛末はいまだそこにあるはずの筑紫に頼むほかはなかった。




広岡は、陸路の防衛に東西、北にそれぞれ150ずつを配置した海戦主体の陣を取っていた。陸路の兵は乙宇目の館で常駐する大杜志伊和が統括する。遇知、乙宇目嶺蓋も常駐する広岡の館が反乱軍の司令塔であった。


うっすらと、美君の目の端にかがり火が移る。横たえられた体の腹部に痛みが走ると供に、その耳に、筑紫の声が聞こえてくる。


「この所業を、我等の、またそなたの主が見てどう思おう。」


いまだ、戦を収めることを諦めていない筑紫の声は、すぐ隣から聞こえてくる。遠くから争いの、戦の声が聞こえていた。


遇知は筑紫の言を聞き、哄笑する。


「何がおかしい。」


筑紫が返す。


「帰ってくるはずがなかろう。無事に帰ってくるなどそれこそ夢のような話だ。かの方々はもはや生きていまい。要は、この先に起る漢との戦を取り仕切るは我ら遠か、そなたら日かと言う話よ。先の当主は身罷り、遠家の主体は再び姫様に移る。すなわち、この戦の後は姫様の取り仕切る伊舎那も遠のものとなる。」


遇知は、当然のようにその我が身可愛さの計算を口にした。


「…あさましい」


その言葉は、美君の口から自然に漏れた。体を起こしながら、美君はその男の浅ましい顔を見た。


「心に刻めといったはずです、遇知。その言動こそが、遠を貶めているとどうして気付かないのですか。」


遇知は、起き上がった美君を冷たく睨む。


「貶めていると?これは異な事を。われら遠家が再び中原に覇を示すためです。そのために我らが何者かの下にあってはならない。それがお分かりいただけないのは貴方がまだ幼いからです、姫様。貴方は今までどおり、この家臣の言に頷かれればそれだけで良いのです。」


傀儡の玉としてあれと、遇知は言っている。美君の胸に、それは再び形を成して刺さった。自分が独断で広岡に来なければ、この戦は回避できたかも知れないのだ。自分が、動いたばかりに。


「それをこそ、奸臣と言うのだ、遇知殿。」


その声は、予想もしないところから飛んだ。乙宇目嶺蓋。彼の言葉に、誰もが振り返った。嶺蓋は家臣に何らかの指示を出し、遇知に向き直る。


「迷った。正直に言えば、今もまだ迷っている。遠大夫との約定を反故にするのは道にもとると思い、そなたに付き従った。なれど、ここにある伊舎那の后は自らの意思で臣であるそなたを諌めに来た。それを持って口を出すな傀儡たれとそなたは言う。」


窓から、のろしが上がるのが見える。


「そなたに、義は無い。」




‐もし、戦が始まってしまった折、この狼煙を挙げます。今から飛ばす早馬で、これを巴太殿への出陣の合図として伝えます。-


なぜ、それを自分に話すのかと、嶺蓋は筑紫に問うた。


‐貴方が迷っていらっしゃるがゆえ、つけこませていただいているのです。私が動けなかったら、その狼煙を上げるのは貴方のお役目です、嶺蓋殿。-


その狼煙は、嶺蓋の手によって確かに今、上がった。




 着実に後退する伊舎那軍の後方に、確かに狼煙が見えた。そして、


「後方より、敵襲、船団です。その数約600。河を、河を下ってきた模様です。」


敵方から悲鳴のような報告が聞こえる。


その戦線の奥、湾の中央にある大河から、圧倒的多数の船団が降りてくるのが確かに羅子の目に映った。


 火消しの河水が、ようやっと流れた。羅子は背後の兵に振り返る。


「全軍、攻撃に転じろ!敵部隊を挟みうちにするのだ!」


羅子の檄に答え、伊舎那300が敵に向かい前進を始める。




 大杜志配下の北部、東部防衛部隊もその狼煙を見た。それと同時に、最寄りの河を下って表れた自分達の倍近い大軍を。


武庫を取り巻く河の全てが巴太領田丹羽を経由している。そして、その全ては内海に向けて流れ出していた。そのほかの河川よりも早い流れを持って。天然の水路を運ばれた軍は陸路ではけしてたどり着けない速度で武庫を席巻したのである。


 乙宇目の館は、伝令の兵が伝えた情報により混乱に包まれた。


「北部150、壊滅。援軍をお願いします。」


「東部150も破られました、直に本陣に到着します!」


絶望的な報告を受けながら、遇知は筑紫を睨みつける。


「踊らされたということか。」


「そうではない、遇知殿。我らは、これを使わずに済ませたかったのだ。そなたに乱を起こさせないことこそが、我らの目的だった。」


悲しげに言う筑紫を横目に、更に怒号が飛ぶ。


「伊舎那軍、上陸。直に本陣へ…」


伝令のその言葉の最中、廉劫、羅子、布津が本陣に入った。


「各々、此度の乱の責、負って頂くぞ。」


廉劫の言葉と共に、兵たちが其々の首領たちを捕縛する。かくて、過遇知の火は伊舎那の剣によってかき消えたのである。




 反乱部隊の各首領の処分に関しては、有事の折もあり今後の協力を約束すると云う事で命を取ることはしなかった。だが、伊舎那の家臣である遇知、および旧臣が多数参加した遠家への処罰は、穏便なものではすまされなかった。


 遇知は鳩首。遠家は、国外追放を余儀なくされた。


 遇知の処刑当日。刑場には、廉劫、筑紫、羅子ら伊舎那重臣が顔を並べていた。美君は、それらの顔を眺めた後、後ろ手に縛られ引き立てられた遇知に目をやった。


「そなたの勝ちだ、遇知殿。そなたの望みどおり、伊舎那と遠の絆はここに断たれた。」


羅子の言葉には言い知れぬ悔しさがにじんでいた。対して、それを聞いた遇知は高らかに笑う。


耳に障る哄笑は、振り下ろされる剣と共に止んだ。残響のみが場を支配する。こうして過遇知は、妃としての伊舎那美君を殺し、その命をも終わらせた。




そして再び、美君は内海の狭門をくぐる。遇知を、遠を迷わせたのは、美君の中に流れる血であった。この段にあって、その血を持つものを国内に置くという選択肢は存在しなかった。同じ船に乗り込んだ筑紫は、一言も言葉を発しようとはしない。


穴戸の狭門をくぐる際に、呼びとめるものが在った。200ほどの船団、先頭には見知らぬ女が乗っていた。


「和久様。」


驚いたように、筑紫が声を上げる。


その女、和久は船上で美君に額づく。


「伊舎那王妃、美君様とお見受けいたします。私は、弁韓、香螺の日和久と申すもの。此度の蓬莱の防衛に加わるため故国より参上しました。」


「和久様が、我等の援軍に?」


筑紫は、事態がわからないままに問い返す。


「香螺で岐峰に会ったの。何か力になりたくて。」


はぁ、と気の抜けた返事を返す筑紫の横で、美君は、岐峰のあったというその一言に意識を奪われていた。


「二人は、岐峰は無事なのですか。」


「無事楽浪郡にたどり着かれました。劉秀との対面に臨まれる所で私は兵を整えこちらに向かいましたのでその後の経緯ははかりかねますが。」


岐峰と撥耶が、生きている。自分達が守った場所に、ちゃんと帰ってくるのだと、美君は思った。それが何よりも嬉しかった。


「ありがとう、和久殿。」


美君は、心から頭を下げた。


「その知らせを、淡路の羅子に伝えてあげてください。みなが何よりも欲している知らせだと思います。筑紫も、もうお戻りなさい。ここまでの見送り、心より感謝します。」


そう言って、美君らの船団は先に進む。不信に思った和久の声は耳にのみ入った。


「奥方様は?」


船を止めぬまま、振り返る。


「私はもう、伊舎那の后ではなくなってしまいました。」


美君は微笑い、言った。目の端に、筑紫の顔が見える。その唇がどう動いたのか、声にならぬその言葉を美君はかろうじて読めた。


‐何故、こうなってしまったのですか‐


その答えは、きっとまた闇の中へ融けていく。




和久、筑紫と離れ、美君は追放の地、南西の大地を目指して進む。気付くと、日はとっぷりと落ちていた。何故、こうなってしまったのか。それを考えることを、やめようと思った。


 伊舎那の国は、今とても強固な状態でそこに在る。役目を終えた岐峰が帰ってくる場所は、守ったのだと。それのみを己に言い聞かせた。きっと、岐峰は撥耶を連れて笑顔で帰ってくる。


そこに、只自分がいられないだけだ。


 ふと、頬を、熱いものが伝った。触るまで気付けなかった、それが己の目から流れ出るものだと。


「…ぁっ、」


声にならない嗚咽が漏れた。それは、慟哭の先触れだった。


 失った痛みが、堰を切って美君を苛む。


 その喪失に押しつぶされそうな美君の慟哭が、冥府の入り口のようなその闇に、ただこだましていた。







5. 過遇知の火 あとがきに変えての大河ドラマ風解説。




さて、佳境にはいってまいりました。今回長らくお待たせした上に内容もたぶん今までで一番長いですね。お付き合い頂いて本当にありがとうございます。今回は黄泉の国についてこう解釈したよって話と、過遇知お疲れ様スペシャルもかねた“火”の解釈です。「天国も地獄も我等の次元から離れた所にあるんだから、解釈とか挟む余地ないです。」って人とかはもーう、ガチスルーでお願いします。




 古今東西どの神話にも必ず出てくるこの黄泉の国。日本神話におけるこの黄泉の国の長は、我らがヒロイン、伊舎那美大神です。あ、出雲的には大国主なんでしょうか。国譲りの際に現世はニニギに託して黄泉の国を治めたって話もあるので、全国の神社的な解釈ってどうなってるのか気になるところではあります。


 古事記によれば、黄泉の入り口黄泉津比良坂よもつひらさかは出雲(現在の島根県ですね。)にある、とされています。筆者、一度別の古事記関係のお仕事の取材で行って参りました。羊歯の葉茂る上り坂が続く、とてもあの世チックな風景が広がっておりました。出口には“伝千曳の岩”とかもあったりして。


 さてさて、本編を読んでお分かりと思いますが、美君、死んでませんね。遇知は死んだけど。何でかって言うと、そこに書かれている“黄泉”の解釈を別にしたためなんです。


 “黄泉よみ”はすなわち“四方よも”。与り知るエリアの外、という意味です。つまり、国外への追放、脱出を“黄泉に赴く”といったのではないかと。出雲の比婆の地は三貴子の時代にはもはや黄泉ではなく葦原の中つ国の一部になっているのもそのためではないかと。その時点ではもはや与り知っている土地だから。そして、その他所の土地の王となる、ということは…。


 冥界に行く話でよく似たものに、やはりギリシャ神話があります。デメテールの娘ペルセポネーの話と、吟遊詩人オルフェウスの冥府くだりですね。この二つをリミックスすると大体古事記の黄泉津比良坂神話とおんなじ物が出来あがります。


 天空・海・冥界を三者で分けるところとか、本当にギリシャ神話と日本神話って共通点が多いんですよね…。


 話が大幅にそれましたが(そらしましたが)。もう一つ、今話の重要な解釈は“火”です。火力=武力。今話は火を戦火の表れとして解釈しました。遠家の内部から出た戦禍が、妃としての伊舎那美を焼き殺したのだと。シリーズを通してこの火の解釈は貫くつもりでいます。火に巻かれる、火に焼かれる。これはすべて戦乱の記述なのではないかと。まぁ、最初に言ってますけど、妄想ですよ。お忘れなく。




 伊舎那を離れた美君。岐峰は、撥耶は、羅子は、彼らの行く末は?物語はクライマックスへ向かいます。次話「二つの伊舎那」。乞うご期待です。



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