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4 漢倭奴国王(後編)

 楽浪郡の中心、楽浪郡治。帝国の地方司令部であるその統治府は、かつて韓国(からくに)全土を治めた王族の首都であったとされる王研城おうけんじょうに置かれていた。100年以上に渡り漢の支配を受けてきたその土地にもはや韓国の首都の名残は残ってはいない。


 帝国様式の建物、帝国の兵、軍備。それらが席巻する王研城はまさしく、漢の民の街であった。


 岐峰は思う。


 この交渉をしくじれば、伊舎那が、韓国全土がこうなるのだ。


 城壁よりさらに馬車で半日。夕刻の落日を背に受けながら、出兵を前にした王研城は剣呑な空気に包まれていた。武遂の後ろを歩く岐峰の全身に視線が突き刺さる。それを跳ね返すように岐峰は前を見据えた。


 やがて、部下を引き連れた一人の男が、岐峰らの前に立ちふさがった。30半ば、髭を蓄え甲冑に身を包んだその男を岐峰は知っている。登禹仲華とううちゅうか。帝国の右将軍にして劉秀の右腕であり、かつて韓国を襲った親征軍の最中、劉秀の傍らにあった男である。


「ほう。」


登禹は武遂の後ろに控える岐峰らを見、口をゆがめた。それを見た撥耶の顔に苦いものが走る。


「長安以来か、遠家の小僧。」


無言で言葉を返さない撥耶を睥睨した後、登禹は岐峰を見る。


「そちらにも、覚えがある。仁奈の日岐稜の末子、そうだな?」


「…然り。」


負けまい、と。岐峰は登禹の目線に言葉で返す。


「倭の伊舎那より朝貢のため参じた模様。皇帝陛下に何卒ご拝謁のお取次ぎを。」


武遂が剣呑な空気を振り払うように、割り込む。


「香螺王、陛下は既にご存知であられる。もはや生きていようとも思わなかった漢水の黒幕であった遠家のものと、韓国の旗頭が揃って楽浪に入ったのだ。お耳に入らぬわけがあるまい。」


そう武遂に返し、登禹は撥耶に目をやり、


「遠家の黒幕は、当人ではなかったようだがな。」


ポツリとこぼす。ギリと、撥耶の歯のきしむ音が聞こえる。


「お二方、部屋は用意してある。まずはそこで休まれよ。拝謁が叶うか否かは追って沙汰しよう。」


「登右将軍、」


「香螺王、案内ご苦労であった。領地へ帰り引き続き討倭軍の兵を募れ。先の触れはわかっていような?」


「…はっ。」


登禹は武遂の言い募ろうとした全てを押さえつけ、それ以上を言わせなかった。


-岐峰、頼むぞ。-


目のみで、武遂がそう語る。岐峰は、それを確かめ、強く頷く。この軍勢を、撥耶との二人で止める。それが自分の使命だから。


 去る武遂を見送ると、登禹らの案内に従い宮殿に入る。高い床を敷き、朱塗りの柱が並ぶ宮殿は、いつか巴太はたの都、御屋みやの津で見た建築様式と同じものだった。


「朝貢をもって時間を稼ごうと言うのは、遠比士の策か?」


岐峰らを見ぬままに、登禹は言った。


「違う。」


「それとも、策と知らされずにここまで登ったか。」


岐峰の否定を意に介せずに登禹は続ける。


「らしからぬ策ではある。だが、かの策士が生きてある以上、討倭の軍は止まらん。それに伴う韓国の接収もな。」


「遠比士は死んだ。」


撥耶の声に、登禹は足を止める。


「代わりに俺の首を持参した。俺の首を取れば、遠家嫡流は途絶えて消える。」


登禹は振り返り、撥耶を見る。


「…撥耶。」


岐峰には、その言葉が悲しかった。いまだ、この期に及んで撥耶は死地を探している。


「全ては、皇帝陛下のご裁量に任せる。」


 そう言って登禹は、撥耶を見据えて言葉を重ねる。


「小僧、その肩になにを背負う。漢水の戦で流れた血を己一人の命で購おうとでもいうのか?」


「伊舎那2万の命と安寧、この命一つで購えるなら安い買い物だろう、登仲華殿。」


「…部屋で待て。追って沙汰する。」


部屋の扉をあけると、登禹は二人に背を向けて去った。


 押し殺した怒りが爆発するかのように、岐峰の手は撥耶の胸倉をつかんでいた。


「…離せ。」


「俺に臣従を誓ったのはその命を捨てたいがためか、撥耶。」


撥耶は応えない。


「なぜだ、何故生きて共に戦おうと思ってくれない。」


その言葉を受けても、ただ撥耶は岐峰の手を振り払っただけだった。


討倭の軍を止め、共に生きて帰る。この目的を共有できない。その悲しさが、岐峰を満たす。


「この命はそこまでして、お前が背負う価値のあるものではない。」


打ちひしがれた岐峰に、撥耶の声は優しく降ってきた。


「面会が叶うまでの時間つぶしだ。教えてやろう、漢水の戦の顛末を。聞けば、俺の言う意味がわかる。」


顔を上げるとそこには、真摯な目を向ける撥耶の、悲しげな顔があった。




 撥耶は、腰をおろして語り始める。


漢が倒れ、王莽が倒れ、農民反乱軍、緑林軍の立てた更始帝の政権が立つ。その政権下で、遠家は力を蓄えた。名声と力を持つ劉秀を退けようと、更始帝に讒言を繰り返したのも遠であった。その更始政権もかつて配下だった赤眉軍に首都長安を破られ消滅した。


「その長安が、俺の初陣だった。」


長安の守備に就き、断末魔と炎が支配する城内にいた撥耶は、城内で劉秀軍からの偵察に入っていた登禹と相対した。


「あの男は、俺を遠家の倅と判りながら殺さなかった。俺がまだ子供でしかなかったからだろうとは思うが、実際のところは良くわからん。その時のことをあの男は覚えていたらしい。」


撥耶と共に長安を脱出した中に、りょうの王、劉永りゅうえいの子息である劉紆りゅううがいた。


「明朗快活を形にしたような男だった。異民族である俺を、忌憚なく友と呼んでくれた。」


比士は、劉紆の護衛として劉永の元に下り、劉永もまた名家遠氏の参陣を心より喜んだ。そして、比士は劉永に天子を名乗り、覇を示すよう囁き続けた。


「兄上は結局、皇帝からの禅譲という形を取りたかったのだ。自らが立てば、王莽の再来といわれる。あくまでも皇帝の第一の忠臣として帝位を譲りうけようとした。」


 その劉永も、同じく皇帝を名乗った劉秀に敗れ、自らの領土を追われた末死んだ。


「劉永の殺害を指示したのは、兄上だ。遠は劉紆側近の筆頭だった。一敗地に塗れた劉永より息子の劉紆を立てたほうが有利だと考えたからだ。」


その他、劉永配下の諸将と供に劉紆を立て転戦したが、全ての戦で敗れ続け、挙句逃げ延びた東海郡淵城えんじょうで進退が窮まった。


「遠は、劉紆を殺させて時間を稼いでいる間に脱出することを選んだ。」


劉紆の部下に首を取らせる間に、遠比士以下遠家の民は淵城を抜け出し、江南へ逃げ延びた。再起を図るために。


「このあたりのことは、美君は知らん。薄々と感づいているかもしれんがな。」


撥耶の目の奥に見えるものの正体を、岐峰は計りかねた。それは、怒りか、悲しみか、絶望か、自嘲か。


「主も、友も、背中を預けたともがらさえも、多くのものを裏切り、命を拾ってきたのがこの遠の命だ。」


輩と、撥耶は言う。比士のかつて言ったその言葉を、自分が吐いたその言葉を、撥耶はどう受け止めていたのだろう。


「いいか、岐峰。これはお前が遠を切り捨てるか否かと言う話ではない。我らが、その身を潔く終えることが出来るかなのだ。遠家は再び、己の都合で戦乱を招いた。この責は、遠家が取らねば道に悖る。」


岐峰は、撥耶にいうべき言葉が見つからなかった。どうすれば伝わるのだろう。だが、それでも生きていて欲しいのだと。




 扉が開いた。そこには、登禹が一人、立っていた。


「方々、拝謁の許可が下りた。拝謁殿へ案内する。」


その言葉が、岐峰と撥耶の間に割って入った。


「鄧右将軍自らの案内とは痛み入る。」


「直々に案内せよとの、陛下からのお達し故な。」


撥耶の言葉に、登禹は苦笑いを浮かべ、返す。


 拝謁の、劉秀との面会が待っている。その言葉が、岐峰の実感になるまで、一瞬のときを要した。


登禹と供に部屋を出る。廊下を進みながら、歩く足が震えだした。恐怖ではない、今岐峰を突き動かす衝動はそれではない。その正体を見極めることが出来ぬまま、岐峰は足を踏みしめた。


登禹は廊下の突き当たりで止まった。どの部屋よりも大きな扉がそこに在る。


扉の前には番兵が立ち、その大きな扉を開ける。


距離にして、50歩。その先に、その男は居た。悠然とした玉座に腰掛けたその男は、冷たい目でこちらを睥睨している。


この男が、劉秀文叔。


ドクン、と。血が沸く音が確かに聞こえた。その瞬間に、自分の体を巡っているものの正体が知れた。


それは、憎悪だった。父を、母を殺し、今、さらに己の国を奪おうとする劉秀に対しての憎悪。それが今さらのように、己の中から噴出し、体中を巡っている。


頭に金関を焼く炎が浮かぶ。そして、あのボロボロになったかつての首都の姿が浮かぶ。


「御前である。拝跪せよ。」


登禹の言葉に撥耶が膝をつく。


「どうした、伊舎那の頭領。御前だ、拝跪せよ。」


登禹の再度の言葉に、岐峰は無理矢理に己の膝を曲げた。そして、


「蓬莱は伊舎那の国主、伊舎那岐峰にございます。」


憎悪に震えるからだと声を抑えるように、言った。


「隣の者。名乗りを許す。」


頭を下げ続ける撥耶を睥睨しながら、劉秀は初めて口を開いた。その声は、冷たく室内を支配する。


「伊舎那岐峰が家臣、河南漢水の遠家当主。遠撥耶にございます。」


「此度余に反旗を翻さんとした痴れ物、遠比士は死んだと聞いたが、如何にして死んだ?」


間髪を置かずに、劉秀は言葉を重ねる。


「此度の件に際して己の不徳を恥じ、嵐を鎮める御柱に立たれました。」


口を挟んだ岐峰に、目線を向けると、劉秀は息を吐く。


「挙兵し無益な戦を起こそうとしたことを恥じて、ということか?何ともらしくない死に方よ。」


岐峰の顔に劉秀の目線が止まる。


「顔を合わす機会は少なかろうとも更始帝の下で轡を並べた仲だ。人となりは知っている。つまり、」


撥耶に目を移し、劉秀は言う。


「登禹がおらずとも貴様では遠比士の代わりは出来なかったということだ。」


玉座から立ち上がった皇帝の声は、朗々と部屋にこだました。


「朝貢を持って恭順を示さんとするその姿勢は良かろう。なれど、数々の朝貢品よりも先に持参せねばならぬものがあろう。乱の首謀者、遠比士の首を持って参るのが筋。そうは思わぬか?」


「否!」


撥耶の声が、その皇帝の声を制する。


「陛下の御所望は、我らが先の当主の死の証拠と心得る。なれば、今ここに我らがあるのがその証拠。」


「何を抜かす?」


皇帝は、撥耶の頭の先まで歩き、真上からねめつける。


「らしからぬ死に様、らしからぬ策。全てが、先の当主の死を表すものでありましょう。」


撥耶は、顔を上げ、皇帝に向かう。


「我が兄ならば、たとえ策といえども、貴方に額づくことだけは選ばない。」


皇帝の目が、薄く岐峰ら二人を睨む。


「謀り、殺したか。」


皇帝は、岐峰の頭をつかみ、顔を上げさせる。首に鈍い痛みが走る。


「ならば、何故遠を排斥せぬ。人柱にするなど、比士の体面を慮ったのは何故だ。…遠の姫を娶ったからか?」


息が詰まった。どう答えればいいのか。岐峰の頭に、美君の顔が浮かぶ。彼女だけは、危険にさらすわけには行かない。


「女子に戦を起こす力はない。遠家嫡流は俺を討ち取れば途絶える。後顧を慮るのならば、まずここで俺の首を落とし、遠家凋落を漢中に号されよ。」


撥耶の声は、必死の様相を帯びる。


「女子に戦は起こせぬ、か?そうではないことをそなたら遠家が証明したのだ。遠比士に野望を抱かせたのは哀帝の血。己の母から流れる“血”だ。これを途絶えさせなければ、また夢に溺れるものが現れる。遠家が滅びれば、次は伊舎那という一族から現れよう。」


あくまでも、絶やさねばならぬと、撥耶の思いも、岐峰の願いも押さえつける劉秀の言葉。岐峰は、体をめぐる憎悪が、自分を突き上げる衝撃に目がくらんだ。


「現に今、憎しみと拝跪する屈辱に震えるそなたらが雪辱を望まぬと、言い切れはしまい。」


その岐峰に、冷水のように皇帝の言葉が浴びせかけられる。


二人を、冷たく睨みながら、皇帝は宣言する。


「絶対的な力によって完膚なきまでに叩かねばならぬ。韓国(からくに)も、倭も。かくて流れた血は洗われ、異なる民との戦は止む。平和が成り立つのだ。」


断固としたその声は、果たして覆せるものとも思えなかった。その宣言を受け、皇帝の周りに居た護衛の兵たちが剣に手をかける。


 そして、ここで岐峰たちが死に、韓国(からくに)は再び戦場となり、伊舎那は灰燼に帰す。それが、答えか。


 岐峰の胸に、ふつ、とその怒りが沸いた。今、憎悪に満たされた己の体に、底知れぬ怒りを覚えた。誓ったのではなかったか。その憎悪にこそ打ち勝つと。岐峰は、顔を上げ、正面から皇帝、劉秀を見据えた。


「そうやって、血を洗うため、さらに血を流すのですか。」


岐峰の言葉に、剣を抜こうとする兵士を、登禹が止めた。劉秀は、岐峰に向き直る。


「何?」


「血を洗うために血を流し、その血を洗わんとするものがまた多くの血を流しましょう。その連鎖は、いつまで続きましょうや。」


「全てが均され、全てが落ち着いた後、真の平和が訪れる。周の武王も高祖劉邦もそうして平和を作ってきたのだ。」


皇帝は、岐峰の言葉に、にべも無く返す。


「均された後に残るのは、荒廃した町と人ではないのですか。民に、平和のためにその荒廃に耐えろというのですか。」


皇帝は、何も言わずに岐峰を見る。


「その戦を生み出すのは、排斥せねばならぬ、倒せねばならぬ、勝ち、上に立たねばならぬというその思いではないのですか。なれば、伊舎那はその思いにこそ打ち勝ちたい。遠家も、韓国(からくに)も、漢も暁も。誰もが排斥を行わず、己を誇れる。それこそが、真の平和では在りませんか。流さずともよい血を流さぬために、何卒、伊舎那の安堵を。」


場を静寂が支配する。皇帝は、一言も発さぬまま、岐峰を見る。


岐峰もまた、皇帝から目をそらさない。


永劫に近い数秒に誰もが耐えかね、動き出そうとした瞬間、


「興が醒めた。下がれ。貴公らの処遇は追って沙汰する。」


皇帝はその言葉を残し、部屋を去った。


岐峰は、兵に立ち上がらされて初めて、自分の膝が震えていることに気付いた。


「どこまでも無茶なやつだ。」


隣の撥耶があきれたようにポソリと言う。


「俺も、そう思うよ。」


そう、撥耶に返し、岐峰は皇帝の去った後を睨む。皇帝はどう出るか。拝謁殿を出ながら、岐峰はそればかりを考えていた。




 夜半。皇帝、劉秀文叔は、楽浪以下の半島の地図を広げていた。燭台の光が地図を照らす。韓国全土と、蓬莱の一部が記されたその地図の上には、兵に見立てた指先大の石が置かれている。


「失礼致します。」


開いた扉の先には登禹。


「お呼びに従い参上いたしました。」


彼は、す、と劉秀の右側に立つ。


「ご苦労。」


劉秀は、特に前触れも無く、地図を指す。地図を見ろ、などと言うやり取りはこの二人の間には必要が無いからである。


「倭の朝貢使を案内したのは香螺王だと聞く。ここでかの暁人どもの首をはねた場合、香螺は寝返ると思うか?」


「恐らくは、寝返りましょう。」


登禹の目は人を確かに見る。


「登仲華がそういうのならば、香螺は確かに寝返るのだろう。」


劉秀は地図から香螺の上にあった石を取り除き、さらに地図の上部を指す。


「香螺が寝返れば、抑えが弱くいまだ収まらぬ辰韓諸国の戦がぶり返す。海上に出てまず戦わねばならぬのは辰韓の手勢になることも考えうる。」


指した先は全容のわからぬまま茫洋と描かれた倭の地域に移る。


「遠比士は、あれは煽ることは出来ても纏める事の出来ぬ男だ。あれの纏めた軍ならば、恐らく内側から崩れる。辰韓、香螺を破った後でもたやすく破ることは出来よう。率いるのが遠比士であればな。」


劉秀は、背後の登禹に問いかける。


「仁奈の王子と遠家の小倅。あれをどう見る。」


登禹は、少しの逡巡の後に答える。


「私見ですが。」


「かまわん。」


登禹はまた少し間をおいて言葉を発する。


「かつての遠の小僧は、只単なる小才子の印象でした。」


「今は?」


「あれは私に対したとき、己の首で倭の安堵を購おうとしました。青さは残るものの、腹の据わった良き将となった。」


劉秀は、ふん、と鼻を鳴らす。あえて私見だと言い切った登禹の贔屓も差し引きながら考えているのであろう。


「任奈の王子は?」


「おそれながら、ふと懐かしいものを思い出しました。」


劉秀は、怪訝に顔を歪める。


「河北を供に戦っていた折、陛下が仰ったことを。」


「…余が何を言った?」


「新を倒したのは群雄の誰でもなく、はじめに声を上げた呂母りょぼなる老婆だと。赤眉の軍はもとより、兄君、劉伯升りゅうはくしょう様の春稜軍も、緑林の軍も、その老婆の嘆きに呼び寄せられたものに過ぎぬ。この更始の朝はその大義によって集まったがゆえに排斥も上下も無い。これこそあるべき朝の姿なのだと、薄い粥をすすりながら言っておられた。」


劉秀は、苦い顔を隠そうともしない。


確かに、更始政権が立った折には劉秀はその理想を信じていた。朝がたった折、列席には皇帝の一族である兄劉縯伯升りゅうえんはくしょう、暁の民である遠比士、農民出身者である緑林、赤眉の面々が対等の立場で並んだ。王族も、豪族も、異民族も農民も。全ての民が並び立つ王朝。その理想のために、登禹らを引きつれ河北を転戦した。


 しかし、実際はどうか。更始帝劉玄りゅうげんは奢侈に溺れ、緑林軍の将軍たちにはそれを支えることが出来なかった。反旗を翻した赤眉の軍も傀儡を立て己の利を優先し、民に見放された。遠比士も劉永も、その他の群雄も、最終的には己の欲によって動いていた。


「理想は、理想に過ぎぬ。」


「そう、捨てた所から、理想は儚き夢に変わりましょう。」


劉秀は、登禹を睨む。


「朝貢を認め、あれらを生かせと?」


「いえ、殺すならば仰るとおり、一族郎党まで血の残らぬように絶やすべきです。生き残ったものがあれば、そのものにとってかの王子が、摘み取られた希望の象徴となりましょう。末代までの禍根となりましょうな。」


それは、自分達にとって、劉秀が荒れて腐敗した中原の希望であったように。登禹の言葉には、その意が籠っていた。


 瞑目し、沈思する。かつての理想と、自己の責務。


 劉秀は、活目の後立ち上がり、言った。


「かの者達を拝謁殿へ通せ。今すぐにだ。」




「兵は、少なくとも動いていないようだな。」


窓の外を窺いながら、撥耶がこぼす。少なくとも自分達が楽浪に生きてある間は、兵が動くことはないらしい。


「岐峰、最悪の場合、お前は何とか逃げ延びろ。」


撥耶は、窓から目をそらさずに、言った。


「生きて、美君を守ってくれ。」


ふと、同じ言葉をどこかで聴いたことを思い出した。自分と岐峰が美君を守る壁なのだと。田丹羽への旅路、船上で聞いたその言葉を。


 その時と今では、言葉の意味が違った。皇帝の血を持つ玉を守れというのではない。大切な只一人の肉親を、中原の覇者から守ってくれと言う切なる願いだった。


それでも。そう、それでも。


「俺は、最後まであがくぞ、撥耶。」


撥耶は、岐峰を振り返る。


「最後まで、供に生きて帰る道を探す。」


「…融通のきかん男だ。」


扉に、人の気配が立つ。


身構えた二人に、その使者は扉越しに声をかけた。


「夜分申し訳ありませんが、陛下がお召しです。拝謁殿へお越しください。」


「御意に。」


そういいながら撥耶は、扉を開ける前に短刀を取り、岐峰に手渡す。


「良いか、お前の帰りを待つ人間がある。忘れるなよ、主。」


あえて、自分を主と呼んだ撥耶に続き、岐峰は部屋を出た。外の冷やりとした夜気の中、撥耶から手渡された短刀がただ熱かった。




拝謁殿には、劉秀と登禹以外の人間は居なかった。


二人の姿を確かめ、岐峰らはその場に拝跪する。


「一つ、聞きたい。」


前触れも無く、皇帝は口を開く。


「そなたのいう平和。それを踏みにじるものはまた現れよう。敵からとは限らぬ、身内からも現れる。暁の誇りを盾にしてな。それすらも、排斥せず飲み込もうというのか。」


岐峰は、もはや躊躇わなかった。


「然り。」


皇帝の目を正面から見つめる。信じるものがあれば、信じ続ければどんな理想もいずれ真実になる。ならば信じる。その思いで、岐峰は口を開く。


「対話の先に開くものがございます。意見を異にするものが並び立つことによって開くものが。私は、それを信じます。」


日氏と遠氏が出会い、並び立つことによって生まれた伊舎那。その存在が、岐峰にとっての根拠であり希望である。


 その目を見たまま、皇帝は口を開いた。


「ならば、やって見せるがいい。その言葉を反故にして再びこの漢に牙を剥くことがあれば今度こそ完膚なきまでに叩いてやろう。」


皇帝の言葉の意味が、岐峰の頭の中ですぐに形を成さなかった。


「我が家臣を名乗る以上、伊舎那などと長い国名を正せ。そうよな、がよい。これよりは、漢の倭の奴国を号せよ。」


皇帝は、今、伊舎那を安堵する、と言っているのか。


「遠家の名は、この帝国の正史の中から抹消する。遠家という氏族の存在を我らは許さない。この大陸においてはな。」


皇帝の声が、撥耶に向かう。


「せいぜい、倭で汚名を雪げ。家を負った当主の役目は、死ぬことではなく、生きて家名を守ることだ。」


皇帝の声に、撥耶は、頭を上げず只頷いた。


「兵を、引いていただけるのですね。」


岐峰の確かめるような言葉に、皇帝は返す。


「遠家自体が存在しなかったのだ。兵を進める理由もあるまい。我らは韓国(からくに)の軍備強化に努めたまでだ。」


岐峰は、心から劉秀に頭を下げた。かつての憎しみはそこには無かった。


「よいか、倭奴国王、伊舎那岐峰。そなたに、倭の統治を預ける。」


登禹が、印綬を持って階段を折り、岐峰の手に握らせる。


「これは仮の印綬だ。正式なものはまた後日、漢から正使が届けよう。」


登禹の言葉に、その印綬がずしりと重みを増すのを岐峰は確かに感じた。


かくして、討倭の軍は楽浪で止まった。岐峰は隣の撥耶を見る。成し遂げた。


撥耶も、その岐峰の顔を見て苦く笑いながらも頷く。岐峰らは確かに、押し寄せる軍勢を止めたのである。




 翌朝。宮殿を出たところに、武遂が立っていた。もはや、言葉は要らなかった。岐峰の目を見、武遂はただ察した。


「岐峰、この恩はけして忘れぬ。」


ただそう言い、頭を下げた。その後ろから、駆けてくるものがあった。


「兎迂李?」


撥耶の声を聞くまでもなく、そのひげ面の男はまさしく兎迂李だった。金関で分かれた迂李が何故この王険城にあるのか。


「大王様、…撥耶様。」


撥耶の顔を見た迂李は泣きそうな顔になる。


「わしも金関で例の大きな宿屋の主人に捕まっちまったんですが、楽浪郡から戻ってきたっていう香螺の姫様が助けてくれて。香螺の保護つきでここまで船で来れたんですよ。」


迂李は、そう一息に言うと、息を整え二人に向き直る。


「お二人とも、良くぞご無事で。」


「また、死に損なった。」


それに、苦く撥耶が返す。


「いいんです。それでいいんですよう。」


迂李は撥耶の手を取り、おいおいと泣き出す。撤兵の準備を始めた兵士達が何事かと見ていくのに辟易していると、


「岐峰。」


武遂の声が岐峰を振り返らせる。


「酒は、飲めるか。」


「ああ、多少は。」


「落ち着いたら、訪ねて来い。良い酒を用意して待っている。…恨み言を聞かせてくれ。」


そういって、武遂は去る。お互いの心に出来た溝は消えることは無い。それでも、少しずつ。少しずつ歩み寄っていけるはずだと。その背中に、目線をやりながら岐峰は思う。


「さぁ、船まで急ぎましょう。早く伊舎那に戻りやしょうや。」


迂李の言葉に思いを振り切り、岐峰らは歩き出した。




王険城からすぐの港町から黄海伝いに半島を回り、済州島で補給をした後、再び船は海を走る。そこから南に下れば、一支国が見えてくる。


「撥耶。」


船上、晴れた空と走る水面を見ながら、岐峰は撥耶に声をかける。


顔を向ける撥耶に岐峰はさらに言う。


「供に生きてくれ。伊舎那にはお前が必要だ。」


太陽が、船上をあまねく照らしていた。そのまぶしさに目を細めながら、撥耶は言う。


「お前が望むなら、そうしようか。」


舳先で波を見ていた迂李の、洟をすする音が聞こえる。きらきらと照らされる波しぶきの中、船は順調に進む。やがて、一支国の港がその姿をあらわした。




 漢軍の到来に備えてか、港は物々しい警備兵で埋め尽くされていた。


「劉秀は軍を引いた!もう軍備をといてもいいんだ!」


船から艀に移った岐峰は、警備兵達に声をかける。彼らは岐峰を見て敬礼しようとしたが、その後ろの撥耶を見、槍を再び掲げた。


「なんだ、一体。」


迂李が不審げに呟く。


警備兵の中から、女が姿を現した。日和久ひわくである。和久が香螺から引き連れてきた兵ならば、撥耶を知らずとも不思議は無い。とかく和久と話さなければ。そう思い、岐峰は浜に艀をつけた。


「和久姉さん!」


「…岐峰。」


艀から降りる岐峰を認め、和久は兵を下がらせる。


「劉秀帝は兵を引いてくれた。戦は回避されたんだ。」


「…そう、それはよい知らせね。」


和久は安堵の様子を見せる、がけして顔色が晴れない。


「ああ、だからこんな物々しい警備はもう必要ない。」


「…いえ、要るのよ岐峰。」


言い募る岐峰に、そういうと、和久は、撥耶を見た。


「遠家当主遠撥耶。その臣、兎迂李。あなた方を一支、伊舎那の領内に入れることは罷りなりません。」


和久は、苦い顔を振り切った後、そう言った。


「恐らく貴方は何も知らない。でもそうなってしまったのです。撥耶殿。」


和久は、砂を噛むように重ねる。


 果たして、何が起きたというのか。岐峰たちの間を一陣の突風が抜けた。まるで、新たなる難局を予感するかのように。


4.漢倭奴国王 あとがきに変えての大河ドラマ風解説。


後編まで長々とお付き合いありがとうございます。今回プロット段階で既に長かったので前後編に、って思ってたら前中後編になっちゃいました(爆)。新キャラ続出の第4話。特に後編は、歴史上実在する人物が沢山出てきましたね。今回はその中でもずっと名前が出てきてるくせにやっと登場を果たした、この劉秀文叔さんこと光武帝と、古代史の基本資料、後漢書東夷伝について話そうと思います。「え?なにそれ勉強?試験勉強のトラウマよみがえっちゃうからイヤァァ!!」って人はいつもどおりスルーでお願いします。


 


 劉秀文叔こと光武帝はいわずと知れた後漢の創始者ですね。「柔良く剛を制す」ってこの人の言葉らしいです。前漢6代景帝の末裔(そういえば劉備も景帝の末裔を名乗っていますね。一説によれば、光武帝の兄、劉縯の末裔って説もあるそうです。)で、平凡な人物だったのが諸所の流れで皇帝に即位。前漢崩壊以来の混乱した中国を統一しました。


 その後建武6年(30年)親征による山東省の平定の過程で、楽浪郡を接収。本書の中ではそのまま南に下り、半島を席巻します。その時に鄧禹仲華がいたかは分からないです(爆)。しかし光武帝の側近っちゃあこの人がいないと、と思い登場していただきました。


 本書の時間軸としては、光武帝が蜀の公孫述こうそんじゅつを倒して中国を統一した直後ですので、まだ矛盾は少ないのです。最後にもう一つ、戦にならなくて済んだために正史に乗らない派兵があったとしても面白いかな、と。


後漢書東夷伝によれば、倭の奴国に金印を渡したのは建武中元二年(57年)のとき。時の倭国の大夫を名乗るものが朝貢したので金印を渡した、との記述があります。おそらく当時の航海技術から考えて、朝鮮の内海、黄海を港伝いに渡っていったと考えられます。岐峰達にはその“大夫”の役を担ってもらったわけです。(岐峰達は陸路でしたけど。)


さて、この建武中元二年。実はこの劉秀さんが死ぬ直前です。はい、矛盾点ですねー。乱から、いっても10年以内の作中で行くと、劉秀即位後だとして建武12年(36年)くらい。たどり着くまでに20年以上かかったことになっちゃいますね。


ここに関しては、後漢書東夷伝の記述は実は“2個目”だった、ということにしといてください。


「金印って、2個も3個も渡すもの?王朝が変わらないと変換、授与って行われないんじゃないの?」っていうマニアックなことを知っている方は、本書のエピローグ倭国大乱までお待ちください。一応それらしい感じには説明します。ってか、全体的に時間軸等の矛盾が少しずつ出てきてますね(汗)。今回途中で必死のパッチで一箇所修正しましたが、まだあるだろうな…。全部書いてからまた調整します…。




この新末後漢初と言う時代。なかなか日本では取り上げられませんが、アツいです。皆さん是非調べてみてください。


  


 さてさて、引くわよ!で終わった今回。岐峰達が劉秀のもとに向かっていた間、伊舎那本国では何があったのか。次話「過遇知の火」をお待ちください。今度は戦争だ!

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