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4 漢倭奴国王(中編)


 前漢皇帝武帝の時代より続く歴史ある中華帝国の戦略拠点、楽浪郡。首都洛陽からは、山東の半島から黄海をはさんだ対岸に位置している。前漢滅亡時、時の皇帝から独立自治を勝ち取った楽浪郡は、劉秀により再び帝国の支配下におさめられた。漢の支配下にある今、楽浪郡はまさしく、異民族を見張る劉秀の目であり、反乱を抑える劉秀の剣であった。




 岐峰たちは、本拠地を男女群島から、内海の奥、淡路穂狭別島あわじのほのさわけじまに移す事を決定した。いざ戦が始まった時の為の防備を少しでも固めるためである。


 むろんのごとく、岐峰と美君の婚姻の儀は先送りになったが、岐峰が劉秀の元に赴く間の代表者が必要となるため、伊舎那は事実上の妃として美君を認めた。


 伊舎那岐峰と遠撥耶が漢に赴き劉秀に対する間、伊舎那美君は国内にあって遠比士の企みに協力した部族と対話し、蓬莱の防備体制を固める。漢軍到着まで最短で2か月。事をなすにはあまりにも時間がない。




 劉秀の軍に対する方針が決まった今、残す問題は遠家の処分のみとなった。撥耶は劉秀の元に同行することには同意したが、自分に対する処刑の中止には断固として反対したまま首を縦に振らなかった。


「王たるもの、家臣に対する示しというものをつけねばならん。遠比士自身の罪を許した以上、代わりの誰かを裁かねばなるまい。劉秀軍との交渉が成った後は、改めて事を審議すべきだ。」


遠家の重臣を集めた玉座の前で、撥耶はその意見を曲げようとしなかった。


「どうしても、俺がお前を殺さねば事がおさまらんと言いたいのか、撥耶。」


「そうだ。」


撥耶の目には、揺るがぬものが映っていた。


「あ、主。」


家臣のうちの一人がおどおどと言いつのる。


「伊舎那が許して下さるというのなら、それで良いのでは?これまで通り、伊舎那の同盟者としてあっては。」


「この事態がかように軽い問題だと思うのか。」


家臣の言を一蹴し、撥耶は再び岐峰に向き直る。


「出発の前に、遠家の裁きに関して明言しておくべきだ、大王。無事に戻った折は遠家を処罰すると、報を出していただきたい。」


「断る、といえば。」


「お前の為、ひいては伊舎那の全ての民の為だ、岐峰。」


「その全ての民の中から、お前自身を外す事を俺は許さない。」


ピン、と。岐峰と撥耶の間に張りつめた空気が走る。


「あくまでも、遠家をその内に抱え込もうと言うのか、岐峰。」


「言ったはずだ。遠家は暁のともがら。共に歩く半身だ。」


撥耶は岐峰から目をそらし、家臣たちを振り返る。その言葉に、心を動かされたもの、動かされぬものの顔を眺めた。


 岐峰には、一体その奥に何を眺めようとしているのかがわからなかった。あくまでも死を求める撥耶を引き留めたい。その思いのみが、岐峰の口を動かしていた。


「己が半身を、切り捨てることなどしない。」


撥耶は、嘆息と共に、岐峰を振り返った。


「分かった。そこまで言うのならば、我ら遠家をそのうちに飲み込んでいただく。」


岐峰をひたと見据えたまま、撥耶は岐峰に額づく。


「河南漢水の遠撥耶、及び郎党500。これより伊舎那岐峰大王に臣従し、けしてその命にそむかぬ事を誓う。」


遠家家臣団たちはザワリと、浮足立つ。


「臣従、と申されたか。」


鋭く、過遇知の声が場に突き刺さる。


「そ、そうだ。同盟者である我らが臣下に下らずとも、」


それに合わせて、家臣団の声が重なる。


「俺の決定に従えぬものは遠家を去れ。従うものは、俺と共に伊舎那岐峰王にその命を預けよ。」


ざわざわと飛び交う戸惑いの声の中、撥耶は立ち上がり岐峰を見る。その目は以前、いつでも自分の首を切れと言った時と同じ目の色であった。




 結果、遠家の約4分の一の民が伊舎那を去り、蓬莱の各地に散った。幸いなのは、船の操作に長けたものたちが伊舎那に残ってくれた事である。目的地洛陽までを無事にたどり着くために、伊舎那も優れた操船技術を持つ遠家の水軍はやはり手放したくはなかった。


「我らはもともと根っからの水夫ですから、難しい事は良くわからんのです。」


船の最終整備をしながら、遠家水夫の頭、兎迂李とうりは言った。


「ただ、比士様がした事は申し訳ないと思うし、それでも凶状持ちのわしらを匿ってくれるのはさらに申し訳ないと思います。大王様にとってみりゃあ、撥耶様の首切って皇帝に差し出すのが一番簡単なはずなんだ。」


聞きながら、美君はふと、気付いた。むしろなぜ今まで気付かなかったのだろう。撥耶は最初からそれをさせようとしていたのだ。美君を切り捨てるような事を言ったのは、それに彼女を巻き込まないためだったのだ。


 会議の顛末は、後に筑紫から聞いた。自分が遠家から縁を切られたことも。肩の荷が下りた、という感覚がないと言えば嘘になる。もはや漢と暁の血に翻弄されずにすむ、と。だが、やはり身内に拒絶された痛みは強く美君の胸に響いた。


 今その痛みが和らぐと共に、違う、締め付けるような痛みが美君を襲った。


「撥耶兄様…」


ポツリ、と美君の口から声が漏れた。


「とかく、撥耶様にわしらはついていきます。正直、撥耶様が大王様に従うと言ってくれてわしは嬉しいんですよ。わしは伊舎那の王様が好きです。ついていきたいと思う。」


迂李は、美君に振りかえり、言う。


「姫様は、良い旦那さまを見つけられた。」


顔の下半分を覆うひげの下にニカっと笑う歯が見える。迂李の後ろに、船がその帆をはためかせながら並んでいる。


自分の夫と、ただ一人残った血縁の命を預けるその船を、美君はすがるような思いで眺める。自分には、為すべき事がある。夫の名代として敵対部族と渡り合い、話し合いによる解決を導かねばならない。二人の命は、この船に預けるしかない。


「夫と、撥耶兄様を、よろしくお願いします。」


「頭をおあげ下さい、姫さま。いや、違うな、お妃さま。わしらに出来ることは、全てやらせて頂きますよ。」


頭を下げた美君に、迂李はそう言って船をトン、と叩いた。


 暇を告げ振り返ると、遇知が立っていた。いつから会話を聞いていたのかわからない。遇知は伊舎那に残り岐峰に臣従することを選んだが、その心中は定かではない。美君の中には、遇知に対してぬぐい切れぬ不信が残っていた。


 目が合うと、遇知は一礼して去ろうとする。


「お待ちなさい。」


立ち止まり、かつての婚約者は美君に振り返る。


「何か?」


呼びとめたものの、美君は何を言ったものか思いつかなかった。思いつかないままに、口を開いた。


「伊舎那にとっても、遠家にとってもこれが正念場です。ゆめ、二心を抱かぬように。」


「むろんです、お妃様。」


そう言って、遇知はにやりと笑う。


「貴方様と新しき主がそこまで大事される伊舎那です。その臣である私が何の二心を抱きましょうや。」


そして背を向け様に言い放つ。


「真に正しいものに気付かれるべきはお二人。私はそれを祈るのみです。」


所詮は相容れぬと、言下に語っていた。それは、いつか比士に言われたことでもあった。


言い放ち去る遇知の背中を見ながら、美君は言葉の裏に潜んだ皮肉に打ちのめされていた。






 船の準備が整った。岐峰らは一支国へ、その他の家臣らは淡路へ。それぞれの出発を翌日に控えた夜半、


「大王。」


その見珂布津の言葉を、不安と焦燥で眠れぬ床で岐峰は聞いた。


「どうした?」


「お妃さまがお見えです。お通ししてよろしいか?」


明日別れれば、それが今生の別れになるやもしれぬ。その思いは、美君も同じであったらしい。岐峰は立ち上がり、美君を迎え入れた。


「お休みでしたか?」


美君は、恐る恐る問う。


「いや、ちょうど眠れなかったところだ。」


この顔を見るだけで心のすさんだ何かが和らいでいくのを、改めて岐峰は感じていた。


「見回りに行ってまいります。」


そう言って一礼し、布津は去る。どうやら気を利かせたようだと気付いた美君が顔を赤らめる。


「とかく、中へ。」


美君を卓に迎え入れ、白湯を入れる。その温かさが、自分の焦りも和らげてくれるのを感じた。


「会いたかった。」


そう、美君に白湯を差し出しながら、岐峰は言っていた。言葉が自然と口から出た。


 その手を、美君の手が取った。強く握るその手から伝わってくるのは美君の焦燥。


「私もです。会いたかったのです、どうしても。」


もう会えないかもしれない。その不安は岐峰の中にもあった。劉秀に対する前に、敵の手にかかるかもしれない。劉秀の元にたどり着いたとしても、その場で首をはねられるかもしれない。その手を握り返しながら、岐峰はその己の不安を払拭するように言う。


「必ず、撥耶と一緒に生きて帰ってくるさ。そう不安そうな顔をするな。」


岐峰のその目を見つめ、意を決したように美君は言う。


「岐峰、婚姻の儀はまだでも、私たちは夫婦めおとだと、そう思って構いませんか。」


思いつめた美君のまなざしからけして目をそらさぬように、


「俺もそのつもりだ。」


そう言った。


「ならば、この一夜、貴方様の情を下さい。この身に私が貴方の妻であるという証を下さい。」


美君の言葉の意味を飲み込むまでに時間がかかった。


「そうすれば、この己を呪う気持ちと、戦える気がするのです。」


その一言が、岐峰のためらいを吹き飛ばした。刹那、愛おしいその体を、ありったけの思いで抱きしめる。


「美君。」


「…岐峰。」


「…あまり、こういうことに慣れていない。不手際があったら、許してくれ。」


「…私もです。おかしな所があれば、ご指摘ください。」


胸の中で呟く声を耳に、ふと、顔を合わせ微笑みあう。岐峰はその瞬間、二人を取り巻く全ての瑣事が、融けて消えたように感じた。その夢のような瞬間を、少しでも長く味わいたい一心で、岐峰は重なった二人の身を床に沈めた。




―岐峰、帰ってきてください、私の許へ。―


繋がり、求め合う中で呟いた美君の言葉が、再び耳に響く。


まどろみから醒めると、白々と日は昇っていた。隣に眠る美君の顔も朝日に照らされる。


「帰ってくる。必ず。」


眠る美君の顔に、そう言葉をかけ、岐峰は床を出る。


 夢の時間は終わりを告げ、現実の朝が岐峰を包んでいた。




 群島を出発した岐峰達は、まず一支国、対馬を経由しての1週間の船旅の後、半島の南端、金関きんかんの港にたどり着いた。兎迂李の整備した船は、外界の荒波を難なく通過し、予定よりも早い時間で岐峰らを韓国にたどり着かせた。


 この港を、“黄金の関”の意味を込めて「金関」と名付けたのは岐峰の曽祖父だと言う。


「ここが、かつての日の都か。」


ぽつりと、隣に並んで立った撥耶がつぶやく。


「黄金の港と伝え聞いていたが…。」


焼けた建物は放置され、露店の商人や街を歩く人々にも活気がない。そう、今やかつての華やかな姿を想像できぬほど戦の爪痕に疲弊したこの金関こそ、仁奈にんな国と呼ばれた日氏の領国の首都であった。今でも、この港を出た日の光景は岐峰の脳裏に焼き付いている。上がる戦火。逃げまどう人々、それを見捨てて船を出したあの口惜しさ。その故郷に、今、自分たちが負けた相手に再び恭順するために立っている。


「とかく、宿をとり作戦を練りましょう。」


迂李の声に、ふと我に返り、岐峰は自分の中の感傷を振り切る。


「ああ、そうだな。」


「後、良くない噂を聞きました。わしらが韓国に渡ってきた事がどこかから漏れたらしい。各国の王様が大王様見つけたやつに褒美を出すって触れを出してるらしいや。」


そう、この国はもはや故郷ではない。敵地の只中なのだ。


「行こう、撥耶。」


「御意に。」


堅苦しい敬語で返す撥耶を苦々しく思いながらも、街に向かって歩き出した。




 宿は郊外にある小さな宿を選んだ。中心地に近ければ近いほど、岐峰の顔が立つ。ここで漢軍に通報されてしまえば元も子もない。大きな宿屋もしかりである。討倭軍挙兵の知らせは街中を充満していた。すぐ近くにあった大きな宿の主人は、朝貢品の大荷物と岐峰らの顔を見比べ、不審げに値踏みを始めたため急いで暇を告げた。そこで見つけたのがこの宿屋だった。楚明そみんと名乗るその主人は、快く岐峰らを迎え入れてくれた。


「何か事情がおありならば、伺うことは致しません。粗末な部屋ですがどうぞお使い下さい。」




宿の一室で地図を広げながら、撥耶は楽浪郡の位置をさした。


「いずれにせよ洛陽にわたるためには、この楽浪郡を経由する必要がございます。帥王が事前にお調べいただいた情報によれば、西の馬韓諸豪族はすでに劉秀の配下にあるとの事。」


「やはり、海路は難しゅうございますか、撥耶様。」


迂李が口をはさむ。


「馬韓沖を補給なしで突っ切れれば、話は別だがな。故に、これよりは陸路を進言いたします。辰韓諸国の結束は馬韓に比べれば弱く、いまだ戦後の混乱から抜け出せていない模様です。網目をくぐるならばこちらかと。」


「撥耶、一つ頼みがある。」


岐峰の声に撥耶は顔を上げる。


「なんなりと。」


「その堅苦しい敬語をやめてくれ。他の家臣の前での示しを考えているのはわかるが、ここには俺たちと兎迂李しかいない。」


「王に対して不敬な口は慎むべきと存じていますが。」


「気持ち悪いからやめてくれ、と言っている。」


共に立ち上がり、にらみ合いを始めたところ。ぷす、と息を吐く音がしたと思うと、迂李がたまりかねてガハハと笑った。


「何がおかしい。」


岐峰の問いに、迂李は居住まいを正す。


「これは、大変なご無礼を。だが、確かに、傲岸不遜の撥耶さまが、こんな上品にかしこまった言葉使ってんのは確かに気持ち悪いやと思っちまって。」


「己の主に対する言葉か、それが。」


不機嫌を隠そうともしない撥耶に、迂李は悪びれもせず返す。


「姫様の事も撥耶様のこともこんなちっちゃいころから知ってんだ。申し訳ないながら、やっぱり笑っちまいまさぁ。だが撥耶様、大王様の言うことも一理ですよ。わしら大手を振って歩ける身じゃあない。畏まって敬うよりかは、いつも通りのしゃべりにした方が怪しまれませんや。」


深いため息とともに、撥耶は椅子に腰をかける。


「家臣に敬うなという王など聞いたことがない。」


「なんなら、命令ということにしてもいいぞ。」


岐峰の言葉に、じろりと目線を向けた後、撥耶はまた再び深いため息をつく。


「わかった、命令とあらば従おう。」


いまだにやにやとしている迂李に一瞥をくれた後、


「とかく、だ。この地ではお前の顔は知れている。劉秀の息がかかった者どもはお前を見つければ首を取ろうとする。まずは無事に楽浪郡にたどり着くのが一番の難関なのだ。故にだれもお前を振り返る余裕の無い場所を行く。他に意見は?」


異論のはさみようなど有るはずもなかった。


「迂李はここに残り、船を守れ。」


「わかりました。」


撥耶の言に、迂李は神妙な顔でうなずく。


「どうか、ご無事に帰ってきて下さいよ。お二人になんかあったら姫様が寝込んじまうから。」


ふと、その軽口の奥に真摯な思いが覗いた。


「約束したんだ。必ず帰る。」


岐峰は、迂李に力強く断言した。


刹那、ガサリとものが動く気配に撥耶が扉の外に飛び出た。同じものを感じ続いて出ようとする岐峰を手で制し、周囲を伺うが痕跡はないようだ。


「やはり、敵地か。」


油断はならないらしい。つぶやいた撥耶の後ろで、改めて気を引き締めた。


 


「お泊まりはお客様だけでしたから、誰かいたということはないと思いますが…。後はうちの弟が訪ねてきたくらいです。」


出発に際し、昨夜他の泊り客がいなかったかと聞いた時の楚明の答えはこうだった。隠しているにしろ、実際にそうだったにしろ、おそらくこれ以上の事はわからないだろう。


「北へ行かれるのなら、お気を付け下さい。なんでも漢の皇帝様が兵を率いて楽浪郡に入られたとか。荒い連中がゴロゴロしていて、略奪や追剥が横行しているようです。お荷物が狙われるかも知れませんよ。」


おそらく親切心から出た楚明のその情報は、岐峰らを戦慄させた。つまり、劉秀の2万はすでに楽浪郡に到着している。時間がない。


 大急ぎで馬と馬車を整えた岐峰たちは、辰韓をくぐる進路を変更し、楽浪郡までの最短の行程を北上することにした。できれば一番避けたかった土地、日武遂ひむついの領国、香螺から国を抜けることとなったのである。


 先の戦の功によって漢からの信任を得た武遂は、自国である香螺に加えて、岐陵亡きあとの仁奈も任される弁韓の太守となっているという。まさしく、香螺は岐峰らにとって虎穴であった。


 


「駄目だ、こちらももう走れんな。」


へたり込んだ馬を前に、撥耶が嘆息する。辰韓との国境を目前にして、2匹の馬は同時に動くのをやめた。馬を飛ばせるだけ飛ばして香螺を抜けようとした岐峰らの賭けは失敗に終わったらしい。


「とにかく、馬を調達するしかないな。」


東に見える村の灯りを見ながら岐峰はつぶやいた。隣国とは言え、さらに北上した国境の近くである。岐峰の顔さえ割れていなければ、馬を借りることも出来るかもしれない。


「その村に漢の息がかかっていたら?」


馬の様子を見ていた撥耶の声がその岐峰の思いをさえぎった。


「捕まえてくれと言っているようなものだ。」


「それでも、行くしかない。」


岐峰が歩き出すと、撥耶はため息をつく。


「待て。…荷物を隠してからだ。」




 村の中は静まり返っていた。夜半だからという事もあるだろう、馬の調達は難しいかもしれない。そう思っていた処に村人から声をかけられた。


「どうした?お困りか、旅のお人。」


その口調からは、こちらを知っている様子は伺い知れない。


「馬をつぶしてしまった。先を急いでいるのだ。馬を借りることは出来ないか?」


「そりゃ大変だ。すぐに用意するから、中で白湯でも飲んどいてくれ。」


岐峰の言葉に、村人は母屋を指さしながら言った。


「罠だ。」


ぼそり、と呟く撥耶を抑え、


「有難う、恩に着る。」


それを聴くと、村人は岐峰らを母屋に迎え入れ、厩に向かった。


「馬鹿か、お前は。」


「馬だけ寄こせというのは強盗と何ら変わりがあるまい。礼に失することはしたくない。」


用心せねばならぬ事はわかっていても、礼儀に反することはしたくない。甘いと言われようとも岐峰の矜持としてそれはあった。


若者が白湯を持ってくる。その懐に、白い光がきらりと光るものが見えた瞬間、


「すまん、馬鹿は俺だ!」


岐峰は立ち上がり若者の後ろ手に手を抑える。


刃物と共に白湯が床に落ちた。その土器の椀が割れるのを合図に、奥から3人、入口から二人。抜き身の刀を携えた男たちが入ってくる。6対2。首筋につきつけられた刀に、岐峰と撥耶は両手を挙げた。


「つけてきたかいがあったってもんだ。」


奥から出てきた男に岐峰は見覚えがあった。楚明の宿に入る前に立ち寄った大きな宿の主人。


「金関からこっち走りっぱなしだ。そんな大急ぎでどこに行くつもりだい、岐峰王子。いや、今は王様におなりだったか。」


男はこちらの顔を覚えていたらしい。そこに気付けなかったばかりか、つけられていた事にも気が付けなかった。岐峰は自分の認識の甘さに心底腹が立った。


「ふんじばれ。」


縄が手に回り、後ろ手に縛られる。


枯淡こたんの旦那、もう一人はどうします?」


「兄貴の宿屋で家臣だって話してやがったからな。一緒に香螺の王様に差し出しゃ金になんだろ。」


弟が訪ねてきた、と言っていたのが頭によぎる。楚明の宿でこちらをうかがっていたのはこの男だったのだ。


「王の館に早馬を出せ。お尋ね物を捕まえたってな。」




 見張りを残し、枯淡というらしい男は、入口の外に出た。こんなところで悠長につかまっている時間などないのに。岐峰の心中を焦りが埋めていた。


「すまん…。」


隣の撥耶に詫びた。詫びてどうなると云うもんだでもない事はわかっていた。だが、己の甘さが引き起こした失態を誰かに詫びたかった。


「あの男の尾行に気づかなかったのは俺も同じだ。おそらく、あのまま徒歩で抜けようとしたところで、道のどこかで張られただろうな。」


撥耶の口調はどこまでも冷静だった。その冷静さがどこから来るのか、焦燥に駆られた岐峰には見当もつかなかった。


 王の館からの使者は驚くほど早くきた。入口の前に現われたのは、20半ば程の女だった。岐峰はその女を知っている。


 枯淡は揉み手をしながら、その女にの元にひざまずき、言う。


「お早いおこしで。お尋ねものはあちらに縛っておりますので、はい。」


女は、入口に入り、岐峰と撥耶を見る。


「もう一人は何者か?」


「王子の家臣と名乗っておりましたので、一緒に捕まえました、はい。」


女は、撥耶の前に膝をつき、正面から彼の両目を覗きこむ。


「日家の家臣ではありませんね、名は?」


「河南漢水の遠家当主だ。」


首をひねる枯淡らと違い、女は刹那息を止め、じっと撥耶を睨む。


「皆、ここを出なさい。彼らとのみ話があります。会話を盗み聞く事も許しません。」


言われた枯淡らは、びくりとして外に飛び出る。岐峰ら3人だけが残された室内に沈黙が残る。最初に動いたのは女だった。


 女は、岐峰を縛る縄を手持ちの小剣で斬り始めた。


和久わく姉さん…」


「もう、顔を合わせることはないだろうと思っていたのだけれど。」


呼びかける岐峰に、その女、日和久ひわくは目をそらしながら返す。武遂の妹である彼女は岐峰の従姉であり、武遂や兄たちと共に幼少の時間を分かち合った血族だった。


「なぜ、縄を切る。そのままの方がつきだすには都合がいいと思うが。」


和久は手を止め、撥耶を睨む。


「倭の密使をとらえたのは我々香螺の船でした。他の国の豪族たちよりかは、香螺は事情を察しています。岐峰の首を切ったところで戦は止められません。あなたは?遠比士、にしては若い。貴方は何者ですか?」


「弟の遠撥耶だ。遠比士の死を受けて当主を襲名した。」


死、と聞き和久は事情が呑み込めないでいる。


「和久姉さん、事情を説明する。聞いてくれないか。」


撥耶の縄を外しながら岐峰はここまでの事情を話し始めた。


 鈴虫の声が、岐峰の話が終わった後の場を支配した。話を聞き終わった和久は岐峰を真っ直ぐに見つめる。


「つまり、倭は、いえ、貴方の伊舎那は漢との戦を回避する事を望んでいるのですね。」


岐峰は、ためらい無く頷く。


「判りました。だとすれば時間がありません。供に来てください。」


和久は撥耶を見る。


「貴方も。」


3人が入り口から出ると、驚いた枯淡が寄ってくる。その枯淡に褒美の金が入った袋を投げ渡すと、和久はそのまま郊外まで歩いた。そこに、一台の馬車が止まっていた。


和久の声掛けを受けて、30頃の男が馬車から顔を覗かせる。岐峰は心に苦いものが走るのを禁じえなかった。出てきたその男は、香螺の王にして父岐稜の仇、日武遂。


「乗れ、岐峰。事情は中で説明する。」


武遂の言葉を受けて心中の苦渋を振り切り、岐峰らは馬車に乗り込む。朝貢品の荷車を村の馬に引かせて回収すると、二台の馬車は北に向かって走り出した。




「こちらの事情を説明する。」


撥耶の身分を確かめた後、武遂は二人に向かって口を開いた。


「劉秀は楽浪郡に6万の兵を集めろといってきた。先の戦で疲弊した韓国中をかき集めてようやく集まったのが3万だ。」


「楽浪には既に4万が集まっていると聞いたが。」


「倭に向かって数を少なく伝える馬鹿はおらんだろう。」


撥耶の疑問に、苦々しく武遂が答える。


「皇帝の名の許に、劉秀は必要な兵員を出さなかった豪族を処罰し領地を没収するとの触れを出した。このままでは韓国全体が漢に接収されることになる。倭の挙兵を受けて韓国の豪族達がお前の首を血眼で求めているのは知っているだろう。お前の首で戦が回避できれば、接収を免れると考えているからだ。」


そういって武遂は撥耶を見る。


「しかし、岐峰の首を差し出したところで戦は収まらん。劉秀が本当に欲しいのは哀帝の血を受けた遠比士の首だ。これを挙げぬ限り、出兵は断行されるだろう。だが、伊舎那が劉秀に恭順するとなれば話は別だ。劉秀は出兵の大義名分を失う。我々はお前を保護し説得するつもりで探していたのだ。」


「最悪の場合、首を切り劉秀に差し出せば、功によって香螺だけは接収を免れるかも知れんしな。」


撥耶の言葉に、武遂は苦い顔を隠さなかった。


「他の豪族と同じようにそう考えなかったわけではない。だがそれでも、いずれ韓国は劉秀の手に落ちよう。倭が劉秀より自治をもぎ取れば、韓国も自治を主張する大義名分が出来るのだ。」


武遂は、岐峰を見据えて言った。


「遺恨はあろう、それは承知で言う。韓国の命運をお前に委ねる。」


「武遂、俺は、俺のすべきことをするだけだ。だが、少なくとも劉秀の兵は止める。」


岐峰は、武遂から目をそらさずに言った。


「それでいい。…感謝する。」


いまだかつて無い大きなものが岐峰の双肩にのしかかるのを、確かに感じた。馬車は休むことなく楽浪郡を目指し走り続ける。




 夜半。北上する馬車の中、皆が眠りについていた。車輪の音だけが車内を支配している。和久は、眠る岐峰の顔を、懐かしい思いで眺めた。あの幼かった子供が、今や東の海を背負って立っている。かつて自分たちが裏切り追いやった彼が。そして再び、彼に命を賭けさせようとしている。自分達はどこまで卑怯なのだろうと。


「心配は要らない。そいつは死なん。」


ふと、声のほうに目を向ける。遠撥耶が目を開け、和久を見ていた。


「劉秀が欲しいのは遠家の首だ。岐峰の命は俺の首で贖う。」


その醒めた眼で、こともなげに言う。


「命を惜しむつもりは無いのですね。」


先ほどもそうだった。あの村でも、この男はまず、遠家の当主だと名乗った。己の首を差し出すように。


「もとより、故郷で失っていたはずの命だ。それをこの二年永らえ、人間らしい生活をさせてもらった。」


男もまた、岐峰を見た。


「いい夢を見せてもらった。充分にな。」


ふと、和久は思った。この男は、死に場所を探しているのだろう。江南の戦の顛末は和久も伝え聞いていた。この男が背負っているものと、裏切りの事実に二年あえいで来た自分達が抱えているものが同質なような気がして、和久は少し男の気持ちが分かる気がした。


だからこそ、


「死で償えるものなど、ありはしません。」


そう、言った。男は、ふと苦い笑いをし、目を閉じた。


そう、償うならば、生きて為さねばならない。死んだ叔父や従姉弟達の顔が和久の頭をよぎる。自分にできることを考えながら、和久もまた目を閉じた。




 翌朝、走りとおした馬車は城門の前で足を止めた。香螺の王宮が誇る汗馬は、その働きに息を挙げることも無く平然と野の草を食べていた。


岐峰は城壁を見上げる。天を衝くほど、と言ってもけして誇張にならぬその壁こそ帝国の半島における戦略拠点、楽浪郡の入り口だった。


「兄上、お願いの儀がございます。」


共に城壁を眺めていた和久が、真剣な表情で言った。


「なんだ?」


「私に、200、いや、100の兵をお与えください。」


「100の兵で何をする?」


武遂は怪訝な顔をしたが、


「倭に渡り、戦の折の守りに付きたいのです。」


その言葉を聴き、表情を変えた。岐峰もまた驚きと共に和久を見た。


「今度こそ、同胞と共に戦いたいの。」


その言葉には、揺るがない決意が見えた。


「良いか、岐峰。」


武遂の問いかけに、岐峰は頷く。和久の顔に安堵の色が浮かぶ。


「有難う、和久姉さん。」


「…いえ。」


「館から連れて行け。急げよ。」


武遂の言葉に、和久は馬に飛び乗る。馬首を南にめぐらせながら、


「生きて、倭でお会いしましょう。」


そう撥耶に声をかけ南へ走りだした。二人の間に何がやり取りされたのかは岐峰にはわからなかった。だが、和久のその思いがただあり難かった。


「私は香螺の王、日武遂。倭は伊舎那国の朝貢使を案内してきた。劉秀帝にお目通り願いたい。」


武遂の声が門外に響く。けして一人で戦っているわけではない。重々しく開いた城門をくぐる岐峰の背中を、その思いが押していた。


帝国の要、楽浪郡。伊舎那の民、韓国の民の命を諮るその都は、岐峰の目の前にその威容を現していた。








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