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4 漢倭奴国王(前編)2

「陶酔が過ぎまするな、主。」

 散会する一同の中、過遇知は撥耶に声をかけた。そこには侮蔑と嘲笑が浮かんでいる。

「遇知、俺を主と呼ぶのなら、その無礼な口を改めろ。」

「ご気分を害されたこと、深くお詫び申し上げます。」

この男が、皇帝の血を引かぬ自分に額づくつもりがないことは撥耶も良く分かっている。だからこそ、形だけでも当主と言う座に自分が居ねばならない。

「己が道化であることなどとうに承知している。それも下らぬ夢に振り回されることに比べれば幾分かマシだ。」

「楽土という幻想ですか?」

「復讐と言う妄想だ。いい加減夢から覚めろ、遇知。」

遇知のその表情には、何の感情も見受けられなかった。遇知は撥耶に一礼をし、通り過ぎた。


 夜更け、岐峰は眠れぬ身体を横たえていた。見つからぬ答えを考えあぐねるうちに、ふと、海を眺めたくなった。岐峰は誰にも気づかれぬようにと気をつけながら館を抜け出る。雨は強く地面をたたいていた。

「いずこへ、大王。」

かけられた声に驚き振り向くと、そこにいたのは廉劫の部下、見珂布津みかふつだった。

「主より、今は大王をお守りせよと言いつかりましたので。」

岐峰の疑問を察したように布津が言う。先日刺客に襲われた矢先である事を考えてくれたのであろう。廉劫の心使いに頭が下がる思いがした。

「いずこへ?」

「寝付けんのだ。海風にでも当たりに行こうかと思って。」

重ねて問う布津に岐峰は返す。

「ならばお供しましょう。」

布津は止めるでもなく、松明を手に共に歩きだした。

「先客がいるやもしれませんが。」

「どういうことだ?」

「先ほどざっと見回った時から、海岸に人の気配がありましたので。」


降りしきる雨の中、海岸にたどり着くと、

その松明の灯りに振り返る美君の顔が照らされた。

「…岐峰。」

「…そなたも、寝付けないか。」

「…合わせる顔も無いと、思っていたところですのに。」

そう言って、美君は悲しく笑う。

「どこまで聞いた?」

「取りあえず、父が嵐を鎮める御柱になるとのことを。」

美君はふと目線をそらし、続ける。

「それ以外は、何も教えてくれませんでした。」

あの会議の顛末は、確かに美君にとっては酷かもしれない。遠家の人間の心痛を思うと、岐峰の胸がチクリと痛んだ。

「お立場を、悪くされたのではないですか?」

私の言うままに、父をかばったばかりに。そう、言葉の後に続いた気がした。

岐峰は、静かに首を振った。それを見て、美君はまた悲しそうに眼を伏せる。

「死に際の父の言葉が、頭から離れぬのです。伊舎那の理想は、戯言にすぎないのでしょうか。暁と漢は、私とあなたはやはり相いれないのでしょうか。」

比士は言った。この美君との婚姻をすらままごとだと。

「ならば、良き生き様とは一体何でしょう。」

美君の吐き出した問いは、いつか岐峰自身が美君に投げかけたものであった。

「生きてある事。」

返した言葉に、美君は振り返る。

「そなたが言った言葉だ。生きてある事は、間違いではない。」

悲しい沈黙が、場を支配した。その言葉を丸ごと信じることができるほど、もはや二人は幼くはない。

「失礼ながら。」

そう言って口をはさんだ布津を、意外に思って振り返ったのは二人同時だった。

「はじめて、主よりこの伊舎那のありようを聴いた折り、私も甘いと思いました。かような美しい理想がはたして実現するはずはない、と。」

岐峰は、言い返すことなどできなかった。それはまさに正鵠を得ていたからだ。だが、そう、だが。その先が、言葉にならない。

「なれど、」

そのままの目線で、布津は言葉を紡ぐ。

「大王は、それを本気で作ろうとしていらっしゃる。国を支配するものは、どこまで行っても騙し合いのまつりごとと他を排する暴力、他に排される恐怖です。しかし、この国を治めているものはそうではない。そう、思います。この数日間しかこの国におらぬものの意見で恐縮ですが。」

「信じる者がいれば、戯言ではなくなる、ということですか?」

恐る恐る問う美君に、布津は返す。

「信じる者がおれば、信じぬものもおりましょう。信じぬ者にとってはどこまで行っても戯言です。」

だが、信じるものにはそれは真実だと、信じる者がいる限り、それは嘘にはならないと、布津の言葉は岐峰にそう聞こえた。あきらめてはならない。この国を、民を。

「遠大夫をあくまで庇おうとする大王を見て、私は、共に戦おうと思いました。この王は憎しみで動かない。この王についていこうと。」

その言葉が、己のわだかまりの姿を照らした。

岐峰の中に、いまだ許せぬ劉秀への憎しみがあった。それは、美君の胸中にも、廉劫の、牙比古の胸の中にも依然としてあるだろう。だからこそ、わかるのだ。遠比士がそこまでした理由が。かの人を焼いた憎しみが。

今、負けてはならぬものはその憎悪なのだ。その憎悪に焼かれ、比士の轍を踏むことは許されない。その憎悪をこそ、取り払わねばならない。己の掲げた理想を信じる者の為に。この国を守るために。

「布津、有難う。」

岐峰は、向かい来る風に立ち向かった。雨は、真っ向から岐峰をたたく。

「美君、一つ、頼みがある。」

「?」

「手を、握ってくれ。」

そっと、美君の手が岐峰の手に重なる。このぬくもりを、だれしもが失わないために。

 答えが、考えあぐねた答えが岐峰の心に形を作った。そして、そしてその答えを、憎しみの中散っていった、全ての同胞に詫びた。

 恨み事ならば、あの世でいくらでも聴く。父上、兄上、母上。岐峰はただ、心の中で呼び掛ける。雨は、その勢いを弱めようとはしなかった。



 風と豪雨をくぐりぬけ、比士を乗せた船は沖に止まった。棺が水夫によって抱えられ、海に静かに下ろされる。ゆるゆると沈む棺を誰もが見送っている。やがて沈みきった棺から、群衆皆が岐峰を見る。羅子が、筑紫が、廉劫が、牙比古が、答えを待つ眼差しを向けている。撥耶は、こちらを見ずにただ目を閉じ、答えを待っている。

 撥耶の傍らにある美君と目が合う。岐峰はその目に頷き、口を開いた。

「まずは、国の為の御柱となられた遠大夫に敬意を表する。」

シンと、一同が静まり次の言葉を待つ。

「我らはここに、平等の楽土を築くため立ち上がり、今まで戦ってきた。ここに集った皆は、生まれも、人種も違うものばかりだ。その全ての民が、今、この伊舎那を我が国と呼んでいる。私は、この国を愛おしく思う。この国の全ての命を愛おしく思う。それを守るためならば、仇敵に頭を下げることも厭わない。」

ザワと、一同がざわめく。

「ここに、伊舎那王、岐峰が宣言する。我ら伊舎那は、漢軍の到着に先んじて劉秀に面会し、朝貢を以て恭順を示す。」

ザワリと、暴発しかけた空気を、

「王の御言葉の途中ぞ。」

羅子の言葉が押さえた。

「この朝貢への副使として、遠家当主遠撥耶には同行してもらう。共に、劉秀に対し恭順の意を示してもらう。」

次に、遠家家臣団が、特に漢族側家臣団が戦いたが、撥耶がそれを抑えた。

「憎き劉秀に頭を下げることを以てして、遠家の罰とする。」

岐峰の言葉に、撥耶は岐峰を見返し、やがて返す。

「御意に。」

岐峰は、集まる伊舎那の民に投げ駆ける。

「皆、これをこそ戦いと思ってほしい。我らの楽土を、血を流さずに劉秀に認めさせる戦だ。剣を持ち、相手を殺すことの何倍も為し難く、相手と己の命で何かを購うことよりも何倍も成り難い戦だ。この戦に勝つために、皆の力をこの王に貸してくれ。」

静まりかえった民衆の中から、牙比古が進み出る。

「一支国帥家は、伊舎那王の英断を支持し、同盟国として協力する。」

王の横に帥王が並ぶ。それに従うように廉劫が二人に額づいた。

民衆全てがその光景を見、息をのむのを感じた。蓬莱全土をかけた“戦”が始まろうとしているのを誰もが感じ取っていた。

「皆、いいな。」

「御意に!」

岐峰の再びの呼び掛けに、集った伊舎那の民は声をそろえた。

岐峰は、撥耶を見る。撥耶もまた岐峰を見ていた。

あきらめない。伊舎那の民も遠家の民も。岐峰は、少しずつ勢いを弱めはじめた雨の向こうに、遥か彼方にあるであろう、劉秀の軍勢を睨んだ。



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