そらのそこのくに せかいのおわり 〈 vol,09 / Chapter 07 〉
暗闇の中で目を覚まし、飛び起きる。
何かを言うより早く、間近に感じた気配に手を伸ばし、引き寄せ、ベッドに押し倒すように抱きしめて――。
「おかえり、サマエルちゃん」
返事はない。
呆れたような吐息一つと、優しく髪を撫でる仕草。たったそれだけで、天使はいくつもの気持ちを伝えてくる。
ただいま。
いきなりなんだ?
苦しい、放せ。
利き手が無い状態のピーコックは左肩をトンと押され、そのままころんと仰向けにされる。サマエルは無防備なピーコックの胸に圧し掛かり、その胸の音を聞くように、そっと耳を寄せた。
「え? なになに? なんか今日、積極的すぎない? どうしたの?」
わざと軽い口調で冗談めかして言うが、分からないはずはない。
彼女は何かに怯えている。
人間よりもずっと強い天使が、いったい何を恐れるのか。内心首を傾げながら、ピーコックは黙ってサマエルの言葉を待った。
サマエルはピーコックの体に命があることを確かめるように、首筋や頬に顔を寄せ、ゆっくりと唇を這わせていく。
(……?)
なにかがおかしい。
いや、男女が深夜にベッドの上ですることとしては何もおかしくは無いのだが、相手は天使だ。このまま成り行きに任せて服を脱いではいけない気がするのだが――。
「あの……サマエルちゃん? さっきから、何してるのか聞いてみていい?」
ピーコックの真面目な問いに対する答えは、赤面しながらの平手打ちという、非常に破壊力のある一撃だった。
「え、ちょ、まってよ! その……まさか……今のって、手ぇ出して良かったの⁉」
右頬に続き、今度は左側にもう一発。
ピーコックの脳は大混乱していた。
押しても引いてもまったく相手にされないので、天使への身体的接触はNGなのだと思っていた。
しかし、一体どうした?
向こうから手を出してきた上に、雰囲気をぶち壊したことに対する制裁を受けているらしいぞ?
しかも赤面しながら怒るとはなんだ? 可愛すぎるだろ?
驚きのあまり硬直するピーコックの顔面に枕を押し当て、サマエルはいつも通り、女性としては低すぎるドスの利いた声で言う。
「このゴミクズめ。いつも通り、スケベ中年らしく本能全開にしていれば良いものを……なぜ今夜に限ってまともな反応を返すのだ……?」
「待ってってば。サマエルちゃん、創造主のところで何言われてきたの? 出て行くとき、『奇跡』がどうとかって言ってたよね?」
「ああ……やはり、主が神的存在と人間を組ませた理由は『奇跡』を起こすためであった。私がバンデットヴァイパーに宿されたのも、『奇跡』の発生確率を上げる目的があってのことだ……」
「その『奇跡』って、いったい何?」
「言葉で説明することは難しいが……『想定外の幸運』と呼び変えることは出来るかもしれん。マガツヒの発生が『想定外のトラブル』と呼ばれるマイナスの出来事ならば、『奇跡』はそれと対を成すプラスの出来事ということになる」
「奇跡の発生確率を上げる……ってことは、マイナスにプラスをぶつけてゼロにするために、カミサマたちは中央市に集められてるってこと?」
「そうだ。度重なる『想定外のトラブル』で、もうこの世界は正攻法では元の状態に戻せないところにまで来ている。だからこそ、今の状況をひっくり返す『奇跡』が必要なのだ。それは神や天使単独では起こすことはできない。信仰を寄せる人間と、その人間に加護を与える神的存在との間で『愛』が交わされた瞬間、その神や天使は主が想定した以上の能力、『奇跡の力』を発揮することが出来る」
「えーと……え? つまり、無敵モードになるためには俺とセックスする必要があるワケ⁉」
「いや、その……基準がよく分からないのだ。『愛を交わす』と言っても、色々あるだろうし……ツクヨミとセレンは性的な繋がりは持たずに、父と子のような愛を交わすことで『奇跡』を起こしているし、ボナ・デアとユヴェントゥスはハンクとキールに『美しい』とか『俺の女は世界一』とか言われただけで『奇跡』を起こしてしまったし……」
「だったら俺、毎日でも毎晩でもサマエルちゃんに『好き好き可愛いダイスキコール』してるよね? もう完全無欠の最強天使になっててもおかしくないんじゃない?」
「残念だが、お前にいくらそれらしいことを言われても力が高まるような感覚がない」
「ええぇーっ⁉ じゃあ、どうすればサマエルちゃん無敵モードになるの⁉」
「それが分からないのだ。地球で戦ったとき、お前は不純な気持ちを一切持たずに、心の底から『頑張れ』と言ってくれたな? それで私は新たな力を授かることが出来た。だからおそらく、お前が瀕死の重傷で余計なことを考える余裕がなければ、私にも『奇跡』が起こせるのだと思うが……」
「そうそう何度も死にかけたくないんだけどなぁ……?」
「だろう? 私だって、お前を守るために力を欲しているのに、お前が負傷したのでは……。だから、他の手段を試してみようと思ったのだが……その……もう、いい……」
顔面に枕を押し当てられたまま、しょぼんとしたサマエルの声を聞いて思った。
なるほど、口説く必要は無かったのか、と。
これまで相手にしてきた女たちの中に、まともな生活の者は誰一人いなかった。ダウンタウンのコールガールたちは騎士団員と寝ることで一斉摘発を逃れる術を知っている。時には自分から情報を売り込んできて、情報料の代わりに他の町に逃がしてほしいと懇願してきたりもする。
女が男に体を投げ出すのは、何らかの見返りを求めてのこと。ピーコックの頭には、それが『当たり前』のこととして刷り込まれていた。だからこちらから口説くときも、相手をおだてて警戒心を薄れさせてから、自分と関係を持てばメリットがある事をそれとなくにおわせていくものなのだが――。
(……いや、反則だろ? この見た目で、処女で純愛でツンデレって……)
見返りを求めない純粋な『愛』を寄せられても、それに応える術を知らない。同じ種類の『愛』を返すには、自分の心は穢れすぎている。
彼女が全力を出せない原因は、やはり自分のほうにあるらしい。
そう自覚した瞬間、ピーコックは、自分が酷くちっぽけな存在に思えた。
(……あーあ。カッコ悪。女の子にこんだけ思い切ったことさせてんのに、ビビッて手も出せないオジサンって……)
ピーコックは左手を動かし、枕を掴むサマエルの手を捕まえる。
だが、それだけだ。それ以上のことはしないし、自分にはその資格が無いのだと理解している。
「……? ピーコック?」
「ごめんね、サマエルちゃん。俺には少し、難しすぎる試練かもしれない」
「試練?」
「人間は臆病なんだよ。天使よりも、ずっと」
「……そんなことはないだろう? 私が……右腕が無くても、お前は勇敢に戦える。お前は人間として、十分に強いと思うが……?」
「うん……そう。そのつもりだったんだけどなぁ……」
顔に押し当てられた枕を動かせないように、サマエルの手をしっかりと捕まえたまま。
ピーコックは泣いた。
嗚咽を噛み殺し、涙も見せず、わずかに肩を震わせて。
「……」
天使は何も語らず、そっと男の傍らに寄り添う。男が何を悲しんでいるのか、それすら分からぬまま、優しさだけでそこにいる。確かに愛しあっているはずなのに、互いの気持ちは通じない。その理由を理解できるのは、汚れ切った心を自覚している人間だけなのだ。
(……どうすれば、天使と……)
世界で一番純粋な心を持つ存在と欲と打算にまみれた人間が、本当の意味で愛しあうことなどできるのだろうか。親愛や友愛と呼ばれる『愛』ならば、いくらでも交わすことが出来るだろうが――。
(……ああ、そうか……だから二階堂は……)
天使を愛してしまった先人の行動が、今のピーコックには痛いくらい理解できた。
彼が歴史を書き換えて消そうとしていたのは、嫌いな人間でも、不都合な出来事でもない。
(……きっと、それは……)
通じない気持ちも交わせない愛も、何も感じることがないように。感じることが出来ないように。『自分』という存在を、この世界のどこからも綺麗さっぱり消し去ってしまいたかったのだとしたら――。
(……でも、天使が守護対象の『自殺』を許すはずが無い。辛くても、逃げ出したくても、二階堂の隣には必ずサハリエルがいたのなら……)
あくまでも仮定だが、と脳内で前置きして、ピーコックは考える。
二階堂はサハリエルを愛していた。サハリエルも二階堂を愛していた。それは疑いようのない事実であり、すべての出来事の『大前提』として据えることができる。
けれどその『愛』が自分たちと同じく『性愛』であったのなら、二人の思いが高まるほど、二階堂はより深い溝を感じることになったのではなかろうか。性欲の捌け口にするには、天使という存在は清らかすぎる。自身の心と体の醜さや、自分はいつか老いて死ぬ人間であるということ。そんな根本的なことに耐えきれなくなった時、二階堂は死を望んだ。けれども天使は守護対象の自殺を容認しない。二階堂が己の醜さを恥じ、嫌い、自身を責めれば責めるほど、天使はより献身的に、清い心で二階堂を励まし、支えようとしたのだろう。
おそらくそれは、世界で最も過酷な試練であり――。
(なるほど。だから、堕としたのか……)
二階堂は与えられた『役割』をあえて全うせず、徐々にサハリエルの力を弱め、最終的には堕天させ、創造主の元へ送り返した。そうすることで、ようやく天使を愛する苦しみから救われたのかもしれない。だが、問題はその先だ。天使が人間の心を正確に理解できていなかったのだとしたら、その上に君臨する創造主は、天使以上に人間の悩みを理解できなかったのではあるまいか。
「……サマエルちゃん、一つ、聞かせてもらっていい?」
「なんだ?」
「創造主は、俺たちになにか言っていた? これからなにをしろとか、やり方がどうとか……そういう類のことを」
「いいや。主は、何も御言葉をくださらなかった。『其方らに判断を委ねる』とだけ……」
「……委ねる、か……」
同じ立場の其方にならば分かるだろう?
そんな創造主の声が聞こえるようで、無性にイラついた。
ピーコックは呼吸を整え、気持ちを落ち着ける。
自分が今、どれだけ情けない顔をしているかは分からない。それでも今は、しっかりと顔を見せて、これだけは言わねばならないと思った。
顔に押し付けられた枕を退けて、体を起こしてサマエルを見つめ、たった一言を絞り出す。
「……君を守るよ。絶対に……」
「ピーコック……?」
そう、同じ立場だから分かるのだ。ニカイドウカイジという男がいかに真面目で、真剣で、考え過ぎた挙句に迷い込んだ先が最低最悪な結論であったということが。
だが、しかし。
自分は違うという自信がある。
真面目?
真剣?
考え過ぎも心の迷子も、自分のキャラには似合わない。
道化の顔でニヤリと笑い、天使を抱き寄せキスをする。
不意を突かれて慌てる女の押さえ方なんて、いちいち考える必要もない。腕の中に抱きすくめ、体格差にものを言わせて体の下に組み敷いてしまえばいい。
慣れた手つきで頬を撫で、顔にかかった髪を払うついでに、自分の小指を女の顎の下に回す。強く抑える必要はない。片手で頬と耳の付け根、下顎を包み込むように持つだけで、どれだけ女が恥じらおうと、もう顔を背けることは出来なくなる。
「あ……そ、その……ピーコック……? 何を……」
こちらは片手。しかも利き手が無い状態。頬に添えた左手以外、体のどこも拘束していない。無理強いするつもりが無いことは分かっているのだろうが、サマエルにはこういった状況での経験値が無い。
瞳を震わせ、身をすくめて『その先』を待つ無垢な乙女。そんな相手にこれ以上何かできるほど、初心で我武者羅な少年ではないのだ。大人の余裕たっぷりに、適当に茶化して笑ってみせる。
「そんなに怖がられたら、オジサンなんにもできないってば。ホントに可愛いよね、サマエルちゃんって」
「こ……このっ!」
赤面した彼女に平手打ちを食らうのも、それから大袈裟に痛がってみせるのも、何から何まで道化の顔で。計算されつくした『完璧な笑み』でも、天使を騙すことなどできないだろう。それでも彼にはこれしかない。
ベイカーのように不敵に笑うことは出来ない。
マルコのように素直な心で微笑むことも出来ない。
ロドニーのように無邪気に笑うことも、ゴヤのようにゆるいテンションでへらへらしていることも出来やしない。
道化の笑みで素顔を隠し、無い無い尽くしで空っぽの自分をどうにかこうにか見栄え良く飾り立てて、それでようやく『人並み』なのだ。彼女もそれを知っている。虚勢を張って自分を強く見せねば生き抜いてこられなかった男のすべてを、その体の一部として、誰より間近で見つめてきたのだから。
「……馬鹿……」
たった一言呟いて、天使は姿を消した。
元通りになった自分の右腕を見て、ピーコックは声を立てずに静かに笑う。
とんでもない『役割』を与えられたものだと思った。何一つ恵まれず生まれ育った男が、今さらこんな、大それたプレゼントをもらってしまったのだ。これではもう、とにかく笑って突き進むしかないではないか。
「……おやすみ、サマエルちゃん……」
ベッドに潜って目を閉じて、明日のことを考える。
今日より明日が、少しでも良い日になれば――と。