そらのそこのくに せかいのおわり 〈 vol,09 / Chapter 05 〉
ふと顔を上げると、水に濡れた自分の顔があった。
「……?」
使い込まれた古臭い洗面台、騎士団支給の使い心地の悪い歯ブラシ、安っぽいミント香料の歯磨き粉と、洗面台横のハンガーに掛けられたフェイスタオル。
見覚えはある。どれもこれも、毎日欠かさず使っている日用品ばかりだ。
「……あれ……?」
振り向けば、そこにあるのは見慣れた自分の部屋である。
「……俺は……? 今、何をしていた……?」
壁掛け時計は朝五時四十五分を指している。顔を洗って、制服に着替えて、六時の点呼に間に合うように一階に降りて――そう、いつも通り、そうしようとしていたはずだ。
大急ぎで顔を拭き、クローゼットから制服を引っ張り出して袖を通す。
「ん?」
袖口からひらりと舞い落ちた淡紅色の花弁に、ほんの一瞬首を傾げる。
「……あ、そうか。これは昨日の……」
――昨日? それは本当に昨日の出来事か?
心のどこかでそう思う気持ちを『気のせい』の一言で片づけて、昨日のことを思い出す。
この花弁は王立高校の校門脇に咲く『幽霊桜』のものである。一世紀以上前からその場所に存在するものの、誰がいつ植えたのかも、どこから運ばれてきたのかも分からない。いつの間にか校門横に生えていて、当たり前のように花を咲かせる地球産の桜の巨木。俺は昨日、その桜の下を通った。何をしに行ったのかと言えば、卒業式を見るためだ。
昨日はガルボナードの卒業式だった。基本的には身内以外入れないのだが、特務部隊員としての権限をここぞとばかりに乱用し、かなり強引に席を設けてもらった。
自分に男兄弟がいないせいだろうか。ガルボナードに「お兄ちゃん」と呼ばれると弟が出来たような気になって、ついつい世話を焼きたくなってしまう。ガルボナードのほうも自分に対して遠慮なくわがままを言ってくれるし、何でも本音で話してくれる。おそらく他者から見ても、『本物以上に本物』の兄弟であると思う。
しかし、そんなガルボナードもついに高校卒業だ。これからは独り立ちした男として、一人でも立派に生きていけ――そう言いに行ったはずだったのだが。
「……我ながら、情けない……」
思い出すだけで赤面してしまう。卒業式のラストを飾る全員での校歌斉唱。その時点で自分の涙腺は限界を迎えていた。いや、自分だけではない。両隣にいたKKコンビ、ケイン・バアルとケント・スターライトも、止め処なく流れる涙と鼻水で顔面崩壊を起こしていた。
特務部隊員三人が号泣しながら送り出した卒業生、ガルボナード・ゴヤ。彼のほうも、これがなかなかにひどい有り様だった。
「おにいちゃ~ん! 俺、卒業できたよぉ~!」
幼児のように泣きながら喋るせいで、すべての音に濁音がつく。胸を張って堂々と花道を歩くいかにも新米騎士らしい卒業生たちの中で、これはあまりに恥ずかしい。正直な話、これ以上ないくらいクソ恥ずかしい黒歴史であるはずなのだが、なにしろこちらは彼が保護された現場からの付き合いだ。あの『今にも死にそうな子供』がよくぞここまで頑張ってくれたものだと、ただただ感動してしまった。
しかし、この一件によって彼は余計な注目を浴び、『特務部隊員がわざわざ卒業式を見に来るほどの新人』としてマークされたようだ。式の直後から各部隊の隊長、副隊長たちがガルボナードの素性を調べて回っているらしい。
「……ついにバレたな……ガル坊……」
これまでひた隠しにしてきた事実。それはガルボナード・ゴヤが騎士団長クリストファー・ホーネットの息子であるということだ。『ホーネット』という姓を名乗っていないのは、彼が引き取られた状況が非常に特殊であったことに起因する。彼は団長の愛人の子や前妻の子というわけではなく、とある事件の唯一の生存者なのだ。
「……本当に……よく、ここまで育ってくれたよ、ガル坊……」
それは思い出すだけで、心底胸糞悪くなる事件である。
その日、その農村は人身売買組織の標的にされた。村に小学校はなく、小作人たちが畑に出ている間、村長が自宅で子供たちを預かって読み書きを教えていた。そこに武装集団がやってきて、大人は一人残らず惨殺。若い女と子供たちはほぼ全員連れ去られた。見せしめのためか、ただ性的欲求を満たすためだったのか、幾人かの子供は特にむごたらしい方法で辱められた後、天井から逆さ吊りにされ、その状態で衰弱死していた。
ガルボナードはそこにいた。
その日、たまたま病気にかかって寝込んでいたらしい。彼が寝かされていたのは村長宅の客間のベッド。武装した男たちはその隣のもう一台のベッドで、ガルボナードの見ている目の前で、子供たちを次々と強姦し、逆さ吊りにしていったのだ。
ガルボナードが子供なりに、必死に脱出を試みたことは分かった。しかし発見されたとき、彼の両足はベッドの脚に繋がれていて、ベッドから離れることは出来ない状態だった。子供の力では自分の足の拘束を解くことすらできず、衰弱して死んでいく仲間たちをただ眺めることしかできなかったようだ。
そんな状況に置かれて丸四日以上。彼は約百時間もの間、水も食糧も与えられない状態で強姦殺人の現場に取り残されていた。集落の全員が殺されていたせいで、事件の発覚が遅れたのだ。騎士団が現場に駆け付けたときには、ガルボナードは完全に発狂していた。
彼は保護される以前の記憶を完全に失っている。自分の名前どころか、言葉すら忘れていた。まるで獣か赤ん坊のような状態から少しずつ時間をかけて、ようやく人間らしい言葉と生活を取り戻したのだ。
「……だが……いや、しかし、いまさらだよな……」
本人が発狂していて、他に生存者もいない。子供たちの面倒を見ていた女たちは残らず誘拐されているし、一緒に読み書きを教わっていた子供たちも闇ルートで国外に連れ出されてしまったらしく、誰一人発見されていない。そんな状態で彼の名前をどうやって調べたかといえば、教師役を務めていた村長の日記の記述を参考にしたのだ。前日の夜に書かれた日記には、『ガルボナードはただの風邪ではないようだ。明日も熱が引かないようなら、街の病院まで連れて行かなければ』と書かれていた。それから登記簿を確認したら、確かにこの村には『ガルボナード』という子供がいた。年齢も保護された子供の体格と一致したため、『この子がガルボナード・ゴヤだろう』と推定されたのだが――。
「……本当の名前……か……」
その後の調査で、本物の『ガルボナード』は逆さ吊りにされていた子供のほうだと判明している。村長の日記に『ガルボナード』が大怪我をした記述があり、死体に残っていた古い傷跡と場所や大きさが一致したのだ。しかし、それなら自分が『ガルボナード』と呼んでいる彼は、いったいどこの誰だというのか。連れ去られた子供が多すぎて、登記簿上にある同年代の子供の名前すべてが『本当の名前候補』なのだ。どこからどう絞り込んだらよいものか、皆目見当がつかない。
「……本当の名前を呼ばれたら、昔の記憶が戻ったりするのか……? 思い出させてやるべき……なのか?」
なぜそんなことを考えるのだろう。彼はもう『ガルボナード・ゴヤ』として、一人の人間として、自分の人生を歩んでいるのだ。いまさら過去の話をして、忌まわしい記憶に囚われることなど何の意味もない。彼の名前が『彼のものではない』と教えることは、彼をいたずらに苦しめることでしかなく――。
「……俺だって、本名なんて滅多に呼ばれなくなったしな……」
あれ? と思った。
自分が袖を通した制服に目をやって、妙な違和感を覚える。
白地に金刺繍が施された特務部隊の制服。毎日これを着て、旧本部の黴臭い特務部隊オフィスで仕事をして――。
(旧本部? 何を言っているんだ? 騎士団本部に『旧』なんてないだろう……?)
毎日毎日、自分のデスクには両隣から大量の書類がはみ出し、崩れ落ちてくるのだ。ピーコックとラピスラズリは昔からそういうところはだらしない連中で――。
(ピーコック? ラピスラズリ? 誰だ? そんな名前のやつら、うちの隊にはいないだろう? 両隣はケイン・バアルとケント・スターライトで……?)
なにかがおかしい。
そう感じた俺は、上着のポケットから手帳を取り出し、今日の日付を確認する。
「……え?」
552年7月28日。
ブックマークが挟まれたページには、確かにそう書かれている。
「なんだ? なんで……いや、だって、今日は卒業式の翌日で……547年の3月20日じゃあ……?」
驚いて顔を上げると、そこはもう自分の部屋ではなかった。
自分の着ている服も、黒字に金刺繍が施された情報部の制服になっていた。
「……これは……夢、なのか……?」
自分がいるのは子供部屋だった。青空がプリントされた壁紙と、ポップな花畑柄の絨毯。小さな学習机と、絵本が並んだ白い本棚。部屋の隅には、動物や昆虫のぬいぐるみが転がっている。
「……ガル坊の部屋……だよな? 団長に引き取られて、間もないころの……」
振り向けば、記憶にある通り小さなベッドが置かれている。ガルボナードが大好きなクワガタムシの柄の、奥さんの手製の上掛け。頭まですっぽりと布団を被って眠るガルボナードは、今日もいつも通り壁のほうを向いて、右手の先のほうだけを布団から出していて――。
「……ガル坊?」
そんなはずはない。
彼はもう大人になった。
高校卒業後は騎士団に入団し、南部治安維持部隊で立派に務めを果たし、難しい試験をパスして特務部隊に昇進して――優秀すぎる仲間たちに追いつくために、自分の左腕を切断し、寄生型武器を移植した。もう『小さくて可愛いガル坊』は、この世のどこにもいない。
「……そうか。ここは、俺の『心の世界』なんだな……?」
納得すると同時に、何もかも思い出した。このベッドで眠る子供の正体も、自分がなぜ『彼』の憑代になったのかも。
「……おはよう、ガル坊。ごめんな、ずっと一人ぼっちにさせて……」
声を掛けると、布団がもぞもぞと動いた。しかし、返事はない。
「俺はお兄ちゃん失格だな。レクターが消えてから、二年もガル坊を忘れていたなんて……」
布団はもう一度動く。中で寝返りを打って、こちらを向いたらしい。
「ごめん……本当にごめんな。でも、思い出したよ。俺はあの日……」
発見した子供は既に意識が無く、静かに命を終えようとしていた。それでも一応は治癒魔法をかけたのだが、丸四日間の絶食で、子供の体力は限界を迎えていた。
この子供を救うことは出来ない。
そう思って手を止めた瞬間、この『神』が現れ、自分にこう言ったのだ。
「お願いだよ……諦めないで。僕の『器』を助けて。僕の残りの力を、全部君にあげるから……」
そうして自分は神の憑代になった。最初で最後、一度限りの奇跡をその場で使って、死にかけていた子供を助けて――神も自分も、それきり何もできなくなった。
おそらく自分は今、歴史上最弱の『神の憑代』なのだろう。すべての力を失ったこの子供を、ずっと心の中に保護し続けている。ベッドから起き上がることも出来ない、口を利くことも出来ない『神だった者』を守り続けるだけの憑代。自分は別に、それでも構わないと思っていたのだが――。
「……なあ、ガル坊。俺はずっとお前をガル坊って呼んできたが……お前の、本当の名前は何だったんだ? 口がきけなくても、自力で寝返りが打てるなら、文字くらいは書けるだろう? 本当に今さらだとは思うが……お前の名前を教えてくれないか?」
学習机の引き出しから鉛筆と落書き帳を取り出し、ベッドの隅にそっと置く。すると布団の隙間から小さな手が出てきて、鉛筆を掴んで何かを記し始める。
「……? アウス……? いや、違うか。これ、うちの国の綴りじゃないよな? ええと、地球の言語だとしたら……アッシュ……うん? 違うのか? アッシュじゃなくて……アシュール……でもない? としたら……アシュ……ラ? アシュラか? お前、アシュラって言うのか?」
アシュラとやらは、小さな手で親指を立ててみせる。そして、それからこちらを指差した。
「……なんだ?」
アシュラはもう一度こちらを指差してみせる。
「……俺の名前か? 前にも名乗っただろう? ランディ・ヤンだ」
そう答えると、アシュラはグイッと手を伸ばして上着の裾を掴んできた。
俺は思わず「あっ」と声をあげた。今着ているのは情報部の制服。彼が聞きたいのは『特務部隊員だったころの名前』ではなく、『今』の名前のほうなのだ。
「……なるほど。さっきまで見せられていた夢は、お前からのメッセージか……」
すべての思い出は『過去』のもの。この神はこの神なりに、過去に囚われることをやめて『未来』に歩みだそうとしているらしい。
「……今の名前、か……」
かすかに震える小さな手から、不安と恐れを感じる。自分の決断が正しいかどうか分からないのだろう。だが、ガルボナードは既にルシファーという天使の憑代になってしまった。どんなに望んでも、この神はもう元の『器』に戻ることは出来ない。
「……まあ、俺のほうは構わないが……お前は本当にそれでいいのか? 本当に、俺でいいんだな?」
小さな神は、裾を掴む手にさらに力を込めた。
「……分かった。俺の名前は……」
一瞬躊躇って苦笑する。
まさかこんな名前を、神に向かって名乗ることになろうとは。
「俺の名前はシアン。このコードネームの意味は『手軽な致死毒』。シアン化合物なら、どんなに非力な女子供でも確実に標的を殺せる。今のお前にぴったりな毒物だとは思うが、使い方を間違えば自滅する。アシュラ、お前に俺を使いこなす自信はあるか?」
訊ねてから十秒少々。アシュラは手を放さない。意志は固いようだ。
「……だったらアシュラ、一緒に行こう。こんな狭い部屋で、いつまでも寝込んでいても楽しくないだろう?」
アシュラは布団の中でもぞもぞと動き、それからおずおずと顔を出した。はじめて会ったあの日と全く変わらない姿の神は、布団から両腕を伸ばしてくる。
自力で歩けない神を抱き上げて、俺は子供部屋の扉を開けた。部屋の外は光に溢れた純白の世界で、俺はそこで創造主とやらの声を聞いたのだが――。
「シアン、アシュラ。其方ら二人に役割を与えよう。其方らの『役割』は……」
「知るか糞野郎。俺にはやるべきことがある。さっさと元の場所に戻せ」
「……困ったものだ。其方らが、あの状況を打開する最後の希望であるというのに……」
「役割なんて聞いても聞かなくても、やることは同じだ。俺は元の場所に戻って、マガツヒになったロドニーをぶん殴って正気に戻す。それからみんなにレクターを思い出させて、ヤツを復活させる。全員助けて、全員で『未来』へ進む。それ以外のことをする気はない」
「……なるほど。確かに其方は『最強戦力』だ。ここまで手助けを必要とされないと、創造主としての立場が無いのだが……」
「貴様の立場など知るか。早くあの場所に戻せ」
「相分かった。では、せめて其方に祝福を与えさせてくれ。其方と其方の内にある幼き神に、恵みの光を……」
拒否することは出来なかった。こちらが何か言うより先に、創造主は俺たちの体に何かをした。そしてそのまま、眩しい光に包まれて――。
ハッと顔を上げると、セトがびっくりしたような顔で手を引っ込めた。
腕時計に目をやると、時間は五秒も経過していない。
「……創造主め。俺に何をしやがった……」
抱きかかえていたアシュラはいない。けれども気配は感じる。自分の中に確かに存在していることも、この神と自分に『何ができるか』も分かっている。
俺は立ち上がり、マガツヒと化したロドニーへと駆け出す。
「あ、ちょ……ランディ⁉」
レタスの神には申し訳ないが、説明している余裕はない。俺は走りながらアシュラの能力『分身』を使い、仲間たちの元へと向かわせた。
一体はピーコックとナイルのところへ。
「二人とも! 無事か⁉」
レクターに対して攻撃をしないよう、セトが二人を拘束したようだ。防鳥ネットと農業用ビニールシートでぐるぐる巻きにされた二人は闇の毒素の影響で思考力が鈍っている。ただの網とビニールで物理的にくるまれているだけなのに、魔法を使って切断するという選択肢が思い浮かばなかったようだ。
拘束を解いて《呪霊清浄符》で浄化してやると、二人は俺の『分身』を見て絶叫した。
「シアン⁉」
「なんかちっちゃいよ⁉」
そう、小さいのだ。本体は元通りの姿なのだが、分身のほうはアシュラの外見年齢と同年代、十歳くらいの子供の姿になっている。どういうわけか情報部の制服まで子供服サイズで再現されているのが、地味に神がかり的な力を感じさせなくもない。
「詳しい事情は後で説明する。ザックリと概要だけ話すと、実は俺にも神が憑いていた。今この姿はその神の力によるものだ」
「神って……本当に⁉」
「ショタ変身する能力の神って何⁉ 変態のオジサンに誘拐されそうな見た目になってるけど何の役に立つのその能力! ちょ、ちょちょちょ、ちょおぉ~っと触ってみてもイイかなぁ~⁉ ほほほ本当に体も子供になってるのか、確認させてもらいたいんだけどぉ~⁉」
「おいやめろナイル! むしろお前が変態のオジサンだ! 絵面がヤバい!」
「部隊内恋愛は禁止だけど部隊内児童買春は禁止されてないから大丈夫だよ!」
「本当に落ち着けお前! 禁止されるわけないだろそんなモン! 目を覚ませ! 情報部には独身中年男しかいないんだぞ! 見た目だけ可愛くなっても中身は中年だ! オッサンの体触って嬉しいか⁉」
「俺は嬉しい!」
「うっわエンガチョ!」
闇の毒素とはかくも恐ろしいものなのか。『手品師ナイル』と『情報部エース』が、揃いも揃ってただの馬鹿になっている。
激しいめまいを覚えながらも俺は簡単に事情を説明し、レクター・メリルラントが敵ではないことを二人に理解させた。ナイルは俺を犬か猫のように抱き上げて延々と頬ずりをしていたが、それでも一応は話を聞いている様子だったので、適当にスルーしておくことにした。
こちらと同時進行で、もう一体の『分身』は王子のところへ行っていた。王子は体に異変を感じた瞬間ただちにサラとの接続を切り、玄武に助けを求めたようだ。玄武は防壁を張ってマルコの体を守りながら、蛇の姿の二本の尾を使ってマルコから毒を吸い出していた。
「その尻尾、もしかしてバンデットヴァイパーと同じことが出来るのか?」
「うん、一応。でもボク、動くの遅いからほとんど役に立たなくて……」
「確かに、走り回っている闇堕ち相手には使えそうにないな」
「それより君、どうしちゃったの? なんか縮んでない? 気のせい?」
「気のせいではないのだが、今は面倒だからあとで話す。お前、このまま王子を守っていられるか? このあたりにも黒い霧が流れてくると思うのだが……」
「ぜ~んぜん大丈夫だよ! シアン、頑張ってね!」
「ありがとう。お前もな」
玄武がいれば大丈夫。俺はそう判断し、そのままガルボナードのほうへ向かった。
ガルボナードは草の茂みに身を隠していた。左腕はなく、代わりに傍らには天使ルシファーがいる。
「大丈夫か⁉」
「はい! スンマセン! 瘴気が濃すぎて、自分の周りに結界張るだけでいっぱいいっぱいでした! つーかシアンさん、若干小さくないッスか?」
「諸事情だ。気にするな」
「はい、諸事情ッスね!」
本当に気にしないのもどうかと思うが、うちのガル坊は昔からこんなものだ。『え? マジでスルーしちゃうんだ?』という顔をしている大天使には申し訳ないが、気にせず話を進めさせてもらう。
ザックリとした説明で、ガルボナードとルシファーは自分たちの役回りを理解してくれた。
「なるほど。あの男に憑いていたのはセトだったか。はじめからツチブタ顔で出てきてくれれば一目で分かったものを……」
「クワファーさん、知り合いッスか?」
「ああ。かなり古い時代に神殿の落成パーティーに呼んでもらったことがある。彼は焼肉をレタスで巻いて食べることを人類に教えた神だ」
「マジっすか! あれウマいッスよね! セトさんマジやべえ神じゃないッスか!」
「あー……やはり君には、このくらいの説明がちょうど良いのだね……」
「え? 何がッスか?」
「いや、すまない、こちらの話だ。それで、シアン君。私はセトを知っている。彼と世界の繋がりを取り戻せば、器のほうも連鎖的に復活できるはずだ。何しろ、神のほうが存在の大きさは上だからね。彼らのことは、こちらに任せてくれないか?」
「ありがとう。正直、俺一人では荷が重いと思っていた。俺の中にいる神のことを思い出してよく分かったんだ。一度消えた人間を取り戻すには、思い出だけでは足りない。その人間と一緒に『明日』に向かおうと思えなくては、この先の世界とつながることは出来ないのだと思う。ただ、それは俺とレクターの関係では絶対に不可能なことなんだ」
「ということは、仲が悪いのかな?」
「ああ、最悪だ。最悪すぎて、どうしてこれまで忘れていたのか分からない」
「それは大変だ。天使として仲裁すべきかな?」
「いや、結構。仲良くしたい要素が何もない」
「そこまで嫌うとは、よほどの理由が……?」
「ガルボナードが思い出せば、おのずと知れることだ」
「ま、それもそうか。ところで、君の中にいる神というのは誰だい? 分身能力があって異界送りになっている神なんて、数えるほどしかいないはずだが……?」
「アシュラと名乗っていた。それ以上のことは何も聞いていない。じゃあな。セトのことは頼んだぞ」
それだけ言って俺はその場を立ち去った。だからこれ以降のやり取りは、後でガルボナードに聞いたことなのだが――。
「……彼はいったい何者だ? まさか、あの阿修羅を手懐ける人間が現れるとは……」
「あれ? クワファーさん、そっちもお知り合いッスか?」
「知り合いというか……まあ、東のアシュラ、西のルシファー……みたいな? 堕天している時、私も彼も、ちょっと破目を外し過ぎてて……東西魔王対決と称して何度かタイマンを張った感じで……」
「もしかして、若いころのヤンチャ話ッスか?」
「不良高校生風に表現すると、そうなる」
「マジっすか! ヤベエっすね! え? やっぱリーゼントと剃り込みッスか⁉ 古き良き番長スタイルってそーゆーのッスよね⁉」
「う~ん……君が思う『古い時代』より、何ミレニアム分昔の話だったかな……?」
「そのころのヤンキーって短ランにボンタンじゃなかったんスか⁉」
「いや、私たち、背中に翼とか腕六本とか、そういう感じのルックスだからね? しいて言うなら、聖衣を着崩した臍出しファッションとド派手メイクが流行したかなぁ? 今度やって見せようか? リアル堕天使ファッション、君もどうだい?」
「マジっすか? あざっす! めっちゃ面白そうッスね!」
――というやり取りがあったようなので、どうやら俺の中にいる神は、かつて相当なことをやらかして、それを理由に異界送りにされたらしい。今は改心しているようなので、俺としては特に気にする必要も無いと思っているのだが。
ともあれ、俺はアシュラの能力で分身したまま、マガツヒと交戦中のレクターと合流した。
「久しぶりだな、レクター。ゾンビのくせに元気そうで何よりだ」
「ランディ! 俺のこと、思い出してくれたのか⁉」
「一応な。他の連中は思い出していないようだが、お前が敵でないことは納得させた。あと、以前から何度も言っているが、俺の今の名前はシアンだ。本名で呼ぶな」
「うん、わかったよランディ! あ、ごめん! シアン!」
「気にするな、今さらお前に何の期待もしない。《疾風》!」
魔法で突風を生み出し、常に『追い風』となるよう維持する。ガスマスクも持っているが、マガツヒの瘴気に対する浄化性能は期待できない。臭い物に蓋が出来ないなら、常に風上に立つしかない。
「行くぞ!」
「言われなくても!」
レクターの闇ゴーレムも、俺の動きに合わせるようにマガツヒに飛び掛かる。分身一体につき二体の闇ゴーレムが付き、それぞれの死角をカバーするように動く。
特務部隊式のトライセル・ユニット。かつて同じ部隊の仲間として何度も練習した足運びに、気持ちも動作も、自然とあの頃に戻っていく。
「コウロク!」
「ヨンハチ!」
符丁で互いの行動を確認し合う。
闇を操って足場を作り、マガツヒの背後高度六メートルへと駆け上がるレクター。俺は分身した二体をマガツヒを中心に四時と八時の方向に配した。
マガツヒから見れば真正面に俺、その両側に俺よりも攻撃しやすそうな小さな分身たちが見える配置だ。左右のどちらの『子供』を狙おうにも俺が邪魔だし、俺を狙えば両側から挟撃される。そして背面仰角という一番攻撃し辛い位置にレクターだ。それぞれに二体ずつの闇ゴーレムが付き、全員が少しずつタイミングをずらして《衝撃波》や《雷火》を放っている。
「ウウウゥゥゥ……ガアアアァァァーッ!」
スズメバチの攻撃の如く、どれを払い除けようとしても別の角度からの攻撃を食らう。一人に集中できないせいで、マガツヒの攻撃は威力も命中率もガタ落ちだった。
そもそも闇の衝撃波と黒い刃、力任せの肉弾戦しか仕掛けてこない敵だと分かっている。そんな単調な攻撃パターンの獲物に俺たちが遅れを取ることなどありえない。
「コウロク維持! 転換!」
「サンキュウ!」
レクターが高度を維持したまま前進、マガツヒの頭上前方に位置取る。
視界に入った鬱陶しい虫けらを追い払おうと、マガツヒが視線を上に向けた。俺はそのタイミングで分身たちを三時と九時の方向、つまりはマガツヒを完全に挟み込む位置に移動させた。
「総砲火!」
レクターの声を合図に、全員で同時に使用魔法を変える。レクターは《雷霆》の超高速連射、俺と分身たちは《真空刃》の乱れ撃ち。《雷火》と《衝撃波》への防御動作を学習しつつあったマガツヒはこの変化に対応しきれず、感電しながら斬り刻まれた。
しかし、いまいち手ごたえがない。
(やはりこいつ、通常攻撃では致命傷にならないのか?)
ガルボナードから聞いた話では、以前戦ったときには王子とサラ、それと聖戦士とかいう人間たちの力を合わせ、『光の大洪水』を起こして周囲の環境ごと浄化したらしい。だが、今ここにそれだけの『光』はない。サラは闇の毒素でフリーズしているし、それを預けたラピスラズリも今どこにいるのか分からない。他に使えそうな手を探す必要がある。
(しくじったな。王子が気絶しているなら、王子の銃を借りてくるんだった……)
神の光でなく人工的な光でも『闇』や『瘴気』を薄めることは出来ると聞いている。魔導式短銃で《照明弾》を撃てば、多少はこの場の瘴気を弱められたかもしれないのだが――。
(いや、駄目だ。決定打にはならないな。もっと違う手は……)
考えながらも再びフォーメーションを変える。基本の位置は俺とレクターがマガツヒの前方の足元と頭上、分身たちが後方二時と十時の位置。前方からの攻撃に備えれば後方ががら空きになり、全方位にまんべんなく闇の衝撃波を乱射すれば一方向あたりの弾幕は薄くなる。
俺とレクターは次の移動のタイミングを計る。
(まだだ……まだ……)
もう少し待てば、必ずどこかに『穴』が開く。そこに火力を集中させれば、今以上の大打撃を与えられると踏んだ。
しかし、状況はそれほど甘くなかったようだ。
「……っ⁉」
マガツヒが踏み荒らした地面に、土でも芝生でもないものが見えた。いや、本当は最初から見えていたのだ。ここにはレクター以外に五十五体もの『無敵ゾンビ』がいる。自立意思を持たない彼らはマガツヒに踏みつけられ、土にまみれてその辺に転がっていた。だから俺もレクターも、土の中から人間の腕や顔の一部が見えていても、まったく気にせずにいたのだが――。
「ランディ! 今足元に……っ!」
「分かっている! しばらく引き付けてくれ!」
二人同時に気付いたものとは、意識を失って倒れているラピスラズリの存在である。彼は『無敵ゾンビ』たちと違い、それほど高度な防御魔法を使っていない。マガツヒに踏みつけられてはひとたまりもないだろう。
空中にいるレクターが囮に、俺がラピスラズリの回収役に。妥当な配役に落ち着いたものの、いざ助けに行こうと思っても、なかなかそこに近付けない。
「チッ! 瘴気が……っ!」
マガツヒに近付けば闇の毒素をダイレクトに浴びることになる。生憎、今この場にそれを防ぎきれるような装備はない。
「レクター! 場所を変えよう! こいつを誘導してくれ!」
「いや、それはできない!」
「なぜだ⁉」
「セトから聞かなかったか⁉ 世界の歪が限界に達して空間がねじ切れているのは、まさにこの場所なんだ! 俺はその裂け目から溢れ出した闇を吸って『無敵ゾンビ』をやっている! 今この場所を離れたら、俺はただの死体に戻る!」
「な……前半部分しか聞いてないぞ!」
「セトのやつ、一番肝心なところを!」
「クソ! それなら……ん? いや、待てよ? ここが裂け目なら……」
俺はセトの話を思い出し、その内容について考える。
レクターはアスターを救うため、代わりに自分が死ぬ事を選んだ。その決断だけでも十分大それたことだというのに、こいつは自分に神が憑いていることを逆手に取り、その他大勢を巻き込んで世界の均衡を徹底的に崩しにかかった。身元不明遺体に特殊な保存用魔法が使われることも、他の神の器たちと一緒にこの墓地に合葬されることも、何もかも計算ずくでこの状況を作り上げたのだ。なんて出鱈目なことをやらかすのだと呆れる反面、懐かしくも思う。
これでこそ最強の三バカ暴走野郎、メリルラント兄弟のあるべき姿なのだ。
これまでに六回も同じ時間軸をやり直しているというのだから、馬鹿にはつける薬も飲ませる薬もない。何をどうあがいても、何度同じ時間をやり直しても、誰もレクターを思い出さなかった。それなのに、この大馬鹿野郎は奇跡を信じて戦い続けている。
ここが世界の裂け目で、最後の希望が俺だというのなら、俺のやることは決まっている。俺は創造主の前で宣言したじゃないか。
全員助けて、全員で『未来』へ進む。
ロドニーを元に戻すだけでは足りない。
ラピスラズリを救出しても足りない。
レクターをこの世に引き戻しても、まだまだ全然足りない。
全員というのなら、この状況に引きずり込まれた五十五柱の神とその器、合わせて百十人も救ってみせねば筋が通らない。
「レクター! ちょっとした思い付きを試してみたい! 俺がフリーになるようにカバーしてもらえないか⁉」
「わかった!」
何をするのか詳しく説明せずとも、即座に行動してくれる。非常にやりやすい。でも、だからこそ大嫌いなのだ。俺はこの大馬鹿野郎に感謝しつつ、手近に転がっている『ゾンビ』を抱き起す。
「アシュラ! 動けなくとも、記憶を読むくらいのことは出来るだろう? この人間の名前を知りたい!」
心の内で、アシュラが頷く気配があった。
俺は死体の額に手を押し当て、その記憶を読み取る。
「う……っ⁉」
消失の瞬間の恐怖と困惑。最初に流れ込んできたのは、氷でできたナイフのような記憶だった。
(痛い……なんだ、これは……心が、痛い……)
これが『闇』に呑まれるということなのか。
恐怖に押しつぶされないように、俺は必死で『光』を探した。
(あるはずだ……この人間の中にも、必ず、どこかに……っ!)
ドロドロとした闇に浸食された記憶の中でも、それはきっと最後まで残されている。誰にだって必ずある、自分史上最高の瞬間。最高に楽しかったその瞬間の思い出とまだ起こっていない『未来』とを、強引にでも接続することが出来れば――。
「……あった……っ!」
それは中央市の市民スポーツ大会の記憶だった。彼は長距離走に出場し、三位入賞を果たす。一位と二位は騎士団員と貴族の私兵隊員。仕事として日常的にトレーニングしている面々と一緒に、ごく普通の一般市民が表彰台に上ったのだ。誰もが認める快挙であったし、何より彼自身がこの出来事を『最高に誇らしい思い出』として記憶している。
彼は次の大会での優勝を目指して、毎日必死にトレーニングしていたようだ。
名前はニック・レイモンド。よくよく思い出してみれば、新聞やラジオで、俺もその名を知っていた気がする。
「レイモンドさん! レイモンドさん、聞こえますか⁉ あなたはすごい! 最高のスポーツマンだ! あなたは貴族の援助を受けずとも、個人の努力だけで栄光を手にすることが出来ると証明してみせた! 表彰台に立つあなたの姿に励まされた人間は大勢いるはずです! 俺はあなたが優勝するところを見てみたい! あなたも、今度は表彰台のテッペンに立ちたいでしょう⁉ お願いです! 次の大会には絶対に出場してください! 出場すると約束してください! 俺も、必ず見に行くと約束します! 次の長距離走の大会は十月にミラ・メラ市で開催される市民マラソン大会です! その日、その場所で会いましょう! 約束ですよ!」
死体に向けて語り掛けただけの、非常に一方的な宣言だ。こんな言葉が『約束』とみなされるとは思えない。けれども今この場所は、歪が限界に達してねじ切れた『世界の裂け目』の真っただ中だ。セトとレクターの計画通り、微修正で直しきれなくなった世界に大規模なリセットが実施されるとしたら、この人の死はまだ確定していない。現状、この世界はどんな未来もどんな可能性も『不確定要素』として並列接続されていることになる。
この人がもう一度『生きた人間』として登場する世界に作り直される可能性も、現時点ではゼロではないのだが――。
(クソ……やはり駄目なのか……っ⁉)
俺の無茶苦茶な脳内仮説は、ご都合主義者の妄想でしかなかったのだろうか。死体に何の変化も見られないことに、俺は落胆と諦めを感じ始めた。
そのときだった。
「《雷火》!」
「《雷拝》!」
聞き覚えのありすぎる声に顔を上げると、そこには見慣れた背中があった。彼らは俺を庇うように立ち、マガツヒに雷撃を食らわせながら楽しそうに笑う。
「よおレクター! 久しぶりだな! 金玉見えてっぞ!」
「死体用ガウンで空飛ぶとかクレイジーすぎるジャン!」
確かにヒラヒラスカスカで最初から色々と丸見えだったが、二年ぶりのご対面でいきなりそれか。
脱力すると同時に、俺はハッとする。登場と同時に何かを激しくぶち壊した雷獣兄弟は、自分たちの従兄弟、レクター・メリルラントを思い出している。
「二人とも……どうやって……」
嬉しそうに思い出した理由を問うレクターだが、残念ながら彼らは馬鹿だ。この「どうやって」を、ここまでの移動手段を問われたと思ったらしい。
「市営馬車だぜ! 霊園前を通るのもあるからな!」
「駅前の七番乗り場から出てるジャン!」
なんでこの状況で公共交通機関を使っているんだ。エコなのか。そこは環境への配慮なんて無視して、遠慮なく騎士団のゴーレム馬車を使ってくれ。
そう突っ込みたいのは俺だけではなかったようだ。相も変わらずおバカな兄弟の言動にホッとしながら「この馬鹿」と叫んだせいで、レクターは笑いながら怒るという、非常に高度な顔芸を演じる羽目になった。
しかし、マイペースに何もかもを破壊していくのがこの兄弟のやり方だ。二年ぶりに再会した従兄弟の顔芸を華麗にスルーし、俺に向かって話し始める。
「おいシアン、お前、何かやったのか?」
「何かって、何がだ?」
「ガッチャン見つけたあの村のこと、急に思い出したジャン」
「村人全員殺されて、変な霧みたいなのが出てただろ? あれ、今にして思えば闇堕ちの瘴気だったんだよな?」
「で、あのときアレをどうやって攻略したか思い出そうとしたジャン? そしたら、俺たちもう一人兄弟みたいなのいたなぁ~って思い出して……」
「レクターが妙な技で霧みたいなのを消して、それから村に突入したろ?」
「そのときのメンバーが俺たち三人とシアンだったジャン?」
「だから、お前が何か思い出したのかなぁ、と」
「なんかそんな気がしたジャン」
心の中で、何かがカチリと組み合う音がした。
原因が分かった。何度やり直してもレクターが忘れ去られたままだったのは、レクターが関わった過去の中で特に重要な出来事、『ガルボナードの救出』が現在と繋がっていなかったからだ。
やはり俺は最後の希望なんかじゃなかった。『レクターの復活』という奇跡を起こすための鍵は、本来の器からはぐれた迷子の神、アシュラの存在だったのだ。俺がアシュラの一時的な避難場所から正式な憑代に格上げされたことで、俺とこの三人の運命がガッチリと組み合わされた。そしておそらく、今この墓地にいる全員の運命も、ある共通点によって『一つの運命』として撚り合わされている。
その共通点とは、考え得る限り一つしかない。
アシュラ本来の器、ガルボナード・ゴヤの窮地を救った過去があること。
神は人間が寄せる信仰心をエネルギー源とする。信仰心の表し方は一様ではない。それは時に祈りであったり、供物を捧げることであったり、神のために何らかの具体的な行動を起こすことであったりする。その大前提に照らし合わせれば、答えはおのずと見えてくる。
「……そうか。アシュラが『器』の所有権を正式に放棄したのはついさっきだから……それ以前にガル坊を助けたことがあれば……?」
アシュラという神のために、神の所有物を守ったことになる。それは十分『信仰心』としてカウントされる行動である。
「……お前が奇跡を起こしたのか?」
心の中で、小さな子供が得意げに親指を立てている。
一言もしゃべらないアシュラだが、彼が何を考えているか、感情と思考がダイレクトに伝わってきた。
今ならいけるよ。
ニヤリと笑う神の気配を感じ、俺の心から一切の不安が消えた。
たった今、俺たち全員の過去と未来が繋がった。だったら他の連中でも同じことが可能なはずだ。五十五体のゾンビたちを、元通り『ただの人間』に戻す方法。それは俺の思い付きで間違っていなかったのだ。
過去のどんな出来事でもいい。それを未来と関連付け、俺の中にいる『神との約束』にしてしまえば――。
「エリック! アスター! 協力してくれ! 今からここにいる全員を『復活』させる!」
有無を言わさず、俺は二人の頭に直接作戦を叩き込む。まったくもって、神の力とは便利なものだ。まさかこの大馬鹿兄弟に、正確に作戦内容を伝達できる日がこようとは。
二人は俺の思考を直接移植され、これまでの経緯とこれからすべきことを理解した。
「ハッハアッ! なんだおい! 最高かよ! スッゲーなこれ!」
「そーゆーコトかーっ! 滅茶苦茶びっくりジャン?」
「え、ちょ、何⁉ 下のほうだけで勝手に納得してないで俺も混ぜてくれよ!」
空を飛び回りながらマガツヒを引き付けているレクターにも情報共有したいところだが、状況的に難しい。俺たちは「あとで話す」とだけ返答し、行動を開始する。
「ステーキハウスのコックなのか? 自慢のスペシャルメニューとやらを是非味わってみたい! 元の生活に戻ったら、必ずまた店を開けてくれ! 絶対に食べに行くから! 約束だ!」
「げっ! あんた高校の先生か? おいマジかよ、俺の一番苦手なタイプ……まあいいや。なあ、先生よぉ。先生の学校でも、フツーに学園祭とかあるんだな? 俺、そういうお祭り騒ぎ大好きなんだよ。なんか出店とかあるんなら食いに行くから、そのときは学校ん中案内してくれよな!」
「どんぐりコレクター⁉ なんかそれ、普通に興味あるジャン⁉ どんぐりってそんなに何種類もあったの⁉ 今度レアどんぐり見せてほしいジャン⁉」
エリックとアスターにも神は憑いている。三人で手分けして横たわる死体たちの記憶を読み、強引に『約束』を取り付けていく。
すると変化が起こり始めた。
人間たちは相変わらず死体のままなのだが、その人間に憑いていた神が少しずつ自我を取り戻し始めたのだ。
黒くドロドロと立ち込めた瘴気が、かすかに声のようなものを発している。マガツヒの周囲のあちこちから聞こえてくる声は、人の耳では聞き取れないほど小さな声である。
闇が濃すぎる。ほんの少しでも闇を浄化することが出来れば、この神々を元に戻せそうなのだが――。
「エリック! アスター! お前らに憑いてる神は、何か光は出せないのか⁉」
「ゴリさんは叩いても伸ばしても『ウホ』しか出ねえぜ!」
「イノさんは突進と体当たりしかできないジャン!」
「それ本当に神か⁉」
「うるせえ! てめえに憑いてる神だって光んねえだろバーロー!」
「なんでもいいんだ! あと一押し、光があれば……」
「ハゲのオジサンをいっぱい呼ぼうぜ!」
「お兄チャン頭良いジャン!」
「もういいお前ら黙ってろっ!」
最後の一押しが出来ない。そのもどかしさを感じながら、俺たちはマガツヒの足元にいる数人以外、ほぼ全員との『約束』を取り付けていった。
その間、レクターは闇ゴーレムたちを使ってマガツヒと戦い続けていた。マガツヒもレクターも、この場に存在する目には見えない『裂け目』から闇を吸い上げて己の力としている。同時並行的に存在するありとあらゆる可能性の世界からエネルギー供給を受けているわけだから、双方、魔力も体力も底を尽くということがない。
「……ん? 闇を吸い上げて……?」
「あっ! そうか! 今のレクターの能力は!」
「バンデットヴァイパーと同系ジャン⁉」
光による浄化は出来ないが、毒素を吸い出して症状を軽くすることは出来る。その事実に気付き、俺たちはマガツヒへの攻撃を始めた。
「レクター! 配役を変える! 地上に降りて、このあたりの闇を吸い上げて瘴気を薄めてくれ!」
「えっ⁉ なんで⁉」
「今見せてやる!」
圧縮空気の足場を駆け上がり、レクターの額に触れて記憶をコピーする。
「……なるほど! それなら……っとぉッ⁉」
マガツヒの放った闇の衝撃波が、レクターをかすめるように飛来した。俺は体勢を崩したレクターを抱きとめ、同時にマガツヒに《大嵐》を叩き込んでやった。
真正面から顔面に突風を食らい、マガツヒは後ろにひっくり返る。
「レクター!」
「オーケイ!」
今ならマガツヒの足元に闇ゴーレムを向かわせられる。レクターの操る闇ゴーレムは土に埋もれたゾンビとラピスラズリを回収。エリック、アスターのサポートを受けて、どうにか安全な場所まで運び出すことが出来た。
「あとは俺に任せろ」
配役交代。俺は小さな分身たちと共に、空中でマガツヒの注意を引き付ける。
レクターはまずラピスラズリの闇を吸い出した。それから闇に呑まれた神々を順に動ける状態にしていくつもりだったのだが――。
「私に任せて!」
突然響いたその声は、小学生くらいの女の子のようだった。しかし、声の発生源は――。
「憑代さえあれば、私だって戦えるんだよ!」
ラピスラズリである。身体的なダメージがほぼ無いのは、懐に入れられたサラのおかげであったらしい。ラピスラズリは自分の足でしっかりと立ち上がり、マガツヒに向かってナイフを構えてみせる。
「覚悟して! 悪い子は許さないんだから!」
三十代も後半戦に突入したオジサンが、女児のような声でそう言い放っている。しかも若干内股気味だ。気持ち悪ことこの上ない。
「ラピが壊れたジャン⁉」
「脳にダメージが⁉」
「もうちょっと黒いの吸っといたほうが良かったか⁉」
「いや違う! 落ち着けお前ら! 今喋っているのはサラだ!」
三馬鹿は俺の言葉を理解できているのかいないのか、全力で全身を掻きむしって「キモチワルイ」を連呼している。
しかし、大丈夫なのだろうか。意識の無いラピスラズリの肉体を使ってサラが自分で戦おうとしているようだが、あの神が『戦闘可能』なんて話は聞いたことがない。マルコの後ろにくっついて水か光を出しているだけで、自力で戦えるとは思えないのだが――。
「いくよ! ええ~いっ!」
ダメっぽい要素しか感じられない掛け声と同時に駆け出すサラ。大変だ、足手まといが増えてしまったかもしれない。咄嗟にそう考えた俺だが、どうやら『青龍』という神は、これまでに見せていた能力以外にもいろいろと出来るらしい。
「《落涙》!」
雲一つない空から雨が降ってきた。それもただの雨ではない。雨粒ひとつひとつが太陽光を受けて虹色に輝いている。
「まさか⁉」
広範囲を一斉に洗い清める雨。これはピーコックから聞いた『主による洗礼』と同系の技である。有効範囲とその効果は創造主と比べればかなり限定的で弱いようだが、この場に存在する神々を洗い清め、マガツヒを弱体化させるには十分すぎる能力だ。
サラは手にしたナイフに青い光を宿し、苦しみ悶えるマガツヒに斬りかかる。
「ギャアアアアアァァァァァーッ!」
効いている。三メートルを超えるデカブツ相手に、刃渡り二十センチ程度のたった一本のナイフで有効打を入れている。
サラの光を嫌って距離を取ろうとするマガツヒだが、俺と分身たちがそうさせない。
「《衝撃波》!」
「《真空刃》!」
「《大嵐》!」
両側から、真上から、何発となく魔法攻撃を叩き込んでやる。逃げ場を失ったマガツヒは応戦せざるを得ない。鍛え上げられたフェンリル族の戦士の肉体に四神『青龍』が宿った今、マガツヒに勝ち目はない。
「えい! やあ! もう! 逃げちゃヤダよ! ああんっ! このナイフちっちゃいよぉ~っ! えい! ええ~い! このぉ~っ!」
そう、勝ち目はないのだ。だからさっさと極めてもらいたい。これ以上『女児の声でしゃべる内股のオジサン』を見せられたら、俺の精神が闇に堕ちる。というか、だんだんチマチマ斬り刻まれるマガツヒが気の毒になってきた。
メリルラント兄弟も気持ちは同じだったようで、ほんの一瞬目が合ったとき、三人はわざとらしく胸の前で手を組み、天に祈るようなしぐさを取ってみせた。
今回ばかりは俺も三馬鹿に倣っておこう。マガツヒの真上で攻撃魔法を連射しながら、俺も手を組んで天に祈る。
「おい創造主。頼むから、この哀れすぎる怪物を救ってくれ……」
冗談ではなく、この瞬間の俺はかなり本気だった。そのせいだろうか。どうやら俺の声は、創造主のところまで届いたらしい。
「……ん?」
組み合わせた手の中に何かある。
「……なんだ? これは……麦?」
開いた手のひらに一粒の麦。ただの麦でないことは一目瞭然で、その麦は黄金色に輝いていた。
「……え~と……? いや、どうすれば良いんだ……?」
創造主から取り扱いに関する説明はない。マガツヒに投げればいいのだろうか。だが、レタスの神と遭遇したときのことを思い出す。麦は食用植物なのだから、投げれば『捨てた』とみなされて裁きの雷を食らうのではなかろうか。
「アシュラ、これは一体どうするものなんだ?」
心の中で、アシュラは種を土に埋めるジェスチャーをしている。
「……? ということは、これは『食品』ではなく『種』なんだな?」
頷くアシュラ。ならばと下を見れば、虹色の雨で洗い清めた柔らかな土がある。
「……ここでいいのか?」
公共墓地に勝手に植物を植えてしまっていいのだろうか。しかし、このタイミングで渡されたのだから、今この場で種を蒔けということなのだろう。
「……まあ、管理事務所にはあとで平謝りすればいいか……」
神々には分からないだろうが、人間には色々と面倒な事情があるのだ。俺は目一杯顔をしかめながら、麦粒を地面に放った。
そしてそれが土に接したと見えた瞬間――。
ンボッ。
そんなひどく間の抜けた効果音を聞いたような、聞かなかったような――あっけに取られて事態を見守ること三十秒。俺たちは草丈五メートルの超巨大な麦に視界を遮られ、突然現れた麦畑の中で遭難していた。
金色に光り輝く麦には浄化作用があるらしく、辺り一帯に漂っていた瘴気は一切合切消えている。
「……エリック? アスター? レクター……?」
名前を呼ぶと、下のほうでガサガサと草を掻き分ける音がした。
「大丈夫か?」
密生した麦に挟まって動けなくなっているメリルラント兄弟を一人ずつ救出し、俺たちはひとまずゴーレムホースに乗って空中に逃れる。しかし、この場の闇がすべて消えてしまったせいで、エネルギー源を失ったレクターは元通りただの死体に戻っていた。
「……嘘ジャン? レクター?」
「悪い冗談やめろよ……なんでだよ、おい……」
「起きろって。な? だって、さっきまで普通に動いてたジャン……」
「返事しろよ、レクター。なあ、頼むよ……レクター?」
抱きかかえた従兄弟に向かって必死に呼びかけを続ける二人に、俺はなんと声を掛ければいいのだろう。レクターを救えないのなら、他のどんな闇を祓えたところで何の意味もない。奇跡を信じて孤独に戦い続けた人間に与えられる『未来』がこんな結末だなんて、俺には到底受け入れられない。
「……クソ野郎が……」
俺は空を睨んでありったけの声で叫ぶ。
「おい、創造主! レクターを元に戻せ! 今すぐにだ! 聴こえているんだろう⁉ このクソ野郎! 背骨へし折って半身不随にしてやろうか⁉」
心の中には空に向かって中指を立てるアシュラがいる。エリックとアスターの後ろでゴリラとイノシシの神も怒りの咆哮を上げている。誰もが納得しないこの現状。創造主が何を考えてレクターを死なせてしまったのか、俺たちには何一つ理解できない。せめて一言でも説明が欲しい。
けれど、創造主は答えない。
「……なんで……」
落胆と絶望。俺たちの胸からそれ以外の感情が消えかけた、そのときだった。
鳥の羽音がした。
大きな鳥が羽ばたく音に、辺りを見回す。けれども何もいない。
「どこから……?」
羽音はどんどん増えていく。何十羽、何百羽もの鳥が飛び回る気配を感じるのだが――。
「……?」
目には見えない鳥たちは、俺たちの周りを大きく旋回しているらしい。徐々に風が渦を巻き、まるで竜巻のような上昇気流を作り上げていった。
「これ……は……?」
「麦畑が……」
「……光に……?」
黄金色に輝く巨大な麦は光の粒になり、上昇気流に乗って空高く吸い上げられていった。あとには何も残っていない。修復されて元通り整然と並んだ墓石と、綺麗に生えそろった芝生だけが俺たちを見上げている。
「……なにが、どうなっている?」
「麦畑、どこに持っていかれたジャン……?」
「……あ! おい、あれ!」
エリックが指差す先を見ると、雪のようにふわふわと、光の粒が落ちてきた。
一つ、二つ、三つ、四つ――次第に増えていく光の粒。それはまるで意思を持つように、地面に横たわる『ゾンビ』たちの唇に落ち、口の中にするりと入り込んでいった。
ふっと色づく頬。
かすかに震える瞼。
確かに上下する胸。
一目見て理解した。彼らはもう『ゾンビ』ではない。この世界の中に、自分の居場所を取り戻すことが出来たのだ。
「それなら、レクターも⁉」
「おい、レクター!」
「目ぇ覚ますジャン⁉」
期待してレクターを見た俺たちだが、光の粒は、レクターの上には舞い降りてこない。
「……どうして……」
なぜレクターだけが救われないのか。その他大勢と同じようにこの墓地に埋葬されて、同じように『ゾンビ』と化していたのに、なぜレクターだけが。他の人間たちと違うことがあるとでも言うのか。
俺たちはそれぞれ必死に考えた。レクターだけが救われないことに何か理由があるのかと。他の人間たちにはあって、レクターには無いもの。それは何かと考えていくと――。
「……あ……っ!」
「まさか……?」
「そうだ、まだ……!」
最初に気付いたのは誰だったのだろう。三人でほとんど同時に顔を上げて、俺たちは先を競うように口を開く。
「レクター! 今度一緒に釣りに行くぞ! 前にお前に誘われて、結局行かずじまいだったゴライアスピラルク釣りだ! 特務宿舎の裏の池にガンガン放流して、騎士団本部に新名所を作るんだよな⁉ もうこの際だ! お前の馬鹿な夢にとことんまで付き合ってやる!」
「レクターの大好きなサザンビーチの『ゲテモノ食堂』、ついに中央に進出したジャン! テイクアウトメニューの魚肉牛乳とホヤチョコレート、中央の支店でも売ってるジャン! 落ち着いたらみんなで一緒に行こうジャン⁉」
「お前との飲み比べに負けて罰ゲームで通う羽目になったアロマテラピー講座、ちゃんと最後まで受講してアロママッサージまでできるようになったんだぜ⁉ なんであんなの習ってたのかやっと思い出したんだから、今度徹底的にマッサージさせろよ! プリンセスローズの香りに包まれた気色悪いおじさんになりやがれ馬鹿野郎!」
「約束だ!」
「約束ジャン!」
「約束だからな!」
三者三様、のちに大変な後悔をするとも知らず、それぞれにとんでもない『約束』を取り付けていく。
そのとき、光が降ってきた。
ふわりと唇に落ちた光の粒が、レクターの体内に取り込まれていく。
「……レクター……」
固唾を飲んで見守る俺たちの前で、奇跡が起こる。
肌には少しずつ血の気が戻り、握った手からも、しっかりと体温が伝わってきた。俺たちが一斉に名前を呼ぶと、レクターは僅かに顔をしかめるように身じろぎし、ゆっくりと瞼を上げる。
「……ただいま。エリック兄さん、アスター、ランディ……」
「レクターッ! 心配させやがってこの馬鹿!」
「一旦死んで生き返るなんて、いくら何でも暴走しすぎジャン⁉」
「今はランディじゃなくてシアンだ! いい加減覚えろ!」
三人で一斉に手を伸ばし、レクターを揉みくちゃにする。そのためゴーレムホースの操作はおざなりになり、必然的に四人そろって落馬することとなってしまったのだが――。
ポヨン。
そんな効果音が似合いそうな水玉の上に落下し、俺たちは無事、地面に降ろされる。子供向け遊技場のボールプールのような場所でじゃれ合うオッサン四人。なんて可愛げのない光景だろうと嘆きたくなるはずなのだが、不思議と今は、これでいいのだと思えた。
「みんな元通りで、良かったね!」
ラピスラズリの体でピョコピョコと跳ねまわり、女児のようなしぐさで喜ぶサラ。その姿を見て、改めて思う。
こうなってしまうから、マルコの体を使わないのか――。
サラはサラなりに、マルコの将来を慮って彼の体を使わないよう心掛けているようだ。だが、サラにとってラピスラズリは割とどうでもいい存在。ラピスラズリのキャラが崩壊することに関しては一切の配慮を放棄している。
「……ラピ……可哀想に……」
心底同情した。この先何日かは酷く落ち込んでいるだろうから、俺が励ましてやるべきなんだろうなぁ、とも思った。だが、しかし。やはりキモチワルイ。
「どうしようアシュラ。ツッコミがまったく追い付かない」
心の中で、アシュラは布団を被って丸まってしまっている。変なモノは見たくもないらしい。
「ところで、サラ? ここに居た神々はどこに消えた?」
「みんな召し上げられちゃったよ?」
「召し上げられた?」
「うん。シアンたちが祈ってくれたでしょう? だからカミサマたちは、最期の『奇跡』を起こすことが出来たの。さっき飛んでいた『鳥さんたち』は、ここにいたカミサマたちだよ。鳥になって、シアンの育てた『供物』を主さまに届けてくれたの」
「供物……?」
「聞いたことない? その土地で最初に取れた作物はカミサマに捧げなさい、って。この世界でも、初物を祭壇に並べる風習、あるんでしょう?」
「……ということは、さっきの麦が俺たちから創造主への『供物』で、その見返りとして与えられた『奇跡』が……?」
「レクターと、他のみんなの『復活』だよ」
「……創造主め。俺に何かしたと思ったら……」
「光の麦を持たせてくれたんだね」
「……礼なんか言わないからな、このクソ野郎」
俺は空に向かって中指を立てる。アシュラも布団の隙間から両手を突き出して中指を立てている。
まったくもって、行儀の悪いコンビが結成されてしまったものである。
「この人間たちは? どうすれば目を覚ます?」
「ん~……たぶん、家族とか、友達とか、この人たちを直接知っている人たちが名前を呼んであげれば元に戻ると思う……」
「それなら、ひとまずこのあたりの病院に収容してもらうしかないな。身体機能に異常がないか、検査してもらおう」
「私の診断じゃ、信じてもらえないもんね……」
「申し訳ない。サラの能力を疑うわけではないのだが、普通の人間には神は見えないんだ」
「大丈夫だよ。気にしてるわけじゃないの。ただ……」
「なんだ?」
「五十五人も、どうやって搬送するの……?」
「……難題だな……」
運ぶだけならばゴーレムでどうとでもなるが、こんな特殊な状況で意識不明に陥っている患者を受け入れられる病院がどれだけあるだろう。
俺が頭を悩ませていると、ピーコック、ナイル、ガルボナードたちが合流してきた。気絶していた王子とマガツヒ化が解けたロドニーも、ふらつきながらこちらに近付いてくる。
「ロドニー、大丈夫なのか?」
さっきまでラスボス状態だった奴が、普通に立って歩いている。もっと体力を消耗するものと思っていたのだが――。
「これが効いたみたいです。俺自身へのダメージはほとんど無くて……」
体が巨大化した影響で素っ裸のロドニーは、ボロボロになった上着で辛うじて腰のあたりだけを隠している。その上着のポケットから、まるで火事場の焼け残りのような、炭化した紙きれを取り出してみせる。
「それは?」
「ハドソン家で抱えてるウィザードたちに作らせた転禍呪符です。自分に向けてかけられた呪詛を強制的にプログラム変更して、呪いの対象を『身代わり人形』に書き換えるヤツで……」
別のポケットから取り出されたのは、ビニール袋の中で粉々に砕けたビスケットだった。ロドニーはオオカミナオシの指示で動物の形を模した『動物さんビスケット』の中から『オオカミ』のビスケットだけを抜き出し、ポケットの中に隠しておいたらしい。この呪い除けの手法は大和の神族なら誰でも使えるし、大和の神を信仰する日本人たちも身代わりとなる形代を『御守り袋』という形に加工して日常的に持ち歩いているのだという。
俺たちはタケミカヅチ、ミカハヤヒ、ヒハヤヒの言動を思い出し、「あっ!」と声を上げた。
彼らはクマとウサギのビスケットを取り分けて、せっせと着物の中に仕舞い込んでいた。そしてベイカーにも、「クマさんとウサギさん以外」と指定してビスケットを分けていた。クマはツキノワグマに見立ててツクヨミの形代に、ウサギは白髪赤目の三柱の軍神たちの形代として使えるのだろう。
そしてなにより、あのときの彼らの言葉だ。
「おい、オオカミのガキ。食い物は粗末にするな。貴様が買い漁ったビスケット、一枚でも無駄にしたら、そのときは……」
「僕らが頂くことで、かなり強引に『お供え物』にカウントしてあげてるだけだからね。本当だったらこれ、天罰が下るくらいの行為なんだよ?」
「貴様は首さえ繋がっていればオオカミナオシに修復される。死ぬ事は無い。何十発殴ってもなんの問題もない人間なのだが……タケぽんとミカちんが優しくて良かったな?」
脅しをかけているように聞こえるが、その実、言霊とビスケットを使ってロドニーに対して幾重もの《転禍呪法》を仕込んでいたのだ。それもただの防御魔法ではなく、軍神三柱がかりの非常に手の込んだ術式だ。おそらく今頃、オオカミのビスケットで受けきれなかった『闇』のダメージはクマとウサギのビスケットに分散されていることだろう。なぜなら彼らは、ロドニーが買ってきたビスケットを三柱がかりでモリモリ食べて、自分たちとロドニーとの間に『信仰と見返り』の関係が構築されるようにしていたのだから――。
「……本当にツンデレだな。あの軍神たちは……」
「屈折しているようでストレートというか、なんというか……不器用なのかな?」
「ああ、そうかもな……って、ラピ⁉ お前、正気に戻ったのか⁉」
「一応……その……サラに乗っ取られていた時のことは、あまり訊かないでくれ……」
「あ、ああ……」
体を使われていた間の記憶ははっきりしているらしい。説明の必要がないことをありがたがるべきか、強制的に言動を女児化させられたオジサンを憐れむべきか。
リアクションに困った俺の顔は、おそらく自分史上一番の変顔になっていたのだろう。合流したピーコックに指をさされて馬鹿笑いされ、とりあえず殴り合いの喧嘩の始まりだ。
そして同時に、レクターのことを思い出したラピスラズリとロドニーも、二人そろってレクターに殴りかかっていた。
「てめえゴルァッ! レクタァァァーッ! てめえのドカ買いしたドッキリマンチョコがあの後どうなったか分かってんのかぁぁぁーっ!」
「全部俺のせいにされてたんだっつーの!」
「えっ⁉ はあっ⁉ 何がっ⁉」
自分が消えた後のことなど知る由もないレクターは、わけもわからぬまま人狼とフェンリル狼にボコられている。従兄弟の危機に加勢するかと思いきや、エリックとアスターはサラの作った『水玉ボールプール』で遊ぶことに夢中で気にも留めていない。
「貴様のせいで旧本部がゴキブリパニックになったんだからな!」
「だから、何のことだって⁉」
「地下に貯めといたドッキリマンチョコに虫が湧いたんだっつーの!」
「えええぇぇぇーっ⁉ マジかよぉぉぉーっ⁉ そのうちまとめて食べようと思ってたのにぃぃぃーっ⁉」
「ちったあ反省しやがれ! 《灼熱音波》!」
「うわ⁉ ちょ……《磁力結界》!」
超高温の衝撃波 vs. 磁力操作による指向性エネルギーの強制歪曲。標的にヒットせず飛散させられた熱と衝撃と、周囲の被害など考えずに発生させられた超磁力。それらはすぐ近くにいた仲間たちに甚大な被害を与えていた。
「ギャーッ!」
吹っ飛ぶナイル。
「うわわわわわっ⁉」
磁力に引かれるピーコック。
「熱っ!」
燃やされそうになる王子。
「ぅあっぢいいいぃぃぃーっ!」
燃やされたロドニー。
「あっ! 今飛んでった虫、中央じゃレアなやつッスよ⁉」
他人の喧嘩よりもレア昆虫が気になるガルボナード。
「おいラピ! レクター! 俺たちを殺す気か、この大馬鹿野郎ども!」
と、俺は流れ弾をかわしながら叫んで気が付いた。
(ああ……そうか。道理で表情も乏しくなるわけだな……)
いつも何か物足らないように思えていた。メリルラント兄弟からの対戦申し込みも、後輩たちとのやりとりも、何かが足らない。今一つ気分が盛り上がらない理由は何だろうと考えてみても、正解にたどり着くはずもなかったのだ。
足りないのはこの、どうしようもないドタバタ劇だったのだから。
込み上げる笑いをこらえきれず、俺は思わず吹き出した。
つられてピーコックが、ナイルが、エリックとアスターが、ガルボナードとロドニーが、ついには殴り合っているラピスラズリとレクターまでが、どうにもこらえきれないといった様子で笑い出してしまった。
爆笑する俺たちを見て、王子はホッとしたような顔で言った。
「仲直りもお済みのようですし、帰りましょうか。あまり遅くなると、団長に心配されてしまいますよ?」
収まるはずもない笑いを強引に引っ込めて、肩をすくめておどけて答える。
「ええ、そうですね。良い子の帰宅時間は夕方五時と教育省ルールで決まっていますし」
続けてラピスラズリとピーコックも言う。
「門限破ると団長にお尻ペンペンされちまいますからね」
「あっれぇ~? みんな団長の言いつけ守る派なワケ~? 俺、そういうのキャラじゃないなぁ~?」
にやけた顔のまま、ナイルとガルボナードが互いの肩をつつき合っている。
「ナイルさんが一番多くペンペンされてたっスよね!」
「アレはガッチャンがかくれんぼに延長戦ルールを導入したせいだろ~?」
「まさかナイルさんまで同じ刑に処されるとは思わなかったッス」
「俺だって、特務に昇進してから小学生と同じ懲罰食らうとは思わなかったよ」
「え? あの、特務でお尻ペンペン……?」
興味津々のマルコの肩に腕を回し、エリックが小声で囁く。
「帰りの馬車の中で教えてやるぜ。こいつらがガル坊の家庭教師として、どのくらいアホなことをやらかしていたか」
「ぅるあっ! エリーック! 王子様に余計なことを吹き込むんじゃねえーっ!」
「お? そうか? 話して聞かせんのがダメなら、記憶を直接コピーするのはアリだよな? 俺は風呂場でお前らの赤く腫れたケツを何度も目撃し……」
「あああぁぁぁーっ! 言うな! それ以上何も言うなこの馬鹿野郎!」
「記憶のコピーかよぉ~。なんて厄介な能力……」
ラピスラズリとピーコックの気持ちも分かる。特務部隊と特務出身者が神の能力を自在に使えるということは、自分たちの黒歴史が鮮明な現場映像と共にお披露目される可能性が出てきてしまったということだ。しかし、幸い俺はケツ叩きの刑に処された事はないので、連中の馬鹿なじゃれ合いをニヤニヤしながら眺めていられる。
再び殴り合いの喧嘩に突入した血の気の多い馬鹿どもを遠巻きに観察しながら、俺とナイル、アスター、ガルボナードの四人で身元不明者たちの収容先を手配していく。ロドニーとマルコ王子が電話を掛けると話がややこしくなるので、どんなに有能でもこういうときには『人手』としてカウントできないのがもどかしいところである。
とにもかくにも、ひとまず世界は救われた。映画や芝居の英雄と違って、その後の事務手続きまで自分たちでなんとかせねばならないのが俺たちらしいと言えば俺たちらしい。
この先もまた、忙しい日が続きそうである。