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そらのそこのくに せかいのおわり 〈 vol,09 / Chapter 04 〉

 マルコが目を覚ました時、時計の針は午後三時を回っていた。

「え……うわっ⁉ わ、私は就業時間中に眠っていたのですか⁉」

 溜まった疲労と睡眠不足のせいだろうか。関係各所への申請書類などを片付けていたはずなのに、いつの間にやら机に突っ伏し、小一時間ほど眠っていたらしい。

 慌てて体を起こして乱れた髪を整えるマルコだったが、オフィス内には誰もいない。ノリノリで事務作業をこなしていたチョコはスケジュール通り任務に出発し、ヤム・カァシュもそれに同行したようだ。

 マルコの声に気付いた玄武が、亀なりの最高速でのこのこと歩み寄る。

「おはようマルコ。机の上に積んであった書類は、全部チョコが片づけてってくれたよ」

「えっ⁉ 全部⁉ あんなにたくさんあったのに……うわぁ⁉ 本当に全部終わってますね⁉」

「あと、事務の女の子たちに寝顔見られないように、『具合が悪くて仮眠中だから特務のオフィスには行かないでね』って言ってくれてたよ。心配してるかもしれないし、あとで二階のみんなにも顔見せてあげなよ」

「あ、はい、わかりました……。あぁ~……私ってば、そんな……どうしましょう。本当に、皆さんにご迷惑を……」

「そんなことないよ? たまにはこのくらい弱いとこ見せてくれたほうが嬉しいって言ってたし」

「え? 本当に……?」

「うん。大丈夫だよ。みんな、マルコが思ってるほど他人に完璧なんて求めてないって! もっとみんなを頼って、ダメダメなところも見せてあげなよ!」

「ええと、その……やはり私は、昔の癖が抜けていないのですね……」

 マルコは少しだけ落ち込んだ。心を開いてありのままの自分を見せているつもりなのだが、愛人の子として生きてきた疎外感や劣等感は、どこまでもしつこくついて回る。


 どうすればロドニーのように、自分の趣味に没頭できるのか。

 どうすればベイカーのように、自分らしく自然に笑えるのか。

 どうすればトニーのように、力強く自分の道を突き進んでいけるのか。


 考えれば考えるほど、自分が酷くちっぽけで、何の価値もない人間のように思えてしまう。

 暗い表情になったマルコを見て、玄武はグイッと首を上げて、強い口調で言った。

「もー、マルコってば! そんな顔してると、またロドニーに『顔面が不景気』って言われるよ? ねえ、何に悩んでるの? ボク、これでもカミサマなんだから! 何でも話してよ!」

「あ、その……ええと……私はクエンティンの家名を穢さぬよう、引き籠った兄の分まで『完璧な貴公子』を目指そうとしていました。学校に通う年になってからは、クラスメイトから『妾の子』と蔑まれることもあって……絶対に弱みを見せてはいけない。そう思って生きてきたのです。ですから、自分らしさも、個性も、本気で打ち込める趣味も……よくよく考えてみれば、私には何も無かったのではないかと……」

「そんなことないんじゃないかなぁ?」

「え?」

「マルコ、十分個性的だと思うけど? 頑張り屋さんなところとか、小さなことも真剣に考えるところとか、本当に『マルコらしい』感じがするよ?」

「そう……でしょうか? 努力も熟考も、そうせざるを得なかったから、状況に従ってそうしていたのであって……」

「状況に従わない個性っていうのもあるじゃない? トニーだったら『知るか、俺は俺の判断で動く』とか言いそうだし、ベイカー隊長だったら『作戦の立て方次第で、不利な状況なんていくらでも覆せる』とか言うに決まってるじゃない。今ある状況を無視して突き進むのも、作戦立ててひっくり返すのも、とりあえず従っておいて波風立てないようにするのも、全部アリだと思うな。マルコはじっと従って、何かを変えるチャンスを待ち続けるタイプの個性なんだと思う」

「……待ち続ける個性……ですか。何と言いますか、それはとても受動的で……消極的でであるように思えるのですが……」

「待ってるだけだったらね。でも、マルコは待ってる間、努力し続けていた。だから今、こうして特務部隊にいるんじゃない? 何かが変わるかもしれないチャンスに、ちゃんと自分で手を伸ばして、新しい世界の扉を開けたんだから」

「え? 私がですか?」

「うん、そうだよ。ベイカー隊長にスカウトされたとき、特務入りを断って、もっと安全で楽ちんな内勤を希望することも出来たでしょ? でも、マルコはベイカー隊長の手を取った。僕とはじめて会ったときだって、マルコは自分の意思で、自分の言葉で、ボクを叱って、許して、ギュって抱きしめてくれたじゃない。何の準備も努力もしていない人は、目の前にチャンスがあっても、奇跡の扉が開いていても、気付くことも出来ずに通り過ぎて行っちゃうんだよ? これはチャンスがあっても無くても構わず直進するトニーとも、チャンスが自分のほうに転がり込んでくるように裏工作するベイカー隊長とも、まったく違った個性だよ」

「……待ち続けて、掴む……それが私の個性なのでしょうか?」

「少なくとも、ボクはそう思う! 食虫植物みたいで格好良いじゃない!」

「しょく……っ⁉」

 虫嫌いの人間にしてみれば、格好良いものの例えに食虫植物を使われても嬉しくもなんともない。あのワサワサと動く奇怪な生命体を主食とする植物と、自分が似ているだなんて。

 マルコは、先ほどまでとは別の理由で落ち込んだ。

「あれっ⁉ マルコ⁉ なんでもっと落ち込んじゃうの⁉ ボク、ちゃんと励ませてなかった⁉」

「あ、いえ、そんなことはありませんよ! ありがとうございます。自分では気づかなかっただけで、私にも『自分らしさ』があることは、ちゃんと分りました!」

「じゃあなんで⁉」

「その……ええと……これはおそらく感性の違いによるものだと思うので、なんと言ったらよいものか……」

 虫や食虫植物を『格好良い』と思う者と『生理的に無理』と思う者とでは、いくら言葉を重ねても分かり合えるはずが無い。マルコは自分でも無理があることを自覚しながら、強引に話を切り上げる。

「もう大丈夫です! ご心配をおかけしました!」

「ん~、そう? なら、いいんだけど……?」

 玄武の優しさと気遣いに励まされ、マルコの顔にはようやく笑みが戻った。だが、しかし。このまま和やかに一日を終えることは出来ないようだ。

 廊下から聞こえてくる騒々しい足音。続いて響く扉の開閉音と、聞き慣れた同僚の声。

「大変だマルコ! 市内に闇堕ちが出たってよ!」

 オフィスに駆け込むなりそう言ったロドニーは、駆け込んだ勢いのまま自分のデスクに直進し、引き出しの中から何種類もの呪符を取り出す。どれもマルコには見覚えのない術式のものである。

「それは?」

「ハドソン家で雇ってるウィザード共にこっそり作らせた対闇堕ち用呪符だぜ! どのくらい効くかは分かんねえけどな!」

「闇堕ち用に⁉ そんな特殊呪符があるのなら、なぜ隊として正式に購入されないのですか⁉」

「そりゃあ、非合法な術式を何十種類もぶち込んであるからな! 公式採用したくてもできねえっつーの! マルコとサラにも現場出てもらいてえんだけど、今、大丈夫か?」

「もちろんです!」

 マルコは力強く頷き、ロドニーと共に出動した。




 現場は中央市のはずれにある、広大な市営墓地の一角だった。墓地の中でも特に奥まった場所に、誰も足を踏み入れない雑草だらけの区画がある。そこに整然と並ぶ墓石はどれも同じ大きさ、同じ形で、一つの例外もなく同じ文字列が刻み込まれている。


〈身元不明者合葬墓〉


 一つの墓に一人ではなく、一つの墓に一年分だ。墓石の下に作られた地下空間に、その年に出た身元不明遺体のうち、明らかに事件性のない事故死遺体や病死遺体がまとめて収められている。もちろん後になって身元が判明することも、事件との関連性がみつかることもある。そんな場合に備え、すべての遺体は魔法で防腐処理を施され、顔も体も、発見された当時のままに保たれている。

 そんな『名もなき誰かの眠る場所』に、大勢の人影がある。

 身を寄せ合うように一か所に集まり、何事かを話し合っている人々――の、ように見えるのだが。

「先輩! マルちゃん! こっち! こっちッス!」

 先に墓地に来ていたゴヤに案内され、合葬墓からは少し離れた茂みの中に身を隠す。この茂みは合葬墓よりやや高台にあり、現在は風下。こちらの声があちらに流れていくことも無い。狙撃にも偵察にも最高のスポットである。

「いい場所見つけたな、おい。で? あいつら、なんだってんだ? あんなところで何してやがる?」

「それが全然分からないんスよ。管理事務所で保存書類見せてもらって、そのあと現場に来てみたら、もうこんな感じになってて……」

 年代順に並ぶ合葬墓の中で、ただ一つだけ、地下への出入り口が解放されている。お揃いの白い服を着た人々は、その出入り口をじっと見つめているように見える。


 動く者はいない。

 喋る者もいない。

 ただじっと、地下空間へと続く階段を凝視する人々。


 あまりに異様な光景に、ロドニーとマルコも息を呑む。

「……闇堕ちって、あいつらのことか?」

「はい。足元見てほしいんスよ。なんか黒っぽい霧みたいなのが、若干……」

「あ、はい! 見えました! 確かにありますね!」

 よく目を凝らさねば分からないほどの濃度だが、人々が立つ地面からは黒い霧が発生している。『闇』の中で平然と立っていられるのだから、あの人間たちは確かに『闇堕ち』なのだろう。しかし、やはり何かがおかしい。

「……いや、ちょっと待てよ? あの服って、もしかして……」

「……検死済みのご遺体に着せられる、埋葬用のガウンですよね……?」

「マジでガチめのゾンビ案件ッスけど……こんなに陽が高いうちに出てこられても、あんまり怖くないッスね?」

「だよな。つーかよ、ゾンビの井戸端会議って、テレパシーかなんかで会話すんのか? 長い話なら座ればいいのにな。死んでると足むくんだりしねえのかな……?」

「しかし、なんと言いますか……防腐処理が施されていると、ゾンビらしさがありませんね。遠目に見ている限りでは、生きた人間と区別がつきません……」

 本物のゾンビに遭遇してしまった場合の正しいリアクションとはどのようなものであろうか。三人はそれぞれ、どうでもいい感想を述べている。

 近付くべきか、ここから魔弾を撃って反応を見るべきか。判断できず、三人は茂みの陰から観察を続ける。

 中央市の指定業者が製造した量産品の白いガウンを着た、裸足のゾンビたち。手には何も持たず、頭には何も被らず、全員が同じようにただ一点、自分たちが出てきた合葬墓の出入り口を見つめてじっとしている。

 顔色は最悪。眼窩は落ちくぼみ、眼球は白濁。だらしなく開かれた口元から、顔の筋肉が機能していないことが窺えた。

 足元に微かに黒い霧が確認できることから、闇堕ちか、それに類するものであると判断できる。だが霧の発生源が彼らの足なのか、彼らが立つ地面なのか、そこまでは分からない。

「数は五十人ちょっとってところッスかね?」

「五十二……いや、三か? 背の高い奴が三人いるだろ? あいつらの後ろにも、あと一人か二人いそうな感じだよな?」

「じゃ、多めに見積もって六十くらいッスかね?」

「だな。戦うとしたら、一人頭二十人目安だぜ」

 そんな話をしているところに、背後から近付く者たちがいた。気配は消しているが、それはあくまでも、ゾンビたちに気付かれぬようしていることだ。マルコらに対して敵意を持っているわけではない。

 三人はチラリと視線を向け、顔ぶれを確認してすぐに向き直る。事前に連絡を受けているため、軽く手を挙げるだけで挨拶を済ませた。

 自分たちの背後に静かに腰を下ろした四人に、ゴヤは状況を説明する。

「……って感じで、今のところ動きはありません。目的も正体も不明ッス」

 合流した四人は情報部のラピスラズリ、ピーコック、シアン、ナイルである。四人はそれぞれにナイフや呪符を構え、あの『標的』の仕留め方を考えはじめた。マルコは王族で、ロドニーは伯爵家のお坊ちゃま、ゴヤは騎士団長の息子なのだ。平民階級の四人は、正体不明の敵に最初の一撃を食らわせる『鉄砲玉』は自分たちの役であると心得ていた。

 とはいえ、彼らはダウンタウンのチンピラヤクザとは違う。いくら鉄砲玉と言っても、生身で突っ込むまでに打てる手はすべて打つ。先鋒はナイルの偵察ゴーレムである。

「全二十四機を八方向に展開、地表面からの高度を十五メートルに維持するよう指示した。集音性能とサーモセンサーは全開。乗っ取りや逆探知などの外部干渉を察知したら、その場で全指令を放棄して呪符ごと自爆する設定にしてある。下手に帰投させると、こちらの潜伏場所がバレちゃうからね」

 ナイルは自分のゴーレムについて、マルコにも分かりやすいよう説明を入れた。ロドニーとゴヤはナイルの技量についてよく知っているものの、改めて聞かされると、そのテクニックには驚きを禁じ得ない。

 高性能な偵察ゴーレムを使い捨てにできるのも、その場で呪符を作成できるゴーレムマスターならではの荒業なのだ。普通は高価な呪符を購入しなければならないため、自爆などという思い切った手段は選べない。

「あの、ナイルさん? これって市販品だったら一機いくらッスか? なんかもったいない感じがするんスけど……」

「ん~、まあ、市販するとしたら最低でも五十万か六十万はするんじゃないかな? 普通の偵察ゴーレムはステルス性能もサーモセンサーも無いし?」

「一機六十万のを、二十四機も……」

「安心してよガッチャン。これ、俺がこの場で作った呪符だからさ。騎士団支給のメモ帳とボールペンしか使ってないし、一冊丸ごと使いきっても原価は七十八から八十四ヘキサってところかな? ちゃんとボールペンの替え芯使えば、交換一回につき六ヘキサもお得になるからね。インクが切れても、ボールペン本体は捨てちゃダメだよ」

「あ、はい。ナイルさん計算細かいッスね……」

 専門家の技術に原価計算を適用してはいけない。『手品師ナイル』の恐るべき呪符作成テクニックを目の当たりにし、マルコも目を丸くしている。

 そんな雑談を交えつつしばらく偵察を続けたが、白服のゾンビたちに動きはない。七人は短い話し合いの末、やはりこちらから仕掛けてみるしかないという結論に至った。

「で? なんでまた俺が臨時リーダーなわけ?」

 不服そうなピーコックに、シアンが淡々と説明する。

「ナイルにはゴーレムの操作に専念してもらいたい。機動力のあるロドニーとラピは攻撃にも退却時の足にも使える。その辺の茂みに隠しておきたい。ガル坊と王子さまは銃を持っているから援護射撃担当。となると、俺かお前が『鉄砲玉』をやるしかないわけだが、お前、右腕はどうした?」

「それがなんか、急に実家に帰っちゃって……」

「プロポーズした翌週に逃げられたのか?」

「あ、そういう胸に刺さること言わないでくれる? 俺も俺なりにショック受けてるんだから……」

「お前と嫁の痴話喧嘩はどうでもいいが、右手がないとまともにナイフも握れないだろう? 左手だけでも戦えないことはないとは思うが、片腕では防御が追い付かない。今のお前を斬り込み隊長に指名するのは危険すぎると判断した。消去法で行くとこの配役しかない。何か異論があるなら聞くが?」

「はいもうオーケー、オーケー。分かったよ。それじゃ、簡単に段取り済ませて、一気にカタをつけるとしようか。まずは……」

 ピーコックの指示で、六人はそれぞれの配置についた。ロドニーとラピスラズリは合葬墓を挟み込むように左右に展開し、いつでも突撃できるよう体制を整える。ゴヤとマルコは、それぞれ狙撃に最適な場所を求めて茂みの中を移動。シアンは他の合葬墓の陰を渡って移動し、問題の墓まで十メートルほどの距離にまで近づいた。

 元の場所に残っているのはナイルとピーコックの二人。最初に動くのは、やはりナイルのゴーレムである。

「一機だけステルス状態を解除して、徐々に高度を下げてくれ。視界に入って何も反応が無いようなら、視覚が麻痺しているか、無生物には反応しないか、個々に独立した意識が無い可能性がある。まずは相手のリアクションを見たい」

 ピーコックの指示に、ナイルは軽く頷いて見せる。

 一機がふっと姿を現し、白服ゾンビたちの真上に位置取る。ホバリング状態からゆっくりと降下をはじめ、ゾンビたちの見つめる先、地下への出入り口に近付いてゆくのだが――。

「……? 反応しないな……」

「どうする? このまま地下に入るか、それともゾンビに触れてみるか……」

「中途半端に刺激して出入り口をふさがれたら、地下の様子は見られなくなるよな? 先に地下を見ておこう」

「了解。そのまま地下に降りろ」

 ナイルの指示に従い、偵察ゴーレムは地下空間へと進入する。

 ゴーレムの撮影した映像は、ナイルの手の上の魔導式端末に転送されている。ピーコックとナイルはその映像を見て、内部構造を把握していくのだが――。

「……いや、しっかしさあ、本当にホラー感ゼロだよな? ちゃんと照明も点いてるし……あ、なるほど。二重扉で外気を遮断して、中は除湿されてるのか。扉のロックは……?」

「オートロックだけど、内側からなら鍵無しで開けられるタイプだね。作業員の閉じ込め事故防止のため、ってところかな?」

「ナイル、壁を映してくれ。照明や換気のスイッチは?」

「え~と……いや、なさそうだ。空調は一括管理じゃないかな? 照明のほうは、たぶん扉と連動して点くタイプだと思うけど……まずいよピーコック。この扉、つっかえ棒も南京錠もつけられそうにない。ゾンビを閉じ込めておくには魔法でロックするしかなさそうだけど……」

「遺体の防腐処理魔法って、《封魔結界》と同系の呪文だよな?」

「うん。有資格者にしか使えない、最上級魔法だね。俺たちが戦闘中に使う《封魔結界》《魔法障壁》《物理防壁》を足して合わせてもっと高級にした感じ? なんたって遺体が常温で腐らないくらい、外的影響を完全に遮断する呪文なわけだし……」

「……みんな、今の非常に残念なお知らせ、聞こえていたよな? 話をまとめると、この地下室はゾンビを閉じ込めておける構造ではない。そしてこのゾンビは、ほぼ無敵だ。魔法も打撃も効かないぞ。できる限り戦わない方向で事態の打開を試みよう。いいな?」

 イヤホンから聞こえるピーコックの声に、ロドニーは思わずつぶやいた。

「マジかよ……」

 マルコもゴヤも、ラピスラズリもシアンも、各々「そんな」「マジッスか」「笑えねえ」「チッ」と反応している。

 ピーコックは全員に情報が共有されていることを確認してから、ナイルに次の指示を出す。

「遺体が出てきたのは、その壁からだよな? もう少し寄ってみてくれ」

 偵察ゴーレムが近づいたのは、一番奥にある壁面収納のような場所である。半開きになった引き出しがいくつもあって、そのすべてに識別用の番号札が貼り付けられている。

「なるほど。壁一面に引き出し式の遺体収容ラックがあるのか。王立大学の研究室と変わらないな」

「外にいる人数は五十六人だったよね? ラックの数は縦五段、横二十列だけど……」

「……一致する。引き出しが開いているのは五十六か所だ」

「でも、他の引き出しにも遺体は入っているみたいだ。ゾンビ化して外にいるのと、動かない死体と、その差ってなんだろう?」

「性別でも年齢でもなさそうだよな。体格も色々、種族もまちまち……っと、いや、待てよ? バリエーションが豊富って時点で、なんかおかしいよな? 普通の身元不明遺体ってのは、徘徊癖のあるお年寄りとか、ホームレスとか、コールガールとかダウンタウンのごろつき共で……」

「あ! そうだよ! 妙に恰幅の良いおじさんとか、普通の主婦っぽい背格好のゾンビもいた! 死ぬ直前まで健康的な生活をしていないと、あんな体つきにはならないと思う」

「……とすると、やっぱりあのゾンビ連中、ベイカーと同じか?」

「記憶から消えちゃった人たち? 五十六人も?」

「……他のラックも開けてみよう。地上に出たゾンビが地下を見つめたまま動かないということは、この部屋の中に何かあるのかもしれない。マルコ王子、サラを貸していただけますか? ナイルのゴーレムでは神的存在は感知できません」

 ピーコックの要請に応え、マルコはサラを行かせた。

 サラは水中を泳ぐように優雅に体をくねらせ、スイスイと空中を進んで行く。そして他の偵察ゴーレムに混ざり、地表面から十五メートルほどの高度から地上の様子を窺う。

(サラ? どうでしょう? あの方々には、いずこかの神か天使が憑いておられるのでしょうか?)

 離れていても、マルコとサラの間には心の声での会話が成立する。サラは体を傾け、首を傾げているさまを表現する。

(カミサマはいないみたいだけど……近くまで行って、もっとよく見てくるね)

(サラ、気を付けてくださいね。ボスウェリアのときのように、急に動き出すかもしれませんから……)

(うん、わかった)

 ハラハラしながら見守る一同の前で、サラはゾンビの一体にそっと近付く。すると変化が起こった。サラが纏う青い光に当たった瞬間、その一体だけが、ぱたりと倒れたのだ。他のゾンビはそのことに反応しない。何をするでもなく、同じ姿勢でその場に立ち続けている。

 サラは別の一体、また別の一体へと近付いていくが、どのゾンビもまったく同じだった。青い光に触れ、倒れ、そしてそのまま動かなくなるのだ。

 ピーコックとナイルは顔を見合わせる。

「これはひょっとすると……あのゾンビそのものには、何の仕掛けもないってことか?」

「っつーことは、問題は薄っすら見えてる黒い霧のほう? 足元の地面に何かあるのかな……?」

「ナイル、モグラ型のゴーレムは出せるか?」

「もう出してるよ、ここに到着したときにね。今は合葬墓のコンクリート壁沿いに移動しているところだけど、何の異変も感知していない」

「それなら、偵察ゴーレムを高度五メートルまで近付けてみてくれないか?」

「残り二十三機、全部?」

「ああ。一機では反応しなくとも、数が増えれば何か反応があるかもしれないし……」

 と、二人が相談しているときである。

 状況が変わった。

 サラが近づいても倒れないゾンビがいた。そのゾンビはまっすぐにサラの目を見て、小さく唇を動かしている。

 それに対し、サラも何かを語り掛けているように見えるのだが――。

「ナイル!」

「……いや、音声は何も感知していない。心の声、とかいうヤツで話してるんじゃないか?」

「マルコ王子?」

「いえ、私のほうには何も聞こえていません。サラはあの方だけと話をしています」

「……あいつは……誰だ?」

「ここからじゃ、顔が見えないね……」

 ナイルはゴーレムたちを操作し、ゾンビの顔が真正面から見えるように高度を下げた。

 徐々に近づいていく偵察ゴーレム。逆光のため映りが悪いのだが、少しずつ、その顔が分かっていく。

 手元のモニターを見ていたピーコックは、男の顔を確認した瞬間、全員に向けて叫んでいた。

「警戒しろ! その男がレクター・メリルラントだ!」

 叫んだ瞬間、ピーコックの脳裏に何かが過った。

 それはとても懐かしい場所で、自分と仲間たちは、誰かを囲んでパーティーをしているようで――。

(……えっ……?)

 ほんの一瞬浮かんだ光景は、次の瞬間には幻のように消えていた。

 ピーコックはナイルを見るが、彼には何の異変もないらしい。ナイルはメモ用紙に、恐ろしいほどの速度で術式を書き込んでいく。

「戦闘用……いや、エリックとアスターの従兄弟なら、耐電性能を引き上げておかないと一撃でやられるだろうな。護衛用の数を多めに……」

 他の仲間たちも『あのメリルラント兄弟の従兄弟』ということで、雷撃対策として防御系呪符を起動させているようだ。

(……なんだ? 俺だけなのか? 俺は今、何を思い出しかけた……?)

 人に説明できるほどはっきりとした感覚でもない。ピーコックは何事もなかったかのように次の指示を出す。

「王子、このままサラに交渉役をやってもらいます。俺の言うことを、そのままサラに伝えてください。……王子?」

 マルコが返事をしない。通信妨害かと思ったピーコックだったが、シアンの声で原因を知る。

「ピーコック! サラの様子がおかしい! そちらのモニターに何か映っているか⁉」

 慌ててモニターを確認すると、サラの体の周りにはうっすらと黒い霧のようなものが発生していた。

「な……闇堕ちにっ⁉」

 神と器は一心同体。サラが『闇』に囚われたのなら、サラと同調状態にあったマルコにも、何らかの影響が及んでいるはずである。

「サラの周囲に黒い霧を確認した。シアン、サラを回収しろ。できるか?」

「やるしかないんだろう?」

 淡々と答え、シアンは動く。

「《封魔緊縛符》、発動!」

 シアンが発動させたのは、犯罪者の身柄を移送する際に使用する魔力封じの呪符だった。しかし、対象はあの死体たちではない。シアンは自分自身の体に《封魔結界》と《緊縛》に相当する拘束魔法を作用させたのだ。

「え⁉ 何を……⁉」

 驚くピーコックであったが、魔力の鎖はシアンの自由を奪ってはいない。胴体、左右の腕、両足に個別に巻き付き、鎖帷子のような防具と鞭のような武器の両方を兼ねるような形状で固定されている。

「改造呪符か⁉」

 この手の呪符は製作者によって性能にばらつきが出るものだが、どれだけ安物の呪符でも、一応は魔法省が定めた『法定呪符規格』に準じた仕上がりになっている。《封魔緊縛符》の場合、移送中の罪人の身体的自由を確実に奪えるよう手足を拘束し、本人の魔法使用及び外部からの魔法的・呪術的干渉を一切遮断することが合格基準となる。

「拘束しないように設定を変えるだけで戦闘用呪符に……こんな使い方を思いつくなんてな……」

「それがシアンだよ! 情報部最強戦力の二つ名は伊達じゃない!」

 なぜか自分のことのように得意げな顔をするナイルに、ピーコックは生温い視線を向ける。騎士団入団から何年経っても、ナイルは相変わらず、シアンの熱烈なファンであるらしい。

「……お熱いことで……」

「え? なんか言った?」

「いや、なんでもないよ?」

 確かに《封魔緊縛符》を使えば物理的にも魔法的にも『直接接触できない状態』が作り出せる。その状態でなら、神的存在の加護を得ていないシアンでも闇堕ちとの近接戦闘も可能となるだろう。ということは、シアンは回りくどいことはせず、最短距離を狙うはずだ。

 ピーコックの想像通り、シアンは進路上にいる死体の群れを突き飛ばし、真っ直ぐサラの元へ突き進んだ。だが――。

「……チッ!」

 この呪符で防ぐことが出来るのは、せいぜい死体が纏う黒い霧まで。それ以上の『闇』には対抗しきれない。伸びた芝のせいで隠れていたが、地表面を覆っているのは、もはや霧とは呼べないほどに濃度を増したコールタール状の『闇の沼』だった。

 動きの鈍ったシアンを見て、すかさずナイルが援護に入る。

「《呪霊清浄符》発動!」

 これは悪霊や正体不明の化け物が出現した現場での『事後処理』に使う呪符である。霊そのものを浄化する効果はなく、現場に残ってしまった瘴気や呪詛を取り除くために使用する。本来であれば、現場で戦闘中に用いることはない呪符なのだが――。

「っしゃあ! 予想通り! 効いてる、効いてるぅっ!」

 シアンの周囲から『闇』が消えた。しかし、発生源自体を除去したわけではない。急いで離脱せねば、再び黒い霧に絡め捕られてしまう。

「ナイル!」

「OK!」

 詳しい説明など必要としない。ナイルはシアンの挙動を見て、トンボ型のゴーレムを六体放つ。

 シアンは地面を強く蹴り、ほぼ垂直に跳び上がった。そしてその体が上昇から下降に転ずるほんの一瞬の間に、シアンの足元にトンボ型ゴーレムが滑り込んでいる。

 ゴーレムに掛けられた魔法と《封魔緊縛符》の効果とが反発し合い、シアンは真上に弾き飛ばされた。

「よっ……!」

 空中で二段ジャンプしたシアンは、宙に浮かんだままフリーズしているサラを掴み、ナイルが滑り込ませた二体目、三体目のトンボゴーレムを蹴って方向転換する。そして四、五、六体目のゴーレムを使って、一度も着地することなく現場を離脱する。

 シアンはそのままラピスラズリの元に駆け寄り、サラを預けた。

「こいつと王子を連れて離脱しろ」

「一人で大丈夫か」

「問題ない。俺よりこの金魚と王子の毒抜きを急げ。何らかの精神攻撃を受けたはずだ」

「っ! 後ろ!」

「⁉」

 完全に不意を突かれた。いつの間に現れたのか、シアンの背後に真っ黒な化け物がいた。その姿は地球でベイカーが量産した、あのモンスターと瓜二つである。

(クソ……ッ!)

 防御も攻撃も間に合わない。直後に感じるであろう打撃による激痛に歯を食いしばった、そのときだった。

「うううぅぅぅるあああぁぁぁーっ!」

 横合いからのドロップキック。シアンに襲い掛かったモンスターは、駆けつけたロドニーによって真横に吹っ飛ばされた。

 間一髪のところで防がれた不意打ちだったが、攻撃はこれだけではなかった。

「んだコラァッ! どっから湧いて出やがった⁉」

 ラピスラズリは懐にサラを隠しながら《火炎弾》と《衝撃波》を連射する。この二重属性攻撃により、モンスターのうち一体は撃破された。だが、しかし。たかが一体だ。このとき彼らは既に数十体のモンスターに囲まれていた。

 咄嗟に《防御結界》を発動させるシアン。三人はその中に納まり、闇雲に体当たりしてくるモンスターを観察する。

「なんだ? おい、こいつら、本当にどっから出た? ロドニー、お前、出るとこ見たか?」

「見てません! 気付いたときには、一体がシアンさんに突っ込んで行ってました!」

「シアンも、見てねえよな?」

「見てたら避けるさ」

「だな」

 いつ、どこから発生したのか分からない。人狼とフェンリルの鼻でも、このモンスターのにおいを認識することは出来なかった。カラカルの耳でも、真後ろに迫る敵の足音や呼吸音を聞き取ることは出来なかった。五感のうち既に三つ、視覚、嗅覚、聴覚が役に立たないと分かった以上、すべきことはただ一つである。

「ピーコック! この状況は分が悪い! 撤退だ!」

「王子とサラだけじゃない。おそらく、俺たちも『闇の毒気』とやらに当てられているぞ」

「おいピーコック⁉ 聞こえてねえのか⁉」

 ラピスラズリががなり立てるが、通信機からの応答はない。まさかと思った三人は、申し合わせたわけでもなく同時に動いた。

「《銀の鎧》!」

「《灼熱音波(ヒートソニック)》!」

「《大嵐(ギガストーム)》!」

 シアンは魔力でできた鎧を纏い、ラピスラズリは風と炎の複合技でモンスターたちを薙ぎ払う。そしてロドニーは強風によってシアンの体を押し出す。シアンはカタパルトに乗せられた戦闘機のように、一気に加速してモンスターの群れを抜けるのだが――。

「うおっ⁉」

「あだっ⁉」

 シアンは《防御結界》を解除していない。これは術者を中心に球状に展開される物理防壁であるため、魔法は何の抵抗もなく素通りする。だが、ロドニーとラピスラズリの体は物理的に存在する『物質』である。術者であるシアンが移動すれば、《防御結界》の壁に張り付いた状態で一緒に運ばれてしまうのだ。

「ッテェ~ッ!」

「後頭部打ったぁーっ!」

「うっせえ黙ってろ!」

「ハイすみません!」

 複数人で安全圏に入ったまま移動できる便利な技ではあるのだが、見た目はまったくよろしくない。間の抜けたポーズで透明な壁に貼り付けられたままの高速移動から、急停止により前方へ大きく投げ出されるロドニーとラピスラズリ。ただ一人綺麗に着地したシアンは《防御結界》を解除し、二人には見向きもせずに、まっすぐピーコックとナイルの元へ駆けてゆく。

(クソ……俺たちに影響が出ているということは、あの場所に留まった二人にも……っ!)

 おそらく自分たちは、初手からしくじっていたのだろう。相手に気取られぬようにと風下に隠れたあのときから、既に判断を誤っていた。

 偵察ゴーレムで探りを入れていた時間は十分以上。風に乗って流れてきた黒い霧を『有毒ガス』と考えるなら、それを一番長く吸い続けたのは誰か。現場に最も近付いたのはシアンだが、シアンはナイルの《呪霊清浄符》で一旦『解毒』されている。あの時点で闇の毒素はかなり薄められたに違いない。ロドニーとラピスラズリは合葬墓の横方向に移動していたため、それほど長い時間毒素を吸引していない。

 気になるのははじめから墓地にいたゴヤだが、彼は援護射撃を入れるために風下から外れている。万が一茂みに隠れたまま行動不能に陥っているとしても、全く動かず物陰に潜んでいるのだから、モンスターには発見されていないだろう。

(まあ、それは王子も同じだろうが……『神』と同調しているというのは、いったいどういう状態なんだ? まさか、もう死んでいたりしないだろうな……?)

 シアンがピーコックらの状況を確認しに行ったのと同時に、ロドニーとラピスラズリも次の行動に移っていた。

「ロドニー! ここは俺たちで食い止めるぞ!」

「はい!」

 立ち上がって振り向いた時には、モンスターはもうすぐそこまで追いついていた。

「《バスタードドライヴ》!」

「《風装・二式》!」

 ラピスラズリは足元に魔力の車輪を出現させ、攻撃速度のアップを図る。ロドニーはモンスターに直接触れずに攻撃できるよう、両手足に風の鎧を纏った。

 人狼とフェンリルは同時に地を蹴り、モンスターの間を右へ、左へ駆けまわる。

「焼き尽くせ! 《火炎旋風(バーントルネード)》!」

 超速移動しながら次々と放たれる炎の竜巻。ラピスラズリの攻撃により、あっという間に三十体以上のモンスターが仕留められた。

「ウラァッ! おとなしく消えとけっつーの!」

 ラピスラズリの攻撃範囲から外れたモンスターは、ロドニーが個別に対処に当たる。打撃の瞬間に超圧縮した空気を炸裂させ、モンスターの体を粉砕。一体につき一撃で確実に仕留める。

 だが、やはりベイカーのときと同じだった。倒しても倒しても、あとからあとからモンスターが現れる。マルコやピーコックから聞いて知っていたとはいえ、この大量発生には人狼もフェンリルも及び腰にならずにはいられない。

「何がどうなってやがる! どっから湧いてんだ、こいつら!」

「ベイカー隊長がやらかしたときは、黒い稲妻に撃たれた虫や鳥がモンスター化したそうですけど……」

「虫なんかいるか⁉」

「いません! つーかこの墓地、害虫いなさすぎじゃないですか⁉ 今七月ですよ⁉ 真夏の草地に一匹も虫が飛んでないって異常ですよ!」

「……まさか!」

 ラピスラズリは足元の芝生を蹴りつけ、一部を掘り返した。するとそこにあったのは普通の土ではなく――。

「これは……」

 異様なほどに真っ黒な土は、粘り気のあるタールのようなものにまみれている。

「闇……ですよね……?」

 二人は自分の顔から血の気が引く瞬間を自覚した。

 自分たちが足を置いているこの地面のすべてが、はじめから闇に汚染されていたのだ。いったい、どこからどこまでが闇に覆われているのだろうか。少なくとも問題の合葬墓とその周囲五百メートルほどの範囲では、虫も鳥も見かけていない。人間ですら五感がおかしくなるこの環境で、体の小さな生き物たちがまともに活動できるはずもなく――。

「……まさかこいつら、どこからともなく現れたわけじゃなくて……」

「……はじめから、芝生の上にいた……?」

 ラピスラズリとロドニーはモンスターと戦いながら、それぞれ自分の足元に虫の姿を探す。そしてロドニーは芝にしがみついたバッタを見つけ――。

「うぅ……ホントごめん!」

 ロドニーはバッタを踏みつけた。当然、踏まれたバッタは死んだ。バッタから魂が抜け出た瞬間、空っぽになったバッタの体に『闇』が流れ込み、ほんの一瞬でモンスターに姿を変えてしまった。

「やっぱり!」

 ロドニーは空気を圧縮して足場を作り、階段を駆け上るように空中へ逃れた。

 それを見たラピスラズリもすぐに同じようにして、空中でロドニーと合流する。

「何か分かったのか⁉」

「はい! バッタの死体がモンスターに化けました! 俺たち、気付かないうちに虫を踏んで殺してたんですよ! その虫の死骸が、『闇』にとって都合の良い憑代になってて……」

「ってことは何か? 俺たちは、自分でこいつらを量産してたってことか?」

「そうです!」

「クソが! じゃあ、ずっとこうやって浮いてるしかねえのか!」

「まあ、その、これならとりあえずモンスターからの攻撃は受けないと思いますし……って、うわっ⁉」

「なんだっ⁉」

 突如飛来したのはエリックがよく使う雷属性の魔法、《雷火》である。空中の二人に向け、握り拳大のエネルギー弾が無数に撃ち込まれる。

「《火装・二式》!」

 ラピスラズリは全身に炎の鎧を纏って、ロドニーを庇うように進み出る。

 雷属性の攻撃は火炎属性の魔法で相殺出来る。雷雲の真っただ中に放り出されたのなら話は別だが、《雷火》程度の電圧ならば、《火装》の通常効果でも十分に防ぎ切れるのだ。

「ロドニー! 俺の後ろに隠れてろ! あいつ、ただのゾンビじゃねえ……っ!」

 ラピスラズリの視線の先にいるのはレクター・メリルラントである。その目、その顔は、他のゾンビたちとは明らかに様子が違う。生きた人間そのものの意思を持った目で、まっすぐにラピスラズリを見つめ――。


〈かかって来いよ、ケント・スターライツ。〉


 声に出してはいない。前半は作戦行動用のハンドサインで『襲撃』『こちらへ』。後半部分はラピスラズリが唇の動きを読めることを知ったうえで、彼の本名を口パクで呼んだのだ。

 ニヤリと釣り上げられた唇。目を細め、心底楽しそうに笑いながら《雷火》をぶっ放す危険な友人の姿に、ラピスラズリは何かを思い出しかける。

(……なんだ? 俺は、昔、こいつと……?)

 そう、友人だったのだ。

 彼と自分が友達であったという、その事実だけは思い出せる。それなのに、彼についての何もかもが思い出せない。

「……レクター……メリルラント?」

 その名を口にしてみても、ちっとも実感がわかない。自分は、そんな名前で彼を呼んだことがあっただろうか。

 混乱するラピスラズリに、レクターは遠慮なく《雷火》を撃ち込んでくる。だが、どれも本気の攻撃ではない。もっと急所を狙えるはずなのに、ギリギリ防げる程度の火力と照準で、こちらを試すように連射を続ける。

「……ったくよおっ! おい! なんだてめえこの野郎! 挨拶も抜きでとりあえずぶっ放してくるんじゃねえ! こっちはてめえが何モンだったか思い出せてねえんだ! ちょっとは遠慮しろってんだボケが!」

 この言葉に、レクターはフッと表情を陰らせた。そして《雷火》の連射をやめ――。

「じゃあ、思い出させてやるよ……《雷霆(スピリタス)》!」

「っ⁉」

 ラピスラズリは反射的に爆発を発生させていた。雷系最速・最長距離攻撃《雷霆(スピリタス)》。五十メートル程度しか離れていないこの距離では、回避も防御も間に合わない。この攻撃から身を守るには、自爆まがいの爆発を発生させて攻撃の威力を削ぎつつ、爆風で真横に吹っ飛ばされるしかない。

 だがラピスラズリには、それが罠であることも分かっていた。

(ロドニーッ!)

 咄嗟に起こした爆発は非常に小規模なもの。自分一人を弾き飛ばすだけで精一杯だった。背中に庇っていたロドニーは《雷霆》の射線上にいたはずだ。

(クソ! 直撃か⁉)

 確認はできない。レクターは《雷霆》を撃った直後に《バスタードドライヴ》を使い、ラピスラズリに向かって駆け出していた。

 速度は互角。戦闘種族同士の戦いは、真正面からのぶつかり合いになったら何より打撃力がモノを言う。フェンリルと雷獣であったら、フェンリルのほうが圧倒的に有利なはずなのだが――。

「⁉」

 効いていない。

 拳も膝も、確かに急所に極まっている。手ごたえは確かにあるし、打撃の瞬間、レクターの体は衝撃で押し戻されてもいる。それなのに、なぜダメージにならないのか。

 理由を考えて愕然とする。

(さっき言ってた、あれか⁉)

 遺体の保存用に使われる魔法は《防御結界》と同系のもの。外的要因を一切受け付けない状態にすることで防虫・防腐効果を出しているのだ。当然、遺体を損壊する目的で斬りつけても傷もつかない。殴った程度でダメージになるはずが無かった。

(じょ……冗談じゃねえぞ! こいつ、ガチな『無敵ゾンビ』かよ! そんなん、どうやって倒したら……っ⁉)

 攻略不能。その事実にラピスラズリが気付いたことを、レクターは見透かしていた。

「どうだケント。『敵わない』って、思ってくれたか?」

「んだと、この……っ!」

 俺を舐めるなよ。

 そんな言葉をそのまま攻撃に変えたかのような一撃は、拳に圧縮空気と炎を纏った右ストレートだった。ヒットの瞬間、圧縮された空気を解放。同時に着火し、大爆発を巻き起こす。

「うっ……!」

 指向性を持たせた爆発はレクターの体を大きく後方へ弾き飛ばした。

「どうだこの野郎! 見たか!」

 しかし、爆風が収まったと同時にラピスラズリは自分の敗北を悟る。レクターは倒れておらず、当たり前のように平然とそこにいた。そして大親友に向けるような優しい笑みを浮かべ――。

「冗……談だろ……?」

 そう呟くのが精いっぱいだった。いつ撃たれたのかも分からない。左わき腹に直撃した《雷霆》。感電した体は自由が利かず、ラピスラズリはその場に倒れ込む。

(クソ……俺の行動パターンは、何もかもお見通しってことかよ……!)

 意識を失う直前、ラピスラズリは視界の隅にロドニーの姿を見た。

 ロドニーも《雷霆》によって感電し、地に伏している。完全なうつ伏せ状態で倒れ込んでいるため、顔は見えないのだが――。

(……あれ? あいつ、なんであんなに手が赤いんだ……?)

 血のように赤い肌。それだけが、ラピスラズリの心に強く焼きつけられた。

 ラピスラズリは、そのまま意識を失った。




 ピーコックとナイルの元へ向かったシアンは、想定外の相手と交戦していた。

 それは顔も背格好も、何もかもがレクター・メリルラントと瓜二つの男で――。

「規格外レタス大放出!」

「っ⁉」

 本人が叫んだ技名通り、いびつなレタスが飛んできた。飛来した十五玉のレタスを難なく回避したシアンだったが、足を踏み出した先の地面が、なにやら妙な感触である。まるでよく耕した畑の土のように柔らかい。

「出でよ、レタス!」

「うわっ⁉」

 突然、足元からレタスが生えてきた。だが、それだけだ。レタスはレタスなので、食虫植物のように粘液を出すことも、消化液を蓄えているということも無い。

「な、何だ⁉ これは攻撃……なのか⁉ わけの分からんヤツだな!」

 シアンは次々に生えてくるレタスを避けながら、とにかくこの場を離脱しようとする。しかし、足場が悪い。畑のような場所で全力疾走しても、フカフカの土では踏ん張りが効かない。

「く……だったら……」

 圧縮空気で足場を作って空中を移動しよう。そう考えたシアンの行動を、この敵は完全に読んでいた。

「レタス畑の平和は我が守る! 防鳥ネット展開!」

「んなっ⁉」

 突如として頭上に現れた農業用防鳥ネット。シアンはネットに突っ込み、漁網にかかった魚の如く、無様に絡まり地に落ちた。

「な、なんだこれは⁉ おい! お前は何者だ⁉」

「我はレタスの守護神だ!」

「レタス⁉」

 なぜそんな農業神がこの場に現れるのか。さっぱり訳が分からないシアンだったが、とにもかくにもこの状況を脱することが先決だ。風の刃でネットを切り裂いて素早く立ち上がると、足元のレタスを蹴り飛ばし、自称・レタスの神にぶつけた。シアンはこの一瞬の隙をついて、ペガサスタイプのゴーレムホースで飛んで逃げてしまおうと考えたのだが――。

「があっ⁉」

 雷に撃たれた。

 レタスの神は何もしていない。その場に仁王立ちしたまま、倒れたシアンを見下ろしている。

(何が起こった? 今、どこから雷撃が……⁉)

 はじめて受けた攻撃なのに、この雷撃は以前見た気がする。どこで目にしたものかと考えて、シアンはハッとした。

 これはコニラヤがオフィスで食らっていた『裁きの雷』と同じものだ。

(そうか……俺は今、神の前で『食べ物』を蹴り飛ばしたから……)

 そう、これはレタスなのである。わざわざ食用として品種改良を施したこの植物は、自然界の一部とは言い難い。人間の食糧にするために栽培された植物を粗末に扱うことはけっして許されない行為だ。

 レタスの神はゆっくりとシアンに歩み寄り、哀しそうに語りかけてくる。

「やはり、まだ思い出せないのだね?」

「……何を……?」

「レクター・メリルラントのことだ。あと、ついでに我も」

「ついででいいのか? 神なんだろう?」

「まあ、神ではあるが、今となっては守護する畑を失った野良神だ。シアン……いや、ランディ・ヤン。頼む。我の器、レクターのことを思い出してやってくれ。君が彼を思い出してやらねば、彼はこの世界に戻ってこられない」

「……戻って……?」

 やはりあの男は神だの天使だのといったオカルトな話で存在が消えてしまったのかと納得すると同時に、シアンの胸に、一つの疑問が浮上する。

 「ついでに我も」ということは、自分は以前からこの神を知っているのだろうか。

 まさかと思ったシアンは、この神に名を尋ねた。するとこの神は、何とも渋い顔をして頭を掻いてみせる。

「正式名称を名乗っても、そもそも君が記憶しているかどうか……我が名はセテカステカセトゥテーベタイフォンだ」

「……申し訳ないが、もう一回頼む……」

「セテカ、ステカ、セトゥ、テーベ、タイフォン! 大丈夫! 全部覚える必要はない! 長くて面倒で、自分でも『セト』というニックネームを名乗っていた時代のほうが長い!」

「なら、セトでいいのか?」

「そうだな。以前も、君は我をそう呼んだ」

「……セト……セト……ん? セト……?」

 名前を口にするたび、胸の奥に何かが沸き起こる。


 記憶だろうか。

 感情だろうか。

 衝動だろうか。


 正体も分からぬその『何か』に言って聞かせるように、シアンはもう一度その名を読み上げる。

「……レクターのバディの……セト……?」

 ドクン、と、何かが脈打った。

「⁉」

 自分の中に何かがいる。自分とは違う、もう一つの意思が――。

「……まさか……俺にも、何か憑いているのか……?」

 セトは頷く。

 その表情、仕草、気配――何もかも、自分は知っている。それどころか、このシチュエーションは――。

「……教えてくれ。この世界は……今この状況は、お前にとって『何度目』だ? お前は何回、この状況をやり直している……? 俺は……俺は前回も、こうしてお前に……?」

 セトは静かに頷き、哀しげな声で答える。

「そう、君は我に名を問うた。けれども何も思い出せなかった。だから我らは何度もこの状況をやり直すことになって……もうこれで七度目だ。君がレクターを思い出してくれれば、君の仲間たちの記憶も、連鎖的に甦るはずなのだが……」

「……思い出せない場合は、またリセットか?」

「いいや。残念だが、これが最後の挑戦だ。もう我らに打てる手はすべて打ち尽くした。集められる神はすべて集めたし、使えそうな状況はすべて使った。あとはただ、君か、他の誰かが、この場でレクターを思い出してくれれば……」

 セトの言葉が終わらぬうちに、合葬墓のほうから黒煙が上がった。

「……始まったようだな。前回と同じだ」

「始まったって……何が……」

 それはよく見れば煙ではなかった。まるで煙のように立ち上る、恐ろしいほどの量の瘴気。そしてその中心には、マガツヒ化したロドニーがいた。

 血のように赤い肌、黒い髪、額から突き出た角。筋骨隆々とした体は、元の身長の二倍はあるだろうか。瘴気はそんな化け物の足元、闇に汚染された地面から吹き上がっている。

「……何が起こっている……?」

 シアンの問いに、セトは淡々と答えた。

「世界の整合性が崩れたのさ」

「……? それはどういう意味だ?」

「そのままの意味だよ。『レクターという人間』が世界から消滅したからこそ、世界の整合性は保たれていた。だが、レクターには我が憑いていた。レクターを消してしまったことで、我はレクターごとこの世界から除外された。しかし『セト』という名の神がいたことを、我と共にあった神々は記憶している。このままでは世界は整合性を保つことが出来ない。だからそれらの神々も消されることとなった。けれども、神が消えたらその器はどうなる? 憑代は? 守護されていた対象物は?」

 シアンは少し考え、顔を歪めて答える。

「何もかも、消すもやむなし……そう判断を下したのか? 創造主が?」

「いや、主はそんなむごいことはされないさ。世界には人間が知りえない安全装置や自動調整システムが色々あってね。それらが勝手に作動して、結果として、こんなに大勢の神と器を消去してしまったわけさ」

「そんなモノのどこが安全装置だ? ひとつも調整できていないじゃないか」

「そう、そこなんだよ。オートメーションで調整可能な『不具合』は、本来とても小さなものを想定していた。だからある程度以上大きな『不具合』が発生すると、システムそのものの挙動がおかしくなる。整合性を保とうとすればするほど、世界はどんどんおかしくなっていくんだ。そして今日、その歪みは限界を迎えた。今、この場には『世界の裂け目』がある。システムの『一斉更新』によって消された神々が、その裂け目を通って次々と世界に舞い戻ってきている。もうこの流れを止めることは出来ない」

「……神なんて、この場のどこにいる? 俺にはどす黒い『闇』しか見えていないが……」

「それが消された神さ。正確には、その成れの果てだがね。本人には何の非も無いのに、整合性を保つために理不尽にゴミ溜めに放り込まれた。その悔しさと口惜しさで、彼らは世界を呪う『闇』そのものに変じてしまった」

「しかし、それならばなぜお前とレクターは堕ちていない? なぜそのままの姿でここに舞い戻れたんだ? お前たちだって条件は同じだろう?」

「いいや、違うね。我らは自らの意思で世界の表層から消えることを選んだ。ランディ・ヤン、よく考えてみてくれ。特務部隊の遠征ミッションはトライセルが基本ユニットだろう? メリルラント兄弟は三人。近距離戦、中距離戦、長距離戦を得意とする三人が、それぞれ偵察ゴーレムと戦闘用ゴーレム、看護用ゴーレムを使いこなす。同じ環境で生まれ育った兄弟同士、連携も抜群だ。わざわざ一人外して、別の隊員と組ませるかい?」

「……ん? とすると、まさか、問題の日に地球にいたのは……?」

「そう、エリック、アスター、レクターの三人だ。残念ながら、アスターはクロノスのリセットでも救いきれない運命にあった。こちらの世界に帰ってからしばらくして、アスターは脳死状態に陥った。吸い込んだ闇の毒素が強すぎたせいだな」

「それなら、なぜ今アスターが生きている? なぜレクターのほうが消えたんだ?」

「我とレクターが、アスターの運命に割り込んだからだ。我はレタスの神。生涯のうち一度でもレタスを口にしたことがあらば、その者は我の信徒であると拡大解釈することもできる。我が世界から消えれば、信徒らも消されることになるが……さて、この国でレタスを食べたことがない人間は、はたしてどれだけいるだろうね?」

「……よほど辺境の人間以外は、ほぼ全員お前の信徒ということになるワケか?」

「その通り。我々はアスターの死を食い止めるため、彼の運命に割り込みを掛けた。その結果、システムはアスターの代わりにレクターを消してしまった。そのことによって、連鎖的に我とその信徒、つまりはこの世界の大多数の人間がこの状況に強引に引きずり込まれたというわけだ。世界の歪を大きくすればするほど、その不具合は小さな修正では誤魔化しきれなくなる。システムは誤作動を繰り返し、どんどん収拾がつかなくなる。そうして作り出されたのが、今この状況だ」

「ということは、お前らはわざとマガツヒなんて化け物を作り出したのか? いったい何を企んで……」

「見れば分かるさ」

「……?」

 セトが親指でひょいと指し示したのは、自身の『器』、レクター・メリルラントである。

 レクターが両手を広げると足元の地面から幾筋もの闇が立ち上り、それぞれに人の姿を形作っていく。そしてその『闇のゴーレム』はレクターの指示に従い、統率された動きでマガツヒに向かっていった。

「……なんだ、あれは……」

「『闇』や『呪い』と呼ばれる負のエネルギーそれ自体に意思はない。『用途が限定されていないエネルギー』という点では、電気やガスと大差ない代物だ。闇堕ちやマガツヒはそれを取り込むことで自身の力に変えている。なぜそんなことが出来るかといえば、彼らが闇と全く同じ属性にあるからだ。我とレクターはそのことに気付き、逆に利用してやろうと考えた。同じ属性になれば使えるのなら、なってやろうじゃないか、とな……」

 本能的に闇を取り込み、獣のような挙動で襲い掛かるマガツヒ。それに対し、闇のゴーレムで陣形を組み、組織的に迎え撃つレクター。マガツヒと闇ゴーレムとでは攻撃力も耐久力も圧倒的な差がある。しかし、それを補って余りある『兵法』により、戦局は序盤からレクターの優勢である。

「……まさか……まさかあいつは、世界のシステムそのものと戦うために、あえて『動く死体になる』なんて荒業を……?」

「そういう気質の子だからね。まあ、ここまでは計画通りに事が進んだわけだ。問題はここから先なのだよ。せっかくシステムエラーを利用して世界のラスボスを出現させて、一般市民を誰一人危険に晒さずそいつを倒しても、誰もレクターを思い出してくれなかった。それどころかレクターは『怪物どもの総大将』と認識され、命を懸けて守った仲間の手によって封印されてしまった。世界を救ったヒーローに対して、いくら何でもあんまりな仕打ちだと思うだろう? だから我は主に直談判して、この時間軸の『やり直し』を要求した。それが一度目の挑戦の顛末だ」

「それなら、二度目は?」

「一度目にこの場にいたのはロドニーとラピスラズリだけだった。二度目にはピーコックが増えていた。三度目にはさらにナイルが。四度目にはゴヤと王子様が加わって、五度目は王子様の相方がサラではなく玄武にチェンジされていた。でも、何度やっても、誰もレクターを思い出さない。王子様と四神の力で闇を浄化すれば状況が変わるかとも思ったけれど、何の変化も無かったんだ。それで、これがラスト、七度目の挑戦だ。もう後が無い最後の挑戦に、主は君を遣わした。それでも六度目は失敗だった。今は前回とまったく同じ状況なのだが、君は今、これが『やり直された時間軸』だと自覚できている。だから、本当に君が最後の希望ということなのだと思う。頼む。思い出してくれ。我が器、レクター・メリルラントが君たちと共に過ごした時間を」

「……そう言われてもな……」

 シアンには、それがいまいちピンとこない。

 一緒に過ごした時間があったのだろうということは分かるのだが、その内容はと考えても、何ひとつ出てこないのだ。

 透明なインクで書かれたメモを、解読用の薬液も特殊ライトもなしに読まされているような――道具さえあれば一瞬で解読できるのに、その道具が手元にないようなもどかしさを感じていた。

「……なあ、神は、自分の記憶を直接他人にコピーできるのだろう? お前の記憶を俺に写せば、それで思い出したことにはならないのか?」

 この質問に、セトは肩をすくめる。

「そんなの、もう何度も試したよ。『ちょっと待ってくれ、この子は敵じゃない。この記憶を見れば分かるだろう?』ってね。でも、みんな信じてくれなかった。『偽の記憶を植え付けて洗脳する気か』と言われてしまったよ」

「……それは、もうお前らが『敵』と認識されて、交戦状態にあったからじゃないか? そんな状況で『記憶をコピーする』なんて怪しげな技を使われたら、誰だって疑うと思うが……?」

「なるほど、確かに。君は冷静だな。やはり君こそが主の遣わした希望の星だ。さあ、シアン! もとい、親愛なる友ランディ・ヤン! 君の友人、レクターのことを思い出してくれ!」

「いや待て。だから、俺はそういう最後の希望だとか勇者だとかキラキラ系な役どころは似合わないタイプなわけで……というか、俺としても思い出す気はあるんだ。ヒントとしてお前の記憶をコピーしてくれ。そこから色々と思い出すかもしれない」

「分かった。では……」

 額にそっと触れた指先。その感触をシアン本人が感じたかどうか――記憶をコピーされた瞬間に、シアンの意識は、シアンの中にいる『何か』に浸食されていた。


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