そらのそこのくに せかいのおわり 〈 vol,09 / Chapter 02 〉
七月二十八日、月曜日。前週に発生した大小さまざまな事案の事後処理のため、特務部隊には土曜も日曜も存在しなかった。週明け一発目の朝礼は、第一声から空気が重い。
「貫徹連勤ご苦労様です。通常始業時刻になってしまったので、一応、マニュアル通りに朝礼を始めます。あ、いや、立たなくていいぞ。いくつか連絡事項を読み上げるだけだから、座ったまま聴いてくれ。え~と、今日の連絡事項は……」
そう言いながらベイカーは手元の紙に印刷された文字列を読み上げる。
「えー、まずは総務から……本部敷地内でボイラーや変圧器の原因不明の不調が相次いだため、安全装置を設置することになりました。廊下の蛍光灯が点滅していても、勝手に交換しないでください。安全装置のシステム上、どこか一か所でも電灯を抜くと異常として感知され、フロア全体が停電する恐れがあります。蛍光灯の交換が必要と思われる場合は総務にご連絡ください。……ということなので、何かあったらとりあえず総務に連絡しろ。面倒なら気付かなかったフリで適当にスルーだな。で、次は……」
クリップボードに挟まれたコピー用紙を捲り、二枚目の紙に手書きされた文字を読み上げる。
「これは情報部からだな。本部庁舎一階に売店がオープンします。開店予定は八月八日、朝八時。『商品ラインナップについてのリクエストは一階エントランスに設置されたリクエスト用紙回収箱まで! ものすご~くマニアックなもの以外はだいたい取り寄せ注文可能です!』……ということだ。取り寄せできない物の一例としてエロ本とラブドールが記載されているが、オナホとコンドームは記載されていない。情報部の特別監査と個別生活指導を恐れない勇者はリクエストしてみろ。おそらく本当に注文できるぞ。えーと、次は……」
三枚目の用紙に目を通して、軽く首を傾げてから連絡事項を読み上げる。
「この字は団長からか……? 特務部隊オフィスの向かい側に情報部の特別出張オフィスが出来るので、情報部員が本部庁舎内をうろついていても驚かないように。で、あともう一点が……長期療養中だったエリック・メリルラントとアスター・メリルラントの両名が本日付で特務部隊に復帰する。昼までに二人のロッカーとデスクを用意するように……?」
読み上げたベイカーも、ベイカーの声を聞いている隊員らも、全員、何を言われているのか分かっていない。睡眠不足により、判断力と理解力が闇堕ち以下にまで低下しているのである。
着席したまま始めたグダグダな朝礼だったが、全員、首を傾げながら立ち上がり、ぞろぞろとベイカーの席に近寄ってくる。
「え? マジですか? マジで復帰? いまさら?」
「エリック先輩が?」
「正式復帰ということは、自分たちと同じく通常任務に……?」
ロドニー、キール、ハンクの疑問に、ゴヤとレインが別の疑問を被せる。
「でもそれかなりヤバいッスよね? 元カレが上司で大丈夫なんスか? 部隊内恋愛禁止になったガチ事案じゃないッスか……?」
「名目上の復帰……ですよね? あの二人が現場復帰なんて言ったら、一体いくつのファミリーが報復戦を仕掛けてくるか……」
メリルラント兄弟によるアジト強襲で主要な活動拠点を潰された反社会的勢力は十や二十はくだらない。彼らは歴代特務部隊員の中でも一二を争う『潰し屋』であり、裏社会への影響は計り知れないものがある。二人の特務復帰を公にすれば、何らかの動きがあることは間違い無い。
「ん~……でもこれ、囮や撒き餌に使うには、ちょっと大きすぎるネタのような気が……? あの、副隊長? 本人たちから何か聞いてないんですか?」
「はあぁ~? ちょっとチョコぉ? ど~してアタシが元カレのアレコレまで把握してなきゃなんないのよぉ~? それってノンケのカップルだったら遠慮して訊かないところだったりしない~?」
「あ、すみません! その、え~と……」
「ゲイもニューハーフも別れたらそれっきり! 赤の他人よ! ちょっとサイトちゃん! アンタ曲がりなりにも隊長なんだから、団長から何か聞かされてたりしないの⁉」
「いや、特に何も……おいゴヤ。昨日お前、一度自宅に戻ったよな? 団長は何か仰っていたか?」
「いえ、俺、昨日は団長に会ってないんスよ。家にいたの母さんと家政婦さんだけで、とりあえずお茶だけ飲んで宿舎に戻ってきた感じで……」
「マルコ! 先週、エリック先輩をジェフロワのところに連れて行ったよな? 何か聞いたか?」
話を振られたマルコは、眠そうな顔をしたまま答えた。
「特には無かったと思いますが……あ、ですが、少々気になることは話されていましたね……」
「気になること?」
「はい。何か、二年前の記憶がどうとか……」
「具体的に、どんな話だ?」
「どんな、と聞かれましても……」
掻い摘んで要約できるような話でもない。マルコは馬車の中で交わされた会話の記憶を、玄武の力を借りて全員にコピーする。
クエンティン子爵領に向かう途中、エリックは何気ない様子で、世間話のように話しかけてきたのだ。
「そういえばよぉ、王子様は、地球に行ったのはあれが初めてだったんだよな?」
「はい。そうですが?」
「率直に、どう思った?」
「ええと、そうですね……まず、街並みに驚きました。魔法が一般的でない惑星では、あのような文明が発展するのですね。こちらの文化様式とは異なることが多く、戸惑うことばかりで……」
「だよな? 初めて行くと、そんな感じだよな?」
「はい。落ち着いて話す時間も無かったので、あちらの人々の民族性などはよく分からないままなのですが……機会があれば、また行きたいと思います。あの、それがどうかされたのでしょうか?」
「いや……なんと言うか、二年前あたりの記憶が、妙にこう……異物感があって……」
「異物感?」
「ああ。俺は、今回初めて新宿に行ったはずなんだ。けど……本当によく分かんねえけど、前にも行った記憶があるんだよ。路地裏で死にそうになってたボロボロの小娘を医療用ゴーレムに治療させて……その小娘と一緒にぶっ倒れてたピンク髪のパンクっぽい小僧が、どう思い出してもザラキエルで……」
「行っていないはずの場所で、出会っていないはずの人と会話した記憶……ですか?」
「気持ち悪いだろ? こっちの世界に戻ってから、急に思い出したんだぜ? まさかと思ったんだが、あの集団記憶喪失のことを考えると……」
言葉を濁すエリックだったが、マルコには通じた。彼が何を言おうとしているか、詳しく説明されるまでもない。彼らはサイト・ベイカーという人間が人々の記憶から消えたところも、一度失われた記憶が一瞬で復元されるところも、すべてその目で見ているのだ。
しかし、エリックの記憶が『一度は失われた記憶』なのだとすると、非常に不可解な点がある。それは太古の昔から一匹狼だったザラキエルが、いったい誰と一緒にいたのかということだ。
「エリックさんの記憶では、地球にいたころのザラキエルさんは『誰とも慣れ合わない一匹狼』ではなく、人間と一緒に行動していたのですね?」
「ああ。中学生か高校生くらいの小娘で、ザラキエルと同じ顔だった。おそらく、あの天使の『器』として創られた人間だぜ」
「ザラキエルさんの、器……?」
「記憶が断片的過ぎて前後関係がよく分かんねえんだけども……なんか、滅茶苦茶ひでえことがあった気がするんだよ。で、その場に俺もいたような記憶もあって……」
「もしや、二年前にも今回のようなことが起こっていたのでしょうか?」
「可能性はあるんじゃねえかと思ってんだが……」
「そう……ですね。しかし、だとすると……」
マルコは考えた。ベイカーの周りには、自分を含めて複数名の『神の器』と『憑代』がいた。だからこそ全員が一斉に記憶を失うことを回避できたのだ。それに加えて、ベイカーは元から有名人だ。特務部隊長として、剣士として、大富豪の一人息子として、女王の愛人として、やり手の実業家として――様々な分野においてその名を轟かせている。ネーディルランド国内で彼を知らない者はいない。そんなベイカーだからこそ、名前を聞いて、写真を見せられて、その存在を思い出すことが出来た。しかし、もしもこれがベイカーではなく、ほぼ無名の一般人だったらと思うと――。
「……誰からも思い出されないまま、この世界から消えてしまった人間がいる……ということでしょうか?」
マルコは自分で発した言葉に鳥肌を立てた。誰からも忘れ去られ、存在自体が消えてしまう。そんな悲劇が起こっていたという、その事実そのものが『無かったこと』になってしまうのだ。もしかしたら自分の家族や友人も、この世界から消えてしまっているのかもしれない。そして自分はそのことに気付かず、のうのうと『今の世界』を生きているのかもしれない。
最悪な可能性に思い至ったマルコに、同じような表情のエリックが問う。
「……なあ、王子様? 俺の兄弟は、おそらくはじめからアスターひとりだと思うが……あんたの兄弟は、本当に兄貴一人か?」
マルコは静かに首を振る。
分からない。
あの集団記憶喪失を目の当たりにした後では、自分の記憶すらも信じることができなかった。
「……もう一度確認させてください。現状、エリックさんの中には、二年前にザラキエルさんと遭遇した記憶があるのですね?」
「ああ……だが、俺にはこの記憶の『正当性』を証明する手段が無い。そこで、王子様に相談だ。あの天使に、二年前の八月三十一日の行動を訊いてみてくれないか? 新宿の路地裏で、『美麻』って名前の小娘と一緒にいなかったかって」
「ミマさん、ですね?」
「ああ、美麻だ。確かにそう聞いた。名前以外は、何を聞いたか覚えてねえけども……悪いな王子様。妙なこと頼んじまってよ」
「いえ……私も、ザラキエルさんとはもっと色々と話をしなければと思っていましたから……」
そう、確かに馬車の中でそんな話をした。そして本部帰還後ザラキエルに話を聞こうとしたのだが、彼は情報部のほうで徹底した検査と尋問を受けていた。かなり効き目の強い薬剤を投与されていたようで、特務部隊に返された後も、ザラキエルは心身ともに弱り果てていた。話は彼の体調が戻ってからと思い、結局、まだこの話題を切りだせていないのだが――。
そこまで思い出したあとで、マルコは「あっ!」と声をあげる。
「エリックさんは、ご自分の公的記録を参照するために特務復帰を願い出たのかもしれません! その後の雑談でも、ご自身の家族構成に何か引っかかることがあるような口ぶりでした!」
寝ていないせいで、マルコも他の隊員も反応が鈍い。皆それぞれ、理解して驚くまでに微妙な時間差がある。
「え、つーか、だとしたら俺らも自分の家族構成から調べ直したほうがいいんじゃねえか⁉ 俺、本当にハドソン家の次男かどうか不安になってきたぜ……⁉」
「そうッスよね……? 兄弟や友達が消えていても、記憶ごと消滅してたら……」
うろたえるロドニーとゴヤに、キールが言う。
「中央市民がサイトの顔と名前を忘れても、新聞記事や写真は消えていなかった。おそらく、消えるのは人間の記憶だけだ。もしも消えた家族や友人がいるとしても、俺たちがその人の存在を思い出すことができれば、この世界に呼び戻すことも可能なんじゃないか?」
「そうだよな⁉ じゃあ、まずは俺ら全員、自分と家族の確認から始めようぜ! 自分の身内には問題が無えって確認しとかねえと、安心して動けねえっつーの!」
「そーッスね! 隊長! 俺、ちょっと中央市役所行ってくるッス! 特務全員分の身元証明書の発行、俺が代理手続しちゃって大丈夫ッスよね?」
「ああ、任せた。五親等以内の親戚筋まで記載されたヤツだぞ。略式だと本人のデータしか記載されないからな」
「了解ッス!」
ベイカーは委任状の代わりにIDカードを取り出し、ゴヤに手渡す。これは騎士団本部内で使用する個人IDカードではなく、公的機関での書類発行時に提示する『特務部隊としての代表IDカード』だ。たいていの窓口では、このカード一枚で特務部隊員全員分の代理手続が可能である。
「それじゃ、行ってきまーす!」
ゴヤがオフィスを飛び出していくと、全員でのザラキエル探しが始まった。
「ザラキエル! どこだ⁉ おーい! ザラキエール!」
「ちょっとぉ~! ザラキエルちゃ~ん? 出てらっしゃ~い! キール、ハンク! 二人でそっち探してちょうだい!」
「はい! ……それにしても、目立ちそうで目立たないよな、あの鳥。ピンク色してるくせに……」
「ああ、本物の鳥と違ってピヨピヨ鳴かないからな。ロドニー、トニー、匂いで探せないのか?」
「無茶言うなよハンク! 天使は無臭だっつーの!」
「鳥のくせに美味そうな匂いがしない。あいつじゃラーメンの出汁にもならない。レイン、触手で探せ」
「もうやってますよ! 昨日と一昨日はこの辺の棚でじっとしてたんですけど……いませんね? チョコのほうはどうです?」
「こっちにもいないぜ~! その辺の机の下とかは? よろけてゴミ箱に落ちちゃったとかじゃない? インコや文鳥はけっこう間抜けなことやらかすし……」
「まさか、私のように窓辺でうたた寝をして溶けてしまったのでは……」
「太陽光で溶けるのは深海魚だけだぞレイン。なあマルコ? さっきまで一緒にいたよな?」
「あ、そういえばいたよな! マルコ! ザラキエルどこだ⁉」
ベイカーとロドニーに訊かれ、マルコは蒼白な面持ちで自分のデスクのほうを指差す。すると全員が視線を向けた先、マルコのデスクの隣に置かれた作業用の台に、死んだようにピクリとも動かない桃色の鳥がいた。
「ザラキエル⁉」
「おい! 死んだのか⁉」
オオマシコという野鳥によく似たその鳥のまわりには、先ほどまでおこなっていた書類の穴開け作業の残骸が散らばっている。彼は嘴を使って保存用書類を一枚ずつパンチにセットし、それからパンチのハンドル部分に飛び乗って穴を開けるという『重労働』に従事していた。そのせいで体力が底をついてしまったようなのだが――。
「あの、ザラキエルさん? 起きてください。起きて……その……ザラキエルさん……?」
恐る恐る、ピンク色の天使に声を掛けるマルコ。隊員らも、作業台の周りに集まってザラキエルの様子を窺う。
天使の翼を失った影響で、彼は一日のうちほんの数時間しか人型に戻れない。それでもマルコの仕事を手伝いたいと言うので、書類の穴開け作業だけを続けてもらっていたのだが――。
「……起きませんね……」
「……なあ、これ、本当に大丈夫か? 完全に白目剥いてるぜ……?」
ロドニーにつつかれても反応が無い。胸に触れれば心臓の鼓動は感じるので、生きてはいるらしいのだが、それにしてもひどい顔である。
だがしかし、鳥に化けている天使の正しい手当の仕方なんて、この場の誰にも分からない。各々、自分のバディである神や神獣、女神に話しかける。
「タケミカヅチ? 大丈夫なのか、これは……」
「分からん。翼を自切した後に他の神に体を再構築された天使なんて、これまで見たことが無いからな」
「ねえツクヨミ? これって治癒魔法掛けちゃって大丈夫なのかしら?」
「ただの疲労……だと良いのだが、それ以外の原因で倒れているのだとしたら、迂闊な魔法は掛けないほうが良いだろうね」
「ゲンちゃん、ザラキエルさんの体の状態を診て差し上げることは可能ですか? 朱雀さんも、鳥のような姿の神獣だったのでしょう?」
「ん~……どうだろう? 鳥は鳥だけど、スーちゃんとは見た目も大きさも全然違うし……ちょっと無理かも……?」
「サラにも?」
金魚とよく似た形の青い魚は、全身を使って『無理!』というジェスチャーをしてみせる。
他の神と女神らにも、『対天使医療』の心得はないようだ。
「ふむ……参ったな。これでは話を聞くどころか……」
「放っておいたら死んじゃいそうよねぇ……」
「でも、何をして差し上げればよいのか……?」
首を傾げているベイカー、グレナシン、マルコの三人に、キールが軽く手を挙げて見せた。
「うん? なんだ?」
「何か分かるの?」
「鳥類の飼育経験がおありでしょうか?」
「いや、そうではなくて……この天使、ずっと実体化しているよな? ユヴェントゥスやボナ・デアのように、人間と接触したいときだけ実体化するわけではなく……」
「そう言われてみれば、そうだな? タケミカヅチも、今は霊体だし……」
「ツクヨミも、普段は実体化してないわね」
「ゲンちゃんとサラも、移動するときは実体化を解いて私の中に入っていますが……それが何か?」
「その、なんというか……こいつは実体化したくてしているのかと疑問に思ったんだ。実体のままで動き回っていたら、人間と同じようにエネルギーを消費するような気がするのだが……」
「エネルギー……?」
「翼を自切して、創造主からの力の供給が途絶えているんだろう? うちの国には、ザラキエルに信仰心を寄せる信者もいない。それならこの天使は、どこから、どうやってエネルギーを得ているんだ?」
言われて誰もがハッとした。
誰か、この鳥に餌をやったか――?
玄武とサラが食糧を必要としないので、ザラキエルも同じようなものだと思っていた。あの二柱が野菜や果物を食べているのは、あくまでも『娯楽』の一種である。食物から取り込んだ栄養素で身体機能を維持しているわけではない。しかし、ザラキエルは自分の意思で創造主から賜った力、背中の翼を切り落としてしまったため、何らかの手段で外部からエネルギーを補給する必要があり――。
「ロドニー先輩! 確か昨日『動物さんビスケット』を箱買いしてましたよね⁉」
チョコの言葉に、ロドニーより先にベイカーが反応する。
「どうせ『ノビータとドナテルロ』のキャラクターステッカー目当てだろう⁉ ステッカーを抜いた後のビスケットはどこにやった⁉」
ロドニーのデスクにベタベタ貼られたステッカーを見れば、買ったビスケットをすべて食べていないことは一目瞭然である。こんなに大量のビスケットを自分の胃袋一つに収めることは出来ない。
「え、えーと、そのうち食べようかなーと思って向かいの空き部屋に……」
という声とほぼ同時に、オフィスの外から何かが雪崩落ちる音が聞こえてきた。スナック菓子のセロファン包装特有の、ガサガサとうるさいあの音である。
「なんだこれっ⁉ 動物さんビスケット⁉ ……っておい! もしかしてこれ、全部外袋開封されてんのか⁉ 湿気るぞ! つーかカビ生える!」
「ファアアアァァァーック! あのクソガキ、またくだらねえステッカー集めにハマりやがったな⁉」
その声に、ベイカー以下一同、先ほどのグダグダな朝礼を思い出した。
向かいの空き部屋に、情報部の特別出張オフィスが出来る。
その文言が脳内に再生された瞬間、上の世代との交流に乏しい隊員とそうでない隊員とで、反応が真っ二つに分かれた。
ベイカー、キール、ロドニーが恐ろしく機敏な動きで衝立の裏に隠れると、直後にオフィスの扉が開け放たれた。
「おいロドニー! てめえ今度は何をどんだけドカ買いしやがった⁉ ドッキリマンチョコで懲りたんじゃねえのか⁉ ああっ⁉」
すらりと背の高い黒髪の男は、そう怒鳴りながらロドニーの隠れた衝立にまっすぐ歩み寄っていく。
「おぉ~い、ロ~ドニィ~? その程度のかくれんぼで、フェンリルの鼻が誤魔化せるとでも思ってんのかぁ? あぁ~?」
言うのはそれだけだ。出て来いと言うでもなく、衝立を退かすでもなく、男は仁王立ちでロドニーが出てくるのを待っている。
もう無理だ、隠れていられない。
そう思ってロドニーを蹴り出したのはベイカーだろうか、キールだろうか。ロドニーは誰が見ても『後ろから蹴られた』と分かる不自然な動作で、衝立の裏から転がり出てきた。
「で? これは何かな? ん?」
男が抱える両手いっぱいのビスケットを見て、ロドニーは狼耳をピコピコさせながら、上目遣いで言い訳を試みる。
「や、その、え~と……そのうちまとめて食べようかと……」
「ほ~? ドッキリマンチョコのときもソレ言ってたよな? 外袋開けて、保存容器にも入れずに段ボール箱に隠して、それでどうなったんだっけなぁ?」
「ゴ……ゴキブリ大発生……」
「ゴキだけだったか?」
「アリとか……ダニとか……ダンゴムシ? あと、よく分からない羽虫も……」
「いまだに旧本部地下が虫まみれなのは誰のせいかなぁ~?」
「お、俺のせいです……あ、でも! この前地下が水没したから、たぶんあれで死滅して……」
「してねえよ! 水から逃げてきたのがみんな地上階に上がってきてんだよ! 機密エリアに駆除業者入れるわけにいかねえから、情報部が駆り出されてんだっての! なんで俺らが殺虫剤の散布なんかやらされなきゃなんねーんだ! ああっ⁉」
男に叱責され、ロドニーは心底怯えた顔をしている。上の世代と交流が無い隊員たちにも、その顔でおおよその推測は出来た。どうやらこの男は『ドッキリマンチョコ事件』の後、ロドニーの『お仕置き係』を担当していたらしい。
この国のオオカミオトコをむイヌ科種族の頂点に立っているのはロドニーの父・ハドソン伯爵だが、その分類系統に含まれず、ハドソン伯爵家の家名が何の武器にも楯にも使えない相手がいる。一つはトニーのケルベロス族で、もう一つがこの男のフェンリル族である。この二種は『独立種』と呼ばれ、他のイヌ科種族とは遺伝的な共通項を持たない。そして他の種族と手を組まずに生き残っただけあって、とにかく強い。彼らは生粋の戦闘種族であり、天性のハンターである。
一対一で面と向かって、自分より強くて大きなフェンリルに凄まれているのだ。ロドニーはあっけなく降伏し、『ぽひゅっ』という間の抜けた音を立ててオオカミの姿に変化した。
白い腹を見せて涙目で許しを請う親友の姿に、マルコは頭を抱える。
「ロドニーさん……食べ物を粗末に扱ってはいけませんよ……」
マルコのそんな声に、男は今さら気が付いたかのように向き直り、恭しく頭を下げてみせた。
「おっと、これはこれは王子様。ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。情報部コードブルー所属のラピスラズリと申します」
「マルコ・ファレルです。あの、向かいの部屋が特別出張オフィスになるというのは……」
「決定事項ですよ。と言っても、俺も地方任務から戻ったばかりで状況が呑み込めてないんですけどね? 概要は同僚から聞かされてはいますが……」
そう言って振り向いた先には、同じくコードブルー所属の情報部員、ピーコックがいる。彼とマルコとはこれまでに三度も共闘した間柄であるが、だからといって仲良くなったわけでもない。
ピーコックは面倒くさそうに説明を引き継ぐ。
「ま、おおよその想像はついていると思いますが、俺たちの主な任務は特務部隊の監視です。表向きはダウンタウン再開発に関する諸問題への対応部署。実際にそっちのお仕事もこなす予定です。で、それと同時進行でこの亀とか、窓辺の魚とか、デスクの上でひっくり返ってるピンクの小鳥ちゃんの言動も監視する、と」
喋りながら、ピーコックは足元に寄ってきた玄武を抱き上げている。玄武は無邪気に喜んでいるが、マルコは内心、玄武が何かされるのではないかと気が気でなかった。
そんなマルコの視線に気付き、ピーコックはニヤリと笑い、玄武を上下逆さまにして床に降ろした。
「うわぁ! 何するのさ! 起きられないよ!」
足をばたつかせる玄武を慌てて抱き起し、マルコは抗議する。
「ピーコックさん! ゲンちゃんをいじめないでください!」
「え~? ちょっと遊んであげただけですよぉ~?」
「サマエルさん!」
呼ばれて飛び出た黒い蛇は、目にもとまらぬ速度でピーコックの後頭部をどつく。
「イタッ!」
蛇はどこからともなく現れたわけではない。その尾はピーコックの右手の袖口に続き、彼の右腕と継ぎ目無く自然に繋がっている。
この蛇は人為的に作り出された疑似生命体で、その名を『バンデットヴァイパー』という。魔法、科学、錬金術などの技術を併用することによって作り出された寄生型武器であり、宿主の脳波と連動、自在に形状変化してその活動をサポートする。現在は諸事情により、天使サマエルの『器』として使われているのだが――。
「このゴミクズめ。無抵抗の動物を虐待する人間に生きる価値などない。地獄に堕ちろ」
宿主をサポートするどころか、殴り飛ばして罵倒する。しかし、罵られているはずの宿主は至福の笑みである。
「んも~、サマエルちゃんってば、そんなに俺との結婚が待ちきれないのぉ~? 俺ってば超愛されてるぅ~!」
「黙れスケベ中年。絞めるぞ」
「え、マジで? 最愛の彼女に抱きしめ殺されるって幸せ過ぎじゃない? むしろ大歓迎なんですけどっ⁉」
「この……ああっ! もう! おい、誰かこの発情期の猫をどうにかしてくれ! 耐えられない! ストレスで発狂しそうだ!」
「うんうん、そうだよね! こんなに近くにいるのにラブラブエロエロできないなんて、我慢できなくて当ぜ…」
「ちっがあああぁぁぁ~うっ! あああぁぁぁ~っ! なぜ主はこのような決定をぉぉぉ~っ⁉」
スケベ中年と毒牙を持った大天使様は創造主公認のカップルである。ピーコックの唐突かつ一方的なプロポーズに押し切られる形で、なし崩し的に婚約が成立してしまった。その現場を生で目撃していたレインとマルコは、生温い目で二人の夫婦漫才を見守る。
「ピーコックさんってば……」
「わざとやっていますね……」
基本的に、天使は真面目で正直な性格をしている。口を開けば皮肉と毒舌とセックスジョークが飛び出す情報部員とは全く合いそうにないものだが、どういうわけかこの二人は誰の目にもお似合いの『ラブラブ馬鹿ップル』として映っていた。
同僚の夫婦漫才を華麗にスルーして、ラピスラズリはオフィス内にいる神々に話しかけ、名前と顔を確認しはじめている。彼には神も天使も憑いていない。それなのに彼は当たり前のように神々の姿を見て、言葉を交わし、なんと握手までしていた。ベイカーがどういうことかと問うと、ラピスラズリは当然のように胸を張った。
「フェンリル族の伝承が本当だった。それだけのことだな」
「伝承?」
「我らフェンリルは人にあらず。荒ぶる神の子孫なり。いつの日か天上の月がこの地に降りるとき、我らは目覚める。盟約を交わしたケルベロス、バアル、ラミア、アスタルテと共に、剣を持ち戦うだろう……ってな。なかなか胡散くせえ伝承だろう?」
「とすると、お前はアスタルテ王家と同様、神の直系の子孫ということか? 道理で他の人狼系種族と遺伝的共通項が無いわけだな……」
なにかを考え始めたベイカーは、思いついたようにピーコックに声を掛ける。
「ピーコック、お前の本名は『ケイン・バアル』だったな? バアル家に類似の伝承は?」
「あるよ。ラピんとこのフェンリオン家とそっくり同じ伝承が語られている。だからおそらく、俺がその『剣を持って戦うバアルさん』で間違いない」
「ケルベロスも?」
問いかけられたトニーは、首を傾げながら答える。
「俺が教えてもらったのは……『無責任なカミサマがみんな眠ってしまったので、不用心だと思った黒犬は起きていることにしました。こうして黒犬は、カミサマたちを守ることになったのです』……という昔話です」
「うん? ケルベロスは眠っていないのか?」
「はい。黒犬団のボスにはいつでも会えます」
「黒犬団のボス?」
「黒犬を創っている神です。名前は知りません。『パパさん』とか『おやっさん』とか呼ばれています」
「あー……なんだ? お前にもバディがいたのか?」
「バディ……というより、『おやっさん』です。俺はその神に守られているわけでも監視されているわけでもなくて……会いたくなったらフラッと帰る、実家の父親のような感覚です」
「主従関係なのか?」
「いえ、ただのブリーダーと犬の関係なので、俺がご主人様だと思っているのはベイカー隊長だけです」
「では、お前は『うちのワンコ』ということで、間違いないんだな?」
「はい」
「そうか、それなら良い。来い! トニーッ!」
「ワン♪」
「ワフゥ♪」
「アォン♪」
何の躊躇いもなく犬の姿に変身して遠慮なくモフモフされにいったトニーを見て、誰もが思った。「お前、やっぱり人じゃなくて犬なの?」と。そしてモフモフしているベイカーを見て思った。「いや、そこはもうちょっと掘り下げて聞けよ!」と。だがしかし、神経の接続がどこかおかしいのがこの飼い主様とお犬様である。周囲の視線と心境などまったく構うことなく、自分たちのペースでグイグイと話を進める。
「ところでサマエル。俺の知る限り、『バアル』という神はそちらの神族とは敵対関係にあったはずだが?」
尋ねられたサマエルは、蛇の姿のまま面倒臭そうに答えた。
「敵対はしていない。イスラエルの民が聖書の記述を整理した際、バアルを悪、ヤハウェを善と定義したことによる誤解だ」
「ならば、仲は良かったのか?」
「嵐神バアルと我々とでは与えられた『役割』が異なる。あまり遭遇することもない間柄だ。仲が良いとも悪いとも言い切れない」
「わりとご近所さんなのに、遊びに行ったりしなかったのか?」
「神が自分の守護エリアを離れて遊びまわるわけが無かろう。世界周遊ツアーに出ていたのは大和の神々くらいだ」
「なに? そうなのか、タケミカヅチ」
ベイカーが振り向くと、タケミカヅチとミカハヤヒ、ヒハヤヒの三柱は実体化し、ハムスターのような挙動で『動物さんビスケット』を齧っていた。幼児向けビスケットの素朴な味付けが気に入ってしまったらしい。
「……ひょっとして、観光じゃなくてグルメツアー?」
この問いに、指名を受けたタケミカヅチだけが食べるのをやめて答えた。
「まあな。現代のように気軽に立ち寄れる外国料理店が無かったのだ。カレーやシチューを食おうと思ったら、現地まで足を運ばねばならぬ。グルメツアーに出るのもやむを得んことだ」
「まあお前ら、どうせ戦争の神だしな? 平和なときにはとことん暇なんだろう?」
「その通り。我とミカ、ヒハヤは戦争という特異な状況にのみ必要とされる。それ以外はニート同然なのだが、武芸者や都の衛兵から寄せられる信仰の力はある。やることも無いのに体力だけ余っていたら、旅行にでも行くしかあるまい」
「ふむ……? ここまでハイレベルな神ニートは、滅多に見られるものではないな……」
「褒めても加護しか与えんからな」
「けち臭いことを言うな。一枚寄越せ」
「断る」
あまりに美味しそうに食べるので、ついつい自分も食べたくなる。しかし三柱の軍神様は、大人気なく体の後ろにビスケットを隠してしまった。
「おのれバカミカヅチ。食い物の恨みは忘れんぞ……」
「それはこちらのセリフだアホサイト。お前、この前我に安物の酒を供えて、自分だけヴィンテージワインを飲んでいただろう? 我にも高い酒を供えんか!」
「お前が『日本酒派だからワインの味はよく分からん』とか言うから、飲みやすさに定評のあるラファン産トーラ醸造所のロゼを選んだのだ! ワインの良し悪しは値段の問題ではない!」
「理屈は分かるが、なんかムカつく!」
「それが神のセリフか⁉」
「人間より貧乏舌だと言われたようで腹が立ったのだ! 神の精神衛生上、人間と同じかそれ以上の価格帯の酒を要求するのが、この問題の妥当な解決策である!」
「ほほ~う? 神の精神衛生というものは、随分と簡単に悪化するものなのだな?」
「食い物と酒に関しては譲れん!」
「それが神としての言い分か? 『あいつばっかりイイモン食っててうらやましい!』という人間と変わらんのではないか? んん?」
「それが悪いか⁉ 我らも心を持つのだから、その……ええい! とにかく! 今度からはお前と同じものを供えよ! 別の食べ物など用意するな! 別に、お前の食べ物より豪華な食事を供える必要は無いのだぞ⁉ 同じものなら、我は満足だからな! 今度違うものを供えたら、本気で怒るぞ! いいな⁉」
「……分かった。次からはそうしよう」
「うむ。分かればよい!」
ふんぞり返って偉そうに言ってはいるが、内容は『二人で一緒にご飯が食べたいの! 同じメニューでなくちゃ嫌なの! 違うの出したら激おこなんだからね、プンプン!』なのだ。思わず表情筋が緩みそうになったベイカーは、タケミカヅチのプライドを傷つけないためにも、必死に顔を引き締めた。
つい先週この世から消滅しそうになって以来、タケミカヅチはことあるごとに駄々をこねてくるようになった。いや、ベタベタと甘えてくると言ったほうが正しいのかもしれない。半永久的に生き続ける神と百年足らずで肉体的な死を迎えてしまう人間とでは、共に過ごせる時間はそう長くない。タケミカヅチはいまさらそのことに気付き、必死に思い出を作ろうとしているように見えた。
タケミカヅチの態度の変化には、他の神々も気付いていた。そしてそれぞれ、思うところがあったのだろう。器や憑代との接し方も、少しずつ変化しているように感じられた。特に玄武は、マルコだけではなく、他の人間たちにもたくさん話しかけるようになった。今もロドニーのところに行き、落ち込んでいる彼を必死で励ましている。
人間でさえ変化を感じているのだ。すべての感覚が人間以上に鋭い神々は、自分たち以上に、何かを感じ取っているに違いない。
そう考えたベイカーは、ふと、どうでもいいことが気になった。
「なあ、神も空腹を覚えることがあるのか?」
タケミカヅチだけでなく、他の神にも問いかけるように視線を移す。
「私は、お腹が空いたことはありませんけれど……」
そう答えたのはハンクに憑いている癒しの女神、ボナ・デアである。その声に続けて、ボナ・デアと仲の良いユヴェントゥスが言う。
「平常時にお腹を空かせる神はいないわ。食事は娯楽か、人間とのコミュニケーションのため。私たちがお腹を空かせるのは時々で……何十年とか、何百年に一度なの。神のお腹が空くときは、本当に大変な時だけよ」
「大変な時?」
「ええ。とても大変な時。場合によっては、自分が守護する人間たちを殺してしまうこともあるくらい」
「殺す? 空腹程度で? そりゃあ、腹が減ればイラつくこともあるだろうが……いくらなんでも気の短い……」
「いいえ、違うの。怒りを理由に殺すわけではないのよ。人間にとって、空腹は毎日、数時間おきに感じる生理現象でしょう? そういう空腹であれば、私たちは何も感じない。でも、本当に何日も、何十日もまともな食事がとれなくなったら、そのひもじさや苦しさは、その人間を守護する神にも流れ込んでくるわ。餓死寸前で祈った、『もう楽になりたい』という願いと一緒にね……」
「……餓死寸前……?」
ユヴェントゥスの暗い目を見て、誰もが悟らざるを得なかった。彼女はその願いを聞き届け、その人間に安らかな眠りを与えたのだと。
「……『神』というものは、どこの神族の神でもそうなのか?」
この問いかけはタケミカヅチに対してである。タケ、ミカ、ヒハヤの三柱は、ピタリと動きを止めて、暗い顔で答える。
「ああ。基本的にはどこの神族の、どんな属性の神でもそうなっているはずだ。そんな感覚だけフィードバックされても、俺たちは農耕神や食物神じゃないから、何もしてやれないのにな……」
「急に空腹感が消えて、慌てて様子見に行ったら、共食いしてたりね。応仁の乱とか天保の飢饉あたり、本当に最悪だったよ……」
「主に相談して、これ以上苦しまずに済むよう、首を刎ねてやったこともある。僕たちが地図から消した集落の数、聞きたいか?」
首を刎ねた数ではなく、消した集落の数だ。有史以来、個別にカウントすることも出来ないほどの人間が飢饉によって命を落としたということなのだろう。
三柱はロドニーをじろりとにらみ、押し殺すような声で念を押す。
「おい、オオカミのガキ。食い物は粗末にするな。貴様が買い漁ったビスケット、一枚でも無駄にしたら、そのときは……」
「僕らが頂くことで、かなり強引に『お供え物』にカウントしてあげてるだけだからね。本当だったらこれ、天罰が下るくらいの行為なんだよ?」
「貴様は首さえ繋がっていればオオカミナオシに修復される。死ぬ事は無い。何十発殴ってもなんの問題もない人間なのだが……タケぽんとミカちんが優しくて良かったな?」
真っ青な顔で震えあがるロドニーに、玄武が励ましの声を掛ける。
「大丈夫だよロドニー! 湿気始めたビスケットはね、細かく砕いて、ほんのちょっと牛乳入れて、チーズケーキの土台に使っちゃえばいいんだよ! この前ラジオの『お手軽三分間クッキング』でそう言ってたもん! ほんのちょっと湿気たくらいなら、まだまだおいしく食べられるよ!」
「あー……玄武? ここ、たぶん、励ましちゃいけないところ……」
「うん、僕もそう思う……」
「ガツンと言って凹ませる。そういうシーン。三分間でお手軽にチーズケーキ作っちゃ駄目……」
「ええっ⁉ そうなの⁉」
三柱の軍神とその他大勢に一斉に頷かれ、玄武はショックを受けた様子でマルコの足に擦り寄っていった。マルコにできることは、空気を読み間違えた亀をそっと抱き上げ、優しく撫でてやることだけである。
と、ここで水槽の中のサラを観察していたラピスラズリが手を挙げた。
「ちょっと質問していいか? そこのベイカーのそっくりさん三人に聞きたいんだが……」
三柱はわずかに視線を交錯させ、長男であるミカハヤヒが回答者として進み出た。
「なにかな?」
「不躾な質問だが、そもそも、神が真面目に仕事をしていれば、飢饉なんか起こらないんじゃあないのか? 気象の神とか、水の神とか、植物の神なんかがいるんだろう? それぞれが自分の仕事をこなしていれば、何の問題も発生しないはずでは?」
ごもっともな質問に、ミカハヤヒは背筋を正して回答する。
「その通り。この世界は神や天使が己の『役割』を正しく果たすことで、何の問題もなく、うまく回っていくようにプログラムされている」
「それなら飢饉や異常気象は、カミサマのうちの誰かがサボったってことか?」
「そういうこともあるかもしれない。けれど、大抵は神ではなく、人間の側に問題がある」
「どういうことだ?」
「まず、基本的なところから説明するよ。神の力は人から寄せられる信仰心の強さと、その量によって増減する。これはその時代、その場所に最も必要とされている神により多くの力を集約するためのシステムだ。みんなが『この神の加護を受けたい』と思えば強くなるし、『どうでもいい』と思えば弱くなる」
「需要と供給……と、シンプルに考えていいのか?」
「いいよ。だけど、問題はその『需要と供給』というシステムが、単純すぎて不完全ということ。もしも君が誰かと戦おうとするとき、どんな神に加護を頼みたい? 田畑や安産の神に戦の勝利を願うかい?」
「いや、どうせ祈るなら軍神か勝利の女神に……っと、そうか。一度でも戦争が起きれば、それまでとは需要と供給のバランスが変わってしまうな……?」
「君は頭がいいね。そうだよ。軍神ばっかりありがたがると、農耕神が力を失くして田畑が荒れる。戦が長引けば、農耕神は再起不能なところまで弱ってしまうことがある。そうなったら、もうその国はおしまいだ。民は糧を得ることが出来ず、飢えて死ぬ。でも、そうなると分かっていても、神も人間も戦うことをやめるわけにはいかない。なぜだか分かるかい?」
「ああ。簡単な理屈だよな? 相手の報復が怖いんだろう?」
「正解。こちらが隙を見せれば、敵は好機とみて、嬉々として攻め込んでくるだろう。だから軍神は信仰され続ける。たとえ平和な時代が訪れたとしても、戦争に対する恐怖心がわずかでも残っている限り、軍神に注がれる信仰心がゼロになることはない」
「……ってことは、なにか? あんたらが信仰されればされるほど、人間の生活水準は低下していく……という理解で大丈夫か?」
「うん。皮肉なものだよね。神や天使なんてスピリチュアルな存在の為す事と人間の執り行う政治とが、最終的には同じ結果に到達してしまうのだから。軍事にばかり注力すると、なにかと不都合が生じるものなのさ。……とりあえず、こんな感じの説明で納得してもらえたかな? 神が自分の『役割』を果たせなくなる理由……」
「よく分かった、ありがとう」
ラピスラズリの言葉に、ミカハヤヒはホッと胸を撫で下ろした。ミカハヤヒは喋ることが苦手である。交渉事や説明といえばタケミカヅチの得意分野なのだが、タケミカヅチばかりが話をしていては、兄としての面目が立たない。時々はこうして、自分から前に出て説明役を買って出ることもあるのだ。
そんなミカハヤヒに、ヒハヤヒは小さな声で話しかける。
「頑張ったね、ミカちん」
「うん。僕よりおっきい人だから、すごくドキドキしちゃった」
「この国背が高い人ばっかりだから、なんか怖いよね」
「ねー。飛鳥時代が懐かしいよー。みんな僕らよりちっちゃかったから、全然緊張しなかったもの」
「それすごく分かるー」
こそこそと内緒話をしてはいるが、ここに居るのは神とその器、憑代ばかりだ。五感も六感も非常に優れた者たちなので、軍神らしからぬ小動物めいた発言はしっかり聞こえている。全員、笑いをこらえるのに必死である。
兄二人の小動物トークから一同の注意を逸らすべく、タケミカヅチはかなり強引にユヴェントゥスに話を振る。
「そ、そういえば! そちらのお国では、米ではなく麦が主食であったのだろう? 野菜の神と麦の神は別か? それとも、一柱の神が兼任されていたのか?」
「んー……それが、ローマの神は、あまり細かく担当を決められていなかったの。太陽神も雨の神も大地の神も、みんな豊穣神のような能力を付加されていたし……私も、『善き青年の守護神』なんて曖昧な役割でしょう? 農夫や牧童にも加護を与えていたから、豊穣神的な役割を果たしたことが無いとは言い切れないし……」
「ということは、本職の豊穣神が弱体化しても、他の神の力で補えるようになっていたのか?」
「ええ、ある程度まではね。だからこそ、ローマ帝国は繁栄できたのだと思うわ。でも……やっぱり、戦争なんてものが起こると、ろくなことにはならないわね……」
ユヴェントゥスはかつての信徒らを思い出し、哀しそうに呟く。ユヴェントゥスが信仰されていた古代ローマでも、幾度となく戦争があった。一方的な侵略や殺戮というものは非常に少なく、大抵はどちらにも原因がある領土争いだ。誰もが自分の帰属するコミュニティを発展させるために豊かな土地を欲しがった。また、その土地を手に入れなければ十分な量の水や食糧を確保できない状況でもあった。
愛する家族の生活を守るため――そのような動機によって戦うことは、通常『善行』として認められる。彼女は自分の守護対象である『善き青年』たちを守るべく、必死に加護を与えた。けれども、ローマという国は広い。敵対する集団同士が、それぞれにユヴェントゥスを信仰していることもあった。神として、自分に信仰を寄せる信徒らを理由もなく差別し、贔屓するわけにはいかない。結果、両陣営とも戦力は拮抗。長引いた戦いの末に、膨大な数の犠牲者が出ることになった。
「本当に……本当に可哀想なことをしてしまったわ。神も人も、みんな、自分にとって一番正しいことをしていただけなのに……」
ユヴェントゥスが憐れんでいるのは人間ばかりではなかった。守護女神と軍神、勝利の女神に過剰に注がれた信仰心は、農耕神や豊穣神に還元されることはないのだ。たとえ戦争が終わっても、弱り切った農耕神では戦で荒れ果てた田畑を再生することはできない。土壌や水質は徐々に悪化し、耕作地は次々と放棄されていく。やがて不足していく食糧と飢えていく人間たち。わずかな食糧を巡って更なる争いが生じ、信仰心はますます軍神たちに注がれ――そんな最悪な光景が、ユヴェントゥスをはじめ、この場にいる神々の胸にいくつもいくつも思い出されていた。
すっかり辛気臭くなった室内の空気に、そもそもの話の発端、ベイカーが頭を下げる。
「その……すまん。俺の質問は、神々にはタブーだったようだな。本当に申し訳ない……」
詫びるベイカーに、ボナ・デアがそっと手を添えた。
「気にしないで。あなたは気になったことを聞いただけ。悪いことなんて、何もしていないのですから」
ユヴェントゥスも、ボナ・デアと同じように優しく微笑んでみせる。
「そうよ、あなたは悪くない。責任を感じる必要は無いのよ。それにね、力を失って異界送りにされた神々も、今はこうして、みんなで楽しく暮らしているのよ? だから……ねえ? タケミカヅチ? そんなにサイトと一緒にいるのが楽しいのなら、そのビスケット、一枚くらい分けてあげたらどうかしら?」
「うっ……」
女神に優しく諭されてしまっては、ビスケットを分けてやらないわけにもいかない。タケミカヅチは体の後ろに隠していたビスケットの袋を差し出し、ばつが悪そうに言った。
「ウ、ウサギさんとクマさんのやつ以外なら食ってもいいぞ……」
「そうか? なら、ネコかイヌを引き当てないとなぁ?」
ベイカーはニヤニヤしながら袋に手を突っ込み、適当に一つ手に取った。しかし、袋から出てきたのはビスケットではない。
「うん? これは……マシュマロ?」
それはピンクのセロファンに包まれたハート型のマシュマロで、よく見れば、セロファンには『アタリ』と書かれている。
「なんだ? キャラクターステッカー以外にも、何かキャンペーンをやっていたのか?」
その声を聞いた瞬間のロドニーの挙動は、筆舌に尽くしがたいものであった。『ぬあー』とも『のわー』ともつかない奇声を発しながら人狼族特有の驚異的な身体能力でベイカーに迫り、いつの間にかマシュマロを奪取。皆がハッとしたときには、オフィスの隅に置かれた私物用ロッカーの前で、ロッカーの扉に貼られた雑誌の切り抜きと包み紙を交互に見比べていた。
「あ、あああ、あた、あたたたた、あたりマシュマロのハート! ピンクのハートは特賞! フェデリコ先生のサイン入りステッカーコレクションファイル! 当選者限定プレゼントのウルトラレアステッカー付き! ついに! ついに出たあああぁぁぁーっ! 夏のボーナス全額突っ込んだ甲斐があったぜーっ! ウェーヘヘェーイッ! やったぁーっ! 俺はやればできる子だよドナテルロォォォーッ! ヒャッハアアアァァァーッ!」
大人気コミック『ノビータとドナテルロ』の病的なファンの言動に、もはやかける言葉も見つからない。特務部隊員、それも貴族階級のロドニーの夏の賞与は、大卒新入社員の平均額の三倍から四倍はあるはずだ。それをすべて幼児向けビスケットの購入に充ててしまったというのだから、コンプリート欲を刺激されたオタクは侮れない。
「……マルコ、王族として、ああいう貴族に何か言ってやれ」
「いえ、ここは上司として隊長から……」
「言われる前に拒否っとくけど、アタシに話振らないで頂戴ね?」
隊長、王子、副隊長は早々にロドニーを見放した。次いで先輩であるキールとハンクも、顔を見合わせて溜息を吐く。
「そりゃあ、扉を開けた瞬間に雪崩が発生するわけだな。早く何とかしないと本当に虫が湧きそうだ……」
「食品用のストックボックスと乾燥材を買うのはどうだろう? あと、鮮度保持剤も」
「おい本気かハンク。お前それ、本気で言っているのか?」
「ああ、本気だとも。最後の一枚まで、買った本人に責任をもって食べてもらおう。食い物を無駄にするのは良くない」
「まあ、そうだが……どうしても腐りはじめたら宿舎の裏の池にでも撒けばいいか」
「ん? キール、あの池にいるのはゴライアスピラルクだぞ? ビスケットなんか食うか?」
「おそらく食わないだろうが、この前、カルガモを食っているのを見たんだ。だからまずはビスケットでカルガモをおびき寄せて……」
「なるほど、餌の餌か! キール、お前、頭良いな!」
「な? いい考えだろう? これならビスケットも無駄にならないし、ピラルクにとっても幸せなことだ!」
「そうだな! ピラルクから感謝状がもらえるレベルだ!」
いやいやどんなレベルだよ。そうツッコミを入れたくなった後輩たちだったが、先輩二人の謎の優しさはビスケットと怪魚ゴライアスピラルクに向けられている。ここで野鳥の愛らしさと保護の重要性を説いても、あまり効果はなさそうだ。
と、ここでチョコが思い出した。
「……あれ? あの、キール先輩? 俺たち池のカルガモじゃなくて、さっき、別の鳥に餌やろうとしてませんでしたっけ……?」
「ん? ……あああぁぁぁーっ! ザラキエル! そうだ! ザラキエルが餓死しそうになってて……っ!」
キールのこの叫びに、全員、曰く言い難い違和感を覚えた。
同じ室内に餓死寸前の動物がいて、これだけの人数が、うっかりその存在を忘れるだろうか?
よく目立つピンクの小鳥。ただの動物ではなく、その正体は天使なのだ。人間のように言葉も話すし、神的存在特有の気配もある。なのに、決定的に何かが欠落している。
「ザラキエル……お前……存在感無さすぎじゃないか? なんか変だぞ……?」
「はい、これあげて」
「ああ、ありがとう」
キールはミカハヤヒからビスケットを受け取ると、個包装のセロファンを剥がし、ザラキエルの口元に近付けた。
「ほら、食え。こんなもんで栄養が取れるとは思えないが……信仰心とやらは、俺たちには無いからな……」
天使としての力は回復しないだろうが、実体がある以上、食物から摂取したカロリーで体力だけは回復すると考えたのだが――。
「うぐっ……⁉ げ……げは……が……」
弱々しい動作でビスケットを口に含んだザラキエルは、のどに詰まらせてしまったのか、苦しそうにもがいている。
「お、おい、だいじょうぶか? 誰か水を持ってきてくれ!」
「あ、じゃあ、俺が……」
チョコが水を汲みに行こうとするが、ピーコックの右腕、バンデットヴァイパーが止める。
「いや、待て。水ならそこにある。コニラヤ、サラの水槽をこちらへ。ザラキエルにその水を飲ませてやれ」
「えぇっ⁉ 金魚鉢の水でいいの⁉ 新しい水汲んできたほうが……」
「竜神が身を清めた水だ。生命力を回復するのにこれ以上の薬はない」
「え? そうだったの⁉ レイン、知ってた?」
「知りませんよ! 神にも分からないことを、どうして私が⁉」
「あ、それもそうだね? でも……あー、そうか。だから最近、この部屋の観葉植物だけ異常成長してたんだ? 僕が水替え当番のとき、捨てに行くの面倒臭くて植木鉢に撒いてたんだよ~」
「私の植木に勝手に変な水掛けないでもらえません⁉ 根腐れ起こしたらどうするんですか⁉」
「レインひどーい! 変な水とか言ったらサラ傷付いちゃうよー?」
「捨てに行くの面倒とか言ってる神に言われたくありませんよ!」
「あ、そうだ! ねえレイン! どうせだからさ、この水、『元気になる奇跡の水』として売り出そうよ! 友達紹介キャンペーンとかやってマルチっぽく販路広げれば、けっこう簡単にボロ儲け出来ちゃうんじゃないかな?」
「神が神で商売するんですか⁉ しかもマルチ⁉」
「へへっ、どう? 僕、頭良いでしょ? 崇拝してくれていいよ!」
「いえ、その、なんかそれ、罰が当たりそうですけど……あ、当たった……」
どこからともなく撃ち込まれた創造主の裁きの雷により、コニラヤ・ヴィラコチャは感電。行動不能に陥った。
レインは床に倒れたコニラヤを踏み越えながらサラの水槽を運び、指先につけた水滴をザラキエルのくちばしに塗ってやる。
「自力で飲めますか……?」
「しっかりしろ、死ぬなよ……?」
不安げに見守る一同だったが、驚くべきことが起こった。
嘴の隙間から入り込んだ水槽の水。それをひと舐めした瞬間、ザラキエルは電源を入れられたオモチャの鳥のように、勢いよく動き出したのだ。
「水! 水だ! もっと! もっとくれ!」
そしてサラの水槽の縁に飛び乗り、身を屈めてごくごくと水を飲み始め――。
「……あー……ザラキエル? もう、そのくらいで満足したか……?」
「サラちゃん、ごめんね? あとで水を足しますから……」
金魚そっくりな青い魚は傾けた水槽の角で身を縮め、わずかに残った水の中に納まろうとしていた。しかし、それでも背びれの一部は水面に露出している。
自由に泳げなくなった気の毒な魚に対し、ピンクの小鳥は元気を取り戻し、今度は狂ったようにビスケットを貪り出した。
「もっと! もっとくれ! 足りない! 全然足りない! もっと食べるもの! もっと、もっとたくさん食べ物を!」
ガリガリ、ザクザクと嘴でビスケットを砕く音が響き渡る。そのあまりの食いつきように、一同、唖然として見守るよりほかにない。
ザラキエルは、そのまま五分以上は食べ続けただろうか。ある瞬間、彼は唐突に食事をやめた。そしてふと我に返ったようにあたりを見渡し、自分の周りに散らばった大量の食べかすとセロファンを見て、不思議そうに首を傾げた。
「なぜこんなに散らかっている?」
憑き物が落ちたような顔つき、本当に事態を理解していないような声色、元通り艶やかに戻った毛並み。そんなザラキエルの様子に、神々は一斉に溜息を吐いた。
「いかんな。餓鬼になっているではないか」
「天使も餓鬼と化すのだねぇ……」
「でも、この世界に彼の信徒はいないのでしょう……?」
「そのはずよね? 近くの誰かと同調しているのかしら? 誰かが飢えて苦しんでいるのなら、早く助けてあげたいわ……」
タケミカヅチ、ツクヨミ、ボナ・デア、ユヴェントゥスの言葉である。ユヴェントゥスはすぐに気付いて、自分のバディであるキールに補足説明を入れる。
「あのね、餓鬼というのは、さっき話した極度の飢餓状態で発生する闇堕ちの一種よ。凶作や貧困、兵糧攻めで飢餓に陥った人間たちの負の感情が、彼らを守護しきれなかった神を恨み、憎み、餓鬼という恐ろしいモンスターに変えてしまうの。餓鬼になった神は、食べられそうなものなら何でも食べてしまうわ」
「なんでも? もしかして、人間を襲うことも……?」
「ええ。動くものも動かないものも、有機物ならなんでも。でも、『空腹』という一過性の感覚に支配されているだけだから、満腹になれば元に戻るの」
「ということはこの鳥、また腹が減ったら、今みたいに狂ったように餌を食い始めるのか?」
「そうかもしれない。今はビスケットがあったから良かったけど……何も無かったら、誰かに襲い掛かっていたと思う……」
きょとんとした顔で首を傾げているピンクの小鳥に、誰もが何とも言えない視線を向けている。
キールは何かを考えるような顔をした後、ザラキエルを掴み上げ、おもむろに自分の肩に乗せる。
「お前、しばらく俺にくっついてろ」
「なぜだ?」
「お前が暴走状態に陥って、人間を襲う可能性があるからだ。俺ならユヴェントゥスの加護もあるし、そう滅多な事じゃあやられたりしない。みんな、とりあえずそれでいいよな?」
キールの提案に、全員一も二もなく頷いた。キールはマルコと同じかそれ以上に防御力が高い。正直な話、彼に止めきれないほどの暴走なら、他の誰にも止められないのである。
ユヴェントゥスはザラキエルの首や頭を指先で掻いてやりながら、他の神々に向けて問いかける。
「それにしても変よね? どうして餓鬼になるのかしら? やっぱり、さっきの話に出てきた『美麻』って子に関係しているのかしら?」
視線を向けられた他の神々も、それぞれに首を傾げている。だが、誰もが先ほどのマルコの話、エリックが気にしていたという『二年前の記憶』が怪しいと思っていた。
神と人間の無言の圧力を感じ、マルコは一つ咳払いし、きょとんとしているザラキエルに問う。
「ザラキエルさん。あなたは二年前の八月三十一日、どこで何をしてらっしゃいました?」
「二年前? 八月……?」
「はい。あなたがまだ、地球の天使だったころの話です」
「二年前……二年前は……変だな? 二年前、私は……?」
「思い出せませんか?」
「……そのようだ。おかしいな。そのころの記憶が、どうにも思い出せない……」
エリックは『中学生か高校生くらいの小娘』と言っていた。そしてその顔がザラキエルにそっくりだった、とも。その少女が二年前の時点で高校三年生、十八歳だったと仮定すれば、ザラキエルが自分の『器』を作ったのは二十年も昔ということになる。
その少女に関する記憶が何らかの理由で消去されているのなら、うろ覚えになっているのは二十年前から二年前まで。
マルコはエリックの話を思い出しながら、慎重に問いかける。
「では、質問を変えます。二十年前の記憶はいかがですか? 一月から十二月まで、順番に思い出せますか? 記憶におかしな点はありませんか?」
ピンクの小鳥は困惑した様子を隠しもせず、キールの肩の上をウロウロと歩き回る。
「二十年前は……ああ。思い出せる。どこで何をしていたか、一日ごとに思い出せる」
「十九年前は?」
「十九年前も思い出せるぞ。一月から順番に、毎日……ん?」
肩の上を行ったり来たりしていたピンクの鳥は、ピタリと動きを止めた。
「何か、おかしいところがありますか?」
「……十二月九日、土曜日。私は、結婚式場でカラコレエルという天使に一組の夫婦を紹介されて……?」
「カラコレエルさんですか⁉」
「知っているのか?」
「婚姻の誓いに立ち会う役割を持つ天使……ですよね? エナガの姿の……」
「ああ、そうだ。私はあの天使から、愛に溢れた素晴らしい夫婦を紹介されて……なんだ? 私は、それから……?」
「記憶が無いのは、そこから二年前の八月三十一日までですか?」
「……いや、違う。九月だ。九月二十五日までの記憶が無い……二十六日からの記憶は、ハッキリしているが……」
「では、もう一度質問を変えさせていただきます。『美麻』という名前の女性に心当たりは? 二年前の夏の時点で、中学生か高校生だったはずですが?」
「……美麻? いや、そんな人間は知らないが……ん?」
首を傾げた瞬間、ザラキエルは自分の足元に零れ落ちる水滴を見た。天井から水漏れでもしているのかと見上げてみるが、異常はない。しかし足元にはぽたぽたと、とめどなく水滴が落ちてくる。
ザラキエルはそこではじめて気が付いた。
自分は今、涙を流しているのだと。
驚いたザラキエルはキールの肩から飛び降りて、人間の姿に変化した。そして両手で自分の頬に触れ、その名を連呼する。
「美麻……美麻? 美麻は……美麻という名は……? 私は、その名を知っている? なんだ? なぜ、私は泣いている? 誰だ? その名は……その人間は、誰だ……?」
他の誰にも分からずとも、ベイカーと、ベイカーの記憶を読んだタケミカヅチには分かっていた。この反応は白虎と同じである。白虎は記憶をリセットされていたが、それでも彼は最愛の人を忘れることが出来なかった。兄妹神であり、同時に妻でもあった炎の女神、朱雀の存在を。白虎は朱雀の手掛かりを求めて地球へ向かい、朱雀とよく似た炎色の翼の女神、ニケに近付き攻撃を受けたのだ。
創世神の行動すらも狂わす『愛』という感情が、この天使にも存在したのだとすれば――。
(なあ、タケミカヅチ? どう思う? 二年前にも俺と同じようなことをした奴がいるのなら、ザラキエルと一緒にいたという少女が、クエンティン子爵領に出たモンスターの生みの親かな?)
心の声で呼びかけてみるも、タケミカヅチは何も答えない。
(……? どうした?)
いつもと様子の違うバディに、ベイカーは違和感を覚える。そして振り向いたとき、その違和感が自分一人のものではないと気付いた。
「……チョコ? どうかしたか?」
いつでも陽気なドレッドヘアの隊員は、不安げな顔で自分のバディ、ヤム・カァシュの背をさすっていた。
他の女神たちと違い、ヤム・カァシュはついこの間まで地球でトウモロコシの守護神を務めていた。つまり、ザラキエルと同時期に地球にいたことになる。ザラキエルの記憶の欠落が世界規模の異変に由来するものだとしたら、彼の身にも異変があった可能性がある。
「なんだ? 具合でも悪いのか?」
蒼白な面持ちのヤム・カァシュは、ベイカーの声に応える代わりに自分の頭に手を伸ばし、トウモロコシの葉を編んだ冠を外した。そして震える手で、ゆっくりとそれを解いてゆく。
「……え?」
バラバラと散らばっていくトウモロコシの葉。その葉一枚一枚に、ボールペンで記した日本語の文字列があった。
ベイカーが一枚を拾い上げると、そこには『九月二十五日、ザラキエルから美麻の記憶が消えた。もう顔を見ても、名前を聞いても美麻を思い出さない』とある。
「……ヤム・カァシュ? これは……?」
問われた神は申し訳なさそうに首を振る。何も覚えていない。そう言いたい気持ちと、自分は本当に覚えていないのかという疑念。それらが綯い交ぜになった重苦しい表情を見て、一同は黙って彼の言葉を待つ。
彼はしばらくうつむいていたが、ようやく言葉がまとまったのか、顔を上げてこう言った。
「……オラには、これが何だか分かんねえんだす。この世界に来て、しばらくしてから気が付いただ。編み直そうと思って外したら、なんか書かれてて……オラも、日本なんて行ったことさねえハズなのにヨ……?」
隊員たちが他の葉を拾い集めるが、日本語が読めるのは大和の神を宿すベイカーとグレナシンのみである。二人は手渡された葉を日付順に並べ、文字列に目を通す。
「……ヤム・カァシュも、ザラキエルと一緒に行動していた……?」
「嘘でしょ? なんで? だってアンタ、ザラキエルにマヤの神族を殺されたんじゃなかったの?」
グレナシンに問われても、ヤム・カァシュの中に答えはない。少なくとも、今現在の彼の記憶には。
「……オラ、日本語なんて書けねえし、読めねえだ。けど、この文字見てると、なんか懐かしくって……」
そう話す彼の目から大粒の涙が零れ落ちていく。
誰もが察した。彼らは単独で行動し続けていたわけではない。ザラキエルとヤム・カァシュには共に行動した過去があり、彼らにはそれぞれバディがいたのだ。そしてその人間たちはいつの間にか彼らの記憶から『消去』され、存在自体が『無かったこと』になり――。
「……タケミカヅチ。大和の神々に、『美麻』という名の少女について調べてもらうことは可能か?」
「下の名前だけでは難しい。どこかに苗字も書かれていないか?」
「ええと……一枚目のこれは違うのか? 『八月十日。瀬田川さんも俺も、もしかしたらこのまま消えていくのかもしれない。だからこれを残す。君が覚えていてくれたなら、俺たちが生き残る望みもあるかもしれない』……この『瀬田川さん』というのが、美麻の苗字では?」
「ふむ……この『君』がヤム・カァシュで、『俺』がヤム・カァシュのバディか……?」
他の日付の葉も、ベイカーが順番に読み上げていった。
内容はその日の行動を記録するものがほとんどだが、日を追うごとに記録者の立場が危うくなり、精神を病んでいく様子がうかがえた。その中でも、特にひどいのは最後の五日間である。
家の様子を見てきた。俺は死んだことになっていた。
近所の人も、幼馴染みも、みんな記憶が書き換わっている。俺はこの世にいない。
君が破壊神なら良かったのに。誰もかれも殺してやりたい。みんな死ねばいいのに。
美麻を守るとか言ったくせに、あの天使は美麻を忘れやがった。俺は許さない。
美麻が目を覚まさない。もう、どうすればいいか分からない。
記録は九月三十日で途切れている。彼らがその後どうなったのかは分からない。しかし、現時点で確実なことは一つ。人々の記憶から消えた人間が二人もいるということだ。
自身もつい先週消えかけたばかりのベイカーは、ため息交じりに話をまとめる。
「エリック先輩とザラキエル、美麻という少女が遭遇したのが八月三十一日。この切羽詰まった記録が始まるのがそれより前、八月十日から。文面から推察するに、これを書いた人物と『美麻』はずっと一緒に行動していた。ということは、エリック先輩とこの『俺』とやらも、どこかで顔を合わせている可能性が高い。ここまではOKだな?」
ベイカーの言葉に、全員が一斉に同意する。だが話の中核をなすべき神と天使は、混乱した様子で泣き崩れている。
「……我々がすべきことは分かるな?」
本人たちに『記憶』が無いのなら、『記録』のほうを掻き集めるしかない。このトウモロコシメモを残した人物も、神が頭上に戴く冠の中になら確実にメッセージが遺せると確信していたのだ。そして実際に、彼のメッセージはこうして隣の世界の人間の目に触れている。人間がこの世に生まれ、成長し、社会の一員として存在した記録はそう簡単に抹消することは出来ない。探せばいくらでも出てくるはずである。
ロドニーはオフィス内をうろついている純白の狼を捕まえ、互いの鼻先がくっつくほどの距離で問う。
「おい、オオカミナオシ? これって、とんでもなくデケエ『不具合』だよな?」
「いかにも。とうてい看過できぬ事象である」
「じゃ、今回はお前も協力してくれるな?」
「無論。しかし、我にはその『不具合』の痕跡が感知できぬ。現状、世界は一切の歪なく『整合性』が保たれている」
「じゃあ、どっかで何かのバランスが崩れれば、お前はその『不具合』の発生個所を感知できるんだな?」
「おそらくは」
「発生個所が分かれば、修正は可能か?」
「状況による」
「頼りねえなぁ」
「我は世界の不具合を修正、もしくは削除するために創り出された管理プログラムの一つにすぎない。己の役割を逸脱することは出来ぬ」
「その『出来ぬ』っつーのは、可能・不可能の問題か? それとも、自分の矜持とかそっちの問題か?」
「両方だ。我は主より直に力を賜る存在。役割と力は必ず一対だ。役割以外の行動に力が与えられることはない」
「面倒臭ぇ神だな……」
ロドニーは肩をすくめながらオオカミを放した。
オオカミはベイカーに近付き、ヤム・カァシュの冠だったトウモロコシの葉に鼻先を近づける。
「お、なんだ? 匂いで何か分かるのか?」
オオカミのほうに葉を差し出すベイカーに、オオカミは自分が何をしようとしているか、一応は説明をしてくれる。
「我が嗅ぎ分けるは心の匂い。心と魂とは同じ匂いをしておる。この葉に残された心の匂いを記憶し、これを記した者の魂の匂いと照合する」
「匂う……のか? 魂も?」
そう言いながら隣に立つタケミカヅチの匂いを嗅ぐが、支給品の安物石鹸の匂いしかしない。
「おい、こら。いきなり我の匂いを嗅ぐな。犬か貴様は……」
「なぜ宿舎の石鹸の匂いがする?」
「それは……清めの儀と称する『丸洗いの刑』に処されているからだ……」
「ツクヨミに? 毎晩?」
「あ、ああ……」
「ツクヨミは父親の分身だろう? 自分でシャンプーできない幼児でもないのに、パパに丸洗いされているのか?」
「ふ……不本意ながら……」
「なるほど。このところ宿舎の水道代が跳ね上がっているのは貴様らのせいか。いったいどれだけ無駄に水を垂れ流している? 田舎の湧き水と違って、中央市の水道は馬鹿にならない利用料金を請求されるのだが?」
「いや、待て! 水道代の話は我だけの責任ではないぞ! 女神らも、貴様らが寝静まってから入浴しているのだ!」
「何⁉ ……タケミカヅチ。なぜ俺に黙っていた? そういうイベントには是が非でも招待してもらわねば……」
「言うと思ったぞ。だがなサイト。女神らの名誉のために一応は説明しておくが、混浴ではないのだぞ? 夜更かししても、女神の裸は見られぬからな?」
「チッ」
「なんだその舌打ちは」
神と器とのどうしようもない会話に、オオカミナオシは軽く首を傾げる。
「ふむ? やはり貴殿らは同じ匂いか。区別がつかぬ」
「うん? そうなのか? それはなかなか不愉快な情報だ」
「こちらのセリフだ。貴様のようなドスケベ小僧と我が同じ匂いだとは……オオカミナオシ! 貴殿の鼻はどこか不具合を起こしているのではないか?」
「いや、正常だ。貴殿らはまったく同じ匂いをしている。だが、憑代は器と違う。胎児の状態で手を加えられ、神が宿るために『造られた』わけではない。もともとは赤の他人。当然、魂の匂いも異なる」
「回りくどいぞ。それがどうした?」
「簡潔に言え、簡潔に!」
「この葉に残された人間の匂いは、ヤム・カァシュとは異なる。つまり、この人間は『神の器』ではなくただの『憑代』。器とは比較にならぬほど『弱い繋がり』しか持たぬ。もしも今、どこかで生きていたとしても、ヤム・カァシュと行動を共にした記憶を取り戻すとは思えぬ」
「……ん? と、するとこの人物は……?」
「手がかりとしては……?」
「期待はできぬだろう」
あっさりと言い切られたオオカミナオシの言葉に、一同は難しい顔になる。
そんな彼らをオフィスの隅で眺めていたラピスラズリは、隣で眠そうにしている同僚に小声で話しかけた。
「なんだよなぁ~、こんなに面白いことになってるなら、もっと早く呼び戻してくれればよかったのに」
「これでも最速だ。なにせ、俺も先週までヘビ子さんの正体を知らなかったんだからな」
「歴代特務部隊員を何人も死に追いやった呪いの武器……ってことには違いないんだろう? 基本性能は以前と同じと思っていいんだよな?」
「ああ。普通に寄生型武器として使用可能だよ」
「なあピーコ? バンデットヴァイパーは、それ自体が天使になったのか? その……なんて言えばいいか、ちょっと適切な表現が浮かばないんだが……疑似生命体から天使に進化した、とか、そういうことか? それとも、天使はまったく別の場所からやってきて、お前の守護天使としてその腕の中に納まったのか?」
「後者だな。バンデットヴァイパーは疑似生命体だから、もとは魂が入っていない。サマエルちゃんはそれを『器』として使っているだけで、バンデットヴァイパーそのものではない……っていう説明で合ってるよね?」
自分の右腕に問いかけると、サマエルは右腕の形のまま、心の声だけで返事をする。
「対闇堕ち武器に宿され、思考を制限された状態で戦い続けること。それが私に与えられた『罰』であり、人に与えられた『希望』であった。バンデットヴァイパー単体では、闇堕ちと対等に戦えるほどの性能は無いからな」
「創造主が初代宿主に与えた努力賞、ってところなのかな?」
「かもしれん。主の御心は、私には計り知れぬものではあるが……」
ラピスラズリはピーコックの右手を凝視する。
見た目は普通。何の変哲もない成人男性の右手である。右利きということもあり、左手に比べれば筋肉も骨格もやや発達している。だがそれだけだ。特段変わったところは何もない。
そんな『体の一部』に、通常の生命体とは異なる存在、それも地球では伝説級の大天使が宿っているのだという。何度説明されても、目の前で動いて喋るところを見ても、いまいちピンとこない。
ラピスラズリは同僚の手を取り、あちこち撫でまわす。
「あ、ちょ……おぉ~い、ラピぃ~? なに気持ち悪ことしちゃってんのかなぁ~?」
「いや……変身すると綺麗なお姉ちゃんなんだろ? どこが胸でどこが尻になるのかと……」
「右手のときは俺の体。話しかけやすいから右手見てるだけで、制御権も皮膚感覚も完全に俺にある。だから今お前が撫でまわしてるのは中年男の右手なわけ! 分かったか? 分かったら離せ。キモいぞお前!」
だが、ラピスラズリはまだ納得いかない様子である。猫の肉球でも揉むような動作でピーコックの手のひらをぷにぷにと押している。
「なら、蛇のときはどっちに制御権がある?」
「半々くらいかな?」
「天使になると?」
「完全に切り離される。右腕が無いネコ科人間と天使として、まったく別々の存在になるんだ」
「……ぶっちゃけた質問していいか……?」
「駄目って言ってもするよな?」
「ああ。お前、いつもどっちの手でシコってんの? こっちが利き手だろ? 天使で抜いてんのか?」
「あ、やっぱソレ気にしちゃう~?」
「だって……なんかヤバいだろ、自分の右手の正体が美女って。どんだけ童貞拗らせばそんな妄想領域に到達するんだよ。最強レベルの引きこもりオタクでも、なかなかそこまでは……」
「残念だけど事実なんだなぁ……。ってゆーか、言うほどパラダイス感無いよ? 今言ったばっかりじゃん? 右手のときは完全に俺の体なんだってば。オナニー中にサマエルちゃん呼んでも100%無視されるし……」
「何その生殺し感」
「そうなの。生殺しなの。ぶっちゃけメンタルにじわじわとダメージが……」
「そうか……。お前も大変なんだな……」
「てゆーかいい加減揉むのやめてくれない?」
「あれ? 効いてない? ここ、慢性疲労に効くツボらしいんだけど?」
「あ、じゃあもっと」
「了解」
暇つぶしに手もみマッサージを始めた中年男たちを尻目に、神と器と憑代たちの作戦会議は続く。けれども、まずはゴヤが戻らないことには何も始まらない。グダグダと長引いた話し合いの末、ひとまず通常任務に戻るということで結論が出たらしいのだが――。
「話は終わったか? じゃあロドニー、俺たちが『通常任務』を開始できるように何をすべきか……分かるよなぁ?」
「は、はい……」
「清掃用具は一通り揃っている。廊下の台車に色々載ってるから、勝手に使ってくれ。オフィスの基本レイアウトはこの図面を参照すること。終わったら俺かピーコに連絡しろ。じゃあな」
「え、ちょ、あの……俺一人で向かいの部屋のセッティングやるんですか⁉ 全部⁉」
「ん? そりゃあそうだろう? ビスケットがまだまだ大量にぶっ積んであるんだから。それともなにか? お前、今からあれを俺らの前で食い尽くしてみせてくれんのか? あ?」
「い……いえ……」
「じゃあな~。今日中に終わらせろよ~」
軽く手を振って、情報部の二人は特務部隊オフィスを後にした。
ラピスラズリは低く落ち着いた声音で話していたはずなのだが、オフィス内の誰もが彼の声を『狼の唸り声』と認識していた。フェンリル狼の声は神々の耳にも恐ろしく聞こえたようで、気付けばオフィス内に神々はいない。今室内に残っているのは実体化しているサラと玄武、ザラキエルのみである。青い魚と穏やかな亀は、落ち込んだ様子のピンクの小鳥を励ましている。
「あの、ロドニーさん? 私も手伝いますから、どうか気を落とされませんよう……」
マルコが申し出るも、ロドニーは首を横に振る。
「いや、大丈夫だ。つーか、王子に手伝わせたなんて知られたら……」
言葉尻を濁したロドニーに代わり、ラピスラズリをよく知る二人、キールとベイカーが青い顔で続ける。
「湿気たビスケットと便所のモップの搾り汁で作った特製ディナーが待っているだろうな」
「マルコも気をつけろよ。奴は他人の口に生ゴミや汚物を捻じ込むのが好きで好きでたまらないタイプの変態だ」
「あの……それは変態というより、ストレートに犯罪では……?」
「俺が被害を届け出て、裁判沙汰にすればな? 奴は情報部の任務のひとつとして審問と懲罰を担当している。こちらが『イイコちゃん』でいる限りは安全だし、逆に言えば、奴に目をつけられた時点で何らかの規則違反を犯していることになる。ラピスラズリから受けた暴力被害を訴え出ることは、自分から『私は違反者です』と名乗り出るようなものだ。受けるダメージが大きくなるだけで、得る物が何もない」
「……なるほど。そういうことですか……」
国内屈指の剣の使い手サイト・ベイカーが、平民の男に力でねじ伏せられて口に汚物を捻じ込まれた――そんなB級ニュースが大々的に報じられて傷物になるのはラピスラズリの経歴ではない。ベイカーの名誉とプライドだ。そしてそのような事態に至った経緯を追及されれば、団内での規則違反という事実が明るみに出る。その違反内容によっては、国民からさらなる処分、もしくは懲戒解雇を求められるだろう。確かにベイカーにとっては、何一ついいことが無い。
「しかし、いくら何でも汚物を捻じ込むというのはやりすぎです。団内の雰囲気を悪くするだけではありませんか」
「うむ。まったくもってその通りなのだが、なにぶん相手は変態だ。情報部長官のほうから何度か口頭注意を行ってもらった結果、何やら間違った方向に進化してしまって……」
「間違った方向とは?」
「ちゃんと料理するようになった」
「はい?」
「加熱殺菌すれば口に捻じ込んでも安全という解釈らしい」
「正気ですか⁉ 生ゴミや汚物を……料理⁉」
「ああ……スパイスの調合が絶妙で、雑巾汁がなぜか絶品料理に仕上がるんだ。俺はあれ以来、根菜類のスープを見ると『まさか雑巾汁⁉』と疑うようになってしまった……」
「お前もかサイト。俺はあの人の靴下の搾り汁リゾットを食わされたぞ……」
「妙に中毒性のある味と香りなんだよな」
「無理矢理食わされていたはずなのに、途中から変なテンションになって……」
「気が付いたら自分からがっついていた」
「なぜか笑いが止まらなくなるし……」
「俺は奇声をあげながら服を脱いだ気がする……」
「何の薬物が混入されていたんだろうな……?」
「禁断症状は出ていないから、常習性はないと思うが……マルコ。俺やキールのような目に遭いたくなければ、ラピスラズリには関わるな。可能な限り距離を取れ。というか、今はとにかくロドニーに関わるな。こいつをかばうと、お前も『搾り汁フルコース完食者』にされるぞ? いや、もしかしたら『虫フルコース』のほうかもしれんが……」
「虫フルコース⁉」
先週の旧本部での戦いを思い出し、マルコは震え上がった。玄武の能力でシロアリの群れが発生し、木の根を食い荒らしたあの光景。ふと思い出した瞬間に総毛立って膝が笑いだす有り様なのに、「加熱殺菌すれば安全」という謎の論理で『虫フルコース』などという究極のゲテモノを供されたりしたら――。
「……す、すみませんロドニーさん。手伝うなどと言っておきながら、私、少々気分が……」
口元を押さえてよろめくマルコに、ロドニーは死んだ魚の目で答える。
「あははははー。大丈夫、大丈夫ー。ボッチ掃除でも昼までには終わるだろうからー。あははー。ははー。はー……」
最後の一息は呼気と共に魂のようなものが抜け出ているように見えた。ちっとも大丈夫そうには見えないが、もとをただせば本人の自業自得というものである。キャラクターステッカー目当てに買った大量のウェハースチョコレートで害虫を大発生させても、ロドニーは懲りずに、また同じことを繰り返したのだ。まだ湿気ていないビスケットがザラキエルの食糧になった分、今回はほんの少しだけ救いがあったようなもので――。
「あの、ロドニーさん? くどいようですが、もう一度言いますよ? 食べ物を粗末にしてはいけません」
「ハイ、ハンセイシテマス……」
なんの抑揚もなく発音されたこの言葉、はたして消費期限はいつまでだろうか。特務部隊員は誰一人としてロドニーの改心を信じてはいなかった。なぜなら大人気コミック『ノビータとドナテルロ』は来月で連載十周年目に突入する。それを記念して、『動物さんビスケット』の次は『ガチガチ君アイスキャンディー』とのコラボキャンペーンが決定しているのだ。次は何をやらかすか、考えれば考えただけ、胃が痛くなるばかりである。
隊員たちは心の底から祈った。
どうか俺たちにまで連帯責任が及びませんように――と。