そらのそこのくに せかいのおわり 〈 vol,09 / Chapter 01 〉
二年前のあの日、私は致命的なミスをした。
いや、私がミスをしたというよりも、私にそれを指示した人間が『その日の出来事を読み違えていた』と表現したほうが正しいかもしれない。
「クソ! どういうことだ! どこからこんな数が⁉」
誰もいない廊下を走りながら、私は隣を飛ぶ桃色の小鳥に尋ねる。オオマシコという野鳥によく似た小鳥は、速度を上げて私の前に出た。
「『予言書』の内容が間違っていたということだろうが……ひとまず屋上に出よう。あそこなら戦没者慰霊碑が結界の代わりに使える。日が昇るまで耐え凌げれば……」
「防戦一方とは情けない! それでも『最強の天使』か⁉」
「生憎だが、自分で名乗ったわけではないのでな!」
桃色の小鳥に誘導されて階段を駆け上る。しかしその途中、どこからか悲鳴のようなものが聞こえた。
三階と四階の間の踊り場で立ち止まり、私たちは耳を澄ます。
「……どこだ?」
「遠かった。反対側の校舎かもしれない」
「とすると、南校舎か……?」
うちの学校は北校舎、東校舎、南校舎がコの字型にならび、それぞれが渡り廊下で繋がれている。今いる場所は北校舎。踊り場の窓から向かい側の校舎を見るが、こちら側から見えるのは南校舎の廊下側のごく一部。教室の中で何かが起こっていたとしても、ここからでは確認することが出来ない。
「……どうする? 今から行っても、おそらくは……」
「しかし、万が一ということもある。闇堕ちに襲われた人間に生存の可能性がある限り、私がそれを見捨てることはできない」
「チッ、これだから天使というヤツは……事件や事故は平気でスルーしやがるくせに……」
「主の定めた運命は絶対だ。私は私の『役割』を果たすまでのこと」
「いちいち言うな、分かっている! 行くぞ!」
私はたった今上ってきた階段を振り返り、古めかしい木製の手すりを滑り台のように一気に滑り降り、一度も止まることなく一階の廊下を全力で駆け抜ける。そこには私たちが逃げざるを得なかった原因、大量の闇堕ちが発生しているのだが――。
「ザラキエル! 貴様が自分の『役割』のためだけに戦うと言うのなら、意地でも私を守ってみせろ!」
「言われなくとも!」
前方には真っ黒な霧に覆われた人影が二十か、三十か。それらにまっすぐ突っ込みながら、桃色の小鳥は天使の姿に変化した。
天使は両手を広げ、声を張り上げる。
「闇に惑いし者共よ! 月天使ザラキエルの名において、汝らに制裁を下さん!」
ザラキエルは左右の手に一振りずつ、闇色の剣を出現させた。それはまるで星空を模したネイルアートのようで、エナメル光沢の刃には色とりどりの小さな光が瞬いている。
ザラキエルは突撃の速度を落とすことなく、駆け抜けざまに攻撃を仕掛けた。
「はあああぁぁぁーっ!」
闇堕ちたちは胴を、首を、手足を斬られ、蒸発するドライアイスのようにゆらりと空気に溶けてゆく。しかし――。
「ザラキエル! まだだ!」
教室のドアを破壊しながら、さらに十数体の闇堕ちが姿を現す。死角からの攻撃に、ザラキエルの反応は遅れた。
「く……」
背後から闇堕ちに抱きつかれてしまった。触れられた箇所から『汚染』が広がり、ザラキエルの肌に染みのような、すす汚れのようなものが広がっていく。ザラキエルは必死に戦うが、この闇堕ちに実体はない。腕のようなものを掴んで引き剥がしても、その隙に別の部分が腕や触手のようになって絡みついてくる。
「ザラキエル!」
「美麻! 逃げろ! 奥にもう一体いる!」
「っ!」
ドアが壊れた教室から、他の闇堕ちとは挙動の異なるモノが現れた。それはゆらゆらと左右に揺れながら、病人のような、泥酔者のような、おぼつかない足取りでこちらに近寄ってくる。他の闇堕ちは実体のない負の感情の塊だが、この一体だけは違う。黒い霧に包まれた内側には、核として使われている人間がいる。そしてその人間とは、なぜかこんな夜遅くまで居残っていたこの学校の教師で――。
「田無先生⁉ なんで先生が……!」
私はその闇堕ちを視界に入れたまま、じりじりと後ずさりする。
「美麻! 何をしている! 早く逃げろ!」
「馬鹿を言うな! お前を置いていけるか! それに、先生だって……! すまないザラキエル! 先生を先に浄化する! もう少し耐えてくれ!」
「駄目だ美麻! 今日はもう力を使いすぎている! これ以上力を使ったら、美麻の体が……っ!」
「知るか!」
私は十字を切り、胸の前で両手を組んだ。
「主よ! 私の声が届きますか⁉ 私は田無先生を救いたいのです! どうか私と、私の愛する天使に希望の光を!」
主は私の祈りに応えてくれた。組み合わせた手の中に黄金色の光が現れ、数本の麦をひとつに束ねたような、独特の形状をしたものになる。それはかなり大きくて、葉や茎の根元から穂の先までは一メートル半以上。私はそれをバットか竹刀のように握り、ゆっくりと迫りくる鈍間な闇堕ちに、力の限りに叩きつけた。
「でやあああああぁぁぁぁぁーっ!」
光の麦は鞭のようにしなり、打ち付けられるたび、その穂から光の種をばら撒いていく。田無先生の体を覆っている黒い霧はこの光に触れ、見る間に浄化されていった。そして光の種は私たちの足元にも散らばり、真っ暗だった廊下を明るく照らしだす。
「ザラキエル! 今だ!」
恵みの光に満たされた空間では、実体を持たない闇堕ちは極端に力を弱める。ザラキエルに絡みついていた闇堕ちは慌てて離れて逃げようとしているが――。
「地獄で罪を悔いるがいい!」
ザラキエルは闇堕ちの手が離れた瞬間、剣を一閃させ闇堕ちを撃破。闇堕ちは真っ二つになってから霧散し、それから剣に吸収された。
ザラキエルの剣は創造主から授けられた『原初の闇』。それはときに『混沌の海』とも、『真理の深淵』とも呼ばれる。あらゆる物質の源となった最初期の宇宙と全く同じものを、創造主の力で剣の形に圧縮形成しているらしい。
物理学については詳しくないが、宇宙そのものを圧縮したら、ものすごい重力を発するようになるのではないか。そう思って尋ねたことも何度かあるが、ザラキエルにもそのあたりの事情はよく分かっていないらしい。「主が奇跡のようなものでなんとかしていると思う」という、実に身の無い答えが返ってきた。事実、この剣は人間が触れても何も起こらない。心に巣食う闇や負の感情のみが吸い出され、物理的に『斬られる』『殴られる』といったことにはならないのだ。ザラキエルの言うとおり、人や天使が理解できる範疇を超えた『奇跡のようなもの』でできているのだろう。
闇が完全消滅したのを確かめてから、私はザラキエルを呼ぶ。
「おい! こっちも何とかしろ!」
私が麦の穂で叩き続けている闇堕ちは、黄金色の光で八割方は浄化されている。けれども私の力では、心の奥深くに潜む闇は払いきれない。
「あとは任せろ!」
言葉と同時に床を蹴り、ザラキエルは最後の闇堕ち――すでに黒い霧が晴れ、その姿が露わになっている国語教師、田無美都代に迫る。
ザラキエルは手にした剣を中段に構え、まっすぐ突き込むつもりだったのだが。
「……? こんな状態の闇堕ち、見たことが無いな……?」
ザラキエルは直前で立ち止まり、田無先生の行動を観察する。
先生は目を開けている。しかし、その目は何も見てはいない。ぼんやりとした顔でふらふら、よろよろと、目的もなく廊下を歩き回っている。心を闇に支配されたら狂暴になるか、自暴自棄になって自殺を図るか、無力な自分を嘆いて泣き喚き続けるか――大抵はそのいずれかである。自我を失くして歩いているだけ、という人間は見たことが無かった。
ザラキエルは田無先生の頭に手を伸ばし、その額に触れて首を傾げる。
「……おかしい。この人間、魂が入っていない……」
「どういうことだ?」
「……理由は分からないが……なぜだ? この体は……脳のほうは、確かにこの人間がこれまでに体験したことを記憶しているのに……?」
ザラキエルは軽く目を閉じ、ほんの少しだけ眉間にしわを寄せる。
この天使がこういう顔をしているときは、必ず翼が光っている。以前聞いた話では、ある程度以上の高位の天使は、創造主やほかの天使と心の声だけで会話できるらしい。
(……今日はどこの誰と通話中なんだ……?)
通話中は光るなんて、スマホやガラケーのLEDランプのようである。天使同士の通話にも基地局やWi-Fiルーターのようなものはあるのだろうか。いや、それ以前に、天の国にもドコモやソフトバンクのような通信事業者がいるのだろうか。
(乗換キャンペーンとかやってても、絶対に乗り換えないタイプだよな、ザラキエルは……)
私の相方は、なかなかどうして頑固な性格をしている。お得な新プランを提示されても、なぜか拒否して従来通りの基本料金を支払い続けるタイプだ。
(あれ? 手ぶらで通話できてるってことは、天使ってデフォルトで通話アプリインストール済み……? ロボフォン的な……?)
そんなどうでもいいことを考えながら、ザラキエルを待つこと三十秒少々。いずこかとの通信を終えたザラキエルは、呆然とした顔で田無先生を見る。
「……そもそもこの世に生まれていないだと……?」
何を言っているのだろうか。詳しい説明を求めようとした、そのときである。
教室のほうから、人の気配を感じた。
私は無言で教室へ飛び込む。するとそこには、肩掛け鞄を下げた冴えない風貌の男がいた。
「誰だ!」
私の声に、男は慌てて逃げ出す。私は反射的に追いかけようとするのだが、うまくいかない。
「……え……?」
そこに男が見えている。だから、私はまっすぐ走ろうとした。それなのに私の体は、まったく見当違いの方向に走り始めていた。
「なにが……⁉」
思った方向に移動できない。私がうろたえている隙に、男は教室の奥の教材倉庫に駆け込んでしまった。
私を追ってきたザラキエルは、ちょうどその瞬間を目撃していた。
「今のは誰だ⁉」
「分からない! 三十代か四十代くらいの男だったが、うちの学校の関係者ではない! ザラキエル、気をつけろ! あの男、妙な術を使ったぞ!」
「術?」
ザラキエルは私の頬に触れ、私が体感した奇妙な現象を、脳内記憶から直接読み取る。そして――。
「……そうか。すべて貴様の仕業だったか、サハリエル……ッ!」
底冷えするような声で言うと、ザラキエルは教室の奥、たった今閉ざされた準備室の扉に向かって呼びかける。
「サハリエル! 分かっているのか⁉ お前がしていることは主への……いや、この世界のすべてに対する反逆行為だ! お前の行為は堕天に値するものだ! 出て来い! そして釈明してみせろ! その行為に正当な理由があるというのならば、私の前ですべてを話すがいい!」
闇を司る月天使、ザラキエル。彼の仕事は役割を終えた天使、道を違えた天使を堕天させ、主の元に強制的に送り返すこと。私としては、それは耐用年数を過ぎた製品や初期不良品を見つけて回収するようなものと理解している。
私はこれまでに十二回、仕事を全うして、もしくは全うできずにリタイアした天使たちの『終わり』を見ている。ザラキエルには闇の力しかない。堕ちた天使のために祈り、天への道を開くのはバディである私の役割なのだが――。
「……ザラキエル? 今の男は堕天使なのか? 田無先生は、あいつのせいで闇堕ちに?」
この準備室には窓が無い。出入りできるのはこの扉だけ。室内に逃げ込んだ男の気配はあるが、あの男は間違いなく人間だった。堕天使どころか、天使らしき気配も感じないのだが――。
「いや、この部屋の中にいるのはサハリエルではなく、そのバディだろう。美麻から逃げたところを見るに、自分が反逆行為に加担している自覚はあるようだが……」
「じゃあ、天使のほうはどこにいる?」
私の問いに、ザラキエルは首を横に振る。
「サハリエルは『道案内』を司る天使だ。直接的に姿を見せる性質のものではなく、迷っている人間に『ひらめき』や『直感』と呼ばれるものを与え、それによって正しい道を教える。正直、私もサハリエルの姿を正面からしっかりと目撃したことはない。しかしバディがここに居る以上、姿を消して潜んでいるはずだが……」
二人で教室を見渡し、異変に気付く。
空間が歪んでいる。
ザラキエルは私の体を抱きよせると、防御のために陣を張る。闇属性のこの呪陣は、天使からの攻撃を100%防ぎきるものである。天使を堕天させるという特殊な役割の彼だけが使うことが出来る『対天使用魔法』の一つだ。
しかし、何も起こらない。
ザラキエルは気味悪そうな顔でグニャグニャに歪んだ教室の内部を見つめている。
「……? 攻撃してこないのか……?」
私も歪んだ空間を凝視するが、特に何かが出現するでも、体調に異変が起こるでもない。
「ザラキエル……?」
「……あちらに戦う気は無いようだが……嫌な予感がする。逃げるぞ!」
ザラキエルは私の体を抱え上げ、教室の窓を破り外へ出た――はずだった。
「なっ⁉」
「どうしてっ⁉」
窓を破って躍り出た場所は、同じ教室の中だった。
だが、まったく同じではない。突き破った窓のすぐわきで、何かが燃えている。
「……ひっ⁉」
「見るな美麻!」
ザラキエルは慌てて私の顔を手で覆うが、もう遅い。私はこの目でしっかり見てしまった。
痛がることも苦しがることも無く、無表情で立ち尽くしたまま焼け死んでいく田無先生の姿を。
焼けて、崩れて、土くれのようになって、その残骸すらも時空間の歪みに呑まれて――田無美都代という国語教師は消えてしまった。彼女はこの世のどこからも消えてしまったのだと、この時はまだ、私もザラキエルも理解できていなかった。
炎を感知してけたたましく鳴り響く警報器。駆け付けた警備員が見たのは、夜中に校内に忍び込んだ女子生徒と割れた窓、焼け焦げたカーテン、黒く煤けた壁と天井。
ザラキエルは警備員の五感を操ろうと試みたが、できなかった。
「クソ……サハリエル! 貴様……っ!」
あとになって説明されて納得したのだが、サハリエルの能力は対象となる人間が『捜し求めている物・人・場所』を見つけられるよう『ひらめき』や『直感』を与えること。警備員は警報を聞いて、『異常の原因となっている物・人・場所』を探しに来ていたのだ。これはまさにサハリエルの『加護対象』である。つまりこの時、この場の状況においては、サハリエルの能力が優位にあったのだ。
私は住居不法侵入と放火の現行犯としてその場で取り押さえられ、警察に突き出されることになるのだが、そのこと自体はさしたる問題ではない。私にとっての最大の問題は、田無美都代という人間の消滅によって人々の記憶が書き換わり、それに伴い、私とザラキエルの存在もこの世界から『除外』されつつあったことだ。
警察に拘置されてから、しばらくはまともな事情聴取が行われていた。しかし三日を過ぎたころから、警官たちの反応がおかしくなってきた。
「え~と、瀬田川美麻さん……でしたっけ? ええと、罪状が……あ、そうそう。不法侵入と放火、でしたね。えー……あれ? あの、この聴取、昨日済ませましたっけ……?」
書類を見ながら首を傾げているこの警官は、逮捕直後から三日間、私の経歴や交友関係を根掘り葉掘り聞き出していた。私は心の声でザラキエルに問う。
(どうなっている?)
(待て。確かめてみる)
ザラキエルの姿は警官には見えていない。隣に立ち、額に触れて記憶を読むのだが――。
(……まずいな。やはり記憶が書き換わっている。美麻、このままでは、私たちはこの世界から消失することになるぞ)
(消失?)
(ああ……)
ザラキエルは言葉で説明するのは難しいと判断したようで、私の頭の中に直接イメージを送ってきた。
まず見せられたのはサハリエルについての情報だ。過去に数回、チラリと見かけたサハリエルの姿。鳥の姿をしているときはセキセイインコに似た黄色と緑の小鳥で、人型のときはセミロングの髪の小柄な少女の姿をしている。サハリエルの司るものは『道案内』で、その能力権限は非常に広範囲に及ぶ。加護対象が求めるモノが過去や未来、異界や並行世界にしか存在しない場合、時空間をも跳び越えて道を開くことが出来るのだという。
次に見せられたのは、ザラキエルが読み取った田無美都代の脳内記憶。彼女は翌日の授業で使う教材を準備するため、あの準備室にこもって作業をしていた。それほど遅くまで残るつもりはなく、夕方ごろには帰宅する予定であった。それがどういうわけか、突然、彼女と世界との接続が切れてしまった。惰性で作業を続ける体と、徐々に消えてゆく魂の火。彼女の心は『国語が苦手な生徒のために分かりやすい教材を!』と張り切っているのに、なぜかその活力が失われていき――。
(……? どうして田無先生は魂を失くしてしまったんだ? それらしい予兆なんてどこにも無かったのに……)
ザラキエルはさらに、そこから先、先生の魂が『消えたあと』の記憶も送り込んできた。
魂の火が燃え尽きても、体には心の断片だけが残されていた。それはまるでゾンビのように『生前』の記憶をたどる。田無美都代が一番気にかけていた生徒、国語が苦手な月城愛花のために作った参考資料。それを印刷しようと、大型プリンターのある職員室に移動しようとして――。
(……あの男!)
廊下の真ん中に立っていたのは、教室にいた眼鏡の男だった。男はふらふらと歩く美都代に向かってこう言う。
「美都代……すまない。僕が僕の過去を変えたせいで、君がこの世に生を受けることはなくなった。どうにかして、もう一度修正しようとしたけれど……僕らの能力では、一度操作した過去には、もう二度と触れることが出来ない。本当に……本当に、申し訳ない……」
田無先生に向かって頭を下げる男。しかし美都代にはもう、自我と呼べるほどのものは残されていない。体に残された心の断片は、世界との接続が切れる直前まで行っていた作業、『参考資料を作って印刷する』というタスクを完了させるべく、ふらふらと職員室に向かって歩き続けていて――。
「……さようなら、美都代。僕は、君が生まれていたことすら知らなかったけれど……」
男は鞄からノートと万年筆を取り出し、何かを記す。その瞬間、美都代の体からはおびただしい量の黒い霧が噴き出した。あまりに高い濃度の霧はあっという間に学校中に広がり――。
「サハリエルが知る中で、一番頼りになる天使を呼んでおいたよ。ごめん……ごめんね、美都代。せめて、君が消えてなくなる最期の瞬間まで、この場で見届けさせてほしい……」
男はノートを閉じ、その表紙にこう書き込んだ。
〈日記帳/K.N.〉
今見ているのは田無美都代の脳内記憶のコピーである。ふらふらと歩く美都代の視界では、その文字をはっきり視認することは出来なかった。だが、ほんの一瞬、おぼろげな視界であっても、私がそれを見間違えるはずが無い。
これまで私とザラキエルが頼りにしていた『予言書』は、この男の手によって生み出された物――その事実に、私は打ちのめされた。
(……あれは、天使ラジエルとバディが遺したものでは無かったのか……⁉)
想定外の事故によって行方不明になった『全知の天使』と、その歴代バディたち。私たちは主の命で彼らの遺した日記、メモ、カセットテープやメモリーカードを回収し、人間たちに悪用されないように処分、もしくはそこに書かれたことを実行して災厄を未然に防ぐ役割を課されていた。だからこの日記帳も、世界中に大量に残されたバディたちの遺物の一つと思っていたのだ。実際、この日記帳にはこれから起こることと対処法が事細かに記載され、その通りに行動することで何人もの人間を救うことに成功している。疑うべき点など一つも無かったのに――。
(ザラキエル! どういうことなんだ⁉ 奴らはいったい何を企んでいる⁉)
私たちはあの日、『予言書』の記述に従って学校に忍び込み、大量発生している闇堕ちを発見、交戦した。ただ、その直前に別のメモ、おそらくは本物の『ラジエルの書』に従い、廃工場に出現した闇堕ちを始末していたのだ。『予言書』で想定されていた到着時刻からは一時間以上が経過していた。本来ならばあの男がノートに何かを記した直後に私たちが駆け付け、田無美都代から噴出した闇を浄化して『終わり』になるはずだったのだろうが――。
「……いつ、どの時点から『歴史への介入』が始まっていたのだろうな……?」
ザラキエルは呟きながら私のそばを離れ、もう一度、私を取り調べている警官の隣に立つ。警官に天使の姿は見えないし、その声も聞こえていない。自分の脳内をくまなく調べられていることにも、五感を惑わされていることにも気付いていないのだ。
手元の書類を見つめたままピタリとフリーズした警官の横で、ザラキエルは深い溜息を吐いた。
「……やはり、歴史は決定的に狂ってしまったようだな。この人間の記憶からも『無かったこと』にされている……」
「何がだ?」
「9.11テロだ」
「9.11って、えーと……高層ビルに飛行機が突っ込んだ、あれか?」
「ああ。田無美都代はアメリカ留学中にあの事件に出くわしていた。彼女がいたのはビルの一階部分だったから、すぐに外に飛び出して、崩落には巻き込まれずに済んだ。事件後、どこのマスコミも現地の日本人にインタビューして回っていただろう? その中に田無美都代もいた。美麻も、何度も見ていたはずだ」
「何度も……? いや、覚えていない。まだ子供だったし、外国のことなんて興味も無いし……」
「普通の子供はだいたいそんなものだろうな。覚えていないのも無理はない。だが、田無美都代がそこにいたことは事実だ。そして彼女は、幸運にも生き残った人々を救助して回っていた。彼女が大声をあげて人を集めたおかげで助け出せた人間は九人。いずれも救助が遅れていたら命を落としていたはずの人間だ。現場で田無美都代と一緒に人命救助に尽力した人間は三十六人。田無美都代は恐怖で立ちすくんでいた彼らを一喝し、救助活動の要員として『動ける状態』にしてみせた。彼女がいなければ、そもそもその場での救助活動自体が始まっていなかっただろう。しかし、歴史が改変され、その彼女の存在自体が消えてしまった。この世界全体の整合性というか、辻褄というか……人々の記憶の『連続性』を保つためには、彼女を知る者や接触した人間全員を消す必要がある」
「消す? でも、現場で直接関わった人間だけで四十五人もいるんだろう……?」
「事件後、彼女の勇気ある行動を讃えて多くのメディアで彼女の写真や映像が放送された。画面越しに彼女を見た人間も『知人』にカウントするなら、全世界で数億人に上る。そんなに大勢の人間が一瞬で消滅したら、それこそ整合性も辻褄も合わなくなる。だから、人間そのものは消されない。消されるのは記憶のほうだ。既にこの警官の記憶の中からは、あのテロ事件に関する記憶がごっそり抜け落ちている」
「……え? いや、ちょっと待て? その部分の記憶だけを消しても、その後のアフガンやイラクへの攻撃は? 9.11が原因で、その報復としての攻撃があったんだろう? 社会の授業でそういう風に習ったぞ? その部分の整合性とか、連続性は……?」
「取れなくなる。だから、その部分には偽の記憶が植えつけられることになる」
「……もしかして、そういう役割の天使もいるのか……?」
「ああ……おそらく近いうちに、セラフによる『一斉更新』が実施されるだろう。だからきっと、私たちはその日に完全消去されることになると思う……」
「なぜ?」
「都合が悪いからだ。美麻は田無美都代本人と直接関わりを持っているし、私は美麻のバディになる以前はアメリカという国家の守護天使だった。開拓時代から、ずっとな。だから私とあの国はつながりが深すぎる。田無美都代の存在と9.11からの一連の歴史を『無かったこと』にした世界では、私と美麻の存在は邪魔な異物以外の何物でもないはずだ」
「……そうか。そうだよな。私とお前には、他の天使からの『攻撃』が効かないのだから……」
ザラキエルの司る能力は『堕天の闇』。用済み天使のリサイクル屋には、他の天使の能力は一切通用しない。堕天させられることを嫌がって攻撃を仕掛けてくる天使が多いため、そのような仕様になっているのだという。
つまりそれは、世界そのものが新しくなる日に、私たちだけは『古い世界の記憶』を持ったままであるということだ。不都合が生じないわけがない。
「美麻、すまないが、しばらくの間一人にさせてしまうと思う。私は主の御前に参じ、これからのことをお伺いしてくる」
「気にするな。何日かかっても、取り調べなんて少しも進まないだろうからな」
「行ってくる」
ザラキエルはそう言って、ふっと姿を消した。その瞬間、警官に掛けられていた幻覚魔法が解除される。スイッチを入れられたロボットのように、警官はフリーズする前の動作を当たり前のように再開した。
「え~と、動機は……あ、これもう聞いてあるか? 学校への不満、ということでいいのかな? 誰か仲が悪い子でもいたのかな? ん?」
私は適当に答える。
「別に誰とも不仲じゃありませんよ。反抗期です、反抗期」
「反抗期、ねえ? 無遅刻、無欠席で、成績もクラスでトップだったみたいだし……君みたいな子の犯行動機としては、ちょっと考えられないんだけど……」
「じゃあ、私が規格外第一号ということなんじゃないですか? よく分かりませんけど」
「規格外……う~ん、つまるところ、あれかな? 君にはそういう、他の人と違うことをして目立ちたい願望があって……」
私は放火していないと言ったところで、どんな説明も聞き入れてもらえないだろう。『時空間移動能力を持つ天使と交戦中でした』なんて言い出す奴は、普通に考えて頭がおかしい。
それからしばらく話を続け、私は警官の言う『目立ちたい願望をこじらせた高1女子らしい犯行動機』に適当に頷き続けた。田無先生は時空の歪みに呑まれて誰の記憶からも消えてしまっている。死体が残っていない以上、私が問われる罪は不法侵入と放火のみ。突発的で衝動的な犯行ということで処理してくれるなら、そのほうが今後の人生に及ぼすダメージは小さくて済む。
そんなこんなで、私はそれなりに前向きに、『未来』への希望をもっていた。少なくとも、この時までは――。