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 湯浴みを終えたリアが寝室に現れたのは、夕刻を迎える少し前のことだった。


 窓の鎧戸を下ろした寝室は薄暗く、ランタンの炎が微かに揺れながら辺りを照らしている。

 城主の為の寝室は百年前こそ贅を尽くした造りだったが、今はどの調度も美術品も古びるばかりでかつての栄華は見る影もない。だがリアが欠かさず掃除をしているお蔭で埃や蜘蛛の巣は払われ、寝具の類は清潔だ。

 寝台に横たわる半裸のレオンティウスの上に、しずしずと歩み寄ってきたリアの影がかかる。

「お待たせいたしました、レオ様」

 薄手のローブをまとったリアが、目を逸らしながらそう言った。

 髪や身体は拭いてきた後のようだが、石鹸に混ぜた香草の香りが彼女の身体から漂ってきた。羽織った薄い布地越しに身体の線が露わになっており、十八の娘らしい華奢な体躯にレオンティウスは眉を顰めた。

「また痩せたな、私のせいか?」

「いえ……自分ではよくわかりませんけど」

 リアは怪訝そうな声を上げた後、あえてレオンティウスの方は見ずに寝室の隅へ視線を投げる。


 ランタンから溢れる光がかすめるその奥に、石膏細工の裸婦の彫像がある。

 かつてこの城の主だった者が、自らの理想とする女を創らせたという彫像は、誠に見事な胸と豊かな腰を有していた。レオンティウスもリアが城へ現れる前は、あの彫像に乾く心の慰めを見出していたこともあった。

 だが、その話を一度リアにしてしまったのがまずかった。


 以来、リアは事あるごとにあの彫像に嫉妬を覗かせる。

「レオ様はあちらの方がお好みのようですから、わたくしが痩せて見えるのではございませんか」

 今も、慇懃無礼な口調で言い返してくるリアに、レオンティウスは苦笑を噛み殺した。

「好みだと私が言ったか? あのくらいしか撫で回して楽しいものがなかったというだけだ」

 城内には他にもかつての城主が蒐集していた美術品が残されていたが、レオンティウスの好みに合うもの、あるいは長い孤独を慰め、渇きを癒してくれるものはなかった。それらはリアに頼るしかない。

「この城にはもはや、お前に敵うものなどない」

 レオンティウスはそう告げると、寝台から身を起こし、傍らに立つリアの腰を掴んで抱き寄せた。

 リアは主の胸に倒れ込み、その冷たい肌に頬を押しつけて目を閉じる。人の温もりもなければ鼓動もないレオンティウスの身体に初めて触れた時、リアは恐怖のあまり涙を零した。

 しかし今は慣れたのだろう、自らしなだれかかってくることさえある。

 逆にレオンティウスにとってリアが持つ人として当たり前の温もりは、ありとあらゆる欲求と感情を刺激する複雑な対象だった。

「そうでなければ私も、お前をこうして眺めようとは思わぬ」

 リアがまとうローブを肩から落とすと、するりと脱げて寝台の下へ落ちた。

 まだ慣れないのか、リアははっと身を硬くしてますますしがみついてくる。

「い、嫌……ご覧にならないでください。大体、レオ様はおかしいです」

「私の何がおかしいと申すか、命短き小娘」

「だって、血を吸うだけなら首筋が出ていればよろしいのでしょう?」

 娘らしい小さな手で、リアは自らの首筋に触れた。

 そこには見る者が見れば吸血の痕跡とわかる、二つの牙の痕がくっきりと残っている。

 リアの身体の他の部分に傷跡はなく、またレオンティウスもリアのなめらかな身体は丁重に扱うようにしていた。

「なのにこうして、服を着せておかないなんて……」

「食事は楽しい方がよい。私は食事のついでに、お前の何もかもを楽しみたい」

 レオンティウスは骨張った冷たい手で、リアの白い背中をゆっくりと撫でた。


 身を捩るリアが胸にしがみついたままレオンティウスを見上げてくる。

 ランタンの明かりの中で見る緑色の瞳は明るく透き通っていて、とても美しい。レオンティウスの手が腰まで下りると、その瞳をにわかにつむって身を竦めた。

 そして、そこへ触れたレオンティウスの手には微かな痺れが走る。

 リアの左腰、丸みを帯びる直前の場所には蛇をあしらった紋様が彫られていた。微弱ではあるが魔力も込められており、リアが言うには生まれてすぐに彫られて術をかけられたものだという。

 その魔術は微弱ながら災いを払い、幸運をもたらす祝福の類だったが、レオンティウスほどの吸血鬼を退ける力はなかったようだ。


「レオ様、そんなにくすぐらないでくださいませ」

 紋様に触れられていることには全く気づかず、リアは深い溜息をつく。

 レオンティウスは寝台に座ったまま、リアを腿に乗せ、柔らかい身体を正面から抱きかかえた。そしてまず傷跡が残る首筋に口づける。

「少し、まだ、怖いですから……」

 リアが声を震わせ、レオンティウスの首に腕を回した。肩に顔を埋めてくる。くぐもった声がする。

「どうか、名前を……わたくしの名前を呼んでください……」

 ねだられた時は素直に応じるようにしている。

「リア」

 レオンティウスが彼女の名を口にするのは寝室に入る時だけだ。

 初めはリアからねだられるまで、名前を呼ぶということがそこまで重大だとは考えもしなかった。だがリアは名前を呼んで欲しがるし、レオンティウスがそれを怠るとあからさまに機嫌を損ねる。そして近頃では寝室でしか呼ばないことを遠回しに責めてくるまでになった。

 だからレオンティウスはリアの名を呼ぶ。

 全ては彼女から求めてやまない新鮮な血を得る為だ。

「リア、私の渇きを癒してくれ」

「はい、レオ様。わたくしを、どうか召し上がってください」

 従順な言葉の直後、レオンティウスは青ざめた唇を開き、ずっと隠してきた鋭い二本の牙を覗かせた。

 それをリアの首筋に、傷跡が残っている場所に寸分違わず突き立てる。

 刺さる牙の鋭さに、リアがぐっと背を反らした。

「あっ……!」

 強張る彼女の背に手を這わせ、レオンティウスは尚も牙を深く突き刺していく。初めのうちはゆっくりと、以前の痕跡を探り当てるように。

「は、あ……うあっ」

 苦痛に耐えかねてか、リアがレオンティウスの背中に爪を立てた。

 しかしレオンティウスはそれを制止しない。早くも舌先に触れ始めた新鮮な血の味に酔いしれ、身体の奥から突き上げてくるような欲求と渇望に駆り立てられていた。

 リアの血は美味だった。ほのかに甘く、舌がとろけるような深い味がした。

 気を抜けば理性が飛んで際限なく貪りそうになるのを、縋りついてくるリアの身体の温もりが引きとめてくれる。この温もりを味わいたいが為に、レオンティウスはリアに食事を求め、そして裸身を晒すことを求めていた。

「レオ様……わたくしをどうか、ずっとお傍に……」

 リアは首筋に噛みつかれて恍惚としながら、うわ言のようにそんな言葉を繰り返す。

「わたくしを傍らに、どうか……あっ、お、お願いです」

 音を立てて血を啜っていたレオンティウスは、その言葉に応じるように一度牙を引き抜いた。

 そして傷跡から垂れ落ちる赤い雫を舌で掬いながら答える。

「案ずるな。死が二人を分かつまで、お前はずっと私のものだ、リア」

 求められるより先に名を呼ぶと、リアが喘ぐような息をついた。

 レオンティウスはその首筋にもう一度、牙を深く突き入れた。


 寝台の上で重なり合う二人の影が、揺らめくランタンの光によって寝室の壁に映し出されていた。

 二人は固く抱き合ったまま、互いを離そうとはしなかった。


 全てが終わるとリアの身体は急に冷えたように体温が下がる。

 だからレオンティウスはその身体を毛布で覆い、温めてやらなければならなかった。

「ありがとうございます、レオ様……」

 脱力したリアに水を飲ませてやった後、レオンティウスは寝台の、彼女の隣に横たわる。

 吸血鬼の身体に睡眠は必要ないのだが、リアが寂しがるのでいつも添い寝をしてやっていた。

「今宵は休め、短命の者には睡眠が必要だ」

 髪を撫でながら勧めたレオンティウスに、リアはまどろむような顔つきで微笑んだ。

「そういたします……あの、レオ様」

「どうした」

「わたくしが眠りに就く時も、名前を呼んでいただけたら……嬉しいです」

 レオンティウスはその顔を横から覗き込み、溜息をつくように告げた。

「リア、ゆっくり休むがいい」

 するとリアは程なくしてとろとろと安らかな眠りに落ち、レオンティウスは毛布に包まれたその身体を抱き寄せる。

 そのまま目を閉じると、本当に眠ってしまえそうな心地がした。


 レオンティウスにとって、リアの温もりは懐かしく、眩しいものでもあった。

 かつて同じ熱が、温かな血が、自分の中にも通っていたのだ。

 一人でいれば霞んでいくばかりの記憶が、わずかながら蘇ってくるようだった。

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