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すべてが終わる始まりの  作者: 黒猫屋
第一章 始まりの
4/9

開放の

 授業の内容など頭に入るはずがなかった。どんなに優秀な人間でも無理だっただろう。だって、目の前であんな事をされちゃあね。


 咀嚼そしゃくできない異物をずっと噛み続ける苦痛。味の無くなったガムに似た不快な感覚。俺は今日一日そんなものを抱えて過ごさなければならないのか。頭痛が痛い。


 いや、杏子は何事もなかったかの様に過ごしている。まだまだ今日は長い。いくらでも話を聞くチャンスはあるんだ。慌てるな。まだ、その時じゃない。


 俺は欲望にまみれた自我を押さえ込むのに必死になっていた。混乱の中にあって、それでも人が前を向き歩みを止めないのはただ一つの理由があるから。それは心理を追い求める欲求。人間に秘められた知的欲求を満たす『なにか』を渇望するがゆえってやつだ。


 知ること、理解できることの喜びは人間に与えられた特別なものなんだと思う。分かった瞬間の脳に、どれ程の脳内麻薬が分泌されるのか知りたい。それを餌に、人は更に次の未知を探すのだとも思う。


 それでだ。今の俺はその前の段階にいるわけで、もう頭ははち切れんばかりだ。鼻息は荒く、前頭葉は熱を帯び、目はきっと血走り真っ赤になっているだろう。


 そんな目で杏子の姿を追うものだから、案の定、クラスの担任に注意されるわけである。


「神谷、おい、神谷!」


 俺はしまった!と心の中で呟いた。咄嗟に教科書で顔を隠したが、もはや手遅れ。担任は俺の元へ近寄ってきた。


「神谷、佐々木に随分と興味があるようだが何かあったのか?詳しい話は教務員室で聞こう。そう言えば、一限目も出席していなかったようだし、お前らしくないな。この時限が終わったら私のもとへ来なさい。わかったね」


 とどめの一撃として、教科書で頭を叩かれた。クラスはどっと笑いに包まれ、俺はいい晒し者になってしまった。


 げ、げせぬ。実に不快だ。


 そんな不快な思いをした俺ではあったが、一つだけ良かった事もあった。クラス中から笑われている最中に、あの杏子が皆から見えない絶妙な角度で俺にゴメンネのサインを送ってきたことだ。手を合わせて舌を少し出したあの可愛らしいサインは、二人だけの秘密を共有した証である。俺は自分だけが特別な扱いをされている気になり、中々の満足感を得られた。


 そう、俺は特別な存在に昇格したのである。きっと、おじいちゃんにもそれなりの飴を貰えるかもしれないのであった。


 いや、ちょっと待てよ。そうじゃない。もともと杏子は俺の事を好きだったんだ。半年前の告白が、悪ふざけじゃなかったと今日のやり取りで確定していたんだ。


 つまり、それは、マジで杏子は俺を好きになっていたという事で、それは今も変わってはいない。俺の返事しだいでは恋人の関係になれる可能性が……あるんじゃない!?いや、あるだろう!なぁ、あるだろうよ!


 人は学習しない生き物である。歴史から何も学ばないのである。


 数分前に担任からお叱りを受けたばかりの俺は、数分後にはそんな妄想を脳内で繰り広げていたわけで、察して貰えばわかるだろうが、さぞかしおぞましい顔をしていたのであろう。


 担任からの二度目の注意が入る。累積されたカードはピッチからの退場を表し、俺は教室から放り出され、教務員室へ即連行されることとなったのであった。


 ちなみに俺の退場の際、杏子の横を通りすぎる時に彼女は俺に小声でこう言った。


「ばーか」


 



 担任は授業を抜け出すことが出来ないので、代わりに生活指導の教員を俺の元へ派遣した。


 鬼の鮫島。この学校では最高ランクの脳筋野郎である。二つ名の通りの気性であって、学園祭における教員人気ナンバーワンコンテストでは、三年連続最下位の不動の地位を持つ人物である。


「神谷だったな。始めに言っておくが、俺をあまり怒らせない方がいい。その意味がわかるな」


 俺はこの学校生活で、鮫島と話したのは今日が初めてだった。物凄い威圧感。そしてむさ苦しい存在感。濃い顔。


 鮫島はおもむろにピチピチのTシャツから溢れんばかりの筋肉を俺に披露した。


「見ろ、神谷!。この日々丁寧に磨き挙げた上腕二頭筋を!!刮目しろっ!」


 出ました。鮫島筋肉談義。筋肉を一途に愛しすぎた男の熱い愛の特別講義である。校内においてそれはあまりにも有名だった。噂には聞いていたが、実際にそれを喰らうとこういう気分になるんだぁ。つまり最低の気分ってやつ。


 鮫島は体の主要な筋肉を丁寧に説明しだした。それが終わるのに二十分。独自の筋肉理論に十五分。最後は自身が作詞作曲を手掛けた筋肉数え歌(独唱)で締め括られた。


 これを喰らった生徒は、どんなに不良だとしても、翌日からは不思議と健全な生徒に戻るのだと言われている。理由は至ってシンプルで、二度とあんな筋肉詰め合わせの講義をくらいたくないから。の一点であった。


 教室へ戻された俺は廃人だった。魂が抜け出したもぬけの殻であった。


「き、筋肉……ふへ……ふへへへ」


 自然と口から出る言葉は、鮫島のそれと同一であり、俺は小さな鮫島(リトルサメジマ)と化していた。


 そんな筋肉教の崇拝者へと堕ちた俺の元へ岡田が寄ってくる。


「健斗大丈夫?さっきから大胸筋とかハムストリングとかずっと呟いてるけど」


 岡田は馬鹿だがいい奴だ。こんな筋肉堕ちした俺の三角筋を心配してくれている。持つべきものは友達だ。ありがとう岡田。


「ああ、俺なら大胸筋。じゃなくて大丈夫だ。心配してくれてサンキューな。帰りにプロテイン奢ってやっからな」


 「マジ?健斗ありがとー!やったープロテインだー!」


 多分、多分だけど、まともな奴だったら突っ込んでくれていたであろう場面だ。いや、今のは絶好の突っ込みチャンスだったはず。もしかしたらその突っ込みで俺が正気に戻れていたかもしれない所で、岡田は全てを受け入れてしまった。


 千載一遇のチャンスを逃すあたり、やはり岡田は岡田である。浮かれ気分な岡田は、席の真横や正面にいる生徒に話しかけていた。その内容を聞いて、俺は溜め息と同時に肩を落としたのだった。


「あははー!健斗にね、帰りにプロテイン奢ってもらえんだー。でさぁプロテインてなんなのぉ?」


 俺は筋肉悶々の状態で、艶めかしい鮫島の三角筋を思い出していた。


 すると、急に背後から誰かが肩を叩いた。


解放リリース


 小声で放たれた一言。直後、頭の中でぐるぐると回っていた筋肉への強い執着が、嘘のように溶けてなくなってしまった。払いきれない呪縛から解き放たれたような解放感で満たされる。


 俺は咄嗟に振り向いた。


 そこに立っていたのは杏子だった。表情は柔らかい。


「な、なんだよ。鮫島に叱られたのを笑いにきたのか?」


 いぶかしげに俺はそう杏子の事を払ったが、当人はそんなのはどこ吹く風のようだ。俺の机にどんと腰を下ろし、目も合わせずに話を始めた。唇が動くか動かないかの小声で。


「強烈なのもらったみたいね。あたしの解放リリースちゃんと効いた?健斗そっちには耐性ないみたいだし」


 眉が上がる。瞳孔が開く感覚。顔は強張り、奇妙なもやに巻かれるようだった。まさか、また魔法?いやいや、だって鮫島だぜ?俺や杏子ならまだ話は分かる。いや、わからないけれど、魔法の類いに精通していない鮫島が、俺に魔法をかけたと?杏子の話しっぷりだとそう言う事になってしまうんじゃ?そもそも、杏子はリリースだとかセンドフォアだとか魔方陣だとか……う~ん。わけがわからん。


 目まぐるしく変わる状況に、俺の思考はついていけなくなっていた。足りない。知識だけではなく、情報が明らかに不足している。二転三転する俺の表情はさぞかし面白いものなのだろう。杏子は俺を横目で見て、吹き出した。


「あははは!なんだよ健斗、顔芸はんぱないじゃん!あはは」


「うっせーよ!杏子が悪いんだ。わけのわかんない事ばっかやってきやがって!」


 そんなじゃれあいにも似たやり取りは、小休憩中だったクラス全員の注目を浴びていた。余程俺たちの組合せが珍しかったのだろうか。


 杏子はそんな事に動ずることなく笑い続けていたが、片割れの俺には少々厄介に感じた。なにせこんな体験は初めてだったもので。


 俺は苦肉の策として、この現場から去るという選択をとった。俺の定石。気まずい時は逃走エスケイプである。


 ゆっくりと立ち上がり、ゆっくりと椅子を戻し、ダッシュである。しかし、何故か杏子まで俺についてくる。


 クラスは沸き立った。いや、ざわついていた。困惑と喚声が半々か。そりゃま、そうだろう。目立たない俺と、美少女。この異種混合な組合せは様々な憶測をよぶに違いない。


 ダッシュ中、俺を追走する杏子は俺に「待ってよ」と何度も言っていた。途中からは「逃げんな」に変わってはいたが。


 が、そんな事はどうでもよかった。とにかくあの場から去れさえすれば。


 俺は別に時の人や、ヒーローなんかになりたくなかった。噂の渦中に居るべき人間でもないはずだ。平凡な日常を何よりも強く望み、普通の高校生活を送れていられたら、それだけで満足だったんだ。


 階段をかけ上がる。屋上の扉を勢い良く開ける。そして、背後から蹴り飛ばされる。


 勢い余って転がった俺は、屋上で大の字になった。空はどこまでも青く、太陽は眩しく輝いていた。雲はゆったりと流れ、白いパンティは俺の目の前にあった。


「逃げんなって言ってんじゃん!」


 杏子は腰に手を当て俺を見下ろしていた。顔はチョッと怒っているようだ。成る程、俺を背後から蹴り飛ばしたのは君か。ってか、本気で蹴り飛ばさなくても良くね?


「何で健斗はそうやっていつも逃げんの?逃げて良いことなんてないじゃん」


 なんにも分かってないなぁと思った。だからそれを杏子に伝える事にした。


「あ、あのなぁ。俺さ、ただ静かに学校生活を送りたいだけなの。分かる?杏子達みたいに騒いだり注目を集めたりとか興味ないんだよ。ひっそりとした日常に満足なわけ。だから……」


 杏子は不思議なものを見るような目で俺を見続けた。


「だから、なによ……」


 言葉を続けて捻り出したくはなかったが、その時の俺は冷静ではなかった。渦巻く感情を上手く抑えられなかった。


「迷惑なんだ。その……話し掛けられるのとかも」


 杏子の目は静かに閉じられた。それを見て、俺はまたも彼女を傷付ける様な事をしてしまったと思った。まずい、傷口が広がる前になんとかせねば。と思ったのも束の間だった。


「あ、ちょ、痛い。痛いって、めて、やめて!蹴るなって、イテっ!」


 普通の女子ならば、しおらしく泣くのが妥当な線だろう。しかし、相手は天使の顔した悪魔である。余程頭にきたのか、俺の脇腹を何度も蹴って来る始末。最悪な女だ。


「黙って聞いてれば!このっ!糞健斗っ!」


 罵声と暴力はセットの関係だ。なんて素敵なマッチングだろうか。怒りの感情は素直にそんなものへと変換され、素直に対象へ襲いかかる。


 薄れ行く意識の中で見た杏子の表情は、どこか恍惚こうこつとしたもののように見え、どこか儚げにも思えた。




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