第四話 電車の君は本当の運命の相手?
「祐太―、晩ごはんのおかず。持って行けってお母さんが……」
「未生」
私がダイニングテーブルに託されたおかずの詰まったタッパー入りの手提げ袋を置くと、情けない声が背後から耳に届く。
「祐太、重い」
指摘するも、祐太は首を振って私の離せという言葉を拒絶する。背後霊のように背中にへばりつかれた上、体重をかけられてはかなわない。私はこれでもか弱い女の子なのだ。祐太の全体重をこちらにかけられてしまったら、さすがに支えきれず潰れてしまう。
「離れなくていいけどこのままじゃ骨折しちゃうから、一度離してくれる?」
はあ、と小さくため息を吐いて私が告げると、祐太はゆるゆると身体を起こして少しの距離を開けた。無言で祐太の手を取り、すぐそこにあるソファへと導く間、祐太は無言で私の行動を受け入れていた。
「ほれ」
私がソファに座り、ぽんぽん、と膝を叩くと、祐太は情けない顔のままゆるゆると床にしゃがみ、私の膝へと頭を乗せた。まるで跪き何かの許しを請うているような姿勢に少し笑いそうになったが、さすがにそんな場面ではないと私は祐太の柔らかい髪に指先を差し込んだ。
「さっき、高級車に乗ったおばさん見たよ」
びくり、と肩を竦ませた祐太に、私はため息を吐く。
「いい歳なのに、何をやってんだかね……相変わらず綺麗だけど全然老け込まないのって精神年齢低いからかな」
くすくすと笑い交じりに言う私に、そうかも、と祐太も呟いた。
「次は、本物かもって……」
「――そう」
祐太の言葉に、彼の頭を撫でながら短く答える。
遺伝などではないのだ、祐太の奇行は。ただ、ただ――自分自身を納得させたいが為にしているだけだと、私は知っている。私の母も、父も。
――祐太の、お父さんも。
それでも、他人をいたずらに傷付けていいわけがないから、止められないのは私の罪なのだ。こうやって彼を甘やかすのも、その罪を少しでも軽くしたいから。
「今日の晩ごはん、何?」
「豚の角煮と小松菜のおひたし」
「…………未生は?」
少ない言葉だけれど、祐太が何を問うているのかはわかっていた。ゆるゆると起き上がって私を見上げる瞳は、不安そうに揺らめいている。
「ここで食べてくよ。おばさんの分は無駄になっちゃったし、独りじゃ味気ないでしょ」
苦笑する私に、祐太は、ぱっと笑みを浮かべて、おなかすいた! とわめきはじめる。……現金な奴め。
私が炊飯器を覗くと、どうやらごはんだけは炊いていたようで、私は味噌汁くらいならすぐに作れる、と冷蔵庫を開いた。相変わらず、食材らしい食材はほとんど入っていない。おばさんの料理は壊滅的であるから、まあ、おとなしくしてくれるほうがありがたい。
「母さんは、別に悪くないとは思ってるんだ」
「うん……ちょっと変わったひとではあるけど、私もそれはわかってるよ」
元気のない祐太は、私がしたくするのを目で追いながら、ぽつぽつと今日のできごとを話す。
どうやら、あの高級車――と勝手に命名しよう――といっしょに三人で晩ごはんを食べようと提案されたらしい。最近ちょくちょく家へ遊びに来るという彼は、表面的な態度はまあまあ友好的で、祐太に優しく振舞ってはくれるようだ。かといって、じゃあ父親として、というには、まだまだ祐太には時間が足りないし、そもそも祐太は父親を必要としていないし、ふたりの仲を反対するつもりもない。仲良くするならば、ふたりだけでどうぞ、というのが祐太の正直な気持ちだった。しかしそれに難色を示されてしまい、疲れたのだと祐太は言う。
「まあ、優しいけどさ、目は完全に俺が邪魔だって言ってるんだよね、あのひと。母さんのことは本当に好きみたいだから、好感度上げに利用したいみたいで……」
あーあ、と疲れたように声を上げる祐太に、ご苦労さん、と呟いて目の前に皿を置く。
「未生」
「たまご、もう古くなりそうだったからね。角煮にも煮たまご付いてるんだけどさ。いらなきゃ明日」
「いただきます!」
「こら、手でつまむな、駄犬」
特製の出汁巻きたまごを手でつかもうとするから、私は祐太の手をぺしん、とはたく。無言で箸を差し出せば、祐太はへらりと馬鹿な顔をして笑った。
祐太のお母さんは、まあ、問題がある人、だと思う。ただ言えるのは、子どもを放置して男遊びに興じるだとか、家事をないがしろにして外へ出かけているとか、そういう人では決してないのだ。料理が極端に苦手なだけで、その他の家事はきちんとやっているし、祐太を育てる為に、外へ稼ぎにも出ている。
ちょっとぼんやりしたタイプの祐太のお母さん。おばさんは、とにかく夢見る夢子ちゃんで、仕事上はそうでもないみたいなのに、なぜか男に対しては夢を捨てられないようなのだ。離婚した祐太の本当の父親は、今はどこにいるかはわからないが、色んな住所から時折、仕送りと共に手紙が届く。それはその時によってまちまちのようで、おばさんが正社員ではなくパートでなんとかやっていけているのは、お父さんの援助があるから。そして祐太にとっての父親はそのひと唯一なので、祐太は新しい父親を望んではいない。
『お父さんは、私の運命の相手じゃなかったのよ』
しょぼんとした声で告げられた、別れの理由。それは幼い祐太にはあらゆる意味で衝撃だったようだ。祐太はきちんと最初から本物をみつけるのよ、という言葉も、祐太の根幹を作る上でこれでもかというくらい根付いてしまったらしい。まあ、単純な話、諸悪の根源は恋愛体質のおばさんのせいだと言える。
おばさんはおじさんと別れてから、躍起になって運命の相手探しを頑張っているようだが、結果は芳しくないようだ。私の目には、どうもやけくそになっているようにも見えるが、こんな小娘ひとりの観察眼など、たかが知れているだろう。
「うまいー」
ほにゃりと顔をくずす祐太に、私も微笑む。
初めて作ったたまご焼きは、そりゃあ食べられたものではなかったけれど、食べた瞬間に美味しい! と叫んで泣いていたはずの祐太がみるみるうちに笑った。その顔が忘れられず、以来、何か彼が落ち込むとこれを食べさせてやるのが習慣となった。今ではすっかり上達し、私の得意料理と言って差し支えのないものになった。……まあ、他には本当に簡単なものしか作れないんですけどね。お母さんが家事上手いとどうもね。
「さ、味噌汁もできたし食べよっか」
すっかりたまご焼きをたいらげた祐太に告げると、彼は機嫌よく頷いた。
「えー、泊まっていかないの?」
「着替え用意してないから面倒。あんたがこっち来れば?」
晩ごはんを済まして後片付けも終えた私の提案に、そっか、とあっさり頷いた祐太は、いそいそとしたくを始めた。……祐太の歴代彼女たちやら、ファンやらが見たら卒倒しそうな光景だよな。
「傍にいられなくなる、かあ」
まあ、それもいいかもしれないよね。
口からもれた言葉に苦笑して、私は早くしろ、と祐太を急かす為に階段下から二階にある祐太の部屋めがけて叫んだ。
「あのな、男にだって色々あるの」
「エロ本なんて持ってこないでよ、馬鹿」
「そんなの持参するほど飢えてないんだけど」
「……でしょうね」
首を傾げる祐太にため息を吐いて、さっさと行くよ、と私は靴を履く。祐太は私の荷物を自然な動作で持って、私の手を引きつつ玄関を開く。……こういうところは紳士なんだけどな。うん。
「ねえ未生。俺さ、声かけられなかったって言ったじゃん」
「ん? ああ……電車の君ね」
どう呼ぼうか一瞬悩んで、私はものすごくべたなとりあえずの名を付ける。祐太がそれを気に入ったのか、ぴったりかも、と短く笑った。
しかし、妙なものだ。外灯が作り出す光のおかげか、夜だというのに道は明るく、私と祐太の並んだ影がくっきりと浮かんでいる。重ねられた一部分は、私と祐太が手を繋いでいる事実を示しており、私たちの関係を知らない人間ならばまず間違いなく特別な想いを通わせ合っているふたりに見えるだろう。兄妹は、あまりに顔が似ていないのでありえない……って改めて考えるとむなしい。そんなふたりの交わす会話は、祐太が一目惚れをした女性について。なんだか奇妙で歪で、私はくすくすと忍び笑いをもらした。祐太がそれに不思議そうな顔をするので、私はなんでもないよ、とごまかした。
「それで、電車の君に声かけられなかったって話だよね?」
うん、と頷く祐太の頬が、ほんのりと赤らんだ気がした。さすがに夜だから、そこまでは見えなかったけれど。
「大丈夫ですって言われた時……見惚れちゃって。気付いたらもう駅に着いてて、慌てて電車降りたんだけど、人混みに押されてもうどこにいるのかわかんなくなっちゃってさ」
照れたように呟くその声に、そう、と私は微笑む。
「……みつかるといいね」
「うん」
はにかむ祐太の手をそっと離して、私は見たいテレビがあるの忘れてた! と走り出す。祐太がその声に慌てて、あとから遅れて走り出した。あっという間に追いつき追い越されたのが悔しくて、馬鹿でもやはり男なのだな、と妙に実感してしまう。
私が運動神経ちょっとアレなせいでもあるかもしれないけど。
電車の君捜索隊は順調に人物を絞り、恐らくこの女子生徒で間違いがなかろうというところまで辿り着いた。祐太が一目惚れをしてから三日間が経過したが、その短い日数でまさかみつかるとは思わなかった。我が同好会の実力はすさまじい。一方、馬鹿が結成した捜索隊もなんとか人数を絞っている最中のようだが、名乗りを上げる人間ばかり多くて、あまり参考にはならないようだ。まあ、遊ばれても一時でも恋人になりたい、だなんて女子生徒は数多く存在する為、それは仕方がないといえる。
「同じ一年生だったのかー……まあ、一学年に八クラスあるわけだし、そう簡単にはみつからないか」
メッセージの内容を読みながら、頬杖を付く。
湊さつき。面倒見のいい姉御肌タイプか。……今までって、そういえばか弱い系の子が多かったかも。あ、丹下先輩は別か。でも面倒見がいいというか、女王様というか。けっこうな無茶ぶりを祐太にしていた気がする。なんか遠い昔のようだ。つい数ヶ月前の話なのに。
立ち上がり、ゆっくりと教室を出る。どうやら図書室へと寄るのが放課後は日課のようだ。文学少女か。いいね、実にいい……いや、私が萌えを感じても仕方ないんだけどね。フラグが立つはずもないしね。
珍しく馬鹿寄りなことを考えていると、図書室が見えてくる。ある人物の姿を確認して、私は小走りにそこへと向かった。
「丹下先輩」
「あそこに座ってるのがそうよ」
図書室の出入り口に立つ先輩が、視線だけで存在を示す。私も同じく視線を動かしてみると、そこそこの人数がいる中、埋没することなく凛と輝く女性を視界に映し、思わず目を見開いた。
容姿すら、可愛いと形容するものではない。これには驚いた。大多数が、綺麗というよりは可愛いと言われるような見た目だったからだ。丹下先輩も、性格はともかく外見はそのタイプに該当する。
「これはひょっとすると、ひょっとするかもね」
いたずらっぽい笑みを浮かべる先輩に、私は無言で頷く。
調べ上げて、どうやら間違いがなさそうだと確信を持ったものの、それでも本当に彼女で間違いがないのかと何回も疑ったらしい。同好会メンバーは皆、先輩も含めてかなりの衝撃を受けたことだろう。私も、女剣士のようなきりりとした彼女を目にして、信じられない思いが頭を巡っている。しかし、何度も調べたと先輩は言っていたし、間違いないのだろう。
「じゃ、あとでね」
ぽん、と肩を叩いて、先輩は去って行く。部室で落ち合う約束をしていたので、私は短く、はい、と呟いた。
少し緊張しながらも、一歩、また一歩と彼女の元へ歩いていく。ぴたりと足を止めて、湊さん、と小さく私は声をかけた。
「? ええと」
本から顔を上げた湊さんは、呼ばれて視線を私に移したものの、てっきり知り合いだと思っていたのに全然知らないひとで困惑しています、という表情をありありと浮かべている。そうだよね、いきなり他人から声かけられたらびびるよね。私もたぶん同じような反応を示すと思う。
「あの……ちょっと訊きたいことがあって。でもここだとちょっと話し辛くて」
私の言葉にますます眉間に皺を寄せる彼女の耳元に、祐太の探してるひとってあなたみたいなんだ、と囁いてみる。湊さんは少しだけ目を丸くして、左右に視線を動かすと、ふう、と息を吐いて本を閉じた。
「これ、棚に戻してくる」
出入り口で待ってて、と言われたので、私は頷いて図書室を出る。湊さんが出てくるまではほんの数秒だったはずなのに、落ち着かなくて妙にそわそわしてしまった。