第二話 馬鹿と馬鹿を面白がる人間たちによる嵐の前兆
「未生、あーん」
「だから太るからいりません」
何度言えば理解するんだ、と眉をつり上げる私をまったく気にしない幼馴染みの綺麗な顔をビンタしたい。思い切り良くいきたい。もうなんなのこいつ、本当ただの馬鹿じゃん、馬鹿以外の何者でもないじゃん。嫌いだからって玉ねぎを寄せ集めて私に食べさそうとするんじゃないよ。
「野菜なんだから大丈夫でしょ?」
「油で炒めてあるじゃないの。大体、祐太と違って私は体重変動しやすいんだからね」
筋肉付けたら? と首を傾げるお綺麗な顔を今度こそ殴り飛ばしてやろうとしたところで、玄関のチャイムが鳴った。
「今日はちょっと遅かったわねえ」
私たちのやり取りをにこにこしながら眺めていた母は、リビングの扉を開いてぱたぱたと廊下を駆けて行く。祐太は、おかずを咀嚼しながらそれをみつめていた。
「――おばさんとおじさん、仲良いよね」
「そう? まあ、お互いにおっとりしてるタイプだから他の家庭よりも仲が良さそうに見えるのかもね」
肩を竦める私に、祐太は一瞬だけ笑顔を消したけれど、次にはまたさっきまでと同じ馬鹿面でへらりと笑った。
「はい、あーん」
「だから食べないっつってんでしょ!」
「祐太くん、来てたんだね」
父の持っていた鞄を母が持つと、父はそれに小さくお礼を言いながら祐太を視界に留める。私と祐太が声を揃えておかえりと告げれば、父は息ぴったりだと笑った。
「祐太くんは今日もちょっとお間抜けさんだねえ」
くすくすと楽しそうに笑う父に、お父さんたら、と肘を小突きつつも肯定しているように同じく笑う母。
私と祐太はそれを見ては首を傾げるばかり。父のこの発言は時折飛び出すのだが、いまだに意味不明である。こんな時はいつも、大人ってよくわからないね、とふたりで顔を見合わせるばかりだった。
……しかし、私もお間抜けさんってことにはならないのかな、とふと過ぎって、まあ別にどうでもいいかと思い直す。とにかく風呂に入りたいんだけど、まだ行かせてはくれぬか、幼馴染みよ。
だめー、と首を振る祐太の頭に、私は今度こそげんこつをお見舞いした。
悪いのはずっと私が風呂に入るのを邪魔する男だというのに、私はすぐに風呂へ入れるでもなく、暴力を振るった代償として父と母に怒られただけという結果が残った。
……なんて理不尽な世の中だ。
次の日、登校した私の耳には早速、ふたりが別れたらしいという情報が飛び交っていた。おいおい、昨日の夜だぞ。どうして話が広がってるんだ。
「あ! ねえねえ相良! ふたりっていつ別れたの?」
「いや、知らないけど」
さすがに個人情報というか、吹聴する気にはなれないので首を振る。ていうか、本人に訊けば教えてくれるんじゃないかなー……馬鹿だし。ポンコツだし。頭振ったらカラカラって音鳴ると思うし。
「えー、そっか。じゃあ本人に訊こ」
最初からそうしろよ、と心の中で悪態を吐きつつ席に着いた。賭けをしていた奴らの阿鼻叫喚を右から左へと流しつつ、さて、アフターケアはどうしたものか、と考える。
うーん……とりあえず、ちょっとメッセージ飛ばしてみますかねえ。手元にある機械を操作して、画面に元彼女の様子はどうだ、と文字を打ち込む。しばらくすると、返事がきた。
「荒れている……か」
次に表示された文字はかなり長文で、要約すると学年ではけっこう嫌われているぶりっ子タイプの女だから放っておいて問題はないとのことだった。あーやっぱりそのテだったのね。祐太って本当、ポンコツ。今回は何が原因で惚れたんだか。いやそもそも、もしかして惚れてないんじゃないか? もうなんか祐太の中にあるストライクゾーンに引っかかる容姿なら惚れたと思わせる成分が脳内に分泌されるよう組み込まれたんじゃないのか? 運命の相手を血眼になって探すあまり、脳が祐太を手助けしようと頑張っちゃってるんじゃないのか? ああ、なんという馬鹿。迷惑な馬鹿。
何度目になるかわからない祐太は馬鹿であるという一文を脳内で浮かべたところで、開け放したままの教室扉から、馬鹿がひょっこりと顔を覗かせた。
「みきみきみき」
「馬鹿という言葉はお前の為にあるな。何度も言うが犬みたいに呼ぶな馬鹿。学習しろ馬鹿」
またも名前を連呼されたので私が無表情で馬鹿という言葉をこれでもかと浴びせると、さすがに落ち込んだように肩を落とした――いや、待った。
祐太だよ。馬鹿と書いて祐太と読むくらいの存在だよ。そんな男が腐れ縁の幼馴染みに馬鹿を連呼されたくらいで落ち込むわけがなかろう。まさか……? 考えたくはない。が……。
ごくりと唾を呑んだ私には気づかず、しょんぼりとした様子のまま真っ直ぐこちらへ歩き、まだ登校していないらしい私の隣、水島くんの席へと祐太は腰を下ろした。
「名前、訊きそびれた……」
「――祐太。まさか」
「今朝、電車で肩がぶつかった女の子がいたんだ。ごめんって言ったら、大丈夫ですって笑った顔が可愛くて」
うわああああやっぱり……。
私が発狂寸前な顔で額をおさえ天を仰いでいても、意に介するでもなく祐太は悩ましげなため息を吐くばかり。ちらりと見ると、頬杖を付き、頬をほんのり赤く染めた祐太はどこか遠くをみつめている。そんな祐太を見た女子生徒がこれまた悩ましげなため息を吐いている。なんて罪作りな。歩く危険物か、それとも猥褻物か何かか。
「同じ制服だったから、この学校なのは間違いないんだけどなー」
「永遠にみつかりませんように」
祈りを込めてそう呟くと、なんでだよ! と祐太が怒りのまま声を上げた。私は祐太の反応にはあああと深い、とても深いため息を吐いて、頭を抱えた。
なんでだよってこっちがなんでだよって言いたいよ。お前昨日までボブカットの容姿的には超つり合い取れてる可愛い彼女がいたじゃねーか! 運命の相手だっつってたじゃねーか! 今度こそ本物だって言ったその舌の根も乾かないうちに違う女に一目惚れしてんじゃねーよ! もう本当に改造されてほしい。地球滅亡の危機から救うとかいうお題目掲げて正しいと思い込んだ正義感に押されて拉致って人間を改造するというそれお前らが倒そうとしてる悪の組織よりもよっぽどな悪行じゃねえかしかも自覚なしかよ大人じゃねーのかよ! ていう名前だけが正義の組織にさらわれて欲しい。頭の中をいじくりにいじくってものすごく真面目で堅物な男にして欲しい。
「でもさあ、これでみつかったら運命の相手じゃね?」
にこにこ笑う男に、ああそうだね、と棒読みで相槌を打つ。
誰か馬鹿を治す薬を早急に開発してくれないだろうか。よっちゃんイカあげるから。おやつカルパスあげるから。切実に。
「相良はどんな相手か知らないの? 今度の運命の相手」
「朝の聞いてたでしょ? 私は見たこともないよ」
お昼ごはんのお弁当を広げて咀嚼していると、私みたいにクラスで浮いているでもなく馴染みきっているでもない漂流するクラゲのような人間たちが一定数で昼を囲む。みんな、特に親しくない人間と食べるのは息が詰まるが、かといって独りでは味気ないと思っているからこうなるのだ。
中学時代から友人の少ない私は、仲の良い人間とは散り散りになってしまい、クラスメイトはそこそこ距離を置いてもわりとかまってくれる良い奴が多いのでなんとなくこの状況に甘んじている。休日に会うような人間はもっぱら中学時代の友人ばかりだ。
ちなみに今日はクラスに親しい友人がきちんと存在する人間までも私と昼を共にしている。石川はその筆頭だ。このお祭り人間はとても友人が多い。
「まあ、運命病に引っかかったわけだから、それなりの容姿だよね」
運命病という非常に的を射ており、なおかつ辛辣な言葉を口にしたのは隣の席である水島だ。彼は出歯亀をするようなタイプではないが、かといってまるで興味がないというわけでもないらしい、とても平均的な人間だった。恐らく私も外側から覗く立場ならば、水島タイプに分類されるだろう。
「まあ、世界一の美少女でも許されるレベルだからね祐太は」
「へえ、そんな風に評価してるんだ」
目を丸くする水島に、評価っていうか、と呟く。
「あれから容姿を取ったら残るのは馬鹿という言葉だけ。いっそそうならよかったのにと何度思ったことか」
「相良もまあ厳しい」
本日何度目かになるかわからない馬鹿という言葉を放つと、水島は楽しそうに笑いながらたまご焼きを咀嚼した。私も一口ハンバーグを口に入れて、母特製のソースは美味しいなあ、と満足感を得ながらも、今回はどうなるのかと頭のどこかで考える。
「でもさ、今回って初めてじゃない? パターン的には」
きらきらと瞳を輝かせて身を乗り出す石川に、そうだよね! とやはり興奮気味に何人かが反応を示す。
そう、そうなんだよ。実はありそうでなかったのだ。学校外で――この校舎の外でということである――祐太が運命の相手をみつけるということが。いや、無意識に面倒だからとアンテナを校内に絞っていたのかもしれないが。つくづく最低な男だ。そして今回初めてだというのは、場所だけではない。
相手のプロフィールをまったく知らなくとも、祐太はすぐさま名前を訊き、学年を訊き、思いの丈をぶつけるのだ。そして最初は戸惑ったり、渋ったりする人間が多少存在しても、結局は祐太に惚れてしまう。お前はどんだけ凄腕のスナイパーなのか。命中率は百パーセントとか恐ろしすぎるわ!
そんな彼であるから、電車の中であっても、きっと特攻をかける姿勢は変わらないだろう。場所を考慮したなどとは考えにくい、否、ありえない。なにせ祐太は馬鹿だ。公序良俗などという、ある程度の教養を持った人間の常識と祐太の中にある常識を同じ尺度で考えてはいけない。というか、常識などという言葉はあの馬鹿の脳内メモリには到底存在しないだろう。
で、あるからこそ。この周囲の色めき具合に繋がるわけなのだが。正直、私もかなり驚いているから。たまたまこの高校の人間だったわけだが、彼女が違う制服を着ていても一目惚れをしていた可能性は否定できない。というか、非常に高いと思う。今までの祐太のパターンを考慮に入れれば。彼が躊躇した理由はなんなのだろう。
「今回こそ本気ってことなのかな?」
え? と首を傾げる私に、だからさあ! と机を叩く石川は興奮が最高潮なのか、顔を真っ赤に染めている。しかしそんなにバンバン叩いて痛くないの?
「いつも運命の相手! とか言っちゃってるけど結局は振られても痛くもかゆくもないから突進できるわけでしょ? ためらった理由って、相手に嫌われたらどうしようって思ったからなんじゃないの?」
前々から思ってたが――石川ってお祭り女だけあってリーダーを務めることが多いせいか、鋭い。観察眼がかなり優れている。
「もしそうだとしたら、今度こそ長続きするかもしれないよねえ」
浮き足立つクラスメイトたちは、落ち着かない様子ではしゃいでいる。まだわからないけどね、と一本調子で言ってやれば、ノリが悪い! と怒られてしまった。
「……まあ、いずれにせよ。もしそうなったら被害者もいなくなるし、ありがたいかな」
積極的に探すつもりはないが、かといって私は祐太の想い人探しを妨害するつもりもない。探し当てられた相手は気の毒だとは思うが、申し訳ないがあきらめてもらうしかないだろう。
「本当にそれでいいの? 相良は」
水島がぽつんと呟いた言葉に、私は目を丸くする。水島よ、お前もか、お前もなのか。
「あのね水島……ないから、それだけは」
呆れながらも首を振る私に、水島はあまり納得のいかない様子ではあるが、そう、と頷いた。
「探すの協力するべきか、傍観するべきか迷うねえ」
「自力でみつけたら運命の相手! て張り切ってたもんね、松原くん」
私と水島の会話には特に興味もないのか、石川やその他のクラスメイトは、祐太の想い人を指名手配すべきか迷っているようだ。個人的にはそっとしておいてやってくれと言いたいが、そんな風に口を出せばまた妙な勘繰りをされてしまうかもしれない。
「……本人に探すの手伝ったほうがいいか訊いてみて、祐太の望むようにしてやったら?」
私の言葉に、クラスの大半が目を見開いた。無言でみつめられるの、ものすごく怖いんですけど。
「そうじゃん! 本人に訊いてみればいいんじゃん! さすが相良、幼馴染みは発想が違う!」
叫んだ石川は弾丸のように教室を飛び出した。そしてその背中に声をかけつつ、慌てて追いかける女子生徒たち。男子はさすがにそこまでの情熱を抱く人間はいないようで、元気いいなあ、などと呟いては笑ったり呆れたりしていた。
ふう、と嵐が去ったことに安堵していると、空になったお弁当箱をしまう水島と、目が合う。
「本当にそれでいいの、相良」
…………あんたもしつこいね、水島。