手紙
ある日、僕あてに一通の手紙が届いた。
意識せずとも、おもて面に描かれた紫色の変なマークに目がとまる。
『ユウイチ様へ』
現実界に絶望を感じた日の23時56分4秒、
いおり山神社にて、理想界への入界をご案内申し上げます。
僕は
「ついに……」
と思った。
この種の手紙のうわさは聞いている。『理想界』とかいう“自分の意のままに構成された世界”へのご招待チケットみたいなものだろう?
確か、手紙に書かれた時刻と場所に従って動けば、晴れて『入界』。……ここまでは知っている。
何せ、アキラの野郎が、あっちに行っちまったからなあ……。
まあ、無口でシャイな奴だったし、自分のどでかい理想とか、こっそり膨らませててもおかしくないな。
僕はさらさら、動く気などなかった。
今までに、たくさんの知り合いが『理想界』に行ったが、そのほとんどが“重い心の病”の主人だと、僕は勝手に認識している。
僕は、彼女のヒカリに相談してみることにした。
……と言っても、ちょっとした報告だ。
「ヒカリ、これ……」
僕はヒカリにあの手紙を差し出した。
「……えっ!?」
「なに戸惑ってんだよ。
『ラブレター』とかじゃないから読んでみろよ」
すぐに忠告しておいてよかった。
ヒカリは、短い文章をさらっと読み終えると、僕の目をじっと見た。
「ユウイチに?」
さらに僕に近寄って覗き込んできた。
「この手紙が?」
もう唇と唇が触れ合いそうな距離だ。
「まさか〜、何かの間違いだよ〜」
「そ、それってどういう意味だよっ!」
僕は“どきどき”を隠しきれずに言った。
「だって、ユウイチ幸せそうじゃん」
僕は何とも言えない表情をつくって、照れ隠し。
ただ、自分が本当に幸せかどうかは……。
僕の顔色を見て、ヒカリはそれに応えてくれた。
「うーん、ユウイチの悩んでそうなことって言ったら、……意外に弱気な『性格』のこと、かな?」
「まあね、そうかも……」
「ユウイチは、何かとできるのに、『自信』がないって感じ。もうちょっと積極的にいってもいいのに」
的をついたお言葉。
実際、僕は、勉強も、スポーツも、なかなかできる方だ。
「自慢じゃないよっ」
と言いたくなる性分なのもあって、人前ではできないふりをよくしてしまう。
僕は少し考えて言った。
「……できるかも知れないけど、長い間“爪”を隠してると、その“爪”が鋭いままなのか、心配になるもんだろ?」
ヒカリは黙っていた。
そろそろ話題をかえようかと、僕は、深く息を吸って準備を整えた。
ヒカリは最後に、僕の手をとった。
「行かない……よね?」
「99パーセント」
「ダメっ。1パーセントでも思っちゃダメだよ」
「……分かったよ」
「うん、その意気」
夜になって、僕は一人、自分の部屋で横になっていた。
(理想界ねえ……。
本当にあるもんなら、一度は行ってみたいって、誰もが思うだろうに)
僕は、早めにふとんをかぶったのに、ずっと眠れずにいた。
(ん? なんか音がしたような……)
それは隣の妹の部屋からだ。
足音とともにドアが開き、そして再び閉じたかと思うと、足音は遠ざかって行った。
(んっ? 待て、トイレの方向じゃないよなあ?)
少し疑問だった。そう、ほんの少し……。
ただ、この疑問、どこかがひっかかった。
僕は妹の部屋に、なぜか慌てながら、その足を運んだ。
「ユイっ」
僕は小声で言った。
いないことは知っている。
部屋の中を見渡せば、異変にすぐ気付いた。
(な、なんで!?)
僕は目を疑った。
紫色のマークが、暗闇の中、ぼんやりと光を発している。
(なんでユイがこの手紙を持ってるんだよ!)
僕はぞっとした。
その時だった。玄関のドアの音が微かに聞こえたのは。
(やばいっ! いや、落ち着け。
場所は……『いおり山神社』! 時間もオレのと同じだ!)
僕は先回りのために走りに走った。
今まで、こんなに全力で走ったことなんてないだろう……。
でも、もう苦しい、駄目だと思うことはなかった。
当たり前だろ?
ユイはまだ来ていない。
僕は神社の鳥居の前で、ひとり安心していたが、まだ終わっていないということを強く頭に叩き込んだ。
(ヒカリに一応メールしとこう)
携帯によると、あと12分で指定の時刻。
少しずつだが、石を蹴るような音が聞こえてきて、まさに、何かが近づいて来ているようだ。
僕は叫んだ。
「ユイっ!!」
ユイは気付いた。兄と思わず対面して、動揺している様子だ。
しかし、動揺させられたのは、兄の方でもあった。
その数には、口を閉ざすしかなかった。敢えて人数を数えなくとも、結構な数字であることは間違いない。
『理想界』入界希望者!!
「なんで、なんでなんだよ!! どうして現実から逃げるんだよ!!」
「僕たちは逃げてる訳じゃない」
眼鏡のひとりが言った。
「僕たちは、こう“運命づけられた”のと同じ……。あなたみたいな人には分からないんです」
「オレみたいな奴には分からない? どういう意味だよそれ。オレがまるで、苦労知らずの“幸せ者”みたいじゃねえか」
僕は、陰気な連中を前にして、腹が立った。
そして、自分の言っていることに嫌気がさした。
自分には、どうしようもできないのだろうか。
僕は思うがままに話すことにした。
「ひとつ言っとくけどな、そこにいるオレの妹、ユイは、どんくさくて、一生懸命やっても失敗ばっかするダメダメ野郎だ」
ユイは、周りからの視線を恥ずかしく思い、下を向いた。
「何がダメダメか。……失敗ばっかだから? いや、違う。分かるだろ? コイツは、上手くいかなかったらすぐ自信なくして、しまいには、自分自身の大切なものを見失ってる。
なにもかも駄目だと思い込んでる……」
聴衆は、静かに青年の話を聞いていた。
「オレは逆だ。何でも頑張った分、上手くいくと思ってる。ただ、一度で成し遂げるのは難しいんだ。
だから、いかに一度っきりのチャンスを生かした人がすごいか、なんて考えたりもする」
ユイは顔をあげた。
「お兄ちゃん、わたし、お兄ちゃんみたいに才能があったら、もっとこの世界にいれたかも知れない……」
僕は、心を握りつぶされたかのような苦痛を全身に感じた。僕の妹が、かわいい妹が……。
「絶対おかしいよ……」
僕の目からこぼれ落ちるものは何だろう?
「“生きる”には才能なんかが必要なのか……? 才能がなかったら、生きちゃいけねえのか……?」
僕の心の声届かず。
「説教はいいから、そこをどけ!」
「カッコつけんな!」
僕が、もう無理なのかと思った、その時!
「おおーっ! まさしくあれが、『理想界』への入口!」
人々が騒ぎ出した。
(……なんで現実を見捨てるんだよ……。
オレたちが暮らせるのは、ここしかないのに……)
僕は、自分のからだが青い光に包まれていることのに気が付いた。
「あっ、アイツ!! あーだこーだ言って、本当は『理想界』に行くつもりなんだ!」
「せこっ! なんて奴!」
僕はまったく情況がつかめない。
ただ、後ろを振り向けば、薄青く光る鳥居があるだけだ。
「もしかして……っ!」
気付いたときには遅かった。もうすでに、光の壁によって囲まれていた。
鳥居に向かって、体当たりするかのように突進してくる人々は、容赦なく跳ね返された。
「おい、中に入れるのは一人だけなのか!?」
ざわめきが確かに起こっているようだ。だが、僕には何も聞こえない。
(くそっ! 何だよこの光の壁。まるでガラスじゃねえか……)
僕はこの世から消える。
やっぱり、そう簡単に上手くいく訳ないんだ。
僕がこうなること、これが“運命”なのか?
もういいや。
もう、どうにもならないんだから……。
僕が目を閉じた、その時だった。
ユウイチーっ
ユウイチーっ!
僕は耳をすませた。
聞こえる!
ヒカリの声が聞こえる!
僕は息を吹き返した。
「ヒカリーーっ!!」
「あれ? なんか人が集まってるけど……」
ヒカリは神社に着くやいなや、群がる人々に圧倒された。
「……ユウイチ、どこにいるんだろう?」
僕は叫んでいた。
いつの間にか、声はかれていた。でも、僕は叫び続けた。
「ヒカリーーっ!!」
ヒカリはようやく事態を把握した。
「あっ、あの前にいるのって……ユウイチっ!?」
ヒカリは慌てて駆け寄った。
「ああっ、ダメダメ! 近づいたら弾き飛ばされるよっ!!」
ヒカリには忠告が聞こえていなかった。
唯一聞こえいたのは、誰にも聞こえないはずの、ユウイチの声だけだった。
「ユウイチっ!!」
ヒカリはそのまま、ユウイチを優しく包み込んだ。
「分かってるよ、分かってるよ……。ここが『理想界』の入口なんでしょ?」
ヒカリは、震えるユウイチの肩に頬をあて、ゆっくりと背中を手でなでた。
僕は、どうしても、この世界に残らなければならなかった。
「ありがと、ヒカリ……。もう大丈夫」
ヒカリは、青い空間の外に出ることもできた。
しかし、僕の方は……。
「くっ……!!」
「出れないの!?」
ヒカリが再び中に入ってくる。
「ばか! 出ろ! いつ向こうに連れられるか分かんねえんだぞっ!」
ふと、携帯のサブ画面で確認する。
あと1分、もしくはあと数秒で23時56分4秒。
予想通り、1分もなかった。『56』分へと表示が変わる。
「ヒカリっ! 早く出ろ!!」
「いやだよっ!!」
4秒なんて、あっという間だった。
僕とヒカリは、キスをしていた。もう、そうするしかなかった……。
青い光が、天にのびた。
僕は気が付くと、自分の部屋で横になっていた。
(ここは……理想界?)
隣にはヒカリがいる。
ほぼ間違いないように思えた。
すると、ドアが開いた。
ユイだった。
「目が覚めた?」
僕は、ユイを見つめた。
それから、ヒカリを起こした。
ユイは、いきなりこう切り出した。
「ここ、理想界じゃないんだよ、現実界なんだよ!」
ユイは何か嬉しそうに、僕たち二人を見た。
「本当か?」
僕は分からなくなった。
今、目の前に広がる世界が、自分の存在すべき場所かどうか。
ユイが言うには、僕たちはあの後、鳥居の前で倒れていたらしい。
が、あの場にいたみんなが、僕たちを家まで運んで行ってくれたということだ。
ヒカリがここにいるのは、家の住所が分からなかったからなのだろう。
「確かに流れは分かった。
でも、どうしてあの人たちがわざわざオレたちを……」
「みんな、心をいれかえたんだよ。お兄ちゃんたちを見て」
ユイはなぜか照れ臭そうに笑って見せた。
「お兄ちゃん、かっこよかったよ……」
僕は嬉しかった。
(まるで、理想界にいるみたい……へへへ)
ヒカリは、ふと何か思い出した様子。頬が赤く染まった。
「あ、あっ、ユウイチ、……私帰るねっ。夜が明けちゃうから……」
ヒカリの声は妙に震えていた。
「送ろうか?」
「いいよっ、そんな、近いんだし……」
「近いから送るんだろ?」
ヒカリは優しく微笑んでくれた。
ヒカリの家に着いたころには、もう夜明けの風が吹いていた。
「バレないように部屋に戻れよっ」
「うん……」
「どうした?」
僕は、いつものヒカリらしくない気がした。
「………」
やっぱりなんか違う。
「何だよ、はっきり言えよっ」
「言えないから困ってるんじゃん! ユウイチはなんで分からないかな〜っ! も〜っ!」
「……分かってるよ」
「えっ?」
夜明けの風は、光とともに、僕たち二人の微かなすき間を優しく通り抜けて行った。