episode.3
薄暗さの残る早朝。夜行列車から降り立つ人影。
「着いたーっ!」
エルヴェシウスの中でも三本の指に入ると言われる大都会。花の都、ベルフルール。人々がまだ寝静まるその街にルーナの明るい声が響く。彼女の後に少し遅れてルシエルとエトワールも街へ降り立った。元気なルーナとは対照的にふたりは何処となく眠そうな瞳をしている。
「取り敢えず宿屋探すぞ」
欠伸を噛み殺し、ルシエルは歩き出す。彼の後をルーナとエトワールが追った。
特にこだわりもない彼らは、駅の近くにある適当な宿屋に入った。扉を潜ると、人当たりの良さそうな女将に迎えられ、部屋まで案内される。小さいながらも綺麗な宿屋だった。
「それにしても運がよかったね」
勢い良くベッドに腰掛けルーナは笑った。スプリングが音を立て、彼女の身体が小さく跳ねる。カーニバルの時期ということもあり、どこの宿屋も予約でいっぱいだと女将から聞いた。ここも例外ではなかったそうだが、偶々昨日の夜に一部屋だけキャンセルがあったらしい。それが、今彼らのいるこの部屋だった。聞いているのかいないのか、ルシエルは荷物を下ろしながらルーナの話に適当な相槌を打つ。部屋の隅に荷物を置くと彼は早々に部屋の外へと向かった。
「あれっ、ルシエル、もう出掛けるの?」
「ああ、昼前には戻るよ」
返ってきた素っ気ない返事。しかし、ルーナは特に何を問う訳でもなく、気をつけて、とルシエルを見送った。
◆
「ルシエル、出掛けるわよーっ!」
部屋に戻るや否やルーナに腕を掴まれ、半ば強制的に街へ連れ出された。目的は買い物。一度店に入ると一時間以上出て来ないなんてことも珍しくない。大きな街に来るといつもこれに付き合わされる。しかし、興味もない買い物に一時間も二時間も付き合わされるのはなかなか応えるもので、最近では適当な理由をつけて近くのカフェや本屋などに逃げ込むこともしばしばあった。ルーナに連れ回されるよりもひとりで時間を潰している方がまだ楽だ。本当は宿屋に帰ってしまいたいのだが、これをやるとルーナの機嫌が非常に悪くなる。以前、余りにも疲れていた時に一度だけ帰ったことがあったのだが、機嫌を損ねたルーナから女の力とは思えない程強烈なビンタを受けた苦い思い出がある。
「……まだかよ」
時計に目をやり、ルシエルは深い溜め息をつく。今日も近場のカフェに逃げ込み、そこで時間を潰していた。しかし、待つこと三時間。店員達の視線に居心地の悪さを感じ始める。待っていると言うと、いつも渋るルーナだが、今日は珍しく聞き分けがよかった。恐らくエトワールがいたお陰だろう。エトワールの手を引き、嬉しそうに店へ向かって行くルーナを見送りながら、内心助かったと思った。しかし、いつも以上に長い。きっとこれもエトワールがいるせいだろう。『エトちゃんの服も選んであげる』、そんなことをルーナが言っていた気がする。
もう何杯目かになるコーヒーを飲み干した時、漸く待ち人の姿が見えた。ルーナの両手には抱えきれない程の紙袋。満足げな笑みを浮かべ、こちらに向かって来る。
「見てっ! こんなに買っちゃった!」
「……そう」
ルーナは、テーブルを囲むように置かれた椅子のひとつに紙袋を積み上げると、その隣の椅子に腰掛ける。そしてエトワールを自分の隣へ座らせると、メニュー表を開いた。
「エトちゃん何がいい? ケーキでもパフェでも何でも好きなもの頼んでいいわよ。ルシエルの奢りだから」
「はぁ!? お前何勝手なこと言ってんだよ」
「いいじゃない。けちけち言わないでエトちゃんに好きなもの頼ませてあげなさいよ。あっ、あたしはこれね」
「そういう問題じゃ……って、エトワールの分はともかく何でお前の分まで出さなきゃいけないんだよ」
程なくして注文した品が運ばれ、テーブルの上をケーキや紅茶が彩った。
「可愛い服ばっかりでどれにしようかすごい迷っちゃった。一番迷ったのはエトちゃんの服ねー。元がいいから何でも似合うんだもん。結局気になったやつ全部買っちゃったけど。でも、やっぱり黒が一番似合うわねー」
ニコニコと笑いながら、ルーナは今日の戦利品を語る。今のエトワールは、朝着ていたものとは違う、黒を基調とした可愛らしいワンピースを着ていた。真新しいそれはルーナが買い与えた洋服のひとつなのだろう。 ルシエルは積み上げられたそれらを眺めながら、ルーナの話を適当に聞き流す。ルシエルからすると、そんな話より、待たせてごめんの一言が欲しかった。
ひとり話し続けるルーナの隣でエトワールは落ち着きのない様子で辺りを見渡す。外の世界が物珍しいのか、漆黒の瞳は様々なものを映し、キョロキョロと忙しなく動いた。
「あ、エトちゃん、ちょっとあっち向いてくれる?」
ルーナはエトワールに背を向けさせると、ポーチから櫛を、紙袋のひとつから黒いリボンを取り出し、少女の長く伸びた銀髪を弄り始めた。エトワールは大人しく座っていたが、その間も少女の瞳は人を、街を追い続ける。
「やっぱり綺麗な髪ねー! ……はい、できたっ」
先の方だけに緩やかなウェーブのかかったそれはルーナによって手際よくツーサイドアップに結い上げられた。美しい銀髪に黒のリボンがよく映える。
「うん、可愛いっ! あ、そうだ。はい、これルシエルに」
ふと思い出したように、ルーナは積み上げられた大量の紙袋の中からそのひとつをルシエルに手渡した。開けてみると中には男物のジャケットが入っていた。
「それ、ルシエルに似合うと思って」
思いがけないプレゼントにルシエルは面食らった。花のような笑顔で相手の反応を窺うルーナに、イライラしていた自分が急に馬鹿らしくなる。
「……ありがと」
照れたように視線を逸らし、ルシエルは小さく呟いた。そんな彼にルーナは、どういたしましてと満面の笑みを浮かべた。
◆
太陽が沈み、夜の帳が降りる。冷たい風が容赦なく吹き付けるこんな夜は、決まって眼帯の奥の右目が疼いた。これは罪を重ね続ける自分への罰。だけど、俺には護りたいものがある。だから俺は、彼女の反対を押し切ってでも常闇に潜む影になると決めた。
仕事を終え、宿屋へ戻ったルシエルは重たい足取りで階段を上る。今宵は少々しくじった。結果だけ言えば、今回の依頼も成功を収めたのだが、途中、人に見られてしまった。そのことに関してはちゃんと処理をしておいたから特に問題はないと思うが、その際に受けた傷が思いの外深く、鮮血が絶え間なく右腕を伝う。これを見たらきっとまたルーナは泣きそうな顔をするだろう。――どうか寝ていてくれ。そう願いながらルシエルは部屋のドアを開けた。
「お帰り」
薄暗い部屋。窓から差し込む月明かりに人影が浮かび上がる。それがルーナであると気が付くのに数秒とかからなかった。
「……眠れなかった?」
普段夜に仕事をすることが多い者同士、この時間帯に起きていてもそれ程おかしなことではない。しかし、口をついたのはそんな質問だった。
「ううん、先に寝ちゃ悪いと思って、待ってたの」
灯りを消しているのは、ベッドで眠るエトワールへの配慮だろうか。その暗がりでルーナが右腕の怪我に気付かないでくれることを期待したが、彼女もそう鈍くはなかった。
「……嘘。眠れなかった」
ルーナは、扉の近くに立つルシエルに歩み寄り、彼の右手を両の手でそっと包んだ。悲しみ、怒り、不安。見上げる緋色の瞳は複雑な色を映し出す。
「またこんな怪我して……」
「大したことないから―…」
不意にルーナが右手を振り上げた。ルシエルの言葉を打ち消すように、パシッと乾いた音が響く。同時に左の頬に軽い痛みを感じた。
「バカッ! あの時……もう無茶しないって……もう怪我しないって言ったじゃない……」
彼の帰りを待つ宵闇の刻。不安で押し潰されそうな弱い自分を必死で押さえ込んだ。冷たい風が容赦なく吹き付けるこんな夜は嫌でもあの日のことを思い出す。だからあたしは、彼の反対を押し切ってでも常闇に咲く花になると決めた。