episode.2
街の外れにひっそりと佇む煉瓦造りの小さな家屋。古びたドアノブに手を掛け、青年は少女を家の中へと招き入れる。薄暗い廊下を進み、ある一室の前で青年は、後ろを歩く少女を振り返った。
「このまま真っ直ぐ進んで突き当たりを右に曲がると風呂場があるから、そこでシャワーでも浴びて来い。タオルなんかは適当に使って。俺はここにいるから」
「……はい」
青年の言葉に少女は小さく頷き、廊下の奥へと消えていく。青年は少女が浴室へ向かったことを確認すると目の前の扉を開き、部屋の中へと足を踏み入れた。
「お帰り、ルシエル」
それと同時に鈴を転がしたような声が響く。誰もいないと思っていたその場所には先客がいた。窓辺に腰掛ける赤眼の娘。ボンネットから覗く髪は闇夜の如く黒い。娘は人懐っこい笑みを浮かべ、ヒラヒラと手を振った。
「……ルーナ、お前仕事はどうしたんだよ?」
対して青年は怪訝そうに眉を顰める。いつもならこの時間はまだ仕事中のはず。――どうしてここにいるんだ。青年の訝しげな視線が突き刺さる。しかし、ルーナと呼ばれた娘はそんなことなど気にも留めず、青年──ルシエルの問いにあっけらかんと答えた。
「飽きたから途中で帰って来ちゃった」
「お前なぁ……。そんな理由で帰れるなんていいご身分だな“血薔薇姫”様」
「もぉそんな顔しないでよ。冗談だってば。担当してたお客が予定より早く帰ったから、いつもより早く上がったの。まぁ他のお客の相手してもよかったんだけどさぁ、疲れたし何より面倒くさいじゃん?」
皮肉混じりの言葉もケラケラと笑い飛ばされる。ルシエルは何か諦めたようにひとつ溜め息をつき、窓辺のソファーに腰掛けた。
「……お前が高級闇花なんて世も末だな」
――闇花。それは売春を生業とする者達の総称。闇花を抱え置く店が集まる地域を闇花街と呼び、ひとつの店に留まらず各地を転々とする闇花は旅闇花とも呼ばれた。ルーナはその旅闇花のひとりであり、『血薔薇姫』は彼女の源氏名である。
「ちょっとぉ、それどういう意味よ?」
「そのままの意味だよ」
しれっとしたルシエルの態度に、ルーナは拗ねたように薔薇色の頬を膨らませる。ルシエルはルーナから顔を背け、頬杖をつくと彼女には聞こえないくらいの小さな声でボソッと呟いた。
「…………黙ってりゃ美人なのにな」
「えっ? 何か言った?」
「別に、何も」
嘘だ、と執拗に問い詰められるが、口が裂けても本人を前にそんなこと言えない。適当にあしらっても負けじと食い下がるルーナに、言わなきゃよかったと自分の失言を悔いていると、そんな彼を助けるかのように不意に扉が開いた。
他に人がいるなんて知る由もないルーナは驚いたように扉を振り返る。躊躇いがちに開かれた扉から姿を現したのは白銀の少女だった。ほんのりと赤く色付いた頬。マシュマロのようなその頬には濡れた銀髪が張り付いていた。見知らぬ人間を前に部屋へ入ることを躊躇っているのか、少女は扉の近くで立ち尽くしたまま、困ったようにふたりを見つめる。
「おいで、エトワール」
ルシエルは小さく手招きをし、中へ入るよう少女を促した。ルーナの痛い程の視線に僅かに顔を引きつらせながらも少女はルシエルの傍へと歩み寄る。黙ったまま食い入るように少女を見つめていたルーナは徐に口を開いた。
「わぁ、可愛い! お人形さんみたいね! エトワールっていうの? この子、ルシエルの知り合い?」
キラキラした笑顔でギューッとぬいぐるみのように抱き寄せる。突然の出来事に少女は短い悲鳴を上げるも、抵抗する素振りなどは見せず、ルーナの腕の中で大人しくしていた。しかし、はっきりと顔には出さずとも、不服そうなその瞳は確かに『離せ』と訴えかけている。
「……いや、知り合いというか………………買った」
「え!? 買っ……だってルシエル……」
返って来たその答えにルーナは勢い良く振り返った。言いづらそうにそう呟いたルシエルはばつが悪そうな顔で目を逸らす。逸らされた視線を追うように、ルーナは抱き締めていた少女を離し、ルシエルの肩を掴んだ。
「ねぇ、どういうこと? ルシエル、プーペを買うような奴は嫌いって言ってたじゃない」
ぐいっとルシエルを引き寄せ、声を潜め彼に問う。緋色の瞳がじっと彼を見上げた。
「別に奴隷が欲しくて買ったんじゃねぇよ。そいつが―…」
そこまで言うとルシエルは言葉を切った。これ以上を語る気はないのか、その先を促しても、何でもねぇ、の一言で片付けられてしまう。
「目的もなしに買ったっていうの? そんなのおかしいじゃない!」
納得いかないというようにムッとした表情でルーナはルシエルを見据える。彼女は暫くそうしていたが、何を思ったのか不意にあっ、と小さな声を上げた。
「ルシエル、あんたって……ロリコン?」
しんっと部屋が静まり返る。ボソッと呟かれたそれがやけに大きく響いた気がした。
「はあ!?」
ワンテンポ遅れ、ルシエルの声が響いた。ルーナの思わぬ爆弾発言に否定の言葉すら忘れ、呆然と立ち尽くす彼に少女の冷ややかな視線が突き刺さる。その冷たい瞳にルシエルはハッと我に返り、あらん限りの声で叫んだ。
「違うッ!!」
「何が違うのよー。こんな小さな女の子連れ込んどいて」
「お前ッ……!」
「知らなかったわ。ルシエルにそんな趣味があったなんて」
突然持ち上がった疑惑。大きな誤解を解くべくルシエルはもう一度声の限りに叫んだ。
「どうしてそうなるんだふざけんなッ! 誤解を招くようなこと言うんじゃねぇ!」
◆
あれから小一時間。誤解が解けたかどうかは別として、ふたりの論争は漸く終結を迎えた。あれ程騒がしかったこの部屋も今は夜の静寂に包まれている。ソファーの上で丸まって眠る少女にそっと毛布をかけてやると、ルーナは、部屋の奥に備え付けられたキッチンに立つルシエルを振り返った。
「ねぇ、次の依頼人ってマリエット子爵だよね?」
「ああ、それなんだけど……」
「なしになった、でしょ?」
ルシエルの発言を遮りルーナが口にしたそれは、彼が今まさに言おうとしたその言葉。しかし、ルシエルは一瞬彼女を振り返ったものの、さほど驚いた様子も見せず、すぐにまた背を向け作業を続けた。
「……よくご存知で」
キッチンから戻って来たルシエルの手には湯気の上がるカップがふたつ。そのひとつをルーナに渡すとルシエルは近場にある適当なソファーに腰掛ける。ソファーの背もたれに身を沈め、彼は温かなカップに口をつけた。
「何? またお客様からの情報ってやつ?」
ルシエルが問うと、ルーナは答える代わりに自慢気な笑みを浮かべた。しかし、そう、とただ一言返ってきた素っ気ない返事に彼女の表情は不満げなものへと変わる。
「何よその薄い反応。もしかしてもう詳しいことまで知ってるの?」
「いや、別に興味もねぇし」
客から仕入れたその話を聞いて欲しかったのだろう。つまんないの、とルーナは不服そうに呟いた。
「もうルシエルったらこの手の話になるといつもそうなんだから。話しても、ふうん、しか言ってくれないし。偶にはあたしの話に付き合ってくれたっていいじゃないっ」
「……ルーナ。おいルーナ」
無意味にカップをかき混ぜながら、ルーナはぶつぶつと文句を零す。わざとなのか、それとも聞こえていないつもりなのか、小さな声といえど、静かなこの部屋ではルシエルにも丸聞こえである。周りの音はシャットアウトされているのか、本人を前に遠慮なく言い散らすルーナはルシエルの呼び掛けになかなか気付かず、頬を膨らませたままカチャカチャとカップをかき混ぜ続ける。何度か呼び掛けたところでルーナは漸く顔を上げた。
「ん? 何よ?」
「ああ、予定より早いけど、ここでの仕事が全部片付いたから、できればもうこの街を出たいんだ。急遽ベルフルールで仕事が入って……」
「ベルフルール!?」
不満に満ちていたルーナの表情がパァッと明るくなる。瞳を輝かせ聞き返す彼女の声は至極嬉しそうだった。
「あたし一度行ってみたかったの! しかも今は丁度カーニバルの時期よね! 出発は?」
「ルーナの都合が悪くなければ明日の夜にでも……」
「全然問題ないわっ。じゃあ、今夜の内に荷物まとめて置かなくちゃ!」
ルシエルの言葉を途中で打った切り、ルーナは意気揚々と自室へ向かう。彼女の勢いに初めは呆然とその背中を見ていたルシエルもあまりに嬉しそうな彼女の様子に思わずフッと笑みを浮かべた。