episode.1
「まぁ怖い。全く物騒な話ですわ」
星屑が瞬く刻限。言葉とは裏腹に娘は微笑みを浮かべる。
「私としては邪魔者が消えてくれて丁度よかったがね」
仄暗い部屋。娘の傍らで男が笑う。
「まぁ男爵様まで。御貴族様の世界は恐ろしいですこと」
「おや、それは君達の世界もだろう、血薔薇姫?」
娘の腰に回される腕。その華奢な身体を抱き寄せ、艶やかな漆黒の髪を撫ぜれば、娘は美しい唇の端を一層上げ、笑みを深める。
「あら、そんなことなくってよ。ねぇ男爵様、こんな物騒なお話はもう終わりにしましょう? 今宵はわたくしが存分に楽しませて差し上げますわ」
男の首に回される両腕。娘は鮮やかな緋色の双眼を細め妖艶な笑みを浮かべた──。
◆
星屑が瞬く刻限。街灯も疎らな路地裏。佇むふたつの影。
「依頼品だ」
ぶっきらぼうにそう言い、青年は懐から小さな包みを取り出した。中年の男は差し出されたそれを受け取り、満足げな笑みを浮かべる。
「流石だな、隻眼の坊主。ほら、報酬だ」
差し出される歪に膨らんだ袋。青年はそれを乱暴に受け取り、ジャケットのポケットに押し込んだ。
「どうも」
ただ一言吐き捨てるようにそう言うとこれ以上用はないと言うかのように青年は男に背を向ける。男もまた青年に背を向け、路地裏の奥へと去って行った。数分間の出来事。とても短いやり取りだった。
+―…+†+…―+
夜の静寂に包まれた街に青年の足音が響く。鬱陶しそうに掻き上げられたダークブラウンの髪は、無造作に伸び、碌な手入れもされていないことが窺える。長い前髪の隙間から覗く黒色の眼帯は青年の右目を覆っていた。
中の物を確かめるようにジャケットのポケットに手を入れる。ジャリっと音を立てたそれは罪と引き換えに手に入れた生きるための対価。
青年は盗みを生業としていた。正確に言えば盗みの請け負いを、である。依頼された“モノ”を盗み、それと引き換えに報酬を得る。これが彼の、盗み屋の仕事だ。金品、情報、そして時には人までもが依頼の対象となる。恨む者は数知れず、しかし咎める者は誰一人としていない。近隣国では罰せられるであろうこの行為もこの国ではさして珍しいことではなかった。
「待てぇえぇ!」
突如響き渡る怒号。静寂を切り裂く男の声。余りにも突然の出来事で不意に飛び出して来た小さな影に反応できなかった。お互いの身体がぶつかり衝撃が走る。傾く小さな身体。短い悲鳴を上げ、飛び出して来た少女は勢い良く尻餅をついた。薄汚れたローブ。病的な程白く華奢な足。反動でずり落ちたフードからは美しい銀髪が覗く。少女は座り込んだまま顔を上げ、感情の籠もらぬ瞳で青年を見上げた。闇を映し出したような漆黒の双眼。恐ろしい程に整ったその顔はまだ幼さを残している。少女と目が合ったその瞬間、青年は紺碧の瞳を僅かに見開いた。
「ス──」
何か言いかけた唇。されど青年の言葉は再び響いた男の声によって遮られた。
「見つけたぞ小娘ッ! 人形の分際で手間取らせやがって!」
先程少女が飛び出してきた建物の陰からひとりの男が姿を現す。咄嗟に立ち上がり逃げ出そうとした少女の腕を男が乱暴に掴んだ。
「ほら、大人しくしろ! まだ自分の立場がわかってないようだな!」
少女は力一杯暴れ、必死の抵抗を見せる。しかし男女の差、まして大人と子供、力では敵うはずもなく、その身体は軽々と持ち上げられてしまった。
恐らく奴隷市場から逃げ出してきたのだろう。奴隷市場、またの名を人形市場。国の至る所にあるその場所では人々は人形と呼ばれ、まるで物のように扱われていた。
逃れようと未だ暴れ続ける少女を押さえつけ、男は歩き出す。それを阻むかのように、不意に骨張った手が男の腕を掴んだ。
「何だ兄ちゃん?」
何かと思い振り返れば、紺碧の瞳と視線がぶつかる。離せと言わんばかりに男は青年を睨めつけるが、彼は一向にその手を離そうとはしなかった。暫しの沈黙。先にそれを破ったのは青年だった。
「そいつ、俺に譲ってくれないか?」
その言葉に男は驚いた。青年の意図が掴めず、男は怪訝な顔で聞き返す。
「……何だって?」
「俺に譲れ」
男を見据えたまま青年はもう一度強くそう言った。――何を考えている? 男は顔をしかめ、青年を覗き込む。しかし、感情を映さぬその瞳から彼の考えを読み取ることはできない。
「兄ちゃん本気か? こいつは見ての通りアンゲロス症候群。金貨一枚や二枚で譲れるような代物じゃあねぇ。それに―…」
男の言葉を遮るようにガシャンと何かが地面を叩いた。驚き下を見れば男の足下に拳大の袋が転がっていた。落ちた反動で開いた袋の口からは溢れんばかりの金貨が覗く。ポカンと口を開け、男は足下に転がる袋の中身をまじまじと凝視した。
「……足りないか?」
「……い、いや……」
正確な枚数は定かではないが、奴隷の買い取り金としてはその金貨の量は十分過ぎる。この青年がこれほどまでの大金を持ち合わせているなど夢にも思わなかったのだろう。先程までの威勢は消え失せ、男は口籠もる。
「じゃあ、そいつを置いてさっさと失せろ」
じろりと睨み付ければ、男はコインの詰まった袋をしっかりと握り締め、そそくさと立ち去っていった。残された少女は、遠ざかっていく男の背中を一瞥し、そしてその漆黒の瞳を目の前に佇む青年に向けた。人形のように感情を映さないその瞳にも僅かに困惑の色が見えた。
「……どういう、おつもりですか……?」
あれ程の大金を積んだにも拘わらず、目も合わせようとしない青年の様子に少女は疑念の色を覗かせる。躊躇いながらも口を開くが、青年は応じる素振りも見せず、まるでその言葉を打ち消すかのようにポケットから取り出した煙草に火をつけた。
「どういうおつもりですか?」
もう一度、先程よりも強くそう問うた。しかし、青年は何も答えない。吐き出された煙が宙を舞い、消えた。どこか遠くに向けられた紺碧の瞳が時折揺れる。それは何かを誤魔化すように、何かを隠すように。
「私が、アンゲロス症候群だからですか?」
彼の瞳に動揺の色が映る。青年は平静を装ったが、少女はその僅かな変化も見逃さなかった。
――アンゲロス症候群。
銀色の髪に漆黒の瞳、そして病的な程白い肌を持って生まれた者をそう呼ぶ。個人差はあるが大体二十歳前後には外見の成長が止まり、健常者と比べ短命の者が多いと言われている。遺伝子の突然変異によって引き起こされたと考える者が多いが、確証はなく、未だその原因は不明とされている。確認された例は極めて少なく、その美しい容姿と希少性、そして年齢を重ねても容姿が変わらないことから神聖な者として崇められる一方、闇オークションなどで高額で取り引きされることも珍しくなかった。
「目的は何です? 売買ですか? それとも愛玩ですか?」
多少大人びて見えるものの外見から推測するに年は漸く十を越えた辺りであろう。年齢に似つかわしくない言葉で少女は揺さぶりをかける。青年の出方を窺うように漆黒の双眼がじっと彼を見上げた。
「……違ぇよ」
「では、何故です?」
次の言葉を探し、視線が宙をさ迷う。青年の言葉を促すように少女の視線は彼を捕らえ離さない。
「……俺は、お前をどうこうしたい訳じゃない。何処へでも、好きな所へ行けばいい」
「……このまま逃げても、構わないとおっしゃるのですか?」
否定の言葉は返ってこない。このまま少女が逃げ出せば、袋一杯の金貨を無駄にしたことになるというのに。疑念、困惑。少女の表情が徐々に険しくなる。
「見返りも求めず私を助けたとでも言うのですか……?」
「……そんな善人がこの国にいると思うか? これは俺のエゴだ。ほら、行けよ。俺の気が変わる前に」
逃げるなら今だ。しかし、少女はその場から離れようとはしなかった。何も言わず、逃げる素振りも見せず、ただ自分を見上げる少女に青年は再び口を開いた。
「…………行くあてがないなら俺と一緒に来ればいい。お前の好きにしろ」
青年はそれだけ言うと少女に背を向け歩き始めた。――行くあてなどどこにある。私にはもう帰る場所など──。少しずつ遠くなる背中。少女黙って青年の後を追った。
自らを追って来る足音に青年は振り返り、立ち止まる。足早にこちらへ向かう少女。土で汚れた傷だらけの素足が何とも痛々しい。少女が追い付いたことを確認すると青年は再び歩き始めた。
「……お前、名前は?」
青年は黙々と隣を歩く少女に問うた。しかし、少女は表情ひとつ変えず、口を閉ざしたまま。漆黒の双眼は青年を映すことなく、ただ前を見据える。暫しの沈黙の後、少女は漸く口を開いた。
「……お好きに呼んで下さって構いません」
少女はただそれだけ言うと再び口を閉ざした。その瞳はやはり青年を捕らえることはなく、道の先を見つめたまま。
自らの名を知らぬ者、自らの名を捨てた者。名前すら与えられなかった者―…。この国では決して珍しくない。失言だったと、青年は僅かに顔をしかめた。少女が何故名を言わなかったのか将又言えなかったのか、その真相は定かではないが、彼女にとって辛辣な質問であったことは間違いない。
「……お好きに、呼んで下さって構いません」
何も言わぬ青年に少女はもう一度そう繰り返す。前方だけに向けられていた瞳は、今は青年を映し出していた。吐き出された白い煙。宙を漂うそれは風に流され消えてゆく。青年は徐に空を仰ぎ、小さく呟いた。
「……エトワール」
――星。
静かに紡がれたそれは少女の新たな名前となる。少女は何も言わず、ただ小さく頷いた。
他国の利益を奪い、急激な発展を遂げた犯罪大国エルヴェシウス。国土は小さいながらも強大な勢力を誇る残酷非道なその国の西端で青年はひとりの少女と出逢った。無数の星屑が瞬く美しい夜だった──。