冷たい彼女の温かさ4
様子が、変だった。
どう考えてもおかしい自分の状況に動悸が止まらない。心臓がひどくうるさい。耳元までドクドクと鼓動の音が響いて来る。
枕を力いっぱいに抱きしめ、なんとか興奮を抑えようとしても無意味に終わる。
(これ、噓でしょ………)
夏美は経験上知っていた。
この心臓の鼓動の正体がなんであるかを。だからこそ動揺してしまう。あんな言葉で、簡単に、ここまで気持ちを変えられてしまった事実になぜか悔しさを覚える。自分はこんなにも悩んでいるのに、あの男ときたら、今頃澄ました顔で本でも読んでいるに違いない。
そう思うと余計にイラっと来た。
明日はどんな顔であの男と会えばいいのか。
そんなことを考えているうちに、夏美は深い眠りへと落ちて行った。
1
「おはよう」
「…………………」
藤森甲斐は顔を合わせるなりなにげなく朝の挨拶をした。咄嗟のことで固まってしまった夏美は挨拶を返せず無表情で立ち尽くしてしまう。そんな様子を見て、甲斐は首をかしげてしまう。
「どうかしたの?」
「別に。おはよう、藤森くん」
と、素っ気なく返して夏美は自分の席へと向かって行った。
その背中を見て、甲斐は首に手を当てて俯いた。
緊張しているのは、なにも夏美に限った話ではないのだ。
甲斐も自分の異変に頭を悩ませていた。近頃の甲斐はよく夏美のことを考えている。
本を読んでいるとき、この本を彼女は読んだことがあるのだろうか、とか。
好物の甘いものを食べているとき、彼女は甘いものは好きだろうか、とか。
何もやることがなくて暇なとき、彼女は今何をしているのだろうか、とか。
何をするにも彼女の姿が思い浮かんでしまう。甲斐にとっては完全な異常事態だった。
人のことを気にするなんて自分らしくない。それでも気にしてしまうのは、自分は彼女に対して何かを感じているからだろうか。
そんな悩みが頭を埋め尽くしてしまう。
「参ったなぁ」
力なくつぶやいた言葉は、誰の耳にも入ることはなかった。
2
昼食を兼ねた昼休みの時間。
甲斐はなんとなく、いつもの姿を探していた。視線の先に映ったのは弁当箱を手に教室を出て行く夏美の姿だった。
「………………」
甲斐はなんとなく、その背中を追うことにした。
夏美は昼休みの時間になると教室を出てどこかへと行ってしまう。昨日まではそれに興味を持つことはなかったが、今日の甲斐は気が向いていたのだ。
急いで廊下に出るとちょうど曲がり角を曲がって行く姿が見えた。急いで追いかけていく。
夏美は階段を上がって行っていた。二階から三階へ、三階から四階へ。四階以降にフロアはない。屋上は立ち入り禁止であるため、それより先には何もないのである。
しかし夏美は四階から屋上につながる階段をも上がっていった。そして、屋上への出口で足を止めると、階段に腰をおろして弁当を開封しだした。
(いつもここで食べてるのか)
確認した甲斐は弁当を持ったまま、その姿を現した。
「僕も一緒にいいかな?」
「………………!?」
突然声をかけられたことで肩が飛び上がる。夏美は驚きで早まる鼓動を抑えながら、声の主が甲斐であったことを確認した。
「藤森くん、どうして?」
「ごめん、後をつけたんだ。まずいとは思ったんだけど、咄嗟のことで」
緊張しながらも声をかけた相手が甲斐だったことに安心感を抱き気持ちを落ち着かせる夏美。もしもこれが甲斐ではなかったら、咄嗟に逃げだしたことだろう。
「…………!」
と、そこで夏美は慌てて両手でスカートをすくい上げなかが見えないようにする。
「あ、ごめん。下から見上げるのは危険だね」
そう言って甲斐は階段を上がり夏美の隣で腰を下ろした。
「ズボンは履いてるけど、スカートの中を見られるのはやっぱり恥ずかしいから………」
顔を赤くしながら言う夏美の言葉はあまりにも小さい。小さすぎてすぐ隣にいる甲斐にさえよく聞こえないほどに。
「いただきます」
弁当を開封した甲斐は両手を合わせて言うと、昼食を食べ始めた。
それに続いて夏美も昼食を食べ始める。静かな時間。
屋上へ続く階段を訪れる者はほとんどいない。いつも静かで、一人しかない空間。
そこに今日は、甲斐の姿がある。
誰の目にも入らない二人だけの空間。それを意識すればするほど、夏美は緊張で心臓が破裂しそうになる。正直、弁当の味が全く分からない。意識は常に隣の少年に向いており、それ以外は何も目に入らない。
「僕、邪魔だった?」
視線に耐えきれなかった甲斐がとうとう遠慮がちに問いかけた。普通に考えて、甲斐の行動は嫌がられても仕方のないものだ。だから自分のせいで夏美を嫌な思いにさせてしまったのではと気になるのだ。
しかし。
「ううん。邪魔なんかじゃない。むしろうれしい」
夏美は正直な気持ちを答えた。頬を少し赤らめながら、恥ずかしそうに。
その表情を見て、甲斐は思わず目を逸らしてしまう。その表情を見続けることが、なんだかいけないことのように思えて。
「誰かと一緒にする食事って、やっぱりいいよね。私今は一人暮らしだから、夕食も一人だし」
「奇遇だね。僕も一人暮らしだから、誰かと一緒に食事をするのは久しぶりだよ」
二人とも気持ちを共有している。
それからもずっと、ちらちらと夏美は甲斐を見続けた。時折視線がまじりあい、互いにくすりと笑いながら。
そんな昼食の一時を、二人はこれ以上ないほどに幸せの気分で過ごしていた。
3
(これは、やばい)
深夜の自宅で、昨夜と同じように枕を抱える夏美は頬を紅潮させて悶えていた。
夏美は自分の気持ちをすでに確定させていた。もう完全に決まりだった。
いつも甲斐のことを考えている自分に自制を利かせようとしてもうまくいかない。むしろ甲斐のことを考えたいと思ってしまう。
(彼の横顔が好き。彼の仕草も、時折見せる困り顔も)
考え始めたら止まらなくなる事態に制御が利かなくなる。懐かしい感覚に溺れて、どこまでも沈んでいきそうになる。いや、自制など必要ない。制御する必要なんかない。
このまま溺れて、どこまでも沈んで………。
「……………………」
ふと、頭を掠めた。
今となっては古い記憶でも、それは彼女の人生に大きなかかわりを持ったこと。
元恋人との記憶は、何があっても夏美の中から消えることはない。そしてその度に、やはり自分ではいけないと考えてしまう。
自分ではふさわしくない。
傷つけるだけだ。
実際その通りだった。
だからいっそ人と関わることなどやめようと思ったのだ。失くしてしまうくらいなら、初めから持たなければいいと思ったのだ。
それなのに、彼はいつも夏美の前に姿を現す。いけないのに、そんな夏美の冷えきった心を溶かそうとしてくる。熱は高まり続けるばかりで冷めることを知らない。
もっと一緒にいたい。
その温かさに触れていたい。
だからどうか。
「はやく、私の心を溶かしてよ………」
すがるように、この場にはいない想い人に対して言った。




