お伽噺の悪役は
『悪い魔女を倒した王子様とお姫様は幸せに暮らしましたとさ』
読み終えた絵本を閉じた母親は、ベッドの中にいる娘の頭を優しく撫でた。
彼女は幼い娘の毛布を首元までかけ直し、元々は煌びやかな装飾がされていた絵本の表紙を少し荒れた指先でなぞった。
「お母さま、なぜ悲しそうなお顔なの?」
大好きな母親の陰のある顔に、幼い娘は眠気と戦いながら母親の顔を見つめていた。
「悲しくなんてないわ。セリカ、明日はきちんとご挨拶できるかしら?」
「明日はお母さまのお父さまと初めて会うのよね、大丈夫、お母さまに教わった通りにご挨拶できるわ」
目が半分閉じたまま、セリカは欠伸をして母親を安心させようと言葉を紡いだ。
六歳になるセリカはずっと母親と二人きりで暮らしていた。
森の中の小さな小屋と、森を出た先にある小さな町、それだけがセリカの知る世界だった。
町に行く時の母親は、いつもフードを深く被り決して素顔を誰にも見せなかった。
セリカの子供ながらに整った顔立ちと、銀の髪とスカイブルーの瞳、そして、如何にも訳ありな風体の母親は狭い町では噂話の的だった。
町の子供たちと同じ格好をしていても、母親に躾られた身のこなしは明らかに貴族特有のもので、転げ回って一緒に遊んでいた彼等とはいつの間にか距離ができてしまっていた。
疎外感に落ち込んでいた頃、立派な服を着た男性が手紙を運んできたのだった。
『お久しぶりです、ノエリアお嬢様。三日後、旦那様がこちらにお越しになられますのでお出迎えの準備をお願いいたします』
それだけ言い残してその男性は去って行った。
母親の顔を見上げたセリカは、初めて見る母親の冷たい顔に不安を覚え母親のスカートの裾をギュッと握り締めた。
「……セリカ、後三回寝たら、貴女のお祖父さまがここに来るわ」
「うん、わかった」
優しい母親の冷たい顔と硬い声に気付いていても、セリカはいつも通りの声で返事をした。
表面的には穏やかに、いつも通りに生活を送っていたが、ふとした瞬間に張り詰める空気に幼いなりにセリカは思うところがあったのだろう。
夜、その日あったことを話すのではなく、何度も絵本の読み聞かせを強請るようになった。
粗末な小屋には似つかわしくない装飾の絵本は、セリカのお気に入りだった。
たった一冊の絵本を何度も何度も開き、母親はセリカに文字を教えていた。
自分でも読める絵本が、夜の静けさの中で優しい母親の声で紡がれる時間がセリカには宝物だった。
もっと母親を安心させる言葉を出そうとしたが、セリカはすっと眠りに落ちていた。
◆◆◆
「……久しぶりだな、ノエリア」
「お久しぶりです。今はリアと名乗っております。親子の縁も、十年以上前に切れていると思っておりました」
ノエリアによく似た顔立ちで、金色の髪に赤い瞳の男性は固い表情でセリカに視線を向けた。
「初めまして、子爵様。セリカと申します」
町の子供たちと同じような綿のワンピースに、洗練された身のこなしが不釣り合いでノエリアはふっと息を吐いた。
「……お前に、よく似ているな、その髪も瞳も」
「ええ、私の娘ですから」
親子の会話とは思えないぎこちなさで交わされる台詞は、お互いの居心地の悪さを表していた。
「奴は、セリカの存在を知っているのか」
「さぁ、誰も教えていなければ知らないでしょうが、教える人もないでしょう。調べれば分かると思いますが、調べようともしていないでしょうね」
表情も変えずに淡々と答えるノエリアの瞳には久々に会う父親に対する情は見えなかった。
「私は、頼みましたね。あの人とは結婚したくない、と。貴族としては相応しくない願いだったとは思います。けれど、結婚して三年、子供ができないからと僅かな金銭だけを持たされて荷造りも殆ど許されず婚家を追い出されました。それから七年、ここで暮らしています。家を与えてくださったことは感謝していますが、着ていた一着のドレスを売り、身につけていた僅かな宝石を売り、頼み込んでやっとありついた手紙の代筆や繕い物で毎日のパンを買えるようになりました」
慣れない生活で絶望していた。
追い出された後に身籠っていることに気付いたが、それでも戻りたいとは思えなかった。
助けを求めた時、父親から町外れの一軒家のみ与えられ、それから何の連絡もなかった。
今さら何の用があるのか、とノエリアの瞳はそう語りかけているようだった。
ノエリアは不安そうにしているセリカを抱き上げ、その頬に己の頬を寄せた。
「慣れない生活で、一人きりの出産でした。それでも、町の人達に助けられました。今の私は、ただのリアとして、セリカの母親として幸せです」
「そうか、幸せか……子爵家に戻る気はないのか」
ノエリアはすっと父親を見据えた。
「嫁いだその日、夫に紹介されたのは彼の幼馴染で、彼の初恋の人でした。家中の者達はこぞって言いました。身分違いの純粋な愛を貫く二人と邪魔をする悪女。まるでお伽噺のお姫様と悪い魔女のような単純な役割ですよね。今さら戻って、好奇の目で見られる苦痛を味わえと?三年間、婚家から出した私の助けを無視して、七年私達を気にしなかった貴方に、今さら何を求めればいいのですか?」
ノエリアの声は淡々としていたが、その奥底には長年の痛みが静かに沈んでいた。
父親はその言葉を受け止めきれず、わずかに眉を寄せた。
「……ノエリア。あの時は、私もどうすれば良いのか分からなかった。お前の夫の家からの訴えは、どれもお前が悪いというものばかりで……」
「ええ、そうでしょうね。情報操作は彼等の得意技でしたから。その中で、私は悪い魔女でした」
ノエリアは皮肉でも怒りでもなく、ただ事実を述べるように言った。
セリカは母の胸元に顔を埋め、幼いながらも母の声の震えに気付いていた。
「そんな中で唯一の幸せは、セリカを授かったことでした。この子がいるから、私は幸せなんです」
どんな理由で元夫がベッドに入ってきたか、今さら理由を知りたいとは思わない。
二人が喧嘩をした腹いせか、次の婚家で都合の悪い事実が露見しないようにしたかったのか。
「お母さま、泣かないで」
「……ごめんね、心配させてるかしら。泣いてないわ、またすぐいつも通りのお母さまになるから大丈夫よ」
母と娘のやり取りを見ていた父親は、テーブルに置かれた絵本に気付き震える声を出した。
「まだ、持っていたか」
「ええ、この絵本を持ち出せたのは幸運でした。古い絵本ですから、価値がないと判断されたのでしょうね」
宝石のように分かりやすい価値はないが、ノエリアもまた母から読み聞かせをして貰った絵本はノエリアにとっては価値があるものだった。
ノエリアが生まれた後、両親が吟味して選んだ絵本だった。
お伽噺の結末はいつも主人公が幸せで、そんなお姫様に憧れていた時代をノエリアは懐かしんだ。
時が過ぎた絵本は古ぼけていたが、今はセリカの宝物だった。
「セリカもこのお話が大好きなんです」
セリカの柔らかい髪に唇を落としてノエリアは微笑んだ。
「そうか。セリカも、お姫様になりたいと思っているか?」
初めて会う孫に、彼は戸惑いながら声をかけてその瞳を覗き込んだ。
「ううん。お姫様はいいの」
「あら、そうだったの?」
初めて聞くセリカの感想にノエリアは目を丸くした。
「うん。だってお姫様は王子様が助けてくれるじゃない。なら、魔女さんは誰が助けてくれるの?それとね、本当に悪い魔女さんだったの?」
澄んだ瞳でノエリアを見詰めるセリカの言葉に、大人二人ははっと息を吞んだ。
絵本ではお姫様に嫉妬した魔女として書かれていたが、それだけだった。
「そう、そうね。それなら、貴女は片方のお話だけじゃなくて、皆のお話を聞きなさい。どちらが正しいかは考えてなくていいわ。先に―」
ノエリアは言いかけて、深く息を吐き出した。
セリカの澄んだ瞳が、ノエリアの言葉を待っていた。
「先に、誰がどんな気持ちだったのか……それを考えましょう。誰もが自分の物語の主人公なのだと、忘れないで」
セリカはこくりと頷いた。
幼い娘の大人びた眼差しに、ノエリアの胸がきゅっと締めつけられた。
彼は、そのやり取りを黙って見つめていた。
ノエリアが悪女の役割を押し付けられ、追い詰められた挙句に孤独の中で娘を育ててきた年月が、ようやく現実味を帯びていた。
「……ノエリア」
躊躇いの滲む声だった。
「お前は、昔から……そうやって人の心を見ようとする子だった。私が……それを忘れていたのだな」
ノエリアは返事をせずにセリカを強く抱き締めた。
「魔女さんはね、きっと誰かに助けてほしかったんだと思うの」
セリカがぽつりと呟いた。
「だって、皆が魔女さんをいじめるから……」
その言葉に、ノエリアの指先が震えた。
大人が二人、同時に息を呑んだ。
「……セリカ」
ノエリアの瞳に、静かに涙が滲んだ。
あの辛い三年間を過ごした自分自身が、セリカによって少し救われた気になった。
「セリカがいるから、お母さまは幸せなのよ」
強く抱き締められたセリカは嬉しそうにノエリアを抱き返した。
ノエリアの瞳からは一粒涙が零れていた。
終
ヴィランではなく単純な悪役を押し付けられました。
主人公以外は、誰が守ってくれるのでしょう。
セリカ好きです。スカイラインも好きです。見るだけ。スカイラインって名前にはできなかったです。




