【どうやらこの家、ダメなようです】
小さく、食器が鳴る音がする。
テーブルマナーは自信がないぞ、とジノがやや顎を引いたが、そういえば目の前の男も元をたどれば平民だった。……必要に駆られるまで、気にしないことにする。
「ここのパンはね、焼きたてなんだよ。ミルヴァたちが毎朝、街の店まで取りに行ってくれてるんだ」
ちぎったパンの一片を口に運びつつ、リックがさらりと使用人の尽力を明かす。
だがそこに“ありがとう”の感謝ではなく、“それをジノと分かち合える幸せ”の熱量がこもっているあたり、リックはやはり……リックだった。
「スープも美味しいよ。好みに合うといいな」
湯気の向こうから、ちらちらとジノの表情を伺ってくる翠色の瞳。視線が交わればにっこり笑い、ベーコンを勧めてきたり、果物を指差したり。
食卓にあるもの全てが、まるで“ジノのために”並べられているかのような勢いだ。
「ああ、早く皆にジノを紹介したいな♡」
「…………」
「邸の案内もね、庭に、テラスに、小さな温室もあるよ。あとね――」
まだ見ぬ邸内の話をしながら、リックが長い指を次々と折っていく。
その様は邸の主というより、お気に入りのものを見せたい子どものようで。
「気に入ってくれると嬉しい」
けれど最後にそっと微笑んだその声だけが、やけに静かで――まるで一瞬だけ、本当に“ただの青年”に戻ったかのようだった。
* * * * *
魔王討伐の褒賞として、リックが国王から与えられた邸宅は、城下町の一角にあった。
二階建ての邸は広々とした庭を抱えており、落ち着いた雰囲気のトピアリーや花壇、芝生も丁寧に刈り揃えられている。
邸の玄関から門扉へと伸びる、白い石畳。その左右を縁取る植え込みに、しゃがみ込む影が二つ。
その二つの背に向かって、玄関からリックが声をかけた。
「セノール!エン!来てくれ!」
振り返り、立ち上がったのは、品のいい初老の男性と寡黙で大柄な青年。リックの後ろからそれを覗き込んだジノが、小さく会釈をしかけて――ミルヴァの”頭を下げてはダメ”を思い出して、ちょっとだけ止まる。
――じゃあどうすりゃいいんだ、とジノが眉をしかめている間に、呼ばれた二人は目の前まで歩みを進めてきていた。リックとジノに、ぺこりと一礼。
「ジノ、彼は執事のセノール。こっちは庭師のエン……御者もやってくれてるよ、昨日も会ったよね」
「ご機嫌よう、ジノ様。セノールでございます」
低く、穏やかな声音で、初老の男性が顔を上げた。青年と一緒に庭いじりをしていたのか、折りたたんだシャツの袖を丁寧に直している。そののちに、目じりのしわをやや深くして、にこり、と微笑む。
「どうか、ご無理のないように。お疲れの際は、何なりと」
「あ、……はい……」
――どこか、”わかっていますよ”、とでも言っていそうな眼差し。ジノの肩が小さく下がったのを見て、セノールの横にいた大柄な青年も頭をわずかに上げた。別の地方から来たのか、肌の色が少し違う。
「……エン、です。昨日は、ご挨拶できず、申し訳ありません」
「えっあ、いや、昨日はもうそれどころじゃなかったんで……」
ひら、と胸の前で手を振ったジノの腰に、リックが手を回す。
「輿入れだったもんねッ♡」
「こっ……ちげぇ!」
「あ、でも初夜はまだなんだ、セノール」
「なッッ――!?」
にを言ってんだこの勇者は!!とジノが慌ててセノールを見れば、老執事は形のいい眉を下げて小さく笑っていた。
「ほほ、リック様。急ぐ夫は嫌われますよ」
「うん、わかってる!」
いや何もわかってない!とリックの腕の中で、ジノが高速で首を振る。
なんでこの家の使用人たちは、当然のように自分とリックを夫婦として受け入れているのか。どっかに誰か、それを否定してくれる人間はいないのか。
藁にもすがるような気持ちでエンを見れば、――ひとつだけ、うん、と頷いた。
「……リック様に、奥様がきてくれて……うれしい……」
「…………」
――こ、
――この家、ダメだ……!!!
「ジノ、皆喜んでくれて嬉しいね♡」
当然の帰結だと言わんばかりに、リックが腕に囲い込んだジノを見下ろした。腰に回した腕に力を込め、ぐいと引き寄せる。その仕草に一切の迷いもない。
「ッ……ッ……!!」
物申してやろうかとジノが口をぱくぱくとさせるが、――使用人の前で、邸の主に向かって暴言……いや文句を言ってもいいものかどうか、ジノの中の良心が大変に混乱している。
「この邸に君が来てくれて、家族が増えたみたいだ♡」
「ほほ、左様でございますな」
芝生の上、陽光の中で微笑む勇者の横顔は、誇らしげですらある。セノールは一歩引いた位置で静かに賛同をし、話題を切り替えるかのように小さく手を打った。
「では、私どもとのお話はここまでにいたしましょう。日差しが強うございますよ」
その声音は柔らかいが、有無を言わせぬ区切りを含んでいる。エンもそれに倣い、頭を下げて一歩下がった。
踵を返して、庭の奥へと戻っていく背中。大きなクマのようだ……とジノがぼんやりと見送る。現実逃避である。
「さ、次は中だね!」
「あっ、おう……」
リックは楽しげに言い、玄関へ向かってジノごと身体の向きを変えた。もちろん腕は離さないまま、まるでエスコートをするように歩きながら、肩越しに振り返って笑う。
ぱちり、と視線が交わって、ジノもついその笑顔に……、……いや、この腰の手いつまで……??
「……いや、離せ……?」
「えっ、夫夫なのに……!?」
腹の底からの疑問符が返ってくる。低く、穏やかで、どこか楽しげな口調。
玄関をくぐれば、外気と邸の空気が混ざる。白い石の床に足音が重なり、外の陽光が遠ざかっていく。
玄関ホールの奥からは、かすかに食器の触れ合う音と、使用人たちの気配。
そして何より、この邸全体が――最初から“そうなる予定だった”かのように、ふたり分の存在を受け入れている空気があった。
――【どうやらこの家、ダメなようです】




