【おや、様子がおかしいな……?】
「今お風呂沸かしてるから、もう少ししたら入れるよ!」
浴室の扉から戻ってきた爽やかな声に、渋々と振り返った。よりによって邸宅の主と同室というのが理解不能だが、ひとまず逃亡は諦めることとする。
「よかった、待っててくれて♡」
腕にタオルと着替えを用意したリックが、安心したように笑いながらジノの手を取る。
当然のように、何の迷いもなく、まるで恋人同士が夕暮れ散歩でもするかのように繋がれた、手。
「いやいやいやいや、手ぇ引くな!なんっ、そ、だったら縄のままでよかったじゃねぇか!」
「お風呂に入るのに縄がいるのかい……?」
「ちげぇ!なんで伝わらねぇんだ!」
声を荒げても、一切効かない。むしろ微笑ましそうにすら見てくる。
ジノの中で、“この男に対して声を荒げる”という行為の意味が、じわじわと崩壊していくのがわかった。
私室の奥――浴室の扉の前。
開け放たれたドアの向こうには、思ったより広く、石造りで整えられたバスルームがあった。
湯気が立ち上り、まだ湯音は静かだ。香りは、ほんのりとハーブのような清涼感。
「服、脱がせてあげようか?」
「やめろ!武器なんて持ってねぇよ!」
肩を掴まれた瞬間に怒鳴り返すと、さすがにリックがぴたりと手を止めた。
少しだけしょんぼりしたように口をすぼめ――しかしすぐに、また笑みが浮かぶ。
「君は本当に照れ屋だなぁ」
「はぁ……ッ!?」
「じゃあ私は先に洗ってるから、あとから入ってきてね!」
「は、ああ、え、ああ……!?」
混乱極まるジノを置き去りに、ついにリックが浴室の向こうへ消えた。ぽつんと残されたジノが、棚に置かれたシャツに視線を落とす。
――リックが着ていたのと同じ、淡いベージュの軽装シャツ。
(……え、俺いま……何……?)
(……まさ、か……男娼的な……?)
そう思った瞬間、なぜか指先が止まり、心臓が一度だけ重く鳴った。
脱衣所には、リックが置いたシャツとタオルがふたつずつ。
浴室からは、湯をかける音と、鼻歌まじりの明るい声がかすかに聞こえた。
……じり……もた……と服を脱ぐ。
(い、いや、――この邸では主と風呂に入るのが普通なのか……??)
誰も答えをくれない疑問を抱きながら、――決まらない覚悟も胸に、ジノは浴室へと足を踏み入れた。すでに浴槽に身を沈めていたリックが、ジノを見やってにこりと笑う。
「洗体はそこの石鹸、洗髪はそっちの小瓶に入ってる液体で洗うといい!洗ってあげようか?」
「いらねぇっ」
流れるような返答に、それでもリックは満足そうに笑った。もはや、ジノが何をしても楽しいまであるかもしれない。
一つため息をつきながら、ジノが洗い場で洗髪用の瓶を手に取る。……普段は……固形の石鹸を使っているから……こりゃなんだ……と、まじまじとその液を見た。
「それ、液体状の石鹸だよ。手に塗り広げてから頭を洗うといい」
「……そりゃどうも」
世の中色んなもんがあるなぁ、と思いながら髪を洗う。目を閉じてはいるがジッと視線を感じるのは、恐らくリックが……頭でも見ているのだろう。きっとそうだ。
ざばりと湯で流せば、目の前の鏡にはいつもの自分。地味で暗い茶髪と、茶色の瞳。男前の”お”の字もない顔。浴槽から見つめてくる男との格差に、思わず肩をすくめた。
「背中も流してあげようか?」
「いらねって」
ちょっかいをかけられるのにも、だんだんと慣れてきている自分がいた。手早く体を洗って浴槽を見やれば、何やら嬉しげに両手を広げて待ち構える勇者の姿である。
「……なにしてんだあんた」
「えっ、一緒に入るだろう!?私は君の”主人”だよね!?」
「は、入んねぇよ!!」
ええっ、とリックが悲しげな顔をする。一体お前の中で”主人”はどういうことになってるんだ、とジノがため息をついた。だが無理強いをしてくるわけでもないことから――”男娼”……は、違うのかもしれない。
まったく浴槽に入ろうとしないジノに、やがてリックも水音をさせながら腰を上げた。
「わかったわかった、じゃあ先に上がっているから、ゆっくり入ってね」
「……ああ」
その後ろ姿を横目で見ながら、ジノも静かに声を返す。まったく、照れちゃって、という声が聞こえた気がしてバッと扉の方を振り返ったが、脱衣所への戸はもう閉まる寸前だった。
「あ、」
「あ!?」
またも聞こえた声に再び振り返れば、
「お風呂あがったら、君の名前を教えてね♡」
という笑顔だけが見えて、――扉が閉じられる。
ジノは湯船に入って、一人静かに頭を抱えるのだった。
ごぽ、とゆるく、湯が揺れる。
肩まで沈んだまま、ジノは風呂の縁に頭をくっつけ、ぼんやりと天井を睨んでいた。
(……厄日だ……)
朝起き、小遣い稼ぎの詐欺で街に出て、昼には勇者本人に見つかって。
夕方には城で……断罪……?謁見……?して、さっきまで一緒に風呂に入っていた。
(……ありえねぇだろ……)
湯気と静けさに包まれた空間。
石造りの壁から伝わる温もりが、今は逆に心細い。
(…………あと多分あいつ絶対バカだ)
そう思ったのに、なぜか腹は立たなかった。むしろ、まともに怒るだけの余裕が、今の自分にはなかった。
湯船の中から見える鏡に、地味な茶髪と、なんの変哲もない顔が映っている。それを、あの男は――「綺麗な琥珀色だ」とか、平気で言った。
ふぅ、と湯気と一緒にため息が上がった。一応、逃げない、と決めた以上は。
(――名前なんて、テキトーに呼べばいいだろが……)
混乱が湯に溶けて、けれども消えてはくれなかった。
――【おや、様子がおかしいな……?】




