【奥様、体調不良です】
朝、リックは清らかな光の中で目を覚ました――。
目の前では愛しい妻、ジノが眉間にしわを寄せながら寝息を立てている。
んふ、と口元が緩んで、その眉間につい、と指先を当てれば、しわはさらに深くなった。かわいいなぁ、と目じりが下がる。
バル=グラム討伐の遠征から帰ってきて早ひと月、朝晩のキス攻防戦はもはや日課となっている。
今のところ九分九厘で大敗しているが、ごくたまにジノの機嫌がいいと、むちゅっとさせてくれる。
なお最後にキスが成功したのはつい三日ほど前のことで、夜眠ろうとしていたジノを腕で囲い込み額を寄せて囁くように「ジノ……♡」と声を掛けたらジノがうっすらと目を潤ませながら「うん……♡」と言って自分の胸元にそっと手を添えその頬はじわりと滲むような赤が差し眉は困ったようにひそめられ(あ、さてはしっとりムーディーに言った方が受け入れてもらえる確率が高いのかもしれないな)と頭の後ろの方でぼんやりと考えつつもゆっくりと唇を寄せれば逃げるでも避けるでもなくジノも静かに目を
――ハッ……
リックが、はた、と現実世界に戻ってくる。記憶の海にお出かけしてしまっていた。なお恐らく、八割ほどが捏造された記憶である。
だめだめ、今は目の前にジノがいるんだから、と改めて腕の中に視線を落とす。
怒鳴られ、殴られ、逃げられながらも、結局こうして渋々と抱きしめられてくれるんだから、まったく参った。する、と耳元の髪に指を通す。
「……ん……」
「……ジノ、朝だよ」
「…………」
リックが低く声をかければ、じわ、とジノの目が開く。しょぼしょぼと瞬き。琥珀色の瞳がちらりとうかがえる。
「…………」
「おはよ♡ね、キスしてもいいかい……?♡」
指の背が、ジノの頬を撫でる。これまでの戦歴からすると、どうやら勢いで行くと失敗が多い。落ち着いて、静かに、焦ってないよの姿勢が大事だ……と思う。きっと。
きゅ、とジノの表情が渋くなるが、拒絶の言葉はなく……もうすぐさま飛びかかりたい気持ちを抑えて、リックがそっと顔を寄せる。
腕枕をしていた手で、肩を包む。もう片方の手は腰に回す。怒声はない。
(えっ、えっ、あれっ♡)
ちゅう、と唇を触れる。これは――ない、拒絶の手がない……!試しにちょっと覆いかぶさるように体勢を変えてみる。……が、これにもお叱りはない……。
「……じ、ジノ……♡」
「……重い……」
するすると、手のひらを服の中なぞに入れてみる。高い体温が、リックの手に触れる。これは、こ、これは……!
「……リック……」
「う、うんっ♡♡♡」
「頭……いてぇ……」
「うんッッ!?!?」
リック、慌てて身体を起こす。のしかかっていたジノは、顔を赤らめ……赤……、……いや青い、白いな……??額やら首筋やらぺたぺたと触れれば、どこもかしこも熱い。
「ジノ熱あるね!?」
「…………寒い」
この日、朝から勇者邸には、ぴゃーんと勇者の鳴き声が響いた。
(う、うるせぇ……)
ジノは、ガンガンと頭に響く勇者の声に、もそりと布団を頭まで被った。
外は初夏。けれども寒い。これから熱が上がるのだろうか、と。
勇者は全力で額に汗を浮かべながら、何度もジノの体に触れてくる。額に、首に、胸元に。ぺたぺたと慌ただしく熱を確かめ、耳の先まで青ざめていた。
「ねっ、熱、いつからっ?どどどうしよう、私風邪なんて引いたことないからちょっとわかんないなッ!?」
わたわたとテンパりながらも、布団をめくってはかけ直し、枕元の水差しを手に取り、座り直して背中を支えようとしてまた元に戻る。空を切る手は止まらない。
「み、水飲むかい?」
「…………飲む……」
「う、うん……」
抱き起こされ、グラスに水差しの水を注がれる。こくりとのどを潤せば、またぞくりと寒気がした。
「……さむっ」
「ああッ、寝てて!今お布団出すから待ってて!アッ、ミルヴァ!ミルヴァ呼んでくるね!?いやその前に……氷?いや着替え!?あっ、汗はかいてない!?お風呂……いやお風呂はやめたほうがいい……!?」
てんやわんやと動こうとしたリックの足が、布団に引っかかって転びかける。慌てて踏みとどまり、息を整え振り返れば、ジノはまた布団に横になるところ。
「……ひとまず、ミルヴァ、呼んでくるね」
「……ん……」
――こいつ、静かな声で喋れるんだな、とジノが、視界の端でその背中を見送る。
勇者が抜けていったベッドは、ほんの少し、心細かった。
「み、ミルヴァかアキアかセノールか誰かー!」
リックは寝間着を翻して廊下を駆けた。階段を一段飛ばしで降りる。ミルヴァの名を呼びかける声は妙に裏返っていて、顔を覗かせたセノールの声のほうがよほど落ち着いていた。
「リック様?どうされました」
「セ、セノ……っ、あのっ、ジノが熱出して……!ミルヴァを、あッ、医者!?薬かな!?」
「おや、少々お待ちを」
背筋の通ったセノールがくるりと向きを変え、そのまま数歩先の使用人通路へ吸い込まれていった。ほどなくして、手早く前掛けを結ぶミルヴァが現れる。
「高熱ですか、頭痛ですか」
「ね、熱ッ……あ、寒いって!」
「承知いたしました。奥様、汗は?」
「ま、まだかいてないかも」
「では解熱剤だけ、まずは口に入れてもらいましょう」
短くやり取りしながら、二人は寝室へ。手には薬と水差し、リックの腕にはふかふかの追加毛布。セノールはすでに医師を呼びに出ていた。
ミルヴァが寝室を覗き込めば、ジノが静かに毛布にくるまっていた。声をかけると、ゆっくりと目を開ける。無駄なく動くその手が、枕元へ薬を差し出した。
「奥様、解熱のお薬を飲まれてください」
「……ん」
がさついた声で返事をしたジノに、グラスを口にあてがったリックの手が、ぴたりと止まる。少し震えている。眉も下がっている。ジノがそれに気づいたかどうかはわからない。が。
「……リック様」
「……うん」
「奥様に熱があるときは、静かに見守るのがいちばんです。ね?」
小さく、耳元で囁かれるようなトーン。リックがこくこくと頷き、ミルヴァは小さく微笑むと、薬を飲み終えたジノの額に軽く触れた。
「お大事に、奥様。……おそばには、静かな旦那様を置いておきますので」
「……いらねぇ……」
返ってきた声に、ミルヴァが安心したように頷いた。ささやかながらも毒舌が返ってくるのなら、大丈夫そうだ。
退室する際、ちらりとだけリックを振り返れば、リックは椅子を引き寄せ、ジノのすぐそばに座るところ。ジノは再び、目を閉じかけている。
ぱたり、寝室の扉が閉じられる。
リックは息を詰めるようにして、その顔を見守っていた。額に触れたくて仕方がないような手が、膝の上でぎこちなく握られていた。
――【奥様、体調不良です】




