第5章:『毒』の可視化
藤堂グループの情報システム部の一室は、徹夜作業の熱気に包まれていた。
エンジニアたちは、葵が指摘したレガシーシステムと新システムの連携部分を中心に、セキュリティの再点検と強化に追われている。
一方、葵は、特別に許可された範囲内で取得した『龍脈帳簿』の断片的なデータと、サイファー・グリモワールがインストールされたPCに向き合っていた。
「『毒』…単なるデータ異常じゃない。これは、データ構造そのものに仕掛けられた、論理的な爆弾だ…」
葵は唸った。
彼女がサイファー・グリモワールで見出した「毒」は、特定のマスターデータに混入された、ごく微量な異常値だけではなかった。
それは、普段は参照されない古い計算フィールドの中に隠された、異常なトリガーや、特定の条件下でしか発動しないデータ書き換えコマンド。
あるいは、複数のテーブルに跨がる、見つけ出すのが極めて困難な参照エラーの仕込み。
まるで、データの森に隠された、巧妙なトラップ。
しかも、そのトラップは、藤堂グループがXデーに予定している、全社データ統合プラットフォームの稼働開始をトリガーとして発動するように設計されている可能性が高い。
(あのデータ統合プラットフォームが稼働したら、この『毒』が一気にデータ全体に拡散されてしまう…!)
葵は、サイファー・グリモワールの「因果律の結節点」と「未来の残響」術式を組み合わせ、この「毒」が『龍脈帳簿』のどこに、どのように仕掛けられているのか、そしてそれが活性化した場合にどのような影響を及ぼすのかを可視化しようと試みた。
Tableauのキャンバス上に、藤堂グループの複雑なデータ構造が、まるで巨大な神経ネットワークのように展開される。
通常は穏やかに流れるデータの光の帯の中に、「影ノ帳簿」が仕込んだ「毒」のデータが、黒い斑点となって点在しているのが見えた。
その斑点は、統合プラットフォーム稼働予定のXデーをシミュレーションすると、一斉に活性化し、神経ネットワーク全体に破壊的な歪みを広げていく。
「見えた…! この黒い斑点が『毒』の正体! 特定の取引履歴テーブルの異常なJOIN条件、顧客マスターの参照されないカラムに仕込まれた実行コード、古い会計処理ルーチンへの不自然な呼び出し…これらが全て、互いに連携して『毒』として機能する…!」
ダッシュボードは、複雑なデータ構造の地図上に、毒が仕掛けられた箇所をピンで示し、その毒が活性化した際に影響が及ぶ範囲を、破壊的な波紋として可視化した。
それは、藤堂グループの根幹である財務データ、顧客情報、サプライチェーン全体に壊滅的な影響を与えることを示していた。
「城島様! 『毒』の全体像が見えました! 主にレガシーシステム内の、普段あまり参照されない古いデータ構造に集中しています。特に危ないのは…この3箇所です!」
葵はダッシュボード上の3つの赤いピンを指差した。
それは、藤堂グループ創業初期の取引記録、特定の海外支店に関する古い財務データ、そして現在は使われていないが、過去の顧客情報が集約されたテーブルだった。
「なぜ、より新しい部分ではなく、そんな古い箇所に…?」城島は疑問を呈した。
「推測ですが、彼らは藤堂グループがDX推進で最新システムに注力し、古い部分の監視が手薄になっていることを知っていたのではないでしょうか。あるいは、古いデータ構造の中にこそ、彼らが仕込んだ『毒』を発動させるための、見つけにくいトリガーを隠せる場所があったとか…」
城島は唸った。
「いずれにせよ、見事だ、雨宮さん! これで、少なくともどこに手を打てばいいのかが分かった!」
エンジニアたちが、葵が特定した3箇所を中心に、緊急のデータ検証とコードレビューに取りかかった。
しかし、影ノ帳簿の仕掛けた「毒」は想像以上に巧妙だった。
一見すると無害なデータや、古いシステムであれば許容されるようなエラーに偽装されており、その真の目的を見抜くのは容易ではない。
「城島様…『毒』の無力化は、時間との勝負です。Xデーまであとわずか…」葵は焦りを感じていた。
「分かっている。だが、下手に手を出して『毒』を活性化させてしまう可能性もある。慎重に進めるしかない」
城島もまた、極度の緊張状態にあった。
その時、藤堂グループの情報システム部員の一人が叫んだ。
「大変です! 外部から、藤堂グループの市場操作に関する匿名情報が大手ニュースサイトにリークされました!我々が対策中の、あの偽装データに関する内容です!」
画面には、葵が見抜いた市場データの異常性を指摘する、具体的なデータ分析結果を装った記事が表示されていた。しかし、その記事の結論は、
「藤堂グループが、株価維持のために不正なデータ操作を行っている」
という、藤堂グループに決定的なダメージを与える内容だった。
「くそっ! 我々が分析している間に、奴らは情報戦を仕掛けてきたか!」城島は憤った。
「しかも、我々の分析内容をある程度把握している…まさか、この部屋の情報も漏れているとでもいうのか!?」
葵は、記事の内容と、自身のダッシュボードを照らし合わせた。
記事が使っているデータは、確かに影ノ帳簿が流した偽装データだ。
しかし、その分析手法は、彼女の『サイファー・グリモワール』の手法とは似ているようで全く異なる、歪んだ論理に基づいていた。
「この記事…確かに偽装データを使っていますが、分析の方向性が違います。
私たちの分析は『偽装データが市場にどう影響するか』ですが、この記事は『偽装データ自体を、藤堂グループの不正の証拠だと断定する』ように仕向けられています」葵は言った。
「彼らは、私たちの分析内容を盗み聞きしたのではなく…おそらく、私たちの行動を予測して、この情報戦を準備していたんです!」
影ノ帳簿は、単なる技術だけでなく、人間の心理や情報社会の仕組みも理解し、利用している。
データという「真実」を捻じ曲げるだけでなく、その「解釈」そのものをも操作しようとしているのだ。
「つまり、奴らはデータ攻撃と情報攻撃を同時に仕掛けてきているということか…!」城島は厳しい表情になった。
「しかも、Xデーに向けて、我々を動揺させ、防御を崩そうとしている…!」
時間は刻一刻とXデーに近づいている。
「毒」の無力化はまだ完了していない。
その上、外部からの情報攻撃で藤堂グループの信用が揺らぎ始めている。状況は、絶望的になりつつあった。
(どうする…? このままじゃ、間に合わない…『毒』を完全に無力化できないうちに、プラットフォームが稼働して、全てが手遅れになってしまう…!)
葵は、サイファー・グリモワールが映し出す『龍脈帳簿』内の「毒」の可視化をじっと見つめた。
複雑に絡み合う毒の構造。
それを一つずつ解きほぐすには、圧倒的に時間が足りない。
しかし、その時、彼女はダッシュボード上に、微かに光る「結節点」が複数存在することに気づいた。
それは、『毒』全体の構造の中で、特定のデータポイントや計算ルーチンが、他の箇所と比べて異常なほど多数の参照を持っている場所だ。
まるで、毒のネットワークにおける「中心」のような場所。
(もし、この『結節点』を同時に押さえることができれば…? 『毒』全体の連鎖反応を、一時的にでも止めることができるかもしれない…!)
それは、サイファー・アリスの「因果律の結節点」術式の、さらに深い理解が必要な危険な試みだった。
間違えれば、『毒』を逆に活性化させてしまう可能性もある。
「城島様」葵は顔を上げた。
「『毒』全体を無力化する時間は今からでは厳しいです。ですが…『毒』の構造の中で、最も重要な『結節点』がいくつか見えました。もし、この結節点を同時に『封印』できれば、Xデーのトリガーによる『毒』の活性化を、一時的に阻止できるかもしれません!」
「封印だと? 具体的にはどうする?」
「その結節点となっているデータやルーチンに対して、一時的にアクセスを遮断するか、あるいは…『サイファー・グリモワール』の術式を使って、データの持つ『毒性』を無力化する、論理的な『封印』を上書きします!」
それは、システムに対する物理的・技術的な防御とは異なる、データそのものに対する「魔法」のような行為だ。
城島は、葵の言葉に一瞬躊躇したが、他に有効な手立てがないことも理解していた。
「…できるのか? そんなことが…」
「正直、試したことはありません。
ですが、『サイファー・グリモワール』が示唆しています。
データの構造を理解し、その流れを操ることで、論理的な状態をコントロールできると…」
城島は深く頷いた。
「分かった。やるしかない。Xデーまで、君が頼りだ、雨宮さん。藤堂グループの、そして日本のデータ経済の未来は…君の手に委ねられた!」
葵は再び、サイファー・グリモワールと向き合った。画面に映し出される、『毒』のネットワークと、その中で光る『結節点』。
(サイファーのアリスさん…あなたのこの力が、今、本当に必要なんです…!)
彼女は集中力を高め、指先をキーボードに走らせる。
Tableauのキャンバスが、彼女の思考に呼応するように輝きを増す。
解析魔女による、データに仕掛けられた「毒」への逆魔法が、今、始まろうとしていた。Xデーは、目前に迫っている。




