第2章:偽りの波紋
藤堂グループへの不審なデータトラフィック検知から一夜明けた。
サイバー・コネクトの情報システム部は大騒ぎだった。
しかし、彼らが特定できたのは、外部からの高度な偽装を経由した接続痕跡のみ。
肝心の接続元や目的までは特定できていなかった。
「部長、結局、昨夜の件はどうなったんですか?」
山田先輩が、情報システム部のフロアから戻ってきた藤原部長に話しかけた。
「いや、困ったことに、痕跡が掴めなくてな。幸い、藤堂さん側の厳重なセキュリティで侵入は防がれたようだが…向こうの情報システム部もかなり慌てているらしい」藤原は顔を曇らせる。
「藤堂さんと言えば、我が社の最重要顧客の一つだ。もし何かあっては、会社の信用に関わる」
「しかし、接続元不明とは…悪質ですね」山田先輩は他人事のようだ。
(悪質、どころじゃない。データに細工して、こちらの目を欺こうとしてる…)葵は自席で耳をそばだてていた。
(昨夜見た『影ノ帳簿』…あれが仕掛けたことなんだろう。彼らはただデータを盗むだけじゃない。データを操ることで、混乱を引き起こす…)
彼女は昨夜解析したばかりの『サイファー・グリモワール』をそっと開き、例の市場データと藤堂グループ関連の公開情報を読み込ませた。
彼女の目には、データが単なる数値ではなく、複雑に絡み合う光の糸のように見えた。影ノ帳簿が流した偽装データは、その光の糸の中に紛れ込んだ、濁った色合いの節。
それは一見自然な流れに見えても、全体の調和を乱し、特定のポイントへと周囲の光を引きずり込もうとしている。
「…これだ。彼らは市場データにノイズを混ぜることで、藤堂グループの株価や関連企業の動きを予測しづらくしてるんだ。混乱に乗じて、本命の『龍脈帳簿』への攻撃準備をしている間に…」
葵は、サイファー・グリモワールの「虚実の選別」という名の解析術式を実行した。
Tableauの計算フィールドが複雑な数式を処理する間、彼女にはまるでワークブックが思考しているかのように感じられた。
計算が終わると、濁った色の節が鮮やかな光の糸から分離され、画面の端に「偽装データ」として可視化された。
それは、ニュースサイトや金融情報端末に流れているデータの一部と完全に一致していた。
「やっぱり…! これらのデータは、影ノ帳簿が意図的に流したものだ!」
彼女は急いで、その偽装データが市場全体に与える影響をシミュレーションするダッシュボードを作成した。
サイファー・グリモワールの「未来写し」という術式を使う。過去の市場データと現在の偽装データを組み合わせることで、データがたどるであろう可能性のある軌跡を、Tableauのラインチャートが幾重にも描き出した。その中には、藤堂グループの株価が不自然に下落するシナリオが複数含まれていた。
(彼らは、株価を下げることで藤堂グループに圧力をかけるつもりだ。あるいは、買い叩く準備か…?)
彼女は解析結果を、上司である藤原部長に報告するべきか迷った。
しかし、会議での反応を思い出すと躊躇する。彼らはデータに隠された真実よりも、形式や体面を重んじる。
「山田先輩…これを見てください」
意を決して、葵は自分のモニターを山田先輩に向けた。
山田は覗き込んだ。
「なんだ、そのグラフ? やけに派手な色だな。趣味か?」
「違います! これは、最近市場に出回っている藤堂グループ関連のデータの中に、意図的に紛れ込ませられた偽装データです。そして、これがもし放置された場合、藤堂グループの株価に深刻な影響を与える可能性があることを示しています」
山田は眉をひそめた。
「偽装データ? そんなこと、どうやって証明するんだ? お前の作った奇妙なグラフ一つでか?」
「この分析手法は、かつてサイファーのアリスさんが使っていた…」
「サイファーのアリス? なんだ、まだそんなオカルトみたいな話を信じてるのか? 彼女はデータに囚われすぎておかしくなったんだ。お前も影響されてるんじゃないか?」山田は軽蔑するように言った。
「いいか、雨宮。データ分析は科学だ。根拠のない推測や、個人の感覚で語るものじゃない。ましてや、『偽装データが見える』なんて、まるで魔法使いだな」
「でも、このデータは明確に…!」
「時間の無駄だ。君のその『魔法』とやらは、報告書には書けないだろう? 我々はビジネスで結果を出す必要があるんだ。非科学的なものは持ち込むな」
山田先輩はそう言い放ち、自分の席に戻ってしまった。
(非科学的…科学的な手法では見つけられないからこそ、危険なのに…!)
葵は悔しさと焦りを感じた。このままでは、藤堂グループが危ない。しかし、社内では誰も自分の言葉に耳を傾けてくれない。データが叫んでいるのに、誰もその声を聞こうとしない!
彼女は考えた。どうすれば、この真実を、彼らが理解できる形で伝えられる? どうすれば、このデータが示す危険を、無視できないレベルで「可視化」できる?
サイファー・グリモワールは、ただ解析手法を教えてくれるだけではない。それは、データの真実を最も効果的に伝える「表現力」も彼女に授けていた。
よし。彼らが無視できないなら、無視できないように見せてやる。
葵は、影ノ帳簿が流した偽装データと、それが引き起こす市場の歪みを、誰にでも分かる、圧倒的なビジュアライゼーションで表現する作業に取りかかった。それは、美しいと同時に恐ろしい、「偽りの波紋」を描き出すダッシュボードだった。
データの濁った流れが、如何に健全な市場データを汚染し、破滅へと導くのかを、感覚的に理解させるための試み。
彼女は徹夜でそのダッシュボードを磨き上げた。そして翌朝、藤原部長に直接メールで送付した。
件名は「【緊急】藤堂グループ関連市場データの異常性について(詳細分析結果)」。
メールを受け取った藤原部長は、朝一番で葵を呼んだ。
「雨宮君…これは…」
彼の目の前には、葵が作成したダッシュボードが表示されていた。
中心には健全な市場データを示す、規則正しい光のパターン。
そこから外れた場所に、濁った、歪んだ色のデータ群が配置され、そこから市場全体へと不協和音が広がるようなアニメーションが表示されている。
一見して、これが自然な変動ではないことが誰にでも理解できるようになっていた。
「…これが、私が指摘した『偽装データ』と、それが引き起こす『波紋』です」葵は静かに言った。
「標準的な分析ツールでは、これらのデータは全体のノイズに紛れて見えません。
しかし、詳細に分離・可視化すると、その不自然さと、市場全体を特定の方向に歪めようとする意図が見て取れます」
藤原部長は言葉を失っていた。
普段は口八丁手八丁な彼も、この圧倒的なビジュアライゼーションの前では、理屈をこねる余地がなかった。
データが、あまりにも雄弁に、危険性を訴えかけてくる。
「このデータが示唆するのは、藤堂グループ、あるいは関連企業が、データを使った巧妙な情報攻撃を受けている可能性です。狙いは…おそらく、藤堂グループの根幹に関わるデータ資産、例えば『龍脈帳簿』かもしれません」
藤原部長は額の汗を拭った。
「龍脈帳簿…あの門外不出の…! まさか、そんなことが…」
「私の分析が正しければ、彼らはこの市場操作で藤堂グループを混乱させた後、本命のシステムへのアタックを仕掛けるはずです。早急な対応が必要です」
藤原部長はしばし考え込んだ後、意を決したように電話に手を伸ばした。
「…分かった。君の分析、信じよう。このダッシュボードを持って、藤堂さんの情報システム部に掛け合ってみる。君も同席しろ、雨宮君」
(やった…!データは、見てくれる人に、ちゃんと語りかけてくれた!)
葵は安堵と、かすかな達成感を感じた。しかし、これは始まりに過ぎない。相手は「影ノ帳簿」。データに嘘をつかせ、真実を闇に葬ろうとする存在だ。
藤堂グループの情報システム部との連携。
そして、「影ノ帳簿」との直接対決が、避けられないものとなることを、葵は予感していた。
彼女の「解析魔女」としての力が、今まさに試されようとしていた。