8 形だけの婚約
――結論から言えば、その日のうちに話は“場所を変える”ことになった。
フレデリックが判断に迷っている間に、主導権はすでに彼女の手に移っていたからだ。
「……え?」
思わず、間の抜けた声が出る。
リラは灰色の髪を揺らしながら、周囲をぐるりと見回した。
馬好きの貴族たちが集う庭園。人目は多く、噂好きな耳も少なくない。
「この続きは、ここではない方がよろしいのではなくて?」
声は低く、穏やか。
しかしその言葉には、はっきりとした意図があった。
「ここですと、その……色々と問題が起きそうですし」
「問題、とは」
フレデリックが問い返すと、リラはにこりと笑う。
「婚約の話を、人前で詰めるのはあまりお行儀が良くありませんもの」
その瞬間、ようやく事態を理解したフレデリックの表情が固まった。
「……本気、なのか」
「ええ。少なくとも、冗談で持ち出す話ではありませんわ」
そう言い切ってから、彼女は小さく首を傾げる。
「それとも、公爵家の応接室は令嬢の立ち入り禁止でした?」
試すような問いかけに、フレデリックは短く息を吐いた。
断る理由はある。警戒すべき点も多い。
それでも――このまま流す選択肢が、なぜか浮かばない。
「……分かった」
「ありがとうございます」
即座に返ってくる礼の言葉。
まるで、了承されると分かっていたかのような調子だった。
そして案の定。
「おや? 公爵家にご招待?」
いつの間にか話を聞いていたロビンが、楽しげに口を挟む。
「それは見届けないと失礼だな」
「ロビン、お前は――」
「行くに決まってるだろ」
こうして、話は“改めての場”へと持ち越されることになる。
その日のうちに。
フレデリックの屋敷――公爵家の応接室で。
そしてこうして今、フレデリックの屋敷――公爵家の応接室に、彼女はいる。
そしてもう一人。
「いやあ、これは面白くなってきたな」
ソファに深く腰掛け、すでに三杯目の紅茶に手を伸ばしている男。
ロビンは、完全に“面白がって”同行を決めた張本人だった。
「お前は、少しは遠慮というものを覚えろ」
「無理だな。こんな話、聞かない方が失礼だろ?」
軽口を叩きながらも、ロビンの視線はしっかりとリラを観察している。
興味と警戒、その両方を隠そうともしない目だった。
一方のリラは、背筋を伸ばしてソファに座り、静かに紅茶を口に運んでいる。
先ほどのウインクが嘘のように、表情は穏やかで落ち着いていた。
「……まず確認させてほしい」
フレデリックは指を組み、正面から彼女を見る。
仕事の場で部下に向ける時と同じ、冷静な声音だった。
「さきほどの発言は、冗談ではないな?」
「ええ。冗談なら、もっと場を選びます」
さらりと言われ、ロビンが小さく吹き出す。
「強いなあ。なあフレデリック、お前完全に試されてるぞ」
「黙れ」
短く制してから、フレデリックは再びリラへ向き直る。
「理由を聞こう。なぜ、私なんだ」
婚約話なら、彼女に言い寄る男は他にもいるはずだ。
それも、もっと都合のいい相手が。
リラは少し考える素振りを見せ、それから肩をすくめた。
「理由はいくつかありますわ」
一つ、立場が釣り合っていること。
一つ、互いに婚約に夢を見ていないこと。
一つ――。
「あなたが、必要以上に踏み込んでこない人だと思ったから」
フレデリックの眉が、わずかに動く。
「……随分な評価だな」
「誉め言葉です」
即答だった。
ロビンは感心したように口笛を吹く。
「なるほど。こいつを“安全”って言う女は初めて見た」
「ロビン」
「はいはい」
フレデリックは一度、深く息を吐いた。
突飛な提案のはずなのに、不思議と頭は冷えている。
「つまり君は、形だけの婚約を望んでいる?」
「ええ。互いに干渉せず、必要な場では協力する」
「……愛だの情だのは?」
「今のところ、不要です」
きっぱりと言い切る声に、曇りはなかった。
沈黙が落ちる。
応接室の時計の音が、やけに大きく響く。
フレデリックは視線を落とし、しばし考え込んだ。
――突き放されているはずなのに、なぜか不快ではない。
むしろ、理解できる部分が多すぎる。
「……ずいぶん、合理的だ」
「そうでしょう? ですから、相性は悪くないと思います」
その言い方が、まるで商談のようで。
それなのに、どこか楽しそうなのが厄介だった。
ロビンが身を乗り出す。
「なあフレデリック。少なくとも話を聞く価値はあると思うぞ?」
「お前は静かにしていろ」
だが、否定しきれない自分がいる。
フレデリックはゆっくりと顔を上げ、リラを見据えた。
「即答はできない」
「もちろんです」
彼女は微笑み、余裕たっぷりに頷いた。
「考える時間は、いくらでも差し上げますわ」
――だが、逃げる時間は与えない。
そう言外に告げるような笑みだった。
フレデリックは、改めて理解する。
この令嬢は、ただ“風変わり”なのではない。
静かに、しかし確実に。
こちらの陣地へ、足を踏み入れてきている。
それが厄介で――
そして、目を離せない理由でもあった。




