7 紅茶と銀色の影
案外、彼女に会う機会はすぐに訪れた。
王都で開かれた、馬好きの貴族たちの集まり。名馬の展示や軽い競技のため、多くの貴族が庭園やサロンに集まっている。フレデリックは、社交やパイプ作りのため参加していたが、少々疲れの色が隠せず、隅の席に腰を下ろしていた。
ここ最近は舞踏会やお茶会、名目だけの社交に出席する日々が続き、息が詰まるような気分が常につきまとっている。
本当ならば、もっと自分の手で仕事を進め、いち早く父に認められたいというのに。
自分の心の欲求とは裏腹に、目の前に積まれる形式ばかりの集まりに振り回され、思うように動けない現実――その苛立ちは小さくなかった。
そんな時だった。
ふと、庭園の入り口近くにいた、ある令嬢が目に入った。灰色の髪を薄銀色の布でまとめ、周囲の視線を受け流すように馬の展示エリアへ向かう姿――まぎれもなく、あの庭園で出会った令嬢、リラ・ハーシェルだった。
フレデリックは、思わず視線を固定する。
(こんなところに令嬢が……?)
一瞬怪しむ。だが、社交シーズン真っ盛りの今なら、女性がこうした場所に来るのも不自然ではない。
それでも心の奥で、わずかに胸がざわつくのを感じる。婚約者探しには興味はないと言っていた彼女――なのに、どうしてこんな場所に、しかも自分の視界に入るのだろうか。
彼女の灰色の髪が光を受けて銀に輝くたびに、目が離せなくなる。
それはまるで微かな光を放っているかのようだった。
その時、彼女のすぐ近くで騒ぐ声が聞こえた。
「わっ、暴れちゃダメ!」
観衆の方を見ると、馬の一頭が突然暴れ出し、飼い主が必死に制止しようとしている。周囲の貴族たちは一歩引き、騒ぎに気づいた者たちも眉をひそめるだけだった。
すると、彼女は静かに馬に近づいていった。
何をする気かと、つい立ちあがり駆け寄ろうとした瞬間、
「大丈夫よ、ゆっくり、落ち着いて」
彼女が落ち着いた声で言葉をかける。
馬は耳をぴくりと動かすが、リラの柔らかな声と視線に呼応するかのように、足取りが少しずつ静かになっていく。
その様子を見ていたフレデリックの目が、ほんの一瞬見開かれた。
(……あの、庭園の時と同じだ)
リラは何かを小さく口にしながら、馬のたてがみを撫で、手元の軽い合図で馬を完全に落ち着かせた。観衆は息を呑み、騒ぎは瞬く間に収まる。
一瞬の出来事に皆が何事もなかったかのように談笑を始める中、彼の脳裏には、あの庭園での光景が鮮明に蘇っていた。冷静で無駄のない動き、事態を瞬時に見抜き、最小限の力で収める姿――あの時と同じ人だ。
「なぁ...お前、今の見たか?」
隣であくびを噛み殺しているロビンに声をかける。
「何のことだ?暴れる馬ならさっきもいたけど」
ロビンは肩をすくめ、暇そうに肘をつく。
フレデリックの眉が軽く跳ねる。
ロビンには今の出来事が何も印象が残っていないようだった。
しかし、フレデリックにとっては、あの瞬間が鮮明に心に刻まれていた。
灰色の髪が光に反射して揺れる後ろ姿――それだけで、心の奥に引っかかるものを残す。
ロビンは気にせず話を続ける。
「まあ、どの騒ぎもすぐに収まるだろうし、特に大事じゃないな」
フレデリックは短くうなずきつつも、視線は再びあの令嬢に釘付けのままだった。
すると、あろうことか、彼女がこちらを見て、ゆっくりと歩み寄ってきた。
彼女の表情は飄々としており、警戒心を示す様子もない。
フレデリックは一瞬身構えたが、そばまで来たリラは柔らかく微笑み、軽やかな声で問いかけた。
「一緒にお茶を飲んでも、よろしくて?」
その声には、自然体でありながらどこか気配りが感じられ、緊張感は薄れていく。フレデリックは思わず息を吐き、軽くうなずいた。
「……ああ、いいだろう」
リラは軽く会釈をすると向かいの席に座り、微笑みながら、興味深げにフレデリックの様子を見つめた。
「社交に疲れていらっしゃるご様子ね。紅茶を少しだけでも召し上がると、気分が落ち着くかもしれません」
さらに、少しおどけた調子で続ける。
「実は私、お茶を入れるのがちょっと得意でしてよ?一杯いかがかしら?」
その言葉には無邪気な自信と、自然な親しみが混ざっていた。
単なる世間話のための訪問なのか、それとも――いや、彼女の飄々とした態度は、そんな深い意図を秘めているようにも見えない。
彼女は手慣れた手つきでカップに紅茶を注ぐと、どうぞと目の前に差し出してきた。
受け取った紅茶を口に運ぶと、ほのかな温かさと香りが心地よく広がり、これまでの疲れがわずかに和らぐ。
フレデリックは、自然にリラに話しかける口を開いた。
「……社交には疲れることも多い。君は、こういう集まりには慣れているのか?」
リラは軽く肩をすくめ、あっけらかんと答える。
「慣れてはいませんわ。でも、嫌なことはどうにか工夫して乗り切るものです。……あなたは、こういう場所、嫌いですか?」
その微笑みと仕草に、心の奥で引っかかるものを感じつつ、彼は小さくうなずいた。
「ええ、正直、あまり好ましくはないな」
リラは軽く笑い、茶器を置きながら少し身を乗り出す。
「そうですか……それなら、せっかくの紅茶ですし、楽しんでいただけたら嬉しいです」
フレデリックは微かに眉を上げ、警戒を解きかけながらも、自然とリラに心を許していく自分に気づいた。
その後も紅茶を口に運び、互いに軽く会話を交わすうちに、フレデリックはふと思う。
――そういえば、こんなに心地よく人と話したのは、久しぶりのことだ。
舞踏会やお茶会、名目だけの社交に追われ、心が張り詰めていた日々。形式や噂に振り回され、笑顔さえ作り物のように感じることもあった。
しかし今は、飾らず、無理せず、自然に会話ができている。リラの軽やかな笑みや、あっけらかんとした物言いに、いつの間にか警戒も溶けていた。
短い時間ではあったが、心に小さな安らぎが灯る。社交の疲れも、苛立ちも、ほんのひととき忘れられるような、そんなひとときだった。
フレデリックは静かに茶器を置き、リラの笑顔を見つめる。
(……久しぶりに、楽しい時間だったな)
紅茶のカップが空になる頃、庭園には再び人のざわめきが戻り始めていた。
名馬の披露が一区切りついたのだろう。遠くから拍手と歓声が聞こえる。
リラは名残惜しそうにカップを置き、軽く伸びをした。
「そろそろ、戻らないといけませんね。あまり長居すると、変に目立ってしまいますし」
その言葉に、フレデリックはわずかに眉を上げる。
「目立つのが嫌いなのか?」
「ええ。面倒ですもの」
即答だった。ためらいも飾りもない。
その率直さに、フレデリックは思わず口元を緩めかけ、すぐに表情を引き締める。
――やはり、この令嬢は少し変わっている。
「……君は、不思議だな」
「よく言われます」
リラはあっさりと返し、立ち上がる。
その仕草は相変わらず控えめで、気取ったところがない。それでいて、なぜか視線を引く。
「そういえば」
去り際、彼女はふと思い出したように振り返った。
「この前のお話……覚えていらっしゃいます?」
フレデリックの視線が鋭くなる。
「この前?」
「庭園でのことです。あの時、仰いましたよね」
――改めて礼を。
その言葉を、リラは口には出さなかった。ただ、意味ありげに微笑むだけだ。
「ええ、覚えています」
フレデリックは慎重に答える。
軽々しく約束を扱うつもりはなかったし、まして相手が彼女となればなおさらだ。
「なら、安心しました」
リラは満足そうに頷き、笑顔で続けた。
「では、私と婚約してくださりますか?」
軽くウインクしながらこちらを見る姿はまるで子供のようで...
その時風に吹かれた灰色の髪が光を受け、再び銀のように揺れた。




