4 庭園の向こう側
公爵ディクソン家主催のガーデンパーティは、王都でも指折りの華やかさを誇る催しだった。
白い天幕の下には長テーブルが並び、季節の花々に囲まれた庭園には、色とりどりのドレスを纏った令嬢たちが集っている。
小鳥のさえずりと軽やかな音楽が流れ、表向きは穏やかで和やかな集いに見えた。
今日の茶会が何のために開かれたものか、察しがつかないほど鈍い貴族令嬢はいないだろう。
――公爵ディクソン家嫡男、フレデリック・ディクソン。
その婚約者候補を見定める場。
それが、このガーデンパーティの本質だった。
リラは、庭園の端に近い控えめな席で紅茶に口をつけながら、穏やかな表情の裏で小さく息を吐いた。
(やっぱり、そういう場よね)
伯爵家として招かれた以上、欠席はできない。
父からも「顔だけは出しておきなさい」と言われていた。
もっとも、主役になり得ない自分に視線が集まることはないと、最初から分かっている。
灰色の髪を低くまとめ、装飾も最小限に抑えた服装。
周囲に溶け込むことには、慣れすぎるほど慣れていた。
実際、彼女に向けられる視線は淡く、すぐに別の方向へと流れていく。
誰も不審には思わない。
地味で、印象に残らない伯爵令嬢。
それが、社交界でのリラ・ハーシェルの立ち位置だった。
ただ一つ違っていたのは――。
肝心の主役が、まだ現れていないことだ。
庭園のあちこちで、自然と入口へ向かう視線。
会話は続いているのに、どこか落ち着かない空気が漂っている。
(……まだ、来ないのね)
主役不在の社交ほど、居心地の悪いものはない。
探るような笑顔と、当たり障りのない話題ばかりが重なる。
リラはそっとカップを置いた。
(主役が現れるまで、少し時間がありそう)
この別邸の庭園は、王都でも名高いと聞く。
人の集まる天幕から少し離れれば、静かに歩ける小径もあるはずだ。
(せっかくだもの。少しだけ、この素晴らしい庭園を見て回ろうかしら)
そう心の中で呟き、リラは静かに席を立った。
誰にも引き留められず、誰にも気づかれないまま。
彼女は、庭園の奥へと歩みを進めていく。
天幕を離れると、空気が変わった。
人の声が遠のくにつれ、胸の内に溜まっていた重たい空気が、少しずつ薄れていく。
(やっぱり、ここは綺麗……)
肩の力が、自然と抜ける。
手入れの行き届いた小径を進みながら、リラは深く息を吸った。
風に揺れる木々の音と、花々の柔らかな色彩が目に心地よい。
そのとき。
「……だから、そう簡単には決められない」
低く抑えた声が、木立の向こうから聞こえた。
リラは思わず足を止める。
声の主には、聞き覚えがあった。
落ち着いていて、どこか距離を感じさせる声音。
(フレデリック・ディクソン……)
視線を向けると、木立の隙間に二人の男性の姿が見える。
一人は、噂の公爵家嫡男。
そしてもう一人は、以前の舞踏会で見かけたことのある青年――ロビン・フレッチャー公爵子息だ。
ロビンは、柔らかな栗毛を無造作に整え、フレデリックほどではないが、相変わらず人目を引く容姿をしていた。
整った顔立ちに、親しみやすい笑みを浮かべていれば、誰もが自然と警戒心を解いてしまいそうな雰囲気がある。
その反面、どこか軽やかで、深刻さとは縁遠く見えるのも否めない。
(……あの人と並ぶと、余計に対照的ね)
お互い公爵家同士で、幼い頃からの付き合いなのだと聞いたことがある。
そんなことを、リラはぼんやりと思った。
「でもさ」
ロビンの声は軽やかだった。
「必要なんだろ? 婚約者」
リラは、無意識のうちに息を詰めた。
「……必要だ」
フレデリックは短く答える。
「それは理解している」
(……理解している、のね)
意外だった。
フレデリックは極度の女嫌い。
だが両親はそんな本人の意思に反して縁談に熱心であり、それに反抗するように社交の場には最低限しか顔を出さない、とそんな断片的な噂を耳にしていた。
だからこそリラは勝手に想像していたのだ。
きっと、この場もご両親の意向で本人はあまり乗り気ではないのだろう、と。
てっきり、婚約者など必要としていないのだと思っていた。
「だが、誰でもいいわけじゃない」
フレデリックの声は、冷静で揺らぎがない。
「役割として果たす以上、妥協はしない」
その言葉に、リラの胸が小さくざわめいた。
彼に対して勝手に親近感を持っていたのだ。
無理に婚約者を作らなくてもいい、自分らしくあれと。
同じように縁談を持て余しているのだと思っていたのに。
彼は、必要性を否定していない。
これ以上聞くのは良くない。
そう判断し、リラはそっと踵を返した。
元来た道を辿っていき何食わぬ顔で席に戻ると、相変わらず主役不在のガーデンパーティはピリピリとした空気が漂っていた。
そのとき。
「それは、私のものですわ!」
甲高い声が、庭園の空気を鋭く裂いた。
笑い声と紅茶の香りに満ちていたガーデンパーティの一角が、わずかにざわつく。
リラは扇子で口元を隠したまま、視線だけをそちらへ向けた。
(……あら)
嫌な予感は、たいてい当たる。
彼女はそっと席を立ち、人だかりの方へ歩を進めた。
白い天幕の下、薔薇の生垣を背に、二人の令嬢が向かい合っている。
「先ほどまで、確かに私の手にありましたのよ」
「ですから、それは私が父から贈られたものですってば!」
問題の品は、片方の令嬢の手に握られた扇子だった。
淡い象牙色の地に、繊細な草花が描かれている。
上品だが、よくある意匠――少なくとも、遠目には。
周囲の令嬢たちは止めるでもなく、興味深そうに囁き合っている。
火種は、十分すぎるほど整っていた。
(……放っておくと、もっと拗れそうね)
リラは一つ息を吐き、輪の中へ踏み出した。
「失礼いたします」
声は低く、穏やかに。
その一言で、視線が集まる。
「扇子を少し、拝見しても?」
戸惑いながらも、令嬢は差し出す。
リラは開き、目を伏せて確認した。
「……こちら、骨の内側に小さな印がございます」
「印?」
「房飾りの根元です。見えにくいですが……ほら」
二人の令嬢が、思わず身を寄せる。
「これは王都の工房〈セレーネ〉の印ですね。この工房は、同じ絵柄でも房の結び方を変えることで区別をつけます」
リラは静かに扇子を畳んだ。
「つまり、この扇子は一つ。ですが、よく似た扇子をお持ちの方が、もう一方にいらっしゃる可能性は高いかと」
一瞬の沈黙。
「……確かに」
先に声を落としたのは、声を荒げていた令嬢だった。
「私の扇子には、房が二重でしたわ」
「……私のは、もっと色が濃かったかもしれません」
熱を帯びていた空気が、すっと冷めていく。
「今は場もございますし」
リラは続ける。
「後ほど工房に確認なさってはいかがでしょう。きっと、すぐに分かります」
誰も傷つかず、誰の面目も潰れない。
令嬢たちは互いに視線を逸らし、やがて小さく頷いた。
「……お騒がせしましたわ」
「失礼を……」
人垣がほどける。
リラは軽く一礼し、その場を離れた。
その様子を、少し遅れて現れたフレデリックが見ていた。
庭園の奥から歩いてきたところで、騒ぎに気づいたのだ。
前に出ていたのは、灰色の髪の令嬢。
派手さのない装い。
だが、無駄のない所作。
(……あの時の女性だ)
王城で、名も告げずに場を収めた女。
疑いようもなかった。
隣でロビンが、首を傾げるように呟いた。
「……なんだ今の。誰かが出てきて、何かした気がするんだが……」
言い終えてから、彼は小さく笑う。
「まあいいか。騒ぎは収まったしな」
フレデリックは何も答えない。
ただ、角の席へ戻っていく彼女の背中を見送っていた。
一方リラは、扇子を閉じたまま、テーブルの上の紅茶を眺めてぼんやりと考えていた。
先ほど、偶然耳にした会話が脳裏をよぎる。
――必要なだけ。
――欲してはいない。
(……ふぅん)
口元に、ほんのわずか笑みが浮かぶ。
まるで、子供が面白い遊びを思いついた時のように。
(それなら――)
形だけ整えればいい。
深入りせず、自由を保ったまま。
意外と、悪くない案かもしれない。
リラはひとり、楽しそうに目を細めた。




