3 義務と自由のあいだ
執務室に差し込む光は、王都の午前を告げるには少し眩しすぎた。
フレデリック・ディクソンは机に向かい、書類に目を走らせながら、内心で小さく息を吐く。
父の名で届く報告書。
領地の収支、近隣貴族との調整、王宮からの通達。
その多くを、すでに自分は理解できている――少なくとも、そう思っている。
「……ここは、こうした方が効率がいい」
指摘を書き加えた紙をまとめ、脇に置く。
それを、机の向かい側から勝手に覗き込んでいた男が、ひょいと顔を近づけた。
「また『若様の意見は参考にする』って言われるやつだな」
「ロビン、勝手に見るな」
フレデリックが視線も上げずに言うと、ロビン・フレッチャーは肩をすくめた。
「いいじゃないか。どうせ却下されるんだろ?」
「……否定はしない」
ロビンは同じ公爵家の三男坊で、フレデリックとは幼少期からの付き合いだ。今は執務室のソファに陣取り、銀のトレイに置かれた紅茶を勝手に注いでいる。
「それにしても」
ロビンはカップを傾けながら言った。
「お前の父上、厳しすぎないか? もう十分やれてると思うけどな」
「“やれている”と“任せられる”は違うそうだ」
フレデリックは淡々と返す。
「経験が足りない、視野が狭い、決断が早すぎる。……聞き慣れた言葉だ」
「真面目だなぁ」
ロビンは笑う。
「俺だったら拗ねて放り出す」
「お前は三男だから言える」
「それも才能だろ?」
悪びれもせず言い切るロビンに、フレデリックは一瞬だけ口元を緩め、すぐに戻した。
――羨ましい、とは思わない。
そう言い聞かせる。
自分は長男で、跡取りだ。
父の背中を見て育ち、その役割を疑ったことはない。
ただ。
「なあ、フレデリック」
ロビンがふと思い出したように言う。
「そろそろ、婚約者の話、決まったか?」
ペン先が止まった。
「……まだだ」
「だろうな」
ロビンは苦笑する。
「舞踏会のたびに志願者が増えてるって噂だぞ」
「知っている」
知りたくもないのに。
「親御さん、焦ってるだろ」
「当然だ」
フレデリックは書類を整えながら答える。
「跡継ぎには妻が必要。政略上も、家の安定のためにも」
「でもお前、全然乗り気じゃないよな」
「……ああ」
否定する理由もなかった。
結婚が義務であることは理解している。
だが、それ以上の意味を見出せない。
父と母は政略結婚だった。
表向きは仲睦まじい夫婦として振る舞っているが、そこに“愛”があるようには、どうしても思えなかった。
領地を守る。
職務を果たす。
家を存続させる。
それだけで十分だ。
感情など、判断を鈍らせるだけの余計なものだと、フレデリックは考えている。
「アニエスは元気か?」
話題を変えるように尋ねると、ロビンの顔が一気に緩んだ。
「ああ、可愛いよ。昨日も手紙が来た」
「……そうか」
自然体でそう言える彼が、少し眩しく見える。
三男坊で自由で、好きな相手と婚約している。
それを羨むのは、非合理だ。
そう思いながらも、胸の奥にわずかな違和感が残る。
ロビンが立ち上がり、窓の外を眺めながら言った。
「まあ、お前はお前のやり方でいいんじゃないか」
「無責任だな」
「責任は取らない主義でね」
軽口を叩き合いながら、執務室には穏やかな沈黙が落ちる。
フレデリックは再び書類に目を落とした。
昨夜の舞踏会の記憶が、ふと脳裏をよぎる。
薄霧色のドレス。
灰色の長い髪。
控えめな立ち振る舞い。
必要以上に踏み込まず、必要なことだけをした、名も知らぬ令嬢。
フレデリックは一度ペンを置き、書類から視線を上げる。
「……なあ、ロビン」
「ん?」
ソファで足を組み、紅茶を啜っていたロビンが気のない返事をする。
「昨夜の舞踏会で、妙な令嬢を見なかったか」
「妙?」
「目立たない。だが、完全に埋もれているわけでもない」
自分でも曖昧だと思いながら、言葉を選ぶ。
「ドレスは…… 薄霧色だった。髪は灰色に近い色だった気がする。光の加減で少し銀が混じって見える」
「ほう」
ロビンは面白そうに眉を上げる。
「服装は派手ではない。装飾も控えめだったが、安物ではなかった」
思い返すと、あのドレスは質が良かった。
誇示するためではなく、ただ“適切”に選ばれた一着。
「壁際にいることが多く、誰かと積極的に話す様子はない。だが、周囲をよく見ていた」
そこで一瞬、言葉が止まる。
「……判断が、早かった」
「判断?」
「状況を見て、迷わず動いた。感情的でも、衝動的でもなかった」
言い終えてから、フレデリックは自分が想像以上に細かく覚えていることに気づき、わずかに眉を寄せた。
ロビンはくつくつと笑う。
「それで“目立たない”は無理があるだろ」
「そういう意味ではない」
「はいはい」
からかうように相槌を打ちつつ、ロビンは顎に手を当てる。
「灰色の髪、地味めなドレス、壁の花……」
少し考えてから、ぽんと手を打った。
「じゃあ、リラ・ハーシェル嬢じゃないか?」
「ハーシェル?」
「伯爵家の令嬢だ。舞踏会には来るけど、噂にならないタイプ」
フレデリックは記憶を探るが、やはり輪郭が曖昧だ。
「……どんな顔立ちだ」
「それがなぁ」
ロビンは困ったように首を傾げる。
「思い出そうとすると、ぼやける」
「ぼやける?」
「特徴がないって意味じゃない。整ってはいるはずなんだけど、“印象に残らない”」
まるで、意識から零れ落ちるように。
「平凡な貴族令嬢、って言葉が一番近い」
「……そうか」
それは、妙に納得できる答えだった。
灰色の髪。
控えめな装い。
必要な時だけ、確かにそこにいる存在感。
ロビンは肩をすくめる。
「婚約の噂も聞かないし、誰かと親しい様子もない。正直、ゴシップ好きとしては物足りないな」
「……だろうな」
それ以上、話を広げることはしなかった。
フレデリックは再び書類に目を落とす。
――覚えているくせに、掴めない。
そんな違和感だけが、胸の奥に静かに残った。




