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11 「覚悟しておいてくださいませ?」



 伯爵邸の門をくぐった瞬間、フレデリックは小さく背筋を正した。


 派手さはないが、手入れの行き届いた屋敷。

 領地経営に実直な家だという噂に違わない。


(……ここだな)


 偽装とはいえ、婚約の申し込み。

 形式を欠くわけにはいかない。


 それが彼の結論だった。


 ――たとえ、当の本人に「不要です」と言われていたとしても。


 


 応接室に通されてほどなく。

 対面のソファに座る伯爵、アーヴィング・ハーシェルは――


 啜り泣いていた。


 


「……っ、ひ、ひっ……」


 


 沈黙。


 いや、正確には。

 沈黙と、断続的な鼻をすする音だけが、部屋に漂っている。



(……これは)


 フレデリックは、完全に対応を見失っていた。


 目の前にいるのは、れっきとした伯爵家当主。

 年齢も、自分より一回りは上のはずだ。

 それが今、ハンカチを握りしめ、肩を震わせている。


 一応フレデリックも、父の代理とはいえ公爵としての仕事をいくつかこなし、数々の交渉や叱責、怒号には慣れているつもりだった。

 だが――泣いている壮年の男性への対処法など、教わった覚えはなかった。

 


「……あ、あの……」


 声をかけた瞬間、アーヴィングの啜り泣きが一段と激しくなる。



「申し訳……ありません……っ!ですが……ですが……!」


 

(悪化した)


 内心で頭を抱えつつも、フレデリックは表情を崩さないよう努めた。

 冷静であれ。

 これは、想定外だが、逃げていい状況ではない。



 対するリラは、隣で涼しい顔をしながら静かに紅茶を口にしている。

 その表情は――どこか呆れを含んでおり、そのまま訴えかけるような眼差しをこちらに向ける。

 


(……だから言ったでしょう?)


 先日。

 彼女は確かに言ったのだ。


 「――婚約の挨拶は不要です。私から伝えますので。」


 それに対して、フレデリックは即座に否定した。


 「――いや。こういうことは、きちんとすべきだ。」


 偽装であろうと、相手の家に対する礼は欠かせない。

 それが、彼の譲れない一線だった。



 フレデリックの一歩も引かない態度に、リラは一瞬だけ、何かを言いかけてから、微笑んだ。


 「――……ならば、覚悟しておいてくださいませ?」


 


(……このことか)


 今なら、痛いほど分かる。


「……アーヴィング伯爵」


 フレデリックが、慎重に口を開こうとした、その前に。


「――お父様」


 リラが、静かに声を差し込んだ。


 それは、叱るでも、責めるでもない。

 ただ、事実を確認するための声音だった。


「縁談を勧めていたのは、他ならぬお父様でしょう?」


 アーヴィングの動きが、ぴたりと止まる。


「王都に出るたびに」

 リラは淡々と続ける。

「良い話があれば前向きに考えなさい、と。年頃なのだから、いつまでも領地に籠もっていてはいけない、と」


 紅茶のカップを置き、ため息混じりに言った。


「……婚約の話を、勧めていたではありませんか」


 一瞬。

 アーヴィングの表情から、勢いが抜け落ちた。


「そ、それは……」


 視線が泳ぐ。

 言葉が、続かない。


「だって……!」

 やがて、絞り出すように声を上げる。

「まさか……こんなに早く決まるとは思わなかったんだ……!」


 肩が、がくりと落ちる。


「縁談というのは、もっとこう……時間をかけて……何年も、候補を見て、迷って……その間に、気が変わることもあるだろう……?」


 次第に、声が弱くなる。


「……建前だ」

 ぽつりと、零れた。

「……全部、建前だったんだ」


 握りしめたハンカチが、くしゃりと音を立てる。


「父親としては、勧めておくべきだと思った……だが、内心では……内心では……!」


 言葉にならない感情が、喉につかえたように詰まる。


「こんなにも早く」

 震える声。

「こんなにも、非の打ち所のない相手が……しかも、公爵様が……真正面から……迎えに来るなど……!」


 そのまま、がくりと項垂れた。


「耐えられるわけがないだろう……!」


 そして――爆発する。


「いや!やはり嫁には行かなくていい!!!」


 勢いよく立ち上がり、拳を握りしめる。


「リラは!領地に!ずっといればいい!!公爵家だの婚約だの!そんなものは不要です!!」



 それは唐突であり、悲痛な叫びだった。



(話が進まない)


 フレデリックは、つい視線を泳がせた。


 助けを求めるようにリラを見るが、彼女は肩をすくめるだけだ。



(……完全に想定通り、という顔だな)



「私の娘は!聡明で!可愛くて!優しくて!なぜそんなに早く話がまとまってしまうのですか……!」


「……伯爵」


 これ以上放置できないと思いつつも、どう言えばいいのか分からずその後の言葉が続かない。


 慰めるべきか。

 説得すべきか。

 それとも、ここは一度席を外すべきなのか。


 フレデリックが頭を抱えたい衝動に駆られていると、


「そうだ……そうだとも!」


 アーヴィングが、何かを閃いたと言わんばかりに手をポンと叩いた。


 目に、奇妙な光が宿っている。

 嫌な予感がした。


「嫁に出さねばよいのだ!」

「......」

「うん、そうだ、そうしよう!」


(……まずい)


「リラは領地に戻る!」

 拳を打ち鳴らし、勢いづく。

「まず屋敷を増築する。西側の庭を潰して温室に――いや、研究棟だ!」

「あの...」

「忙しいだろうから婚約話など忘れられるように、仕事を増やして――」


「お父様」


 リラが静かに呼ぶ。


 ――止まらない。


「そうだ、視察も増やそう!王都には極力出さない!」

「ですから...」

「王都から領地へ?遠いな!距離があるな!往復が大変だ!」


(完全に、聞く気がない……)


 フレデリックは、完全に口を挟むタイミングを失っていた。


 何を言っても遮られる。

 というより、こちらの存在自体が意識の外に追いやられている。


(私は……今、何をしているんだ……?)


 公爵としての威厳も、交渉術も、全く役に立たない。

 相手は理屈で動いていない。


「まずは馬車を手配して――いや、護衛を増やすべきだな!そうだ、危険だ!最近は物騒だからな!」


 アーヴィングは、すでに“娘を領地へ連れ帰る計画”の最終段階に入っていた。


 フレデリックは、思わず両手を膝の上で組み直す。


(……これは、手に負えない)



「フレデリック様」

 リラは、妙に落ち着いた声で囁く。

「今、お父様は“止める段階”を過ぎています」


「……そう見える」


「この後、“具体化”と“実行”に入りますわ」


(最悪だ)


 フレデリックは、生まれて初めて思った。



(交渉を放棄したい)



 その時だった。


「――やはり、こうなると思った」


 低く、落ち着いた声が割って入る。


 扉の向こうから、足音。

 そして、場の空気を一瞬で引き締める存在感。



 フレデリックは、心の底から思った。


(助かった……)


 


「なんとか間に合ったようでよかったです」


 


 少し上がった息を整えるように、軽く息を吐く。

 そして呆れ顔でアーヴィングに近寄る、リラよりいくらか年上に見える青年――ハーシェル家長男、セシル・ハーシェルだった。



「仕事を切り上げてきて正解でした」



 セシルは一度だけフレデリックに視線を向けてから、父――アーヴィングへと向き直った。


「少し、落ち着いてください」

「落ち着けるわけがあるか! 私は今、娘を――」


「分かっています」


 被せるように、しかし決して強くはない声音。


 だが、それだけで空気が変わる。


 セシルは、立ち尽くすアーヴィングの前に歩み寄り、そっと肩に手を置いた。


「もう十分です」

「だが……!」


「十分です」


 繰り返す声は穏やかで、しかし逆らえない重さがあった。


 アーヴィングの肩が、わずかに震える。

 それでも、抵抗するように口を開いた。


「セシル……私は……」

「分かっています」


 短く、だがはっきりと。


「父上が、どれほどリラを大切にしているか」


 一拍置く。


「――だからこそ、ここで感情をぶつけるのは、彼女のためになりません」


 その言葉に、アーヴィングは力なく椅子へと腰を落とした。

 先ほどまでの勢いはなく、ただ年相応の疲労だけが残っている。


「……すまない」

 か細い声。

「取り乱した」


 フレデリックは、胸の奥で小さく息を吐いた。


(助かった……)


 ようやく、まともに話ができる。

 そう思った瞬間だった。


 


 セシルが、こちらを向いた。


「改めまして」


 穏やかな笑顔。

 礼儀正しい立ち姿。


「ハーシェル伯爵家長男、セシル・ハーシェルです。本日は、遠路はるばるお越しいただき、ありがとうございます――フレデリック・ディクソン公爵」


 差し出された手を取る。


 その瞬間。


(……強い)


 握手の力が、明らかに強い。

 痛みこそないが、意図は十分すぎるほど伝わってくる。


 ――ここからは、家の話だ。


 フレデリックは、悟った。

 


「父上が取り乱してしまい、失礼しました」


 セシルは微笑みを崩さない。

 それは、社交の場で幾度も見てきたはずの、完璧な笑顔。

 敵意も怒りもない、あまりにも穏やかな表情。



「ですが、それとこれとは別です」


 柔らかな笑顔のまま、言葉を続ける。



「で?本日は、何のご用向きで?」


 一瞬、室内の温度が下がった。


 フレデリックは背筋を正す。


「本日は、伯爵家への正式なご挨拶と――」

「婚約の件、ですね」


 被せるように、しかし丁寧に。


「ええ、存じております。――ただ」


 セシルは、首をわずかに傾げた。


「我が家としては」

 穏やかな声。

「まだ、認めた覚えはありません」


 フレデリックの背に、冷たい汗が滲む。

 怒鳴らない。

 感情を荒立てない。

 その代わり、一歩も譲らない圧。


 公爵としての立場も、家格も、ここでは盾にならない。


(さっきの安堵は、幻か……)


 

「父上は、確かに縁談を勧めていました」

 セシルは、ちらりとアーヴィングを見る。

「それは事実です」


 次に、リラへ視線を移す。


「だが、それは“父親としての建前”でもあった。娘を手放す覚悟とは、別の話です」


 そして、再びフレデリックへ。


「公爵様」

 声は変わらず穏やか。

「あなたが誠実な方であることは、王都でもよく耳にしますし、今のやり取りでよく分かりました」


 一瞬、表情が和らぐ。


 フレデリックは、わずかに肩の力を抜きかけ――


「――ですが」


 その一言で、全てが引き締まった。


「だからといって、簡単に妹を差し出す気はありません」


 にこり。

 完璧な笑顔。


 家としては歓迎するが、兄としては、認めない。


 その矛盾を、平然と並べる。


「妹は、母を早くに亡くしました。父も、私も……その分、妹に甘かった」


 ちらりと、リラを見る。


「本人がどう思っていようと、守る側が納得しなければ、話は進みません」


 


 フレデリックは、喉の奥で息を飲んだ。


(これは……一筋縄ではいかない)


 怒鳴られた方が、まだ楽だった。

 この男は、感情を抑え、理屈と礼儀で壁を作る。


 


「ですので」

 セシルは、握手の力を緩めないまま言う。

「本日は、“ご挨拶を受けた”というところまでにしておきましょう」


 はっきりとした区切り。


「婚約を認めるかどうかは、別の話です」


 


 フレデリックは、短く息を吐いた。


「……承知しました」


 退く気はない。

 だが、今は踏み込めない。


 


 その様子を見て、リラが小さくため息をついた。


「ですから」

 どこか諦めたように、しかし微かに楽しげに。

「申し上げましたでしょう?」


 フレデリックを見る。


「覚悟しておいてくださいませ、と」


 


 セシルが、ちらりと妹を見て、わずかに目を細める。


「まったく……君も、なかなかのものだ」


 


 フレデリックは、苦笑した。


(本当に……)


 これは、ただの偽装婚約ではない。

 家と家、感情と理屈、その全てを相手にする話だ。


 だが。


 逃げたいとは、思わなかった。



(やれやれ……)


 どうやら自分は、

 思っていた以上に、面倒な令嬢を選んでしまったらしい。


 ――そして、不思議とそれを後悔する気も、今のところはなかった。


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