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10 その紅茶が冷める前に



 ――やはり、気づいていらしたのね。


 リラは、胸の内で小さく息を吐いた。


 「切り札」という言葉。

 それを向けてきた瞬間、確信に近いものがあった。


(この人、やっぱり勘が鋭い)


 王都で名を馳せるだけの公爵だ。

 表に出ない違和感を、見過ごすような人物ではない。


 リラは視線を落とし、テーブルの上に置かれた紅茶のカップへと目をやった。

 先ほど公爵邸の従者が淹れてくれたもので、香りはまだ残っている。


「……大したものではありませんわ」


 そう前置きしてから、彼女はゆっくりと言葉を選ぶ。


「まじない、です」


 フレデリックの視線が、ぴたりと止まった。

 ロビンもまた、無言で耳を澄ませている。


「魔術と呼ぶほどの力ではありませんし、派手なこともできません」

「ただ、少しだけ――“流れ”に手を添えることができるだけ」


 自分でも、ずいぶん曖昧な説明だと思う。

 けれど、事実だった。


 リラは指先を、そっとカップの縁に添える。

 視線を落としたまま、小さく息を吸った。


(落ち着いて。いつも通りに)


 唇が、ほとんど動かない程度に言葉を紡ぐ。



 『――静まり、巡る。――あるべきところへ。』

 


 それだけ。


 ほんの一瞬。

 空気が、すうっと澄んだ気がした。


 フレデリックは、無意識に肩の力が抜けるのを感じていた。

 胸の奥に溜まっていた重さが、じわりと引いていく。


「……今のは?」


 低く問いかける声。


 リラは顔を上げ、何事もなかったかのように微笑んだ。

「紅茶が、少し美味しくなるだけですわ」


 ロビンが自分のカップを見下ろし、首を傾げる。

「……いや、普通だぞ?」

「でしょうね」


 リラはあっさりと言う。

「気づく人と、気づかない人がいるんです」


 そして、フレデリックを見る。


「あなたは、気づく側」


 一瞬、視線が交差する。


 その目に浮かんだのは、驚きではない。

 納得に近いものだった。


「庭園でも、馬の時も……違和感はあった」

 フレデリックは静かに言う。

「だが、周囲は誰も気づいていなかった」


「まじないは、認識されにくいものですから」

 リラは肩をすくめる。

「意図的に、そうなっています」


 力が強すぎれば、必ず奪われる。

 だから、母はいつも言っていた。


 ――目立つ力は、身を滅ぼす、と。


「安心してください」

 リラは、冗談めかして続ける。

「人を操ったり、嘘を吐かせたりはできませんわ。せいぜい、少し眠りやすくするとか、苛立ちを和らげるとか……その程度」


 フレデリックは黙って彼女を見ていた。


(だからか)


 庭園で、場が自然と収まった理由。

 馬が落ち着いた理由。

 そして今、この応接室の空気が穏やかな理由。


「……便利だな」

 ぽつりと漏れた本音。


 リラはくすりと笑った。

「ええ。だから“厄介事を厄介なままにしない”のです」


 その言葉に、嘘はない。


「これが、あなたの言う切り札?」

「一部、ですわ」


 楽しげに言いながら、彼女は少し身を引いた。

 売り込みすぎない距離。


「使いどころを間違えなければ、婚約者としては悪くないと思いません?」


 フレデリックは、ゆっくりと息を吐いた。


 警戒すべき材料は揃っている。

 だが同時に――彼女を無下にできない理由も、はっきりしてしまった。


「……確かに」

 彼は短く認める。

「君は、厄介だ」


 リラは、満足そうに微笑んだ。


「光栄ですわ」


 その笑顔の奥で、彼女は思う。


(さて……ここまで示したのですもの)


 あとは、彼がどう判断するか。


 逃げるか。

 踏み込むか。


 ――どちらに転んでも、悪くない。


 そう思える程度には、彼女はすでにこの公爵を気に入っていた。







 紅茶の香りが、静かに応接室に満ちていく。


 先ほどまで張りつめていた空気が、嘘のように和らいでいることに、フレデリック自身が一番驚いていた。


 理由は分かっている。

 分かっているからこそ、厄介だった。


 視線を上げると、リラは何事もなかったかのようにカップを置き、穏やかに微笑んでいる。

 ――やはり、気づいていたのだ。

 自分が、ただの偶然で済ませる男ではないことを。


 そしてその沈黙を、破ったのはロビンだった。


「いやー……気に入った!」


 唐突に、しかしやけに晴れやかな声。


 ロビンは勢いよく立ち上がり、ぱん、と手を叩く。

「俺は賛成だよ。大賛成!」


「ロビン」


 低く制止するが、全く聞いていない。


「だってそうだろ? 合理的で、余計な幻想も抱いてなくて、しかも厄介事を片づける才覚がある」

 ちらりとフレデリックを見る。

「お前に一番足りないところ、全部補ってくれるじゃないか」


「補う前提で話を進めるな」


「進めるとも。今さら引き返す気あるか?」


 ぐっと言葉に詰まる。


 そこへ、追撃。


「それに」

 ロビンはわざとらしく肩をすくめる。

「この令嬢、下手に拒めば敵に回るタイプだぞ?」


「……それは否定しない」


 フレデリックが短く答えると、リラがくすっと笑った。


「ひどい言われようですわね」

「褒めてるんだよ」


 ロビンは即答する。


 リラは軽く首を傾げ、フレデリックを見た。

「ご安心ください。公爵様。私は、敵になるほど暇ではありませんの」


 その言い方が、あまりにも自然で。

 あまりにも、余裕があって。


 フレデリックは、気づけば背もたれに深く身を預けていた。


 理屈では拒める。

 立場も、条件も、慎重さもある。

 だが......。


「なあフレデリック」

 ロビンが楽しげに笑う。

「少なくとも“検討する”って言ったよな?」


「……言ったな」


「じゃあ次は、“試す”番だ」


 リラが、にっこりと微笑んだ。


「そのための時間なら、いくらでも差し上げますわ。――逃げない限りは」


 フレデリックは、思わず苦笑する。


 どうやら――

 自分は、思っていた以上に分が悪い場所に立ってしまったらしい。


 それでも。


 彼は視線を戻し、リラを見た。

 その霧を溶かしたような紫の瞳は、勝ち誇るでもなく、焦るでもなく。

 ただ静かに、答えを待っている。


「……分かったよ」


 短く、だがはっきりとした声だった。


 ロビンが、即座に反応する。

「よし来た!」


「ただし」

 フレデリックは人差し指を立てる。

「条件は守ってもらう。正式な返事は後日、内容も最小限、そして――」


「承知していますわ」


 被せるような返事。

 ロビンが吹き出した。


「ほらな。もう息ぴったりじゃないか」

「まだだ」


 だが、声には先ほどまでの硬さがなかった。


 リラは小さく息を吸い、丁寧に頭を下げる。

 その仕草は、勝利宣言ではなく、契約成立の合図のようで。


「では、公爵様」

 顔を上げ、穏やかに微笑む。

「これから、よろしくお願いいたします」


 フレデリックは一拍置き、同じように答えた。


「……こちらこそだ、伯爵令嬢」


 ロビンが、満足げに腕を組む。

「いやあ、いい話に立ち会った。今日は良い日だな」


 誰よりも楽しそうな友人を横目に、フレデリックは思う。


 これは、衝動ではない。

 流されたわけでもない。


 ――少なくとも、そういうことにしておこう。


 そうして。

 公爵フレデリックは、この日。

 人生で一番、静かで不可逆な「了承」を口にしたのだった。



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「人生で一番、静かで不可逆な「了承」を口にした——」 このフレーズにやられました。 続きを楽しみにしております。
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