1 壁の花は夜にほどける
王城の大広間は、今夜も過剰なほどに煌びやかだった。
無数の蝋燭が天井から吊るされた枝燭台に灯され、磨き上げられた大理石の床に、金と白の光を反射させている。絹のドレスが擦れる音、宝石が触れ合うかすかな響き、そして貴族たちの作り笑いを帯びた会話が、音楽に溶け合って渦を巻いていた。
その端、柱の影にひっそりと佇む少女がいる。
リラ・ハーシェル。
淡い薄霧色のドレスは、決してみすぼらしくはないが、周囲の令嬢たちが競い合うように纏う鮮烈な色彩と比べれば、あまりに地味だった。髪も同様だ。灰色の長い髪はきちんと編み込まれ、背中に垂らされているが、飾り気はない。
――今回も、いつも通りね。
リラは小さく息を吐いた。
王族主催の舞踏会。参加は義務に近い。欠席すれば、家名に傷がつく。だからこうして足を運んではいるが、心の底から楽しめた試しは一度もなかった。
視線を上げれば、舞踏の輪の中心で、華やかな令嬢たちが笑顔を振りまいている。彼女たちは誰がどの家の令息と踊ったか、誰が次期伯爵夫人に相応しいか、そんな話題に夢中だ。
リラは、そうした世界に自分が属していることに、ひどく息苦しさを覚えていた。
刺繍。礼法。花嫁修業。
どれも一通りはこなせる。むしろ人並み以上に。
――でも、それだけ。
何をやっても「そつなく」終わる自分は、結局、どこにも爪痕を残せない。そんな自分自身が、リラは少しだけ嫌いだった。
ふと、兄の姿を探すと、遠くで父と並んで王族に挨拶をしているのが見える。兄は次期当主として忙しく、父もまた政治の場に身を置く人間だ。二人とも、リラが壁際で静かに過ごしていることを知れば、「無理をするな」と微笑むだろう。
その優しさすら、今のリラには、檻のように感じられた。
――帰ろう。
踊りの合間、誰にも引き止められない隙を見計らい、リラはそっと大広間を抜けた。
城内の廊下は静まり返っている。厚い石壁に反響する自分の足音だけが、やけに大きく響いた。
長い回廊を進む途中、不意に、胸の奥がざわめいた。
理由は分からない。ただ、視線の先、少し奥まった場所にある一つの扉から、微かな「違和感」を感じ取ったのだ。
城には、来客用の休憩室や控えの間がいくつもある。特別不思議なことではない。けれど、なぜかその扉から目を離せなかった。
リラは無意識に足を向けていた。
扉に手をかけた、その瞬間。
――中に、誰かいる。
それも、ただ事ではない気配。
ためらいは一瞬だった。リラは静かに扉を押し開ける。
そして目に飛び込んできた光景に、思わず息を呑んだ。
豪奢な調度の置かれた室内で、若い男が壁際に追い詰められている。整った顔立ち、銀に近い淡金色の髪。社交界で名高い、美貌の貴公子――フレデリック・ディクソン。
その前に立ちはだかるのは、明らかに正気を欠いた様子の貴族令嬢だった。
「……やめてください、レディ。これは冗談では済みません」
低く抑えた声で制止するフレデリックに、令嬢は聞く耳を持たない。距離を詰め、逃げ場を塞いでいる。
――これは、まずい。
リラの脳裏で警鐘が鳴る。
咄嗟に、背中に垂れた長い編み髪に指をかけた。
小さく、誰にも聞こえぬほどの声で、まじないの言葉を紡ぐ。
『――目に映れど、心に留まらず』
編み目に込められた力が、ふわりと空気を歪める。
次の瞬間、リラの存在は、室内の二人からわずかに認識されにくくなった。
その隙を突き、リラは床に置かれていた小さな装飾用の燭台を蹴飛ばす。
派手な音と共に燭台が倒れ、火が散った。
「きゃっ!」
令嬢が悲鳴を上げ、反射的に距離を取る。
「今です、こちらへ!」
はっきりと声を出した途端、まじないは解け、フレデリックの視線がリラを捉えた。
一瞬、驚きに目を見開いた彼は、しかし即座に状況を理解し、リラの差し出した手を取る。
室外へ駆け出す直前、リラは一度だけ振り返った。
部屋の中央に取り残された貴族令嬢は、倒れた燭台と散った蝋を前に、呆然と立ち尽くしている。酔いと興奮が冷め始めたのか、さきほどまでの勢いは見る影もなかった。
――これ以上、関わる必要はない。
リラはそう判断し、扉を閉めた。
廊下に出た瞬間、フレデリックは深く息を吐いた。背を壁に預け、額に手を当てる。その仕草には、恐怖よりも、疲労と諦観が色濃く滲んでいた。
「……助かりました」
短く、しかし形式ばった礼。
リラはその声音に、どこか距離を感じた。
「大事に至らなくてよかったです。すぐに侍従を呼びますか?」
「いえ」
即答だった。
「これ以上、騒ぎになるのは避けたい。あの方も、少しすれば正気に戻るでしょう」
“またか”とでも言いたげな口調だった。
リラは一瞬、彼の横顔を見つめる。噂通りの美貌。けれど、その整った顔立ちには、貴族令息にありがちな余裕や享楽はなく、代わりに堅く閉ざされた何かがあった。
「……よくあること、なのですね」
ぽつりと零れた言葉に、フレデリックはわずかに眉を動かした。
「残念ながら」
苦笑とも取れぬ表情で、彼は答える。
「顔や家柄だけを見て近づいてくる人は多い。こちらの意思など、お構いなしに」
その声音には、怒りよりも、長年積み重ねられた倦怠があった。
――女嫌いで有名。
社交界で囁かれる噂が、リラの脳裏をよぎる。
けれど目の前の彼は、ただ冷たく女を拒む男というより、期待し、裏切られることに疲れ切った人間に見えた。
「……失礼ですが」
リラは一歩下がり、視線を伏せる。
「今夜のことは、誰にも話しません。お互いに」
「……助かります」
フレデリックは一瞬、意外そうに目を瞬かせた後、静かに頷いた。
「あなたも、面倒事に巻き込まれたくはないでしょう」
「ええ。私も、静かに過ごしたいだけなので」
その言葉に、彼は初めて、わずかに表情を和らげた。
「奇遇ですね。私も同じです」
短い沈黙が落ちる。
名前も名乗らぬまま別れるのが、むしろ自然に思えた。
「では、これで」
リラが一礼し、踵を返そうとした、その時。
「……あなたは」
背後から呼び止められ、リラは足を止める。
「先ほど、部屋に入った時。足音が、ほとんど聞こえなかった」
鋭い観察だった。
リラは胸の内で小さく息を呑むが、振り返った顔には、何の感情も浮かべない。
「そう、ですか?」
「ええ。妙に印象に残った」
フレデリックは、それ以上追及しなかった。ただ、じっと彼女を見つめる。
――この人、油断ならない。
リラはそう感じながらも、穏やかに微笑んだ。
「きっと、音楽が大きかったのでしょう」
「……そうかもしれませんね」
完全に納得してはいない。けれど、深入りもしない。
その距離感が、リラには心地よかった。
再び一礼し、今度こそ廊下を去る。
背中に向けられる視線を感じながら、リラは歩みを緩めることなく進んだ。
一方、廊下に残されたフレデリックは、その場を動かずにいた。
名も告げぬまま去っていった、薄霧色のドレスの令嬢。
控えめで、必要以上に踏み込まず、それでいて状況を的確に見極める冷静さ。
――妙だ。
これまで数え切れぬほどの女性とすれ違ってきたはずなのに、なぜか彼女の背中だけが、記憶に引っかかる。
追いかける理由はない。名を知る必要もない。
そう自分に言い聞かせ、フレデリックは静かに踵を返した。
ただ、その胸の奥に残った小さな違和感は、消えることなく、しばらく彼の中に留まり続けていた。




