第七章
俺の家族は毒霧の影響で四人も死んでいた。にぎやかなゴブリン一家も活気がすっかりなくなリ、ご飯の後は簡単な挨拶だけでそれぞれ寝床に入った。
戦争もないのに死者がたくさん出ていた日々は、戦争よりも恐ろしいものだった。誰もが濁った水槽に放り込んだ熱帯魚のように、焦燥と恐怖が胸に押し寄せながら、救われることのない日々を過ごしていくのだった。
俺は今すぐ『過去通路』を使いたくてしょうがない。使って過去の結晶マタンゴを殺す。
なんとしてもこのえげつない状況を切り抜いてやる。そのために、状況の原因となったチートスキルを使うしか他の手はないわけだ。
しかし、俺はその衝動がこみ上げるたび、血がにじむほど歯を噛みしめて抑え込んだ。
今は我慢する。この状況はもう半年以上も持続していた。今しがたこうなっているわけでもないし、かれこれ焦る必要もない。
村の人の毒耐性もマスター寸前だった。俺みたいにLV8にはいたらずとも、LV4だけで毒の霧の中に自由自在に暮らすこともできる。
魔物の草原の半分は毒が充満しているのに、植物はいかなる理由で今までにないほど激しく成長している。結晶マタンゴも植物の類のせいだろう、自分に毒を食らわないように、発散した毒素は植物に無害ところか、成長させる効果もあるようだ。
正直なところ、食糧問題については助かった。これからは増産の目処も付くはずだ。毒でなければもっといいけどな。まったく皮肉にも甚だしい。
草原の他の種族も毒に侵されているので、当分は領地の毒対策に忙しなくあちこち回るのであろう。戦争の発動はまず無理そう。
唯一心もとないことがあるといえば、『過去通路』を再度使ったら、世界はまたもが変わってしまう。それは承知の上のことであり、仕方のないことでもあるのだ。
ベッドで寝ながら考えるうちに、するっと滑ったように誰かが俺のお布団の中に入っていた。
たいまつの火は消していた。照明のない今は何も見えない。
原始的な生活を送っているゴブリンたちはかなりの早寝早起きである。ゴブリンの体になった俺は自然とその生活に馴染んでいた。
「ケアル、一緒に寝よう」
姉さんの声だ。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
姉の声がかすかにふるえているのが聞こえた。
姉は俺の布団に入ったすぐ、俺を後ろからそっと抱きしめた。
「いいでしょ……それくらい」
姉さんはそれを言ったきり、黙り込んで何も話さなかった。
寝たんだろうかと思いきや、すすり泣きの声がふと聞こえた。
姉さんは、泣いているのか。
おそらく、家族と離れ離れになるのが嫌なんだろう。俺も兄二人、姉一人と、妹が死んだのだ、今の俺も泣きたい。
けど、俺は家族を引き留める力がある。いや、あるかどうかは分からない。ただ世界をめちゃくちゃにして、それを俺の望む世界か、望まない世界かに変わるだけだ。
そもそも俺が『過去通路』を使って、三年前の結晶マタンゴの所へ行ってもあいつを殺す力はない。俺の全スキルを使ってもダメージは食らわないのだ。俺の持つスキルは、『成長呪い』を例外として、機能系か、効果系のスキルばかりだ。
そういえば、普通の攻撃は一応できる。こぶしを握って相手をぶん殴る。それはシステムのカウント外のものだからよく分からないけど、1ダメージしか入らないわけじゃないよね。
とはいえ、『過去通路』は生物が通らないし、殴っても相手の顔に届くこともできない。
いろんなことを考えていたら、とうとう睡魔に引きずり込まれて、俺はそのまま眠りについた。
そして夢を見た。プーちゃんが俺の世界に走り回る夢だ。
「ああ、プーちゃんったら……そこ、は、ダメ、だから」寝言を言って、兄さんたちに聞かれた。
起きると、俺より先に起きた姉さんは、俺を遠ざかようとして、兄さんの後ろに隠れていた。俺、何をやらかしたの? え? ちょっと怖い。
兄さんはなんか虫を見たような目で、「ケアルよ、お前は時々、気持ち悪いことを考えてない?」と、俺は苛烈な対応をされて、ショックを受け、ご飯もろくに食べられなくなった。
「き、きっと最近は、プレッシャーが大きすぎるから、ケアルは、まだ純潔な子供だよ」
姉さんは信じられない表情でつぶやく。弟といえども、いつも純真無垢でいられるわけがないと、その現実に無力感を感じたのだろう。
ごめんなさい、最近はけっこういやらしいことを考えている。もう、お姉ちゃんの思っているケアルじゃないかもしれないよ。
それも前世の性格の然らしめたものだ。心理的にも正常な男性の年齢に近い。
「ご馳走様」
俺は言って、逃げるように外へ出た。
おあつらえ向きの山に入って、俺は草藪に身を隠し、直ちに『未来視』を使った。
村の一年後を見る。
一か月だけでは見れるものも限られている。そこで一か月ではなく一年の方にした。
『未来視』のスキルは三年の未来も見られるのだけれど、半時間後とか三分後とかの未来を見せろなど、それはできない。そういう繊細な注文はすごく受けにくいのだ。
つまり、いきなり三分後に、この世界が爆発してしまうのだとか、『未来視』を使ってもなかなか回避できないことだ。俺的にはよく一か月後一年後の世界を見るので、一か月後に発生することだな、まあ、どうにか解決できるだろうと、暢気に思ってしまう。そう思っているうちに、三分後、世界が爆発した。
少々極端なことを言ってしまった。
それはいいとして、とりあえず、一年後の村を見るか。
一年後の村は滅んでいない。滅んだ村の未来を見すぎたせいか、今度も滅んだのではないかと疑ってしまう。
それはいけない。村はそのままでいてほしいと切に思うのだけれど、挙動を見ていると、まるで村の滅びを期待しているようだ。
ともあれ、村は無事だ。村人も甲斐甲斐しく生きている。どうやらはじめの危機を乗り越えれば、後は何とかできるようだ。
何事もなく、平和な村。田植えをする人、催事をする人、子供の面倒をする人、皆はいつも通りに暮らしている。
毒消し薬草は皆持っている。薬草の栽培はこの一年間盛んに行われていて、現在に至っては品不足の心配もなさそうだ。
まずい時に服用して、毒はすぐ解消できるから、毒で死亡者が出ることはもう起こらない。
大人たちは『毒耐性』のスキルを持っていて、全員LV6まで上がったので、毒消し薬草を使うゴブリンは『毒耐性』の持っていない子供だけで、用量もそれほど必要はない。
特に職人たちはとても親切で、薬草がお口に合わないかと心配で、毒消し効果のある薬用キャンディーも作った。
わけが分からないほどゴブリン村は発展している。
でも、俺は突然、村の入り口に人がいることに気づいた。
人間?
魔物の草原に人間がいるというのは、それは由々しき事態である。まさか親睦を深めるために来たんじゃないよね。
そんなわけあるか。殺しに来たんだろう、どう見ても。
装備からして、あれは手練れの冒険者に違いない。女一人、男二人の三人組で、ゴブリン村を大門越しにちらちらと見る。
大門の掲示板をじっと見ている。そんなに面白いのか? その掲示板。
そもそも掲示板の内容はゴブリン語ではないので俺にも読めない。あれは虫駆除の符号だと聞いたことがあるが、使っても虫はやはり多くて全然役に立たない。
こいつら、もしかしてレベリングのため村に入ろうとしている?
人間らしいといえば人間らしいやり方だ。
それを差し置いても大丈夫なはず。結晶マタンゴの一件を解決すれば、未来は変わってしまうのだ。バタフライ効果でこちらも変わるかもしれない。
しかし人間の様子は気にならずにはいられなかった。掲示板を見た彼らは驚いていた。三人が少し話した後、不思議な顔をして、すぐさま立ち去っていた。
奇妙な光景を見た気分だった。理由は分からないが、とある原因で、人間の態度は一変した。
元人間の俺にしては、それは何かしら恐ろしい陰謀のとば口の一端だろうと思っていた。
人間が関わることだから、用心深く注意しないと足をすくわれてしまう。
甘々に考えるのは思考の放棄に過ぎない。
『未来視』の継続発動を収め、俺は山を下りた。人間の反応を未来視通しに覗き見て、なんだか胸がすっきりしない。
掲示板のことも気になって、俺は村の入り口へ行った。
毎回村に出入りする際には、かならず視線に入るその掲示板は、いつも通りの掲示板だった。
よく分からないので、そこいら歩いている一般人のおじさんをつかまえて聞くことにした。
「おじさん、その掲示板は何を書いてあるの?」
おじさんは苦笑いをして、分からないと言った。
「ゴブリン語ではないからね。でも、誰が書いたのか、おじさんは知っているよ」
「誰が書いたの?」
「西の村道を歩けば、そこに『ライゼン左官』の看板がある。その隣の部屋にいる人が書いたものだ。あの人は祭司様よ」
「そうか、ありがとうおじさん」
俺は礼を言って、示された道へ向かって行った。
祭司様か、何度も見かけた人だ。あの人、一応村の有識者だから、祭事の場に鎮座する神霊みたいな存在だ。
四十歳を超えた老人である。
四十歳のゴブリンは、身体の半分はすでに墓の中に埋まっていると言っていいほど、老い先の長い身ではないのだ。
村の人は、生まれる直前の洗礼式があって、子供たちの洗礼式はすべてあの人が取り仕切っている。
祭司様は人当りがよく、村の人々に尊敬されている。
優しいお爺さんというキャラか。
ちなみに祭司様のゴブリン種別はシャーマンではなく、彼は極珍しい上位種で、それも神官ゴブリンと呼ばれている。神官とは神に仕える者になるが、ゴブリンでも神という概念はあるのか。
俺にはよく分からない。どうやらあるらしい。
「あった」
俺の目の前に「ライゼン左官」の看板が立ていた。
ライゼンは誰かは知らんけれど、隣の部屋は祭司様の部屋なのは間違いない。
部屋の軒下には十字架と花束が飾られていて、神事の特殊性もかねて採光窓はステンドグラス制のものになっている。
「祭司様はいらっしゃいますか」
ドアを押して開けた。施錠はしていない。
室内は静けさに包まれ、穏やかな光の粒子があちこちに漂っている。
光と闇が交互し、鮮明な境界線を成して、そこに一人の老人が安楽椅子にくつろいでいる。
「はい、坊や、ワシに何が用かい?」
人の来訪にびくっと身を震わせ、上半身を起こして祭司様は俺を見る。
「あの、唐突ですみません。村の入り口の掲示板はどのようなものを書いているんですか」
俺は直接に聞いた。
「ふむ、あれは人族の言葉じゃ、『俺たちを殺さないでくれ』を書いたのじゃ」
俺は祭司様の言葉を二秒くらい反芻した。
なるほど、道理で『未来視』で見た人間たちはその掲示板を見た途端にヘンテコな顔になったわけだ。
しかしゴブリンは人族の言葉も使えるとは、 なんという恐ろしいものだ。俺は思わず笑った。我々ゴブリンは、人間と比べて何一つ不足はない。
「それは祭司様が書いたものだと聞き及んだのですが、それは本当ですか?」
俺はさらに尋ねる。
「ふむ、そうじゃ。ワシには人族どころか、精霊族の言葉も使えるのじゃ。どう、すごいじゃろう」
そう言って、祭司様はげらげらと笑った。
元気いっぱいのお爺さんだ。
これは頼もしい。そうであれば色々できることが増えたぞ。
「あの、それに関しては、ぜひお願いしたいことがあります。よろしいでしょうか」
「なんじゃ、言って見」
祭司様は怪訝そうに言った。他の種族の言葉は知っているのだけれど、人族に疎まれているゴブリン族の身では、それはあまり使い道のないスキルくらい自分でも分かる。
「人族の言葉で文書を書きたいんです。でもぼくは人族の言葉が知りません」
俺は頼んでみた。
「そんなことお茶の子じゃわい、はて、坊やは人族の友達がいるかね」
普通そう思われるのもおかしくはない。しかし、俺は手紙を書きたいのは事情を知らせることが目的だった。
事情というのは、もちろん勇者のこと、そして結晶マタンゴのことだ。
「いませんよ。ただメッセージを残したいだけです」
「そうかい」祭司様は紙と筆を取り出した。「坊やは面白いのう。さ、内容を言ってくれ」
無駄な口は一切利かず、祭司様はすぐに書く手伝いをする。
じゃ、俺も無駄なことを言わないでおこう。
「はい。では、『勇者は殺された。人族の危機を救いたいのなら、直ちに蒼の森へ来い。そして、勇者を殺した結晶マタンゴを殺せ』――そのように書いてくださいませんか」
俺は真剣の表情で言った。その内容を聞いて、祭司様はたぶん驚くだろうと思ったが、意外と何も表情の変化はなかった。
祭司様はふみを書き終え、俺に渡した。
「しかしまあ、お主は随分とめずらしいスキルを持っているな」
突然の言葉に俺はぎょっとした。
「それは分かるか」
俺は言った。
祭司様は目を見開き、微笑んだ。
「ワシには『鑑定』のスキルを持っているんじゃよ。ワシに使っても無駄じゃ、スキルのレベルが低すぎ、ワシに使っても『鑑定不能』ばかりだろうて。ふむ、見たことのないスキルもあるな。まあいい、好奇心旺盛な年齢はとっくに過ぎた。聞くことはやめる」
そう言って、祭司様は椅子に座ったまま眠り込んだ。
入眠が速すぎて、眠っているふりをしているんじゃないかと思ったが、傍若無人に大いびきをかいて熟睡しているようだ。
このお爺さん、普通じゃない。
『鑑定』のスキルは転生者のボーナススキルだと勝手に思ったが、なぜか彼は持っている。
とはいえ、他のスキルは知らないようだ。知っていたら大変なことになるから本当に良かった。
俺は文を畳んでポケットに押し込んだ。祭司様に礼を言って俺はお爺さんの睡眠を邪魔しないように退散した。