3・私はメスガキです
放課後、佐藤くんの部屋で昨日と同じく二人きりの状況。
違うのは私が昨日ほど緊張してはいないこと。
佐藤くんと二人きりであるという事以上に、懸念していることがあるからだ。
「そ、それじゃあ、勉強を始める」
「はい、始めてください。私はいつでも準備オッケーです」
互いにごくりと唾を飲んだ。
佐藤くんもかなり緊張している。
それでも、昨日から作戦を練っていたので今更やめるなんてあり得ない。
佐藤くんが勉強に集中できるように、私も全力を尽くすだけだ。
「……最初は、国語からだ」
プリントを触る音が嫌に部屋の中で響く中、佐藤くんが国語のプリントを始める。
今日の内容は、文章問題が片面一枚。
普通なら十五分程度で解ける内容だ。
佐藤くんがプリントを真剣に見つめる。
五秒後。
「ぐっ、駄目だ!」
「佐藤くん!」
佐藤くんが机に思いきり頭を打ち付けた。
慌てて私は佐藤くんの肩に触れる。
苦悶の表情を浮かべたまま佐藤くんは、私を見た。
「駄目なんだ……、勉強に集中することを全身の筋肉が否定する。俺の体は脳みそじゃなく、筋肉が支配しているから、頭では集中したくても筋肉がそれを許さんのだ……」
「そんな、マッチョになりすぎて筋肉が意思を持ったってことですか……」
「ああ。はは、笑えよ。寄生獣みたいだなって」
「自暴自棄にならないでください! 私は佐藤くんのために秘策を用意したんですよ」
「メスガキになるというやつか。無理だ、俺の筋肉は全てを否定する」
「佐藤くんが少しも筋肉を意識できないくらい、本能に訴えるためのメスガキです。佐藤くんが筋肉と同じくらいメスガキを好きなら、きっと上手くいきます」
佐藤くんの手を無意識のうちに強く握っていた。
そのまま言葉を続ける。
「だから、諦めないで。私があなたのメスガキになりますから」
「っく、那智! すまん! 俺が弱気になったらお前に失礼だよな。頼む、何でもしてくれ!」
佐藤くんが私の手を握り返してきて、頭を下げる。
任せてください。私が佐藤くんを助けますからね。
「はい! では、お勉強を始めてください。次から私も口を挟みます」
「おう! 頼んだ!」
佐藤くんが気合を入れ直して、プリントに向き直る。
これほどの勢いがあればそのまま勉強に集中できそうだが、佐藤くんの視線は次第に自分の腕の筋肉へと移動しプリントから完全に外れる。
ここだ。集中してもらうためにここで仕掛けるしかない。
考え続けたセリフを、佐藤くんへの私が抱いている精一杯の愛情をこめて放つ。
「あれ~、また変なところ見てるの? 一分も集中できないなんて、脳みそざこざこじゃ~ん♡」
「っ!? 那智!?」
佐藤くんが驚き目を見開いて私を見る。
ここで我に返るのは簡単だ。
でもそれをしたら振り出しに戻ってしまう。
だから、私は佐藤くんの動揺に気づいていないふりをした。
「何で私の顔を見てるの~、勉強しろって言ったのに♡ あ、そっか、会話すらまともに出来ないざこだったね♡」
「何を言っている!?」
「とにかく、言われたことくらいちゃんとしたらど~う? 今は何をすればいいんだっけ? そのざっこい脳みそで考えれば~♡」
「いま、することは、勉強だ。そのために那智にも来てもらってる……」
「ならいい訳ばっかしてないで早く取り掛かれば~♡ あ、ざこすぎてペンの持ち方も分からないとか? 小学校からやり直すしかないでちゅね~♡」
「っぐ! 俺はそこまで雑魚では……!」
「いいからさっさと勉強しろ、浩二お兄ちゃんのざ~こ♡」
「くそ! このメスガキめ!」
佐藤くんが悔しそうに顔をしかめて、勉強に再び取り掛かる。
今回はさっきと違いプリントの上で手を動かしていた。
問題を解き始めている。
何をしても集中できなかったけれど、筋肉以外の唯一の趣味であるメスガキの指示なら聞いてくれると思ったが成功だ。
「不思議だ! 俺は今、勉強に集中しているぞ!」
喜んでる、可愛い。
全力で肯定してあげたいけれど、佐藤くんが集中している間はメスガキでいる必要がある。
「あれ、おっかしい~! 浩二お兄ちゃんもう喜んじゃうんだ~♡」
「だって俺が勉強できてるのが我ながら感動して……」
「今日の分の宿題を今すぐ終わらせろ♡ そうしないと一生ざこざこのざこだよ♡」
「くそ! こんなに頑張っても褒めないか……」
「ええ! びっくり! そっか、お兄ちゃんってざこだったもんね。よちよち偉いでちゅね~♡ 小学生でも出来る事がいまさら出来て嬉ちいでちゅね~♡ これで満足しまちたか~?」
「っぐ! メスガキが! いまに見てろよ!」
佐藤くんがさらに躍起になって課題に取り掛かる。
私って今何をしているんでしょう……。
あ、駄目だ!
我に帰ろうとしてる!
私はメスガキ私はメスガキ。
佐藤くんはざこ。
……。
よし!
まだいける!
「あれ、お兄ちゃんそこ間違ってるんですけど~♡ ざっこ♡」
私はメスガキ。
私はメスガキ。
頑張れ、佐藤くんのために。
メスガキの演技を始めて三十分が経過した。
私の精神もそろそろ羞恥心で破裂しそうになっていたその時、ひときわ大きな声を佐藤くんが挙げる。
「お、終わった! 終わったぞ!」
英語のプリントを握りしめ、全ての問題が解き終わり嬉しそうにはしゃいだ。
「よ、よかったですね。佐藤くん」
「ああ! 那智のお陰だ。こんなに早く終わって、こんなに頭に内容が残る勉強は初めてだぞ!」
ええ、そうでしょう。
普段は集中できなくて何時間もかかっていた課題が三十分で終わったのですから。
それにしても佐藤くんは本当に極端だ。
今日の内容を三十分ですべて終えるのは結構早い方だと思う。
「この勉強法なら佐藤くんも次のテストで赤点回避できそうですね……」
「ああ、流石那智だ。俺にぴったりの勉強をこんなに早く思いつくなんて」
「ええ、伊達に幼馴染やってませんよ……。疲れますけど……」
「その件は本当にすまん。だが、俺も那智や皆と卒業したいから、しばらく頼らせてくれないか? 一生に一度のお願いだ」
そんな頭を下げられるまでもなく、佐藤くんには協力するつもりだったけれど、改めて決意が強くなる。
佐藤くんが自発的に集中できるまでは今回のような勉強方じゃないと、次のテストで赤点は確実。
そうなれば佐藤くんの卒業に本気で影響する。
すると、私との結婚時期が遅れる。
私が困る。
今回の問題は佐藤くんだけでなく、私にとっても問題なのだから喜んで何でもするつもりだ。
「もちろんです。佐藤くん、明日からもっと厳しくしますので覚悟してくださいね」
「お、おう。ありがとう」
「……何で顔赤くしたんですか」
「厳しくするとか言うからだ」
「ええ……」
本当にドМなんですか?
佐藤くんって、マッチョなのにマジMなんですか!?
ここ二日で佐藤くんの新しい側面を色々と見ることが出来、呆気にとられる。
それでも惚れた相手なので嫌いになんてならない。
むしろそんな所さえ愛おしく思います。
「おっほん、ともかく明日から勉強頑張りましょうね」
「おう! 頑張るぞ!」
気合を入れてふんすとポージングを決める佐藤くん。
上腕二頭筋が美しいです。
私と佐藤くんの放課後勉強会はこうして本格的に幕を開けた。
これをきっかけに様々な騒動が起こることを、互いにまだ知らない。
――――――――――
放課後。
誰もいなくなった教室で、少女が一人座っている。
もうすぐ完全に下校時刻になる寸前の時間、小柄な少女は机を漁っていた。
慣れない手つきでもたもたと漁る姿から、その机は彼女が普段使っている物ではないことが伺える。
「えっと、この机で合っているはず。うーん、ありませんわ」
少女はしきりに机の中に手を入れて入っている物を物色する。
「お、この感触は」
目当ての物が見つかったのか、笑みを浮かべる。
そのまま物を引き抜き、予想通りの獲物に少し声が漏れた。
「見つけましたよ。このノートを探していましたわ! あなたもここまでです、秋月那智さん! おーっほっほっほっほ!」
高らかな笑い声は放課後の校舎に怪しく響き、見回りの教師に見つかってこっぴどく怒られるまで続いた。