第八十七話 お姉ちゃん
瞼がゆっくりと開き、アルフォンスは意識を取り戻した。
身体を起こすと傷に痛みが走る。おかげでよりハッキリと目が覚めた。レオナから制裁を受けたことを思い出し、すぐに己の言動の過ちを自覚した。
そうだ、自分は人々を守る騎士としてあるまじき言葉を口にした。この程度の傷で済んだこと自体が寛大な処置なのだ。
深く反省したアルフォンスは、もう二度と道を誤らないと決心し、顔を上げた――丁度その時だった。
マリーナが身を挺して庇った。裏切り者のクリスを。
「なっ……!?」
マリーナが膝をつく。突き立てられた四、五本の氷の槍はすぐに消失したが、惨たらしい傷跡は残っていた。
「ぐっ……やはりダメだな私は……覚悟はできてると言いながら……」
自嘲気味に笑うマリーナに、クリスが困惑しながら詰め寄る。
「テメー! マリー! 真剣勝負じゃなかったのかよ! なんだってこんな……!」
「私はお姉ちゃんだからな……妹を守るのが務めだ」
「っ……」
姉の単純な答えに、妹は言い返すことができなかった。
「なに言ってるんだマリ姉……! そいつは家族を捨てて一人だけ逃げた裏切り者なんだ! 守る義理なんかないだろ!」
声を震わすアルフォンスに、マリーナは申し訳なさそうに笑う。
「すまん。だが……やはり無理だ。私には……」
娘と息子の言葉にシルヴィアは困惑した。二人が何を言っているのかわかっていなかった。
「妹……? 何を言っているのマリーナ……! その女は赤の他人じゃない! あなたの妹はレベッカ、ヨーカ、ヴァレンティーナの三人だけ。他に妹なんて……」
そこでクリスはようやく気付いた。
母の物言いは、クリスが言う『縁を切った』だとか『家族じゃない』とは根本が違う。決して演技や嫌味ではなく、まるで最初からいなかったかのような言い方だ。
「まさか……」と言いたげな表情でクリスが姉を見やる。
「……このことは墓まで持っていくつもりだったんだがな……」
顔を上げたマリーナは、妹と弟、そして母に語る。
「お母様、あなたは四年前……自らに魔法をかけた。自分の娘を……クリスティーナの存在を、記憶から消し去ったのです」
………………
……四年前。
〈北ホーコン大陸〉のブルサン地方において、ソルヴァダークの目撃情報が上がった。大国であるブルサン連邦は各地の有力な傭兵達へ呼びかけ、討伐隊を編成し、その要請はウォーシャン一家の下へも届いた。
当然シルヴィアは二つ返事で了承。別の任務で出払っていたアルフォンス達の帰還を待つ暇もなく、すぐに動けるマリーナ、クリスティーナ、エドワードの三人を伴って討伐隊に合流した。
六日間の捜索活動の末、山脈奥地の渓谷でソルヴァダークを発見。全隊で一斉に攻撃し、傷を負わせるも、手痛い反撃を受ける。長時間の戦闘の後、ソルヴァダークは逃走。既に甚大な被害を受けていた討伐隊は志半ばで撤退を余儀なくされた。
しかし、シルヴィアは退くことを拒否した。相手が手負いの今こそ討ち取るチャンスだと、討伐隊から離脱し、マリーナ、クリスティーナ、エドワードの四人編成という少数部隊でソルヴァダークを追跡。
数時間の探索の末、山を二つ越えた荒地にて再び目標を発見。ウォーシャンズは再度、怨敵と相まみえた。
そして……――
「――ハアッ! ハアッ! ハアッ! ハアッ!」
肩で息をするクリスティーナが見下ろすのは、全長八十メートルを越える【ヴァリー・ドラゴン】。長年追い続けていた父の仇――ソルヴァダーク。
全身に夥しい戦傷と、胸元に一際大きな傷を受けた雷光色の竜はピクリとも動かず、もはや心臓が鼓動を刻むことはなかった。
「……終わった……やったぞ。クソッタレのドラゴン野郎をブッ殺してやった……! 終わったんだ! ついにやったんだアタシ達は!」
満身創痍ながらもクリスティーナに笑みがこぼれる。これまでの苦労がようやく結果に結びついたのだ。
激しい戦闘によって四人はボロボロだった。特にエドワードは喉元に傷を受け、さらに雷属性の魔法によって身体の内側を焼かれ、重傷だった。胸元は血で真っ赤に染まり、喉を震わせることができない。
「大丈夫か、エドワード」
マリーナが弟の身体を起こす。
「っ……っ……」
「喋ろうとしなくていい。終わったんだ。終わったんだよ……」
マリーナはもはや自力で立つこともできない弟の惨たらしい姿に目を背けたくなった。
「お母様、エドワードに治癒魔法をお願いします」
「……」
「お母様……?」
シルヴィアは無言のまま、ソルヴァダークの骸を見つめていた。娘の声が聞こえていないのか、なんの反応もない。
「なにボーっとしてんだよ。ようやくオヤジの仇を取ったんだ。全部終わったんだぞ」
「…………終わった……?」
クリスティーナの言にようやく反応を示すシルヴィア。
二人の娘と息子を見やり、再びソルヴァダークに視線を移す。
何かを失くしたように周囲を見回し、そして三度ドラゴンの亡骸を見つめた。
「…………いえ…………終わってなんか……終わってなんかいない……」
「…………は?」
「お母様、私達はやり遂げたんです。お父様の仇を取ったんですよ」
シルヴィアがマリーナとクリスティーナに向き直る。その瞳は激しく揺れ、焦点が合っていない。
姉妹は母の様子がおかしいとすぐに気付いた。
「いいえ、違う、違うわ。コイツは……そう、偽物よ。私にはわかるの。アイツは……ジョージを殺したドラゴンはきっと……きっとまだどこかで生きている。そうよ、絶対にそう。間違い無い」
「……オイ、何言ってんだテメー」
「だってそうでしょう。あんなに強かったジョージを殺した魔物が、こんな簡単にくたばるワケないじゃない。まだ終わっていない……本物のソルヴァダークを殺すまで終わらないのよ! 私達の戦いは終わっちゃいない! 終わってたまるもんですか!」
シルヴィアは壊れていた。
憎しみだけを生きる糧とし、ただひたすら邁進してきた。子供達を戦場に送り、酷使してきたのも全て夫の仇を取る為。ソルヴァダークを討ち取ることに人生を捧げてきた。
だが、その後は? 復讐を果たした後に何が残る?
実際にそこへ辿り着いたシルヴィアの手元には何も残らなかった。
それどころか、目の前が真っ白になった。生きる目的を失ったのだ。
途端、全てが怖くなった。これから先、どう生きればいい。何の為に生きればいい?
シルヴィアは現実を拒否した。そうしなければ耐えられなかったのだ。
「連邦のヤツら、偽物の情報を掴まされたんだわ! 今度こそ本物のソルヴァダークを見つけ出すのよ! 私たちみんなで! 今まで以上に仕事をこなして、今まで以上に情報を集めて、アイツをブチ殺す! それが私達家族の使命! 私達の……人生!」
「フザけんなテメー!」
クリスティーナは母の胸ぐらを掴み上げた。
「いい加減にしろよ……! 一生子供を奴隷にするつもりか! テメーの人生が空しくなるからって周りを巻き込むんじゃねー! 終わったんだよっ! 全部っ!」
「よせクリスティーナ! お母さまは……混乱しているんだ。わかるだろう……!」
マリーナが間に入り、二人を引き離す。
「テメーもいい加減にしろマリー! もうとっくにマトモじゃねーんだよコイツは!」
「クリスティーナ……」
「みんな今までさんざ付き合わされてきたんだ! アルもベッカもカイルもヨーカもフレドもヴァルも! ようやく終わったってのにまだやらせんのかよ! それも、ブッ殺したドラゴンをブッ殺すまでだと!? フザけんのも大概にしろ!」
「もういい、クリスティーナ」
「!」
「……もういいんだ。後は私に任せろ。お前は……好きにすればいい」
マリーナは不器用な女だ。彼女なりに、妹のことを想っての言葉だった。
だが、それは彼女の意図とは違って伝わってしまった。
「……ああ……そうかよ」
地面に唾を吐き捨て、クリスティーナは踵を返した。
「これ以上付き合いきれねー。アタシはお前達と縁を切る。今日からは親でも子でも姉妹でも……家族でもねー」
冷たく鋭い言葉がマリーナの心を深く、深く抉った。
しかし、それよりも動揺したのはシルヴィアだ。
「!? ……縁を切るって……だ、ダメよ! クリスティーナ! そんなの絶対ダメ! 貴方は私の子よ! それだけは何があっても変わらない――」
「マリーナ、一つだけ約束しろ。みんなにも選ばせてやれ。一生親の奴隷として生きるか、手前の人生を生きるか」
「…………わかった」
母を無視する妹の言に、姉は頷くのみ。
「クリスティーナ! こっちを見て! 私の話を――」
「るっせーんだよ」
振り向くこともせず、クリスティーナは去ってゆく。
「待って! 行かないで! クリスティーナッ! お願いっ!」
母は娘の背に手を伸ばすが、もはや指先さえも届かない。
「クリスティーナアアアアアァァァァァ!」
………………
「四年前のあの日、クリスティーナは去った。あれから三日三晩、お母様は嘆きに暮れた。そして……忘却魔法“リギオーマ”で自らの記憶を消し去ったのです。『ソルヴァダークを討ち取った事実』と『次女クリスティーナに関する記憶』を……全て」
シルヴィアとてそんなことはしたくなかった。だが、そうでもしなければ彼女の心は完全に砕けてしまっていた。本人の意志というよりも、自己を守る為の防衛本能によるものだった。
事実を知っていたのは、マリーナとエドワードの二人だけ。
「…………ウソ……」
シルヴィアは【繁栄と安寧の広間】の床にへたりこんだ。お腹を痛めて産んだ愛する我が子の記憶を……思い出を全て捨てるなんて、マトモな親のすることではない。
自分が信じられなくなる。何もかもが信じられなくなる。
消し去った過去に呑まれたシルヴィアは目の前が真っ白になった。
「……なんだそれ……なんでそんな大事な話を隠してたんだマリ姉! 俺はそんなこと……この四年間一度も聞いちゃいないぞ!」
アルフォンスが憤るのも当然だった。何も知らなかった……いや、知らされていなかった。
姉は家族を捨てて逃げたのだと思い込んでいた。母が姉の話題を出さないのも、口にもしたくないからだと。
マリーナは弟達に『意見の相違による衝突から、クリスティーナは絶縁を宣言して去った』としか話さなかった。
同時に、残された弟や妹達に選択を迫った。姉と同様に縁を切るか、共に残って家族を支えるか。しかし、父の仇をスデに討ち取ったことや、母が自らの記憶を消したことを伏せたままで……
そんな言い方をされれば誰もが後者を選ぶのはわかっていた。だからそうした。
「事実を明かせば、何人かは家族の下を離れ去っていただろう。これ以上お母様にそんな思いをさせれば、今度こそ耐えられなくなる。だから……真実を隠した。エドワードにも秘密にするよう約束させてな」
「ふざけんなあ! お、俺は……俺達は四年間も存在しない魔物を追い続けてたんだぞ! 俺達の人生をなんだと思ってるんだ!」
「卑怯な女だと蔑んでくれ。悪いのは全て私だ。誰よりも家族を裏切っていたのは……私なんだ。……だが、後悔はしていない。もしまた同じ状況になれば、私は同じことをする」
「っ…………んがああああああ!」
アルフォンスは怒りの叫びと共に、握りしめた斧を床に突き立てた。
「……ぐっ…………うう……ち、ちくしょう……お、俺はバカだから……誰に怒りをぶつけりゃいいのかわからんっ……ぐ……くそっ……」
姉への怒りもあるが、家族を想えばこその行いだとわかっている。母への怒りもあるが、辛かったであろうことも理解できる。
行き場のない怒りが涙となって溢れ出し、騎士の頰を伝った。
「アル」
うなだれるアルフォンスが顔を上げた。姉であるクリスの、数年ぶりの優しい表情を見た気がした。
「……クリね――」
「ふんっ!」
アルフォンスの腹部にクリスの悶絶ボディーブローがめり込んだ。
心身共に弱まっていたアルフォンスの意識は一発で消し飛んだ。
「そーゆー時はな、一旦寝ろ」
クリスは大きく息をついた後、茫然自失となったまま動かない母を見やり、姉へと向き直った。
「言っとくが、アタシを庇ったからって和解するつもりはねーぞ。人をワルモンに仕立てやがって。まあその点は別にいいけどよ」
「ああ、赦されるとは思っていない」
「……一つだけ訊かせろ。墓まで持ってくつもりだった秘密を、なんで今コイツらに話したんだ」
「……お母様がお前のことを『赤の他人』だと言ったのが我慢できなくてな」
マリーナは小さく口角を上げた。
「私はお前のお姉ちゃんだからな」




