36.空より来る
出て行っちゃった。
そう呟いた途端
マリアの目尻から一筋
涙が零れ落ちる。
マリアは「えへへ」と照れたように笑って
その涙を軽く袖でぬぐった。
「お兄ちゃんは………」
うるんだ瞳で空を見上げ
少女は続ける。
「お兄ちゃんはね、ちっちゃい頃は、たまに遊んでくれた。
でも、勉強熱心で……すごく頭もよくて……
『自分が新人類を救う』って
ママと一緒に真剣に研究に取り組んでた。
だけどマリアは子どもで
バカだったから。
もっともっと遊んで欲しかったの。
たまには独り占めにしたかったの。
だって、マリアのお兄ちゃんなんだもん。
だからよく部屋に遊びにいっては
お兄ちゃんの勉強を邪魔してた。
お兄ちゃんがかまってくれないと
無理やり邪魔をするようなことばかりして……。
それである日からお兄ちゃんの部屋に
鍵、かけられちゃった」
鍵。
その言葉に痛みを覚えて
カグラはぐっと唇を噛んだ。
「それでね
それからはマリアもびくびくしちゃって
お兄ちゃんに怒られるのが怖くて
部屋に近づかないようになった。
顔を合わせたら
怒られる、嫌われる。
それは、それだけは、いや………。
そう思って、自分の部屋に閉じこもるようになった。
そしたら、お兄ちゃんはいつの間にか
【パンゲア】からいなくなってたんだ」
「………………」
何も言えず
カグラは口をつぐんだまま目を閉じた。
マリアの痛み。
幼いころたったひとりの人間として取り残された孤独。
マリアの透き通った声は
変わることなく響き続ける。
「お兄ちゃんがいなくなった当時
マリアはめちゃくちゃ暴れた………みたい。
小さかったしよく覚えてないんだけど。
ママはアンドロイドのお兄ちゃんを作ってくれたけど
マリアは怖がって逃げ出したらしくって。
それでね、そのあとにマリアは、言ったの。
マリアが苦しいときは
おかしくなりそうなときは
『絶対に誰もそばに寄らないで!』って。
それで部屋に閉じこもった。
そしたらほんとに、誰も──
来なかった」
また一筋
マリアの目尻から涙がこぼれる。
けれど今度はそれをぬぐうことすらせず
マリアはただじっと空を見ていた。
カグラは気がつくと
マリアの頬に自分の指を触れさせていた。
そっと、涙をぬぐってやる。
マリアの瞳はそこでようやく
カグラのほうを向いた。
「マリア」
「…………うん」
「それは<アンドロイドだから>自分の命令を聞いたんだ。
って……そう思った? そのとき」
「かも………しれ、ない」
「でも、先に拒絶したのはマリアだよ」
「うん」
「………ねえマリア。あなたに見せたいものがある」
カグラはそう言いながら
一枚の写真を懐から取り出し
マリアへ差し出した。
それを見たマリアはびっくりしたように
花畑の中から飛び起きった。
「あ、この写真………!」
「前に、リリスから借りたの」
マリアを囲んだアダム、リリス、エヴァ。
マリアの誕生日の写真。
写真を受け取って、マリアはなつかしそうにそれを眺めた。
「リリスが言ってたよ。
それ、『家族写真』だって」
「リリスが………」
かすれた声で言う少女の口元に
ふと微笑が浮かぶ。
今まで見たこともないくらい
穏やかな微笑み。
カグラもまた微笑んで、マリアを見つめる。
「家族なんだよ。みんな。
だから心配したり、励ましたり………。
時にはそれがすれ違いになっちゃうことだってあるけど
だけどそれでも
つながってる。
私たちは、つながってるんだよ。
マリアも、本当は………
わかってたんでしょう?」
清涼な風が
2人の間を駆け抜ける。
マリアは写真を膝元に置いて
近くに落ちていた花輪をひとつ手に取った。
それをふわりとカグラの頭の上に載せる。
少女の微笑みがふくらみ
やがて
満面の笑みに変わってゆく。
「ありがとう。………カグラ。
マリアを、迎えに来てくれて」
「………ううん」
風で揺れる花輪を手で押さえ
少し照れくさそうにカグラは首を振る。
「それとね、マリア。
もうひとつ、大切なことを言い忘れてた」
「大切なこと………?」
「うん」
ゆっくりとうなずいて、カグラは言う。
「マリアの人間のお兄さんが
人間のアダムが
最後に、私に言った言葉はね――」
そのとき
唐突に
ぷつりと途切れるように
カグラの喉が、動きを停止する。
感触。
何かの感触。
体に伝わってくる、この――
振動。
(まさか………!)
カグラは右の手首に目を向けた。
そこにはめられた装置の画面が真っ赤に染まり
装置全体が激しく震えている。
ブーーーーーッ!
ブーーーーーッ!
ブーーーーーッ!
(これは………!)
「マリアっ……!」
反射的にマリアの腕をつかもうとしたとき
その先のマリアは
呆然と空を見上げていた。
「ねえ、カグラ。
お空に………ヒビが入ってる」
「え………?」
言われるままに、カグラは空を見上げた。
真っ青な空。
そこにまるでボールペンで落書きをしたように
黒い線がじぐざぐに走っている。
その落書きはみるみるうちに
クモの巣のように広がり
次の瞬間
パーーーーーーーーーン
という音がはるか上空から響いて
空が
砕け
そして、<それ>は舞い降りた。