33.予兆
アダムは街を見下ろしていた。
マリアは街に出ている。
したがって、今はこの大広間を訪れる彼女の相手をすることもない。
カグラもまた――
(俺が行かせたんだ)
自分の両手を見下ろす。
金属でできた拳。
『あなたはいいわね』
リリスに一度だけ、そう言われたことがある。
『あなたはその拳がある限り
それを見つめるたびに自分がアンドロイドであると
思い出すことができるものね』
普段は至極冷静で
どちらかと言うと手厳しい発言の多い彼女だが
そのときだけはひどく
儚げに見えたのを記録している。
まるで
(人間のようだった)
『いいえ、あなたはかわいそうなのかもしれない』
彼女はそうも言った。
『その手を見つめるたび、あなたは自分がアンドロイドであると
はっきり自覚することになる。
自分が何者で、どのような役割を持って機能しているかを
あなたは一時たりとも忘れることができない。
だからこそ、感情機能を縮小し続けるのではなくって?
………いいえ。
かわいそうなのは
こんなことを考えるようになってしまった
私のようなアンドロイドかしら?
ねえ、アダム?』
わからない。
と、アダムは答えた。
カグラに答えたときと同じように。
(同じことをしてばかりだな………)
苦笑が口元に浮かぶ。
そのことに自分でも驚いて、アダムははっと自らの頬に触れた。
感情機能。
人間とアンドロイドが共に生きていくために開発された機能。
それを捨て、彼は機械に徹してきた――はずだった。
彼の座るベンチのうえには二輪の花が置かれている。
一輪は淡いピンクのバラ。
もう一輪は、明るいオレンジのガーベラだ。
彼はそれを革手袋に包まれた指でそっとつまみあげて
物珍しげに見つめる。
『女の子は男の人に花をプレゼントされると、元気になるんだよ!』
マリアの明るい声が
彼の機械で作られた脳内で再生される。
それからゆっくりと
アダムはその花弁に鼻を寄せてみる。
嗅覚センサーが反応し
甘い香りを彼の知覚機能へと伝達する――
『約束する』
約束。
その言葉から発せられる不可思議な感覚に
アダムは戸惑いながら目を細める。
(カグラ………)
カグラ。そしてマリア――彼の妹。
2人は今、街にいる。
彼の監視機能がそのことを告げている。
彼は再び街のほうへ目を向け
そっと
瞼を閉じる。
同時刻。
研究室のデスクに腰かけたエヴァは
物憂げに目の前のモニターを眺めながら
管理システムの調整を行っていた。
【パンゲア】。
2人の人間を除いてはアンドロイドしか存在しない
<偽り>の街。
そのシステムを保全するために。
傍らでは別の管理システムの整備のため
リリスが作業している。
同じ顔を持つ2人の女は
呼吸を合わせるように絡み合うシステムの構築を司っている。
ふと
リリスが思いついたように手を止め
隣のエヴァを見た。
「博士。一部のアンドロイドたちの感情機能に誤差が出始めています」
淡々とキーボードを叩きながら、リリスは呟く。
「ごく微小なものですが。
これも、カグラによる影響なのでしょうか――?」
リリスがそう問いかけたそのとき
エヴァが驚いたように作業の手を止め
画面に浮かんだ文字列をにらみつけた。
「博士………?」
リリスが怪訝な顔をしてエヴァをうかがう。
その視線の先
キーボードに載せられたエヴァの指先が
まるで生きていた当時のように
恐怖と不安で小刻みに震えている。
「博士……!?」
リリスが身を乗り出す
と同時。
【パンゲア】の中枢部内に、けたたましいアラームが響き渡った。
研究室に並べられたすべての画面が真紅に染まり
<ALERT>
の文字が大きく映し出される。
はじかれたようにエヴァが椅子から立ち上がり
画面を見つめながら震える声を上げた。
「こんな……ことが………!」
警報が鳴る一瞬前
アダムもまた
中央広間のベンチから立ち上がっていた。
両の拳は彼の腰の辺りで強く握りしめられ
手袋がギリリリと苦しげな音を立てる。
「カグラ」
澄み渡る【パンゲア】の空を見上げて
うめくように
彼は
彼女の名を呼んだ。