32.トリガー
トンネルの中に一歩足を踏み入れる。
濃厚な木々の香りが肺を満たし
その場所が今では本当に希少な
あふれんばかりの植物で満たされているのだと実感する。
トンネルは長い。
歩いていると、葉のこすれる樹木のざわめきと
小鳥たちの囀りが心地よく響いた。
進むにつれて
樹木の間から漏れるやわらかな陽光が
その強さを増してゆく。
カグラはまばゆさに思わず右手をかざして
小さく声を漏らした。
「あ……………」
トンネルを抜けた
その先は
広大な花畑だった。
背の高い樹木に囲まれた円形の空間には
ありとあらゆる色の花々が敷き詰められ
花はその美しさを主張するように見事に咲き誇り
見上げれば
澄み渡った【パンゲア】の空から
まぶしい陽光が降り注いでいる。
さくっ。
カグラは恐る恐る
足を入れる。
踏みつけるのがもったいない花園だ。
しかしカグラはそれにすら目をくれず
まるで魅入られたように
まっすぐ前を見つめていた。
広い広い花畑
その中央。
花々に囲まれ
その中へ埋もれるようにしてたたずむ
ひとりの少女。
彼女に向かって
カグラはゆっくりと進んでいく。
さく、さく、さく、さく。
少女はこちらに背を向けて
花の中に腰を下ろしている。
輝くブロンドの髪が時折風にそよぎ、
純白のドレスに包まれた小さな後姿は
物語のお姫様そのものだ。
「マリア」
少女の数メートルうしろで立ち止まって
彼女の名前を呼んだ。
少女はじっと動かない。
ひときわ強い風が吹いて
少女の金髪を下側からなで上げた。
白く細い首がむきだしになり
そのうなじに刻まれている文字がカグラの目に映る。
【MARIA-3091】
(番号………)
新人類には必ず識別番号が首のうしろに刻まれている。
以前から知っていたことではあったが
マリアのそれを見るのは初めてだった。
唇を噛みながら
カグラは少し距離を保ち
円を描くように回り込んで
彼女の正面に立つ。
「マリア」
もう一度、カグラは彼女の名前を呼ぶ。
少女は花畑の中にぺたんと座り込み
その腰の辺りまでが花の中に埋もれている。
首はがっくりと下へ向けてうなだれていて
顔を見ることはできない。
彼女の両手も膝元のあたりに埋もれて
そのうえにはいくつもの花輪が並んでいた。
(ずっと………花輪を作っていたの?)
震えないで。
と、カグラは自らの喉に命じる。
彼女を呼び続けるために。
彼女の耳に自分の声が届くまで。
「マリア」
「…………カグラ」
意外にも、返答があった。
マリアはうなだれていた頭をもたげて
こちらを見上げた。
宝石玉のように輝いていたはずの瞳は
薄い灰色のフィルターがかかったようにうつろにかすんで
本当にこちらが見えているか疑ってしまうほどだ。
「カグラ………」
か細い声で
マリアは呟く。
「マリア、迎えに来たよ」
彼女に向かって一歩踏み出し
カグラは手を差し伸べた。
「帰ろう」
「カグっ………」
途端に
マリアの両肩が
いや
全身が
痙攣するように
ぶるぶる震えだす。
うつろな目はこれ以上になく大きく見開かれ
大きな大きな瞳はより一層くもって
その瞼から
大粒の涙がぼろぼろとあふれ出す。
「マリア……!」
思わず彼女を抱きしめようと
カグラが身をかがめようとした
その瞬間
花の中に埋もれていたマリアの両手が
上方へ飛び出した。
手の上に載っていた花輪はばらばらに飛び散り
色とりどりの花びらが宙に舞う。
その手に
その真っ白な両手に
拳銃
が握られている。
その物体を目にしたカグラの体が
反射的に硬直する。
「マリ………ア………?」
間違いない。
少女の両手に握られているのは
真っ黒な拳銃だ。
マリアは拳銃をかかげた両腕をがたがたと震わせ
顔面を蒼白にしながら
その銃口をカグラへ向けていた。
カグラは銃口の深い穴を見つめながら
その存在を信じられずに
息を止めたまま
その場に立ち尽くしていた。
「もう、いやだ。終わりに………したいの」
ふいにマリアが言った。
カグラは固まったままの体をなんとかほぐそうとしながら
彼女を見つめた。
「マリア? あなた何言って――」
「ひとりはいや。ひとりはいや。もう、ひとり、は………」
「そんなこと言わないで。
ひとりになんかしない。私が一緒にいる」
けれどマリアは
首を振る。
涙が花びらと共に宙へ散る。
「だめ……。私、怖い、よ………」
「怖くなんかない。
一緒にいる。
ここにいるよ!
だから泣かないで。マリア」
「カグラ、マリアは、マリアは、マリア、は、マリア、マリア………」
ぐしゃぐしゃに泣きながら
彼女はあえぐように声を上げた。
その震える指先が、引き金にかかる。
「マリア‼」
はじかれるように両手を前へ突き出して
カグラは飛び出した。
そして
少女は引き金を
引いた。