29.リリスとエヴァ
デッサンを描くペン先はよどむことなく
するりするりと
紙の上を滑っていく。
四角い小さな箱のような
部屋の中。
室内は暗く
それとは対照的に
厚手の木製テーブルに置かれたたったひとつの照明は
まぶしいほど
机上を一面光で塗りつぶしている。
彼女は――
リリスは、黙々とペンを動かし続ける。
一本の平凡な黒インクペン。
小さく薄っぺらなメモ用紙。
彼女が描いているのは、2人の人物の姿だ。
2人はベンチに腰掛けて腕を絡ませ
互いを引き寄せあうように
向き合っている。
大まかな輪郭ができあがると
次は細部を書き込んでいく。
2人の男女の姿が
徐々にくっきりと
紙の上に浮かび上がってくる。
女が男の肩をつかむ、子どものように華奢な指先。
男が女を抱き寄せる、しっかりとした長い腕。
彼女は時折、思い出したように顔を上げる。
部屋の壁にはぎっしりと
これまで彼女が描いてきた作品が貼られていた。
リリスは顔を上げ
少しだけ目を細めて、それらを眺める。
絵の中には人物画があり、風景画がある。
そのひとつに彼女は目を留めた。
書きかけの、少女のデッサン。
見渡す限り、壁に貼り付けられた絵の中で未完成なのはその絵だけだ。
彼女は少しの間
じっとその絵を見つめている。
その間も、彼女の腕は正確な動きで絵を描き続けている。
『リリス』
彼女の体の奥の奥
その深部から、声が届いた。
リリスはその声を聞くと同時
ただちにペンの動きを止め
意識を
その声のほうへ<接続>する。
彼女は真っ白な広い仮想空間にいた。
さきほどの部屋とはまるで比べ物にならない。
どこまでもどこまでも続く、白の世界。
アンドロイド同士の意識の共有空間だ。
そこには便宜的に細長いテーブルのようなものが置かれ
その左右――
遠く向かい合うような形で、エヴァとリリスが腰掛けている。
真正面に向き合う、同じ顔の女。
「お呼びでしょうか。博士」
リリスは視線を前方へ送りながら
ペン先と同じように、よどみのない口調で言った。
正面に腰掛けたエヴァもまた鏡のように
リリスのほうをまっすぐ見ている。
「リリス」
彼女の名を呼びながら
エヴァはテーブルのうえに片方の肘をつき
手のひらに細い顎を乗せた。
彼女の表情はけだるく
どちらかといえばうつろに近く
そのせいで
彼女はリリスよりも幾分歳をとっているように見える。
「カグラの言っていた言葉の意味……
今ならなんとなく、わかるような気がするわ」
「ええ」
リリスは静かにうなずく。
遠い遠い
疲れた顔をした自分の鏡に向かって。
「彼のことは………残念でした」
「わかっていたのよ。わかっていた………」
エヴァの呟きを聞きながら
リリスは黙って
一瞬だけ意識の<接続>を
あの小部屋に戻した。
<小部屋の中のリリス>の瞳は
壁に貼られた一枚の絵を見つめている。
幼い少年の絵。
「カグラと<彼>が
保護されるたった数時間前に一緒にいたという事実。
そして当時あなたたちが見つけた生体反応は
たったひとつ。
カグラだけだった。
それが判明した時点で
あの子がもう生きてはいないだろうということは
わかっていた」
「ええ。
たった数時間でそれだけの距離を移動したとは考えられません」
「同様の理由でコンドウ博士も、生きてはいないでしょうね」
「………おそらく」
リリスはまっすぐに背筋を伸ばして
淡々と答え
エヴァは首を傾けながら
淡々と呟く。
「<アンドロイドの心>……
それは根拠の有無に関係なく
<信じる者と信じられる者>との間でのみ
『真実』として存在する……。
彼女は、そう言いたかったのかもしれない」
「カグラとアダムとの間には
両者に相通じる『真実』が存在すると?
博士らしくない発言ですね」
「私らしくない? そうかしら?」
「はい」
リリスの言葉に、エヴァがわずかに微笑む。
「ねえ、リリス」
「はい」
「私は彼女が――
カグラが、アダムの目の前で自分の首を傷つけたとき
彼女のそのような行為をアダムに止めさせなかった……」
「ええ」
「それはもちろん、万が一の場合私の命令などなくても
アダムが強制的に彼女の動きを拘束することが可能だと知っているから。
けれど……それだけじゃ、ない」
「……………」
「私は」
エヴァはそう言って
口の端に微笑を残したまま
少し肩をすくめるような動作をした。
「正直、彼女がうらやましかった」
リリスは何も言わず、かすかにうなずく。
「私は現在の【パンゲア】の中で
もっとも<オリジナル>に近いアンドロイド……
もっとも人間に近いアンドロイドだわ。
他のアンドロイドのほとんどは
すでに人間をベースにするのではなく
プログラムによって自我を形成しているから……
だからなのかしら?
時折、こう思うの。
『あれ? 私はいつ、アンドロイドになったのだっけ?』って。
混乱する。
一種の<バグ>ね。
人間であった頃の記憶が強すぎるのよ。
自分がもう人間ではないということに、違和感を覚える瞬間がある。
もちろん、すぐに修正プログラムを働かせるわ。
けれど、時々……
時々……
自分の両腕を見下ろして、思うの。
『この皮膚の下は、<本当に>機械なのかしら?』
そして傷つけてみたくなる。
引き裂いて、その中にあるものを引きずり出して
実際にこの目で確かめてみたくなる」
「………でも、それはできない」
「そうね。
私はアンドロイドだから、『自分の体を傷つけることはできない』」
カタン。
白い空間に、小さな音が響く。
エヴァが驚いた表情で
手のひらに載せていた顎を持ち上げた。
何の前触れもなく
椅子から立ち上がったリリスは
ゆったりとした足取りで
長いテーブルの脇を進み
エヴァのすぐ目の前で
立ち止まる。
「博士」
彼女は涼やかな声で言った。
「私から見れば、あなたは十分に……
十分すぎるほどに、人間らしい。
きっと、カグラもそう思っていますよ」
数秒の沈黙ののち
エヴァもまた同じように
カタン、
と音をたてて椅子から立ち上がった。
同じ背丈。
同じ顔。
同じ声。
瞳に映る、同じ眼差し。
双子のような女は長い間見つめ合い
ふと
こらえきれなくなったように
片方が声を上げて、笑い出す。
それにつられたように
もう片方の女も笑い出した。
架空の空間に
2人の女の笑い声は
どこまでも遠くへ
響いていく。
「………ああ、おかしい」
と、女は言う。
「あなたは私の分身のはずなのに。
あなたは、私にちっとも似ていないのね」