24.アダム
(花……………)
廊下の花瓶に活けられた真っ白な花が視界に入り
アダムは立ち止まった。
館内整備のアンドロイドが活けたものだろう。
花瓶の中で咲き誇る大ぶりの花弁。
体を近づけずとも、豊かな芳香を漂わせているのがわかる。
『女の子は男の人にお花をプレゼントされると、元気が出るんだよ!』
マリアが自信満々にそう言って
どこからか手に入れてきた黄色の花束を
彼に押しつけてきたことがあった。
そのときは困惑しきりだったが
彼女の言った花の効果は
嘘ではなかったように思える。
『いい匂い』
カグラはそう言って、微笑みながら花の匂いを嗅いでいた。
(花か………………)
その花に手を伸ばそうとして
手を、止める。
アダムは少し驚いて
伸ばしかけた自分の手を見つめた。
黒い手袋に包まれた金属製の右手。
(花を取って…………どうする?)
またカグラに届けるか?
いや。
カグラはもう病人ではないし
マリアに頼まれたわけでもない。
(必要ない)
そう判断し、彼は歩き出す。
もう花は気にならない。
壁面がガラスで覆われた大広間に出ると
アダムは奥のベンチに腰かける。
そしてそこから街を監視する。
といっても、この場所で街の監視をすることはそれほど重要な任務ではない。
【パンゲア】という保護区全体がセキュリティーシステムによって
<機械>の脅威から守られているし
万が一
たとえほんの少しであっても
おびやかされるようなことがあれば
すぐさま警報で伝えられるようになっていた。
ただ、この広間にはたびたびマリアが遊びに来る。
マリアの兄として、彼女の相手をすることもまた彼の重要な役割だ。
『…………アダム。ちょっといいかしら?』
唐突に通信が入る。
リリスだ。
街の<外>と違い
ここではアンドロイド同士の通信がさえぎられることは一切ない。
彼女の声はとてもクリアに聴こえる。
「どうした?」
『ついさっき…………カグラの記憶検索をおこなったのだけれど』
「ああ」
『おかしいの』
「おかしい?」
『ここ何日か、立て続けに記憶検索が失敗しているのよ。
何も――出てこない。
これまでこんなことはなかったのに………。
あなた、何か気づいたことはない?』
「………………」
アダムは黙り、自らの観察記録に検索をかける。
確かにカグラの様子は少しおかしかった。
というより、よそよそしかった。
しかし、そのこと自体が記憶検索の障害になるとは思えない。
「現段階で、障害の要因はわからないな。
何か気がつくことがあったら報告する」
『ええ、お願い』
そう言って、リリスからの通信が切れる。
その直後
ふらりと、カグラが広間に姿を現した。
記憶検索を終えて部屋へ戻る途中だろう。
彼女は大きなガラス窓から下界を眺めて歩き
それからふと気がついたように
視線をこちらへ向けた。
「カグラ」
アダムは彼女の名前を呼ぶ。
彼女はこちらにうつろな視線を向けてはいるが
応答はない。
それからまたふらりと視線をそらすと
そのまま何も言わずに
広間を出て行った。
静寂。
しばらくしてから、今度はマリアが広間を訪れた。
彼女はいつもの通り
ガラス窓に全身を貼り付けるようにして空を見上げる。
真っ青な空。
【パンゲア】の空はいつだって晴れている。
彼女は、灰燼に覆われた<外>の暗さを知らない。
「ねえ、お兄ちゃん」
くるりと、マリアがこちらを振り返る。
太陽の光にあたってブロンドの髪がきらきらと輝いている。
「カグラ見なかった?」
「ああ」
アダムはうなずいた。
「さっき、今日の検索を終えて部屋に戻るところを見かけた。
……もう部屋に戻っているんじゃないか?」
「それがねー、部屋にいないみたいなんだよね。
どこいったんだろう?」
「さあ…………わからないな。
一緒に探すか?」
「ううん、大丈夫。マリアがひとりで見つけるから」
「そうか」
彼の端末を【パンゲア】とつなげば、カグラの居所などすぐにわかる。
けれど自力で見つけると言うマリアを
アダムは軽く手を振って見送った。
静寂。
アダムは、街を眺めている。
リリスからの通信もない。
マリアもやってこない――カグラは見つかったのだろうか?
時間だけが淡々と過ぎていく。
時間の経過にあわせて計算された空は
徐々に夕焼け色に変わっていく。
アンドロイドのアダムにとって
時間はさして重要ではない。
身体機能が時間と密接に結びついている生物と違って
機械でできた彼の体は
時間を必要とはしない。
彼の見つめる先で日が沈み
そして、闇が訪れる。
彼にとってそれは、単純な明暗の変化でしかない。
ただその変化を認知するだけだ。
『夜景を眺めていたのかと思った』
カグラの言葉を思い出す。
<夜景を眺める>とは、どういうことなのだろう?
人は、景色を見てそれを楽しみとする。
そのことは理解している。
しかし彼の感情機能は
実感として彼に体験させてはくれない。
(リリスなら……………理解できるだろうか)
感情機能の細やかな、彼女なら。
あるいは、エヴァ博士なら。
彼は視線を下げ
自分の手を見下ろす。
『人間とアンドロイドの違いって……何?』
カグラの言葉。
真剣な眼差し。
彼の手を握った、彼女の小さな手のぬくもり。
『アダムには、心がないの?』
わからない。
とアダムは答えた。
わからない。
『私は、アダムのことが、好き』
わからない。
手袋に包まれた自分の手をじっと見つめ
握り
そしてまた開く。
ぬくもりもやわらかさもない。
彼の手。
(何をしているんだ……………)
辺りはすっかり暗闇に包まれている。
アダムはため息をつき、顔を上げた。
そこに
カグラが立っていた。