22.解放
気がつくと、装置をはめた右の手首のあたりを左手で握りしめている。
とても強く。
「カグラ」
エヴァ博士の声が聞こえる。
けれども頭がぼんやりしていて
彼女の声がとても――遠い。
目の焦点すらうまく合わない。
意識がどろっとした流れに引きずり込まれそうになっている。
すんでのところでとどまるのが、精一杯。
「どうした? 血圧が下がっている」
隣にいたアダムが尋ねる。
すぐ隣にいるはずなのに、やはり遠い。
カグラはただ首を振った。
めまいがした。
「また記憶検索の影響が出たのかしら……。
とにかく、検査をしましょう」
「いえ」
エヴァの言葉に、カグラはさっと顔を上げて答える。
「少し………ぼうっとしてるだけです。
昨日、あまり寝ていないから。
部屋に戻って眠ります」
「……………」
数秒の沈黙をはさんで
博士はゆっくりとうなずいた。
「………そうね。
検索中も脳に異常はなかったようだし。
それに、突然こういう話をして悪かったわ。
記憶のないあなたにとってはショックなことでしょう。
私も気遣いが足りなかったわね」
「…………………」
エヴァの隣で
リリスが鋭い視線をこちらへ向けている。
『<本当に>大丈夫なの?』
とでも語りかけるように。
カグラはかすかにうつむくようにして
うなずく。
リリスは腕を組み、ため息をついた。
そして、アダムのほうを向く。
「アダム。カグラを部屋へ連れていってあげて」
「わかった」
アダムはうなずき
カグラの肩に軽く手を添えて踵を返す。
カグラは無言でそれに従った。
「カグラ」
出ていこうとするカグラの背中に
エヴァ博士の落ち着いた声がかぶさる。
カグラは一旦足を止め、ちらりと彼女を振り返った。
博士はゆったりと椅子の背にもたれながら
わずかに細めた目で
こちらを見ていた。
「記憶検索はこれからも続行するわ。
それが……カグラ。
あなたにとって、思い出したくない過去であっても」
「ええ。もちろん」
カグラはきっぱりした声で答えると、アダムと共に扉をくぐった。
「ひとりで帰れるわ」
廊下を出た途端――
アダムを見上げて、早口に言う。
アダムは静かな瞳でカグラを見下ろし、首をかしげた。
「さっきから、様子がおかしいな。
何かあったのか?」
「何もない。
ただ、寝不足で調子が悪いの」
「…………………」
無言のアダムを置き去りにして、カグラはさっさと歩き出す。
けれども振り向くと、アダムも彼女のあとについて歩いてくる。
カグラは立ち止まる。
アダムも立ち止まる。
カグラはため息をついて、小さく首を振った。
そうしてなるべく落ち着いた声をつくろって、アダムに告げる。
「…………来ないで。
お願い。
ひとりになりたいの」
「だが」
「ひとりにして」
「…………………わかった」
しぶしぶといった感じで、アダムがうなずく。
カグラはそれを確認すると、足早に歩きはじめた。
長い長い、無機質な白い廊下。
数十メートルほど進み
振り返ると
数十メートル先
変わらぬ場所に
アダムが立っている。
じっと、その場所に。
人形のように。
カグラは少しの間アダムの姿を見つめたあと
再び歩き出した。
(違う………違う…………)
心の中でぶつぶつと呟く。
ここは【パンゲア】。
人間とアンドロイドの暮らす街。
人間とアンドロイドとの間に引かれた見えない線。
目には見えない、しかし決定的な境界――
(私が感じことは…………間違っていた?)
黙々と廊下を歩きながら、自問する。
アンドロイドの心。
確かにあると一度は信じられたものが
徐々に彼女の心に影を落とし
ぼんやりと
その輪郭を失いつつある。
(アダムを………人間のアダムを、見たから?)
違う。
そうじゃない。
カグラはとっさにそれを否定した。
もしそれを肯定すれば
それは――
<今>のアダムを
<過去>のアダムのコピーとして
認めてしまうことになる。
(違う、違う、違う、違う……………)
心の中でひたすら呟く。
震える自分の肩を、肘をつかんで止めようとする。
ふと
カグラは立ち止まり
顔を上げた。
(ここ…………は?)
ゆっくりと辺りを見回す。
見覚えのない廊下。
見覚えのない十字路。
(迷った?)
くらくらと視界が揺れる。
迷った──
そんなはずがない。
もう【パンゲア】に来てずいぶんたつ。
………………【パンゲア】?
(なん、だっけ……?)
意識が揺れる。
視界がかすみ、目の焦点を合わせることができない。
カグラはへなへなとその場に座り込んだ。
まるで幼い迷い子のように。
「カグラ」
声。
声がする。
「さあ、行こう」
アダムの声。
<人間>の──
(違、う………………)
めまいの中で、カグラはぶるぶると首を振る。
違う。
違う。
アダムじゃない。
これは
幻。
これは――
(おかしい………<これ>は……!)
かすかに残っていた意識が
爪を立て
歯を食いしばり
力を振り絞って
暗闇から這い上がる。
カグラは
いつの間にか閉じていた目をうっすらと開いた。
目の前にあるのは、【KAGURA】の文字。
手首にはめた装置を
再び強く握りしめていた。
(これは………)
機械の襲撃を察知し警告する装置。
記憶のない自分に名を与えた、装置。
手首を返す。
ベルトに継ぎ目のようなものは見当たらない。
(まさか……これ…………)
はっとして、指先でベルトに触れる。
金属のようなプラスチックのような
不思議な手触り。
文字盤とはちょうど反対側のあたりにクッションのような感触があった。
そこを人差し指で強く押すと
音もなく
その部分が立ち上がり
簡単に
ベルトが外れる。
カタンッ。
装置が床に落ちる。
カグラは呆然とそれを見つめながら
何度かまばたきをした。
嘘のように
めまいが
消えた。
カグラは廊下に座り込んだまま
長い間
床に落ちた装置を見つめていた。
【KAGURA】。
黒い文字盤の表面に
見開かれた彼女自身の瞳が映っている。
とても
とても
長い間。
ぽたり
と
黒い画面にしずくが落ちる。
「そっか」
しぼりだすように
震える声を
カグラは吐き出した。
しずくがもう一粒、落ちる。
「そっかぁ……………」
口元にほんの少し笑みのようなものを浮かべて。
それから
一気に
その顔がひき歪む。
廊下の真ん中で体を折り
唐突に
カグラは大声を上げて泣きはじめた。