17.感情
「カグラ」
誰かが自分を呼んでいる気がして
カグラは目を覚ました。
彼女は自室のベッドに寝かされていた。
照明が落とされ、部屋の中は薄暗い。
カグラは眼だけ動かして部屋の中を探ったが
人の気配はなかった。
誰もいない。
空耳だ。
カグラは体を起こそうとして
急に
ひどいめまいに襲われベッドに倒れこんだ。
「……っ…………!?」
これまで感じたことのない強烈なめまい。
カグラの目の前で景色が回転し
体がどろどろと溶けてしまいそうな感覚がする。
カグラは目を閉じて、じっとそのめまいが去るのを待った。
リリスの言っていた言葉の意味がよくわかる。
強いパワーで記憶検索を行うと、脳にかなりの負担がかかる。
そのことをリリスから説明され
きちんとリスクを承知したうえで
カグラはあの場へ臨んだのだ。
彼のいた、場所へ。
それからしばらくはめまいとだるさを往復した。
体さえ動けば、と思うがままならない。
カグラはこんなふうに一人きりで眠っていたくなかった。
眠気なんてまったくなかったし
それに一人でいるには
今の自分はあまりにも心細かった。
誰か。
とカグラは願った。
誰か。
私のそばにいて。
マリアに会いたかった。
アダムやリリスや、エヴァ博士に会いたかった。
彼女はそのとき、自分がはじめて深い孤独の中にいることを実感した。
電車で目が覚めてからこれまで、カグラは「孤独」という感覚を味わったことがなかった。
わけがわからないままアダムとリリスによって救出され
【パンゲア】に連れて来られ──
いろんなことが立て続けに起こりすぎたのだ。
けれどよく考えれば
彼女は自分が何者なのかも知らない。
当然、家族の思い出もない。
エヴァ博士を中心とした彼らはひとつの家族であり
自分は余所からやってきた赤の他人。
彼女にも過去には家族──おそらく家族と呼べる人──がいたはずだ。
でも、今はいない。
擦り切れてしまった過去にすべて置き去りにされ
彼女は孤独だった。
人とのつながりに飢えていた。
それから長い時間がたち
カグラはゆっくりと
とてもゆっくりと
ベッドから起き上がった。
おそるおそる床に足をつき、壁に寄りかかってどうにか立ち上がる。
ふらふらするが、歩けないほどではない。
カグラは部屋を出た。
向かったのは、彼女が初めて【パンゲア】に来たとき
マリアに手をひかれて連れて来られた場所だった。
壁全体が大きな窓ガラスになっており
【パンゲア】の街全体を見渡すことができる。
街の時間は今、夜の設定になっているのだろう。
空は暗く、星々がかすかにきらめいている。
街の灯が暗闇ににじむオレンジ色を添え
そこで生活する者たちの存在を感じることができる。
カグラはガラスに手をついて
じっくりとそんな街を眺めた。
あの街に住んでいるのは、人間ではない。
全員アンドロイドだ。
かつては人間が住んでいたこともあっただろう。
そこから人の姿は消え
アンドロイドが残り
そうして彼らだけが以前と変わることなく
「普通の暮らし」を続けている。
(人間と、アンドロイドの、世界…………)
「カグラ」
声がして、カグラはさっとうしろを見た。
今度は空耳ではない。
壁際のベンチに、アダムが腰かけている。
(……………アダム)
カグラはガラスから手を離し
ゆったりした歩調で
アダムに近づいていった。
彼の前で立ち止まり
少し迷ってから
隣に腰を下ろす。
「リリスから話は聞いた。もう歩いて大丈夫なのか?」
「…………うん」
カグラはうなずきながら、アダムの顔を見上げた。
端正な、アダムの顔。
けれどどこか無機質で、ガラスで造られた瞳は冷たく、表情はない。
「アダムは、ここで何をしているの?」
「俺は街の監視をしている。
監視体制は完備されているが、何かの故障で見落とす可能性もあるからな。
何かあった場合はすぐに俺が対処する。
そしてここが、街全体を見下ろせる場所なんだ」
「そっか。てっきり、夜景を眺めていたのかと思った」
「夜景を眺める? どうしてだ?」
「………」
カグラは下を向いて、黙っていた。
彼に何を話したらよいのか、うまい言葉が見つからなかった。
それでも、何か話さなくてはいけない。
今――ここで。
「ねえ、アダム」
「ああ」
「リリスが、ね………絵を描いていたの。知ってた?」
「ああ。彼女は、時々絵を描いているようだ。
エヴァ博士もそうだ。
あれは、なんというか……
趣味というものなんだろうな。人間で言うところの」
「アダムにはないの? その……趣味とかそういうのは」
「これといったものはない」
相変わらずアダムの返答は短く、感情らしきものは少しも混ざっていない。
しかし、カグラは話をやめようとは思わなかった。
彼と
彼と今、話す。
(話したい)
「アダム」
「なんだ」
「人間とアンドロイドの違いって……何?」
「人間とアンドロイドの違い?」
彼はそこで初めて表情を動かした。
不思議そうな目でカグラの顔を見つめる。
「そうだな……。もっとも簡単に言うならば、人間は生命。アンドロイドは機械だ」
「そうかな」
カグラは口を尖らせ、アダムを見返す。
「生命の定義って、何?
金属でできていれば機械なの?
リリスは、私が泣いたとき、やさしく抱きしめてくれた。
私の絵を描いてくれた。
エヴァ博士はマリアのことを母親として大切に想ってる。
新人類の存続のために最大限の努力をしながら、
それでも無力感に打ちひしがれて、うなだれている。
ねえ。私は、こう思うの。
アンドロイドには心がある。
たとえそれがプログラミングであろうと何だろうと
心がある。
それは人間とは変わらない。
感情。
感情があって、一緒にいられて、暮らしていける。
どうしてアンドロイドは、生命とは言えないの?」
カグラの言葉にアダムは少し首を傾けた。
それからほんの少し、目を細める。
「確かに、君の言っていることはわからないでもない。
生命というものをどの位置に設定するかによるが
ある意味では、アンドロイドを生命だと言うことは不可能じゃない。
だが、決定的に違うところがある。
アンドロイドは人間のために造られた。
つまりアンドロイドの存在意義は、人類なくしてはありえない。
その前提は必要だ。
しかし君が言うように、アンドロイドには感情がある……
そのように受け取れないことは、ない。
俺はエヴァ博士の息子の記録から造られたアンドロイドだ。
サンプル不足で感情をうまく認識することができないが
しかしリリスやエヴァ博士に心がない、とは言い切れない」
「それって………アダムには、心がないの?」
「わからない」
アダムの言葉に、カグラは顎にぐっと力を加え、冷静さを保とうと努めた。
「私………記憶検索で、人間のあなたを見たわ」
「ああ。リリスから聞いた」
「それを聞いて、あなたはどう思った?」
「どう思った?」
アダムは再び不思議そうな顔をして、カグラを見た。
不思議そうな顔と言っても、表情の変化はほんのわずかなものだ。
「だって、あなたの元になった人間だよ。
その人に、私は過去に会っている。
それについてアダムは気にはならないの?
どんな人だったかとか、自分とはどう違うのかとか。
自分と同じ人間がいるのはちょっと変な感じだな、とか……
そういうこと」
「記録との差異がどの程度なのかについては興味がある」
「それだけ?」
「ああ」
「ほんとに?」
「ああ」
短い。
簡潔で、正確な返答。
カグラは一度目を閉じて、息をついた。
アダム。
目の前にいる、アダム。
そう。
目の前にいるのは、過去のアダムではない。
現在のアダムなのだ。
彼女はそう思い、目を開いた。
「………ちょっと手袋を外してみてくれる?」
「ああ」
アダムが黒い革手袋を外すと、そこには金属でできた銀色の拳があった。
冷たく、鈍い光。
いくら顔の表面組織が人間と同じにできていても
アダムの手は明らかに人間のそれではない。
けれど。
カグラは手を伸ばし
アダムの手の上に置いた。
2人の手と手が合わさり、そして組み合わされる。
「……………アダム。こうしてて、何か感じる?」
「何か?」
「なんでもいい。何か」
「ん……。
すまないが、俺は戦闘用に特化したアンドロイドだから
両手に温度を感知するシステムは備わっていないんだ」
「じゃあ、本当に何も感じないの?」
「………………」
するとアダムは急に黙り込んで、自分たちの重なった手を見下ろした。
困ったような、少し複雑な表情をしている。
何かを必死につかもうとしているかのように。
カグラはそんなアダムの横顔をじっと見つめた。
「…………じゃあ、これは?」
そう言って
カグラは身を乗り出し
彼の懐に体を滑り込ませ
そっと
彼の唇に自分の唇を重ねた。
2秒か、あるいは、3秒。
それから思い出したようにアダムが身を引いた。
その表情が
これまでにないくらい
驚きと困惑に満ちている。
「どう?」
真剣な眼差しをアダムに向け、カグラは訊ねた。
アダムは呆然とている。
言葉を失ったまま、ただそこにいた。
アンドロイドである、彼が。
カグラはじっと目をそらさずに
迷いのない声で
言った。
「私、アダムのことが、好き」
言いながら手を伸ばして
やさしく彼の肩に手をかけ、引き寄せる。
アダムは抵抗せず
それに従った。
彼はもうすでに驚いている様子ではなかった。
その代わり、穏やかな目をカグラへ向けていた。
カグラはもう一度、アダムに口づけた。
今度は長い口づけだった。
彼の唇はやわらかく、あたたかかった。
そこには徐々に熱がこもっているように感じられた。
あるいは単なる気のせいかもしれない。
けれどカグラは、その感触を信じたかった。
そっと体を離す。
彼らは互いを見つめ合った。
もう、カグラは彼に「どう?」と聞く必要を感じなかった。
2人は黙って
互いに視線を交換し合った。
そこに、心があると信じて。
と。
「あ~~~~~~~~~~~~~!」
唐突に甲高い叫び声が辺り一面に響き渡り
驚いて振り向くと
廊下の端にマリアが立っていた。
彼女はまっすぐ人差し指を突き出し
こちらを思い切りにらみつけながら
叫んだ。
「カグラとお兄ちゃんがキスしてた!
カグラとお兄ちゃんがキスしてたぁー‼」
マリアの言い方にカグラは思わず吹き出し
大声で笑ってしまった。
アダムを見ると、彼もまた、口元にかすかな微笑を浮かべている。
初めて見る。
アダムの、笑顔。
そしてマリアがきゃっきゃっと興奮しながら
こちらへ全速力で駆けてくる。
勢いよく飛びこんでくるそのかわいらしい娘を
カグラとアダムは共に手を伸ばし
しっかりと抱きとめた。