プロローグ 死んだ世界
夜の風が
鳴る。
男は街を見ている。
風の音以外には何もない。
かすかな衣ずれも
人の息づかいも。
声も。
光も。
温度も。
震えも。
何も。
男は街を見ている。
街は暗闇の中で
静かに眠っている。
光も音もぬくもりもなく。
眠っている。
外気は凍っている。
あらゆる生命の温度を奪おうとするかのように。
しかし
男は黒いロングコートの裾をはためかせながら
微動だにせず
そこにいる。
その場所で
街を見下ろしている。
気が遠くなるくらい
ずいぶんと長い間。
かすかに。
男が首を傾ける。
ザザ……………ザザ………ザ………………
音。
ではなく。
男はそっと
右手の平を耳に当てる。
音ではない「それ」を
注意深く聞き取ろうとするように。
ザザ……………ザ……………………
やがて
「それ」は明瞭に、
男の意識に「接続」する。
『生体反応があるわ』
少し冷たい響きのある、女のささやき。
男は静かに街を見下ろしながら、応える。
「場所は」
『地下よ。369区、370区、371区……
一定速度で動いている。
反応があたたかくて、大きい。
言っておくけど、太ったドブネズミじゃないわよ』
「………」
男はゆっくりと首を振る。
周りの景色を
確かめるように。
街は黒い。
死んでいる。
『アダム』
若い女は
苛立つような声で言う。
『迅速に返信なさい』
「了解」
男は短く答える。
そして
一歩
そこから踏み出す。
崩壊しかけたビルの屋上、その先端へ。
「確認作業に入る」
男の姿は消え
風だけが
吹き続けている。