ウィザードとゴッドファーザー、ときどき僕(三十と一夜の短篇第50回)
記憶喪失の人間が自分がどんな人間だったのか考えるのはひどく難しい。
公立学校の夢見る教師が生徒たちに対して「きみたちには無限の可能性がある。なんにだってなれるんだ」というのと同じで、記憶喪失者にも無限の可能性がある。魚屋、八百屋、金物屋、帳簿係、コーヒーの卸売業者、神父、市長。いったいなんだったのか、途方に暮れるほどの職業が僕の前に横たわっている。
そこで第一の手は僕がなにができるかを調べて箇条書きにし、そこから正体を割り出す手法だ。
けど、記憶喪失になった人間にとって、なにができて、なにができないかは全くの未知数で見当というものがつけられない。だから、箇条書きにするならそれこそ、息が吸える、息が吐けるから始めないといけない。そんなことをしていたら、記憶喪失前の正体を知ったころにはおじいさんになっている。そのくらい時間がかかる。
そこで第二の手。
たぶんこれが一番有効な手法だ。つまり、消去法である。
僕は億万長者の御曹司ではない。僕は市長ではない。僕は将軍ではない。僕はラジオ俳優ではない。こうやって可能性をつぶしていくのだ。
それに日常生活を送るうちにひょんなことから、思わぬ収穫が手に入ったりすることがある。
僕はダンスが下手で、魚釣りもあまりうまくない。
料理はできるが、レストランで出てくるようなものはつくれない。旅の最中につくる野宿の料理だ。だから、ウサギの皮をひん剥いてシチューにできる。
本を読む習慣はなかったようだ。でも、読み書きはきちんとできるし、僕の書いた字を見た先生は僕がそれなりの教育を受けていると言った。実際の言葉はもっと皮肉に飾られていたけど。
絵は普通よりも描ける。それで食べてはいけないが、気ままなスケッチで時間をつぶすぐらいの画力はあるようだ。
自動車が運転できるかは分からない。まだ試したことがないのだ。島に自動車がないから。自転車は無理だった。だが、バランス感覚が悪いわけではない。城壁の手すりの上を端から端まで歩いたことがある。
動物は大方僕とうまくやってくれる。ロバ、ネズミ、カモメ、モグラ、ペリカン、イルカ。僕は牧場にいたのかもしれないし、競馬場の見習いだったのかもしれない。ドン・ジェンナーロは僕が騎手だったのだといい、暗に僕がチビであることをあてこすった。年齢的には僕は成長期のはずだが、なんとなく背は打ち止めになっている気もする。ただ、ドン・ジェンナーロは説得力のある話し方が得意だ。自分の要求を相手に呑ませることを何十年も続けてきたのだ。それでも、背はやっぱり伸びるかもしれなかった。
一年前、僕がここにあらわれたときのことをきくと、先生はボートに乗ってきたといい、ドン・ジェンナーロは背中を三発撃たれていたと教えてくれる。
つまり、僕は背中を三発撃たれた瀕死の状態でボートに乗り、島にやってきたわけだ。そのときのことは覚えていないが、それは記憶喪失というより意識不明の重体だったせいだろう。
しかし、僕はとても運がいい。
島のまわりは城壁で囲まれていて、そのふもとには波が白く砕ける岩場がある。そこで生きていけるのは頑固な巻貝くらいで、すばしこい魚ですら、岩に打ちつけられて背骨を折ることがあるのだ。
ただ、一か所だけ狭い砂浜があり、僕を乗せたボートはそこにたどり着いた。
城壁にぶつかって、粉々になるという選択肢もあったのだろうが、大自然の采配は僕にチャンスをくれてやることにしたらしい。
「だが、これは助からんな」ドン・ジェンナーロは言った。「三発撃たれてる。背中から。逃げる子どもの背中を三発。この島の薬草師は物知りだし、真面目な男だ。だが、背中を三発撃たれた子どもを助けられるほど腕がいいわけじゃない」
「シセロさまにお伝えしますか?」
「魔法使いのことは忘れろ。領主としての最低限のこともできん馬鹿者だ。どれだけ偉大な魔法使いでも自分の財産をろくに管理できんなら、いったいなんのために相続税を払ったんだ?」
「シセロさまは払ってませんよ。魔法使いは免税の特権があるのです」
「なら、結構。ますます馬鹿者だ」
しかし、僕はドン・ジェンナーロの期待を裏切って助かった。そんなわけで僕は薬草師には一目置いている。
僕が回復してくると、新たな問題がでてきた。
だれが僕を引き取るかが問題になったのだ。
島の雇用は飽和状態で新しい徒弟をほしがっている店はないし、ドン・ジェンナーロはひとりで気ままに暮らしたがった。
大して豊かでもない島では働かざる者食うべからずの風土があったので、若い僕を遊ばせておくわけにもいかず、かといって引き取り先はない。僕の背中に三発浴びせられたのは、僕が生きていると困る人間がいるからだ、というドン・ジェンナーロらしい指摘のせいで島の外に追い出すわけにはいかなくなった。
誰かが先生が助手を欲しがっているから、僕を助手にさせてはどうかと言ったとき、ドン・ジェンナーロはそれなら島の外に出して、もう一度、背中から撃たれるほうがマシだろうと言った。
「シセロの助手? 実験台の間違えじゃないのか?」ドン・ジェンナーロが言った。
「いや、助手がほしいって話でさ」
金物屋のアンツィオが言った。場所は島で唯一の酒場〈棘魚亭〉。暖炉では薪が燃えていて、そこに島の果樹園で仕込んだ火酒のつんとくるにおいが漂っていた。
「罠のにおいがするな」
ドン・ジェンナーロは二十年前、敵対するファミリーのボスと話し合うためにあるカフェに入ろうとしたとき、同じにおいをかぎ、咄嗟に身を伏せたので機関銃の餌食にならずに済んだ経験がある。
「ロンバルド、あんたはどう思う?」
〈棘魚亭〉の店主ロンバルドはそれどころではなかった。商売女のグリエルダが彼の店に客を引き込み、ことに及ぼうとしていたからだ。
ロンバルドは自分の酒場が売春宿のかわりに使われることをひどく嫌がっていた。ロンバルドの考えではこの島には空き家がいくつもあるのに、わざわざグリエルダが彼の酒場に客を引っぱるのは嫌がらせなのだと確信していた。ロンバルドの考えではグリエルダはそこいらの茂みで体を売ればいいと思っていた。
そして、それをグリエルダに口に出して言った。
それをきいたグリエルダはますます〈棘魚亭〉に客を引っぱるようになった。
島民が僕を先生への生贄に捧げるか否かを話しているあいだ、僕の目の前ではグリエルダが大きな胸をカウンターに置き、ロンバルドをポン引き呼ばわりしてもだえ苦しむさまを楽しんでいた。ロンバルドは一心不乱にグラスを磨いて、侮辱に耐えようとしていた。
一方、僕の目は彼女の胸に釘付けだった。
これも後で分かったことだが、先生ほどではないにしても僕もなかなか好きなようだ。少なくとも異性にきちんと興味を持っている。
グリエルダはよく僕を『かわいい坊や』と呼んだ。雑貨屋のロレンツォはよく缶詰を仕入れに島の外に出るので、自分のことを島で一番社会に通じていると思っていたが、そのロレンツォがいうにはグリエルダは男をみんな『坊や』呼ばわりするが、『かわいい』をつけるのは僕だけなのだそうだ。うぬぼれ屋の雑貨屋はいまのうちからグリエルダのために貯金をするといいと忠告した。
「でも、どうやったら貯金ができるの?」
「働けばいい」
「でも、どこで働けばいいの?」
「島一番の金持ちの下で働けばいい」
「島一番の金持ちって?」
「そりゃ、シセロさまだよ。あの人は魔法使いで、島の領主なんだから」
こうして、僕は先生の助手になった。
先生とドン・ジェンナーロ、それに僕の三人はあちこちで様々な怪事件難事件を解決するようになるのだが、そのきっかけは僕が島に流れ着いてから、ちょうど一年後、〈名無しのジョン〉が流れ着いたことだった。
そのころには僕も先生の助手をやるようになってその仕事の勝手が分かり、これなら外の世界に追放されたほうがよかったかなと思い始めていた。僕にとって外の世界とは子どもが背中から撃たれ、そして缶詰がつくられる場所だった。
そのころ、僕の生活は昼夜逆転していた。
先生は滞空照明魔法の開発に必要な月夜草を欲しがっていた。月夜草は島だけに生える草で、この花が光る真夜中に摘んでこいと言われていて、僕は夜通し西風のきつい島の崖だの空き地の草むらだのをかきわけていた。
ぼんやりと光る月夜草を持ち帰ると、先生からは雑草スープみたいなにおいがするとねぎらいの言葉をかけられ、風呂に入って、雑草スープのにおいを念入りに落とし、泥のように眠った。
落下傘花火のさらに強力なものをつくるという衝動にかられた先生は僕を存分にこき使った。
混ぜ方を間違えると体が吹き飛ぶ魔法薬の合成やら魔法書から逃げ出した使い魔を元のページに押し込んだりといろいろやり、さらに炊事洗濯までもが僕の仕事になった。
給料は貯めていたが、貯金の目的は失われた。
グリエルダは島を離れてしまい、島の売春事業は壊滅的な打撃を受けた。
島で体を売る女は彼女ひとりだったのだ。もちろん、居酒屋のロンバルドは喜んだ。これで誰も彼の酒場を売春宿と呼ぶことがなくなったからだ。僕はグリエルダを運んでいった定期客船をぼんやりと眺めた。それは島の東側を通る動力付きの帆船で青いこともあれば、白いこともあるが、グリエルダを運んだ船は彼女の髪と同じ赤い色をしていた。
城壁のそばに月夜草が一本生えていて、それを摘みにいくと、ラクリという青年が挨拶をしてきた。彼はいつも月が出ると、城壁の上の通路に立って、月を眺めるのだが、その日は釣り針みたいな月が空にかかっていた。
「ボートがこっちに来るぞ!」ラクリはまるで海賊の艦隊がやってくるみたいな声をあげた。
「ボートってどんなボートですか!」僕は大声でたずねた。
「分からん。普通の白いボートだ。人が乗ってるみたいだ」
ラクリがそのボートを見に行くには城壁から螺旋階段で下に降りないといけないが、僕はそばに開いている城壁内通路を通れば、簡単に砂浜に降りることができた。まるで距離の問題がそのまま責任に転用されたみたいになり、僕はそのボートの珍客を出迎えるべく、砂浜へと降りていった。ボートがノミの背中くらいに狭い砂浜にたどり着かず、城壁や磯にぶつかって沈没する確率も高かったが、ボートは無事、砂浜に、一年前に僕が流れ着いたのとまったく同じふうに流れ着いた。
そして、僕はそこで初めて〈名無しのジョン〉と出会う。黒いコートを着て、背中を三発撃たれて死んだ白髪まじりの男の死体。〈名無しのジョン〉と名づけたのはドン・ジェンナーロだった。
「身元不明の死体はそう名づけられるのが規則なんだよ」
「女の人の場合は?」
「名無しのジェーン」
「名無しのトムや名無しのマイケルはいないんですか?」
「きいたことがないな」
〈名無しのジョン〉はひとまず剥製屋の家に運ばれた。ボートのほうは波にさらわれないよう引きずって、城壁をくぐり、市街地と城壁のあいだにある空き地に放置された。この島には魔法使いも引退したマフィアのボスもいるのに警察と医者がいなかった。夜警と薬草師で十分だと思っていたのだ。突然あらわれた死体のせいで思わぬことになったが、島民はみなこの謎の死体に関心を持っていた。たぶん背中に三発もらった僕のときよりも注目された。推理小説が世にひろく出まわって以来、人は誰しも他殺体に巡り合う機会を夢見ていた。〈名無しのジョン〉は島をアマチュア探偵だらけにした。〈棘魚亭〉では純粋な推測のみによって成り立った野放図な推理が議論を巻き起こし、雑貨屋のロレンツォは缶詰と一緒に推理小説の専門雑誌を仕入れるようになった。ロレンツォはそんな雑誌を仕入れにいく自分こそ、推理小説の探偵役にふさわしいと思うようになった。これは彼に限った話ではないが、島の人間は島を離れることに乗り気ではないが、一度島を離れると自分が特別な人間になったような気がしてしまうという風土病にかかっていた。
「それをドアホ病と名づけてやる」先生は言った。「かんかんからから、かんからら、アタリ頭のおめでたさ、すくいとったらアホになる、密偵だらけの毛むくじゃら、ドアホチクリのバカ踊り、よいよい」先生は口の悪さはやや独特だった。ドン・ジェンナーロはざっくばらんに『くそポエム』と呼んでいた。
「で、愚民どもはなにを熱心に探っている?」先生は自分以外の人を愚民と呼ぶ。
「〈名無しのジョン〉がどこから来たのかをあれこれ話し合っています」
「〈名無しのジョン〉?」
「はい。ドン・ジェンナーロがそう名づけました」
「あのマフィアの愚民。下らぬ謎かけばらまいて、我が下僕どもを惑わせるとは骨の髄までマフィアなり」先生は島民のことを下僕と呼ぶ。「昔から身元不明の死体は身元不明死体と呼ぶのが習わしだ。きっと〈名無しのジョン〉なんて呼び名は刑務所にぶち込まれて熊看守に仕置きのヘッドロックをかけられたときに耳にしたのだろう。で、その死体、まだ身元は分からんのか?」
〈名無しのジョン〉はその名前にふさわしく、身分や名前を示すものをひとつも持っていなかった。くしゃくしゃになった両切り煙草の箱、マッチ入りの箱、赤い紙幣が二枚だけ入った財布。
「なんだ、それだけしか持っていなかったのか?」
「犯人が盗んだのかもしれません」
「財布に残っていた紙幣は?」
「どこの街でも使われている赤紙幣でした」
「煙草の銘柄は? マッチ箱にはどんな絵があった?」
「煙草は――よく分かりませんけど、先生が吸われているのと同じ銘柄だと思います」
「青い箱に白い星のマークのやつか?」
「はい。それです」
「マッチ箱は? それを売った店やつくった工場の名前は?」
「マッチ箱はありふれた虎の絵です。同じようなものを島の雑貨屋で見かけました」
「同じようなものとは同じに見えて、実際は異なる。おい、我がしもべよ」先生は僕のことを名前のセリアンではなく、しもべ、と呼ぶ。「この眼鏡をかけてみろ」
それはフレームのない繊細なつくりの眼鏡だった。島には不釣り合いな流行の香りがして、先生がこんな眼鏡を持っていることがひどく意外だった。ただ、かけてみるとひどい度が入っていて、まっすぐ歩けそうにない。
「視界の歪みは嘘仕込み。嘘の霊魂、目を曲げる。ほら、そこのクロシュを見てみろ」
クロシュ、とはよく料理の乗った皿に乗せるドーム型の銀のカバーだ。それは先生のおやつにとつくったベリーパイにかぶさっている。ただ、奇妙なことにクロシュがぼんやり薄青い炎のようなものに包まれていた。先生が「ベリーパイは食べた」と僕に言った。すると、薄青い炎は消えてなくなった。クロシュを持ち上げると、たしかにベリーパイはかけらも残さず消えていた。
「この眼鏡は拾い切れぬ詳細の無念を払う眼鏡なり。銀貨頭のほつれ穴、犬頭のキツネ尻」
この眼鏡はまだ知らぬ証拠を探すのに役立つ眼鏡のようだ。つまり、これをかけて、島民に〈名無しのジョン〉についていろいろたずねてみた後、ジョンを見れば、まだ拾われていない小さな証拠が薄青く燃えて見える。ただ、ひとつの問題はこの眼鏡のきつい度だ。これで歩くのは至難の業なのに結構高低差のある市街の階段を上り下りするとあってはピューマのように用心深い生き物でも滑って転んで、あの世行きだ。
「そういえば、先生」
「なんだ?」
「パイは美味しかったですか?」
「悪くないが、店を開けるほどではない」
「そうですか」でも、ベリーパイはかけらも残さず消えていた。
先生の城から外に出て、最初に出会ったのはドン・ジェンナーロだった。
「この島の連中は現場保存ってものを知らんな。アマチュアどもが〈名無しのジョン〉の遺留品を汚い手でベタベタさわって、金細工職人と仕掛け網漁師に至っては自分の煙草をつけるのにジョンのマッチを使いおった。そこに重大な秘密や証拠が隠されているなどとは夢にも思わないらしい。世の警察が同じくらいバカだったら、わしの知り合いのほとんどは刑務所の外で死ねただろうな。ところでその眼鏡はなんだ?」
僕が事情を説明すると、ドン・ジェンナーロの顔は分厚いレンズのなかで蔑みに歪んだ。
「あのドアホ、くそポエムつくるだけでは足りんと見える。探偵仕事に首を突っ込むとはな。だいたいそんなインチキ眼鏡などなくとも謎は解ける」
「本当ですか?」
「この島は大きな湾のなかにある。そして、北に〈樽の街〉、東に〈錆の街〉、南に〈盾の街〉、西の果てには〈塔の街〉がある。この四つの街に〈名無しのジョン〉にそっくりな行方不明者がいないか照会すればいい」
「そう言われれば、そうですね。でも、どうやって相手と交信したらいいんでしょう? この島には電報も電話もないですし」
「そうなんだ。せっかく解決の糸口が見えても、結局、この島が持ち主同様ドアホであるがために、わしの解決策がパアになるんだ」
眼鏡をかけたまま、暗くなって灯がともるまで歩きまわって島じゅうの証言を集め、剥製屋に向かってみた。剥製屋は変わり者で有名だった。この島の人間は大なり小なり変わり者だけれども、剥製屋の変わり者の度合いはなかなか真似できるものではなかった。食事用テーブルのすぐ隣に作業台を設けていて、そこに〈名無しのジョン〉が横たえられていること、それひとつとっても変わり者だ。剥製屋は死んだジョンのすぐ横で物を食べ、飲み、結婚当時の気持ちを忘れないために週に一度送り合うラブレターの文面を考えたりする(この習慣は遠くない将来、彼の奥さんが地ならし機のセールスマンと駆け落ちした後も続くことになる)。僕がやってきたときは夕食中で、煮込んだ鶏肉から外れた骨を一心不乱に磨いていた。〈名無しのジョン〉はというと、そのコートの右のポケットから薄青い炎が上がっている。ポケットをひっくり返してみたが、なにも見つからない。そこはちょうど影になっていて、ものが見えにくかった。そこで火ばさみで暖炉の熾きをひとつつかんで、そばに寄せた。パチンと音がして小さな火花がコートに焦げた穴をつくった。この島の大多数の基準によれば、まず証拠を台無しにすることが探偵の第一歩なので、これで僕もめでたく探偵になれた。コートは焦がしたが、新しいポケットの中身を見つけることはできた。小さくて平らな種だ。細長いひし形で濃い色をしている。それがひと粒。
「月夜草の種だな」先生が言った。
「でも、先生、月夜草はこの島にしか生えない植物ですよ」
「つまり、死体は島の外から来たのではなく、島のなかから来たかもしれないということだ」
この発見はしばらくのあいだ、島民を夢中にした。犯人が島民のなかにいると考えるのは外国を旅行するみたいにわくわくした。月夜草は島のあちこちに生えているが、いまの時期に種をつくるのは特別早熟な西の崖の月夜草だ。探偵たちは西の崖を押し合いへし合いして月夜草を踏みつぶしながら手がかりをさぐった。ただひとり、これに加わらなかったのはドン・ジェンナーロだけだった。彼はジョンが死んだのは大陸の街で、そのいずれかからボートで流されたという説に固執した。先生は古い時代の魔女裁判の本を読み、ドン・ジェンナーロを仲間外れにして火あぶりにできないか判例を調べていた。だが、それは徒労に終わっただろう。ドン・ジェンナーロは先生よりももっと狡賢くて勤勉な法律家の追及を何度もかわしたことがあるからだ。
「でも、確かにおかしいですよね」僕はドン・ジェンナーロがコーヒーを淹れるというので彼の家で相伴にあずかった。「だって〈名無しのジョン〉が島のなかにいたのを見たことのある人はいないんですよ? この島は狭いから誰にも見られないでいるのは無理だと思うし、そもそもあの小さな浜辺からしか行き来はできないわけですし」
「この島でドアホではないのは、わしとお前さんだけだな。セリアン」
「でも、月夜草の種がポケットから見つかったのは事実です」
「たったのひと粒だ」
ドン・ジェンナーロは種は別に直接ここに来なくてもつけることができるという仮説をぶち上げた。島の誰かが種をつけて、大陸の街に出かけ、そこで〈名無しのジョン〉と接触すればいい。かなり偶然に頼ったいいかげんな推理だが、ドン・ジェンナーロにしてはこれでも大人しいほうだ。のちに彼は密室殺人や巧妙な消失トリックにぶつかるたびに関係した警官たちの買収を疑うことになる。彼のマフィアとしての経験は金で買えない警官はいないと常にベルを鳴らし続けるのだ。
「でも、そんな簡単に月夜草の種ってくっつくものでしょうか?」
「髪を手ぐしですいてみろ」
三度すいてみると、確かに月夜草の種がふた粒髪に絡んでいた。
「おかしいですね。今日は月夜草を取りには言っていないんですが」
「別に不思議じゃない」
ドン・ジェンナーロは自分の灰色の顎鬚をさっさと指で撫でた。すると、小さな種が見つかった。ドン・ジェンナーロ曰く、月夜草の種は少量ならどこにいてもくっつくのだという。タンポポみたいなものだが、月夜草に綿はない。
「だが、飛ぶんだ。凧みたいな形をしてて、重さもほとんどないからな」
軽々飛び回る月夜草の種を見て、ふと思いついたことがある。大したことじゃないのかもしれないが、ひょっとしたら……。
翌日、僕は先生の発光石をマントに隠して無断で持ち出し、島の西にある崖へと運んだ。このあたりで月夜草を取ろうとして何度も強い西風にさらわれそうになったことがある。そのたびに地面の雑草にしがみついていたから、気づかなかったが、この西風は相当な数の月夜草の種を東へと、つまり海のほうへと飛ばしていた。その飛んでいく先には定期航路がある。
客船があらわれるたびに僕は望遠鏡を覗いた。青い船には青い救命ボート、黒い船には黒い救命ボート、そして赤い船――僕の貯金目標をさらっていった船には赤い救命ボートが湾曲した鉄の腕に吊るしてあった。なら、白いボートは白い客船から流れてきたのではないか? 昨日、〈名無しのジョン〉が乗っていたボートを見たが、それは太陽に食われた砂のように真っ白だった。島の向こうに太陽が沈み、もう薄暗くなり始めたころ、やっとそれはやってきた。白い帆船は暮れ染め残った星屑の下を悠々と北へ向かっている。先生の書庫にあった光の明滅信号コード表を片手に発光石のマントをはいだりかけたりした。
『貴船ニ行方不明者ハイマスカ?』
返事はなかった。仮説の立て方が間違っていたか、それとも〈名無しのジョン〉が出てこられると困るのか。それとも、ただ気づいてないだけか。二度、三度とメッセージを送ったが、客船からの反応はない。自分の間違いだったかと思い、あきらめかけたとき、この一週間、こつこつ集めた月夜草が大きな閃光とともに島じゅうに降り注いだ。島の上には小さな太陽が二度、威嚇するように光を膨らませ、航行中の船はもちろんのこと、〈錆の街〉や〈盾の街〉の住人までが忘れ去られた魔法使いの島の空を世界の再生がそこで行われたかのごとく見上げたのだ。
僕は先生が見守っているような気がした。それが錯覚でも構わない。僕はもう一度、点滅信号を送った。
『貴船ニ行方不明者ハイマスカ?』
結論から言えば、行方不明者はいた。〈名無しのジョン〉の本名はフランチェスコ・キスカ。二日前、メネデ侯爵号から消えた〈鋼の街〉の大富豪だ。その後の捜査でキスカ氏の妻とその愛人が財産目的の殺人で逮捕された。実行犯は愛人の男で、メネデ侯爵号でキスカ氏を殺していったん救命ボートに隠し、隙を見て海に沈めるつもりだったが、オモリに使う予定で隠していた鎖のそばで船上ダンスパーティの会場がつくられてしまい、仕方なくボートを下ろして、死体をそのまま外に流した。
だが、犯人の逮捕や取り調べ、事件の全貌が明らかになった裁判などは全て島の外で行われた。それどころか事件そのものは全島民にとって極めて不愉快な結末をもたらした。キスカ氏が船から行方知らずになった晩、船に設置されていた無電通信機でキスカ氏行方不明が知らされ、島にキスカ氏が〈名無しのジョン〉としてお忍びで来訪したころには電信によって〈崖の街〉や〈塵の街〉、〈樹の街〉といった開拓地にまで大富豪行方不明の知らせが飛んでいた。世界でそのことを知らなかったのは島に住む僕たちだけだったのだ。むしろ、そちらのほうがニュースになった。僕らの隔絶ぶりは面白おかしくジョークのネタにされ、新聞はコラムをつくって、この世の僻地をあざ笑った。
「今度〈名無しのジョン〉が流れてきたら、また海に流し戻してやる」とは何度も島の外に買い出しに行きながら、これっぽっちもキスカ氏行方不明事件の情報に接しなかった雑貨屋のロレンツォの談だ。でも、これは島民全員の意見と思ってくれていい。
それにもうひとつの問題は先生とドン・ジェンナーロのあいだで勃発した。先生はメネデ侯爵号が航行していた海域は島の範囲に含まれる、よって〈名無しのジョン〉は島にいたという推理は正しかったといい、ドン・ジェンナーロのほうは船は船の持ち主の街の権力が及ぶので、〈名無しのジョン〉は外の街にいたという推理は正しかったと言い張った。正反対の主張を繰り返すことの愚については詳しく書かないが、ひとつ確かなことは先生とドン・ジェンナーロは事件というものに魅せられたということだ。ふたりとも絶対に認めないが、傍目から見ていればそれは明らかだった。元々学究肌だった先生には謎を解き明かすのが心地よく、ドン・ジェンナーロにとっては自分が犯人ではない事件に関わることは実に新鮮だった。
「先生はどうして、あのとき照明魔法を使ったんですか?」
「感謝の言葉はすり減るぞ」
「は?」
「しもべよ。いまのお前にはわたしに対し、ありがとうを言おうとしている気配がする。だが、人間の感情はハサミの砥ぎ車、あてればあてるだけすり減っていく。だから、しもべよ、わたしにありがとうを言いたいなら、ここぞというときのためにとっておくがいい」
「は、はい」言い忘れたが、先生は結構恥ずかしがり屋だ。
「それより、しもべよ。今日のパイはまだか?」
「え? でも、あれ、お店を開くほどのものではないというのでつくってませんよ。お店から買ってくる予定ですけど」
先生は頬をふくらませた。
「冗談です。ちゃんとつくってます。今日のパイはアップルパイですよ」
厨房へアップルパイを切りに行き、銀のクロシュをかぶせたとき、僕は勝手口のドアの下に手紙が一枚挟んでいるのを見つけた。先生の城館には郵便ポストがないので、なにかが届くと勝手口に挟まれることになっている。たぶん大陸の書店から来た請求書だろうと思い、拾ってみると、
〈魔法使いの島〉
シセロ・イルグレッツァ様 気付
セリアン様
僕への手紙だ。ひっくり返してみると、送り主には、
世界探偵協会
と、あった。
その手紙が先生とドン・ジェンナーロと僕のその後の運命をしっちゃかめっちゃかにかきまわすことになるのだけれど、それはまた別のお話――。