私、匂いませんから! ~デートの相手は、前世の夫、犬獣人~
「もう! すっごいカッコいいし、スマートだし、サッカーうまいし! 絶対、季璃ちゃん、気に入るから!」
「はいはい。そんなにいい人なら、絵里が付き合えばいいじゃない」
「もう! 絵里には、大くんがいるの!」
ぷうっと膨れて隣を歩く親友、中森絵里は文句なく、可愛い。
小柄な体にホンワカした雰囲気。顔の横でカールした茶色の髪が揺れる。和み系。
彼氏の日田大くんは、さぞやいつも癒されているに違いない。
(くう!不幸にしたら許さないからね!)
絵里は幼稚園からずっと付き合いが続く、大親友だ。
高校も同じ、津々良の森高校に通っている。
そんな絵里が日田君と付き合い出したのは、二ヶ月前。
駅前で荷物が多くて困っているおばあさんの荷物を持ってあげようと、絵里はおばあさんに近づき声をかけた。が、如何せん、思いのほか荷物が重かった。その悪戦苦闘している絵里の手から、荷物を持ち上げてくれたのが、日田くんだった。
2人はおばあさんを家まで送った後、一休みにとお茶したのが、知り合うきっかけ。そして瞬く間にお付き合いするようになった。
(そこまではいい)
絵里は男子と付き合うのが、とても幸せで、楽しい。
これは親友である季璃にも早く味わってほしいと彼女は思った。
そしてその思いのまま、季璃にダブルデートしようとの誘いをかけてきた。
元々絵里は少女漫画が大好きで、夢見る乙女な一面が多大にあった。
大して自分はそれほど、恋愛に対して興味はなかった。
それよりも将来何になるかについて悩んでいた。
目標を決めて努力したい。その努力が見つからない。
早く見つけたい。気ばかりあせる。
絵里にもそう話した事があった。
が、彼女曰く。焦らない焦らない。大丈夫。季璃なら見つけられるよぅ、との事。
ちなみに、絵里に目標を聞いてみたら、大くんのお嫁さんと、何とも乙女な返事が返ってきて、脱力したのはまだ記憶に新しい。
(まあ、絵里の場合、それはそれでありかも)
白いフリルのエプロンが似合いそうだ。
(う、私枯れてるを通り越して親父かも)
よぎった考えに打たれ、季璃は肩を落とす。
「季璃ちゃん大丈夫? 具合悪いの?」
そんな季璃を心配して、絵里が顔を覗き込んで来た。
「大丈夫だよ。それより待ち合わせ場所はあそこ?」
「うん。この公園の時計塔の下」
この公園、時の公園は、その名の通り、中央に大きな煉瓦の時計塔があった。
今日はとうとう絵里のお願いから逃れられなくなった季璃が観念して、先ほど絵里がべた褒めしていた彼、紫原清孝と自分、絵里と絵里の彼氏の日田くんとのダブルデートする日だ。
「いい? これは絵里の顔を立てて会うだけだからね。次はないの」
「わかってるよう。でもこれで紫原くんを気に入ってくれたら、今後も仲良く遊べるし、そこまでじゃなくても、男の子と出掛けて遊ぶ楽しさをわかってもらえたらいいなあと思って」
聞きようによっては、危ない発言である。
しかし、絵里は百パーセント善意だろう。
(あぶないわ。男子と女子の遊ぶの意味合いが違うのをまるでわかってない。これは日田くんにしっかりと管理してもらわなければ)
季璃はあとでこっそり日田に、親友の監視強化のお願いをしておこうと心に決めた。
「あ、2人もあっちからちょうど来たところみたい。わーい、大くーん!」
絵里の声に、前方にある時計台方向へ目を向ける。
と、そこに日田と、日田よりも少し背の高い男子が歩いていた。
遠目でもわかる、茶色の髪、スタイルもいい。
これは間違いなく、モテる。そしてそれを自身が知っている。
(あーこれは、日田くんに頼まれて仕方なく来たのかも)
絵里のわがままにつき合わされたのだとしたら、なんとも申し訳ない。
そう思いつつ、ちょうど時計塔の前で、2人と合流。
挨拶しようといた矢先、先ほどの愁傷な思いは吹っ飛んだ。
「うわ!すっごい匂い!」
開口一番。初対面の女の子に向けた第一声。
色素の薄い茶色の瞳を見開いて、というおまけつき。
(な、なによ!)
怒りに両手が震え。更に勢いよく右手があがる。
「お風呂には、ちゃんと入ってるからああああああ!」
唸りをあげ、彼の頬にさく裂したのは当然で。
「あ‥」
平手を食らった男は呆然とこちらを見つめる。
季璃はキッと男を睨むと、拳を握りしめた。
「ばかああああ!!」
もはやデートなぞ論外。
季璃は、ばっと元来た道を駆け出して、その場を走り去った。
五分後。
「全く! 何が紳士でスマートよ! あんな失礼なやついないっての!」
公園から遠く離れてやっと速度を緩めた季璃は、まだ怒りを治められずにいた。
絵里を置いてきてしまったが、日田もいるし、大丈夫だろう。
「ああもう、むかつく!」
ぎりっと唇を噛んだ。
と、その時突然季璃の頭を何かがよぎる。
(あれ? 前にもこんな事がなかったっけ?)
友達の紹介。気が進まぬまま会った。
そしてさっきと同じセリフを聞いたような。
ズキン。
「うっ!」
刹那、頭を襲う強烈な痛み。
「ああ!あつっ!」
立っていられず、季璃はうずくまり、頭を抱えた。
それでも止まらぬ痛み。それは更に加速して。
「あああああああ!!」
あまりの痛みに季璃はその場で気を失った。
<オーレリア、僕の番。君をずっと愛し続けると誓う>
<ああ、なんていい匂い。ずっと嗅いでいたい。いい?>
「言い訳ないでしょ! やめて! フォルト!」
そう叫んだ己の声で、季璃はぱちりと目を覚ました。
「あれ?」
自分はいったいどうしたのか。
なぜ自分は見知らぬベッドに寝ているのか。
白い天井。味気ないベッド。顔の脇には呼出ブザー。
これはどう見ても病院。
(はて?)
そう思った矢先。
「季璃!」
心配そうな顔をした母親が、横たわった季璃の手を握った。
「大丈夫? あなた、街中で突然倒れて、救急車で運ばれたのよ!」
「え」
「もう! 母さんびっくりして! いったい何があったの?! 今も急に叫び出して!どうしたの?どこか痛いところは?」
「あ、ううん。大丈夫。痛いところないよ。貧血かも。急に目の前が暗くなったから。はは、ダイエットのしすぎ?」
「ばか! もうダイエットなんてやめなさい! 健康が一番なんだから! 本当に痛いところないのね!」
「うん」
「そう。じゃあ、お母さん、貴方の目が覚めたと看護師さんに知らせてくるわ。それとお父さんにも電話してくるから、貴方は大人しくしてなさいね」
「はい」
そう告げると、母は涙を隠すように病室を出て行った。
「ああ、記憶が溢れて頭が耐えられなくて、気絶しちゃったのね」
季璃は天井を見て呟いた。
あの最低男とのデジャヴ。あれがきっかけ。間違いない。
「あの紫原は、フォルトだわ」
ここに転生する以前の、自分の夫だった男だ。
「ああ、これはややこしい事になりそうだわ」
季璃は両手を頭にやり、呻いた。
この現代に転生する前。
季璃こと、松田季璃は今とはまったく違う世界、いわゆる異世界にいた。
その世界は、人間の他、獣人、エルフなど、様々な種族が共存していた。
季璃が暮らしていた町は、タマリア王国の王都カフェドニアから大分離れた町、ソリア。
その町北側に広がる森で、大きな魔物、四つの頭を持つ、ゴルゾディアスネイクが現れた。冒険者では退治は難しく、その為、国から魔物討伐部隊が派遣された。
その討伐部隊の副隊長がフォルトだった。
町で一番大きな宿で働いていた私はそこで、初めてフォルトと出会った。
(その出会いが、あの紫原と同じだったわね)
人をすごい悪臭持ちみたいな言い方されて。
あの時も思いっきり、彼を殴りつけた。
(そう。あの時は、グーパンチだった)
あの後、その匂いというのは、番特有の匂い。
彼は突然その匂いに当てられ、失言してしまったと後から謝られた。
それでも彼の悪印象は変わらず、最初の内は無視をしていた。
だが、彼は諦めなかった。
そう。獣人が番を諦めるなどあり得ない。
ましてや、彼は犬の獣人だった。人に忠実。番には特に忠実。
まさに前世の自分、オーレリアに尽くす姿は、まさに犬の獣人そのものだった。
その態度に加え、彼の容姿も、オーレリア陥落に一役買っていた。
今の紫原と同様、とても恰好がよかった。
髪は今よりも更に色素が薄い。金。愁いを帯びた碧眼。王都育ちの洗練されたふるまい。
そして極め付け、もふもふの耳にしっぽ。かっこいいのに可愛いときた。
(これで落ちない女はいないわよね)
そう、自分も最初の意地はどこへやら。あっけなく陥落すると、あっという間に王都に連れ去られてしまった。
(まあ。彼と結婚して後悔はなかったわね)
幸せだったし、彼も自分を大切にしてくれた。
でも、密かに胸にひっかかっていた小さなトゲ。
彼は容姿端麗、仕事も立派。比べ、自分は彼に愛されている以外、何もなくて、できなくて。
もちろん自分ができる事は最大限やったけど。どうしても、まだ足りない気がして。
彼をもっと助けられないか。自分は彼にもらったたくさんの幸せと同等を返せているのか。
(結局、死ぬまでそれは残ったままだった)
全く厄介で面倒くさい性格だ。
その性格は今も引き継いでいる。
(いつも目標を探しているのは、この前世を引きずってるからか)
そして彼もやはり前世と同様。人より抜きんでている。
自分はあの頃と同じ。平凡で。
前世幸せだったけれど。同じ気持ちになる可能性大。
(あんな思い、繰り返したくない)
季璃はきつく目を瞑る。
幸い、彼とはまだ知り合ったばかりだ。
そして今の彼は獣人ではない。前世風に言えば、ただの人族。
番という考えはない、筈。
まだ自分は彼を好きになっていない。会話らしい会話すらしていない。
だから、このまま会わなければ、いい。
ちらりと彼が発した言葉が気になるけど。
敢えてそれは無視をする。そう無視。
「前世の私は、別人。紫原くんもフォルトじゃないし、獣人でもない! だから大丈夫!」
季璃は両手を天井に突き上げ、宣誓する。
そうしてやっと心が落ち着きを取り戻した。
(今日は色々あって疲れた)
ゆっくり寝て、彼のことなど忘れてしまおう。
季璃は目を閉じ、思考を断ち切った。
「そう思ったのに。なぜ彼がうちの学校の校門の前にいる」
季璃が病院を退院して2日後。
教室の窓から季璃は彼を睨みつけた。
「絵里、ちゃんと彼に伝えてくれたんだよね?」
「もちろん、伝えたよぅ。季璃ちゃんは、もう怒ってないって。お互い悪かったから謝罪は不要。初対面からああなっちゃったし、きまり悪いからもう会わずにすませたいってちゃんと、大くんとお話したもん」
「じゃあなんで、彼はいるのかしら? まさか絵里、私が入院したこと言った?」
「い、言ってない! 季璃ちゃんにきつく口止めされたでしょ! 絵里はそれちゃんと守ったから!」
「じゃあなんで」
「それは、きっとそれじゃ彼の気が済まないからじゃない? ほら女の子にすっごい失礼な事言っちゃったら。彼、紳士だから」
「本当の紳士だったら、あの言葉は最初からないし、女の子の意向もちゃんと受け入れてくれる筈だわ」
「う。でもどうする? 季璃ちゃん」
「仕方ないわ。一度だけ彼と話しましょうか」
ここで逃げ出して、季璃が会うまで来られても面倒だ。
季璃は大きなため息をつくと踵を返した。
「季璃ちゃんがんばってねえ」
絵里の能天気な声援に、季璃はもう一度ため息をついた。
「会ってくれてありがとう」
「いえ」
学校の校門から彼を引き連れ、知り合いに会わないよう、少し遠く離れた喫茶店に2人は向かい合って座っていた。
季璃の不機嫌さに気が付いている筈なのに、紫原はにこやかな笑顔だ。
どうにも今世の彼は、昔より癖が強い気がする。
(いや、フォルトもこんなだったかな?)
どうにも彼を目の前にすると、余計前世を思い起こしてしまう。
自然眉間に皺の寄った顔を隠そうと、紅茶の入ったカップに手にとった。
(とにかく早めに終わりにしよう)
ここまで来たら、仕方がない。彼の話したい事をきいて、切り上げる。
そう決めて、顔ををあげると、彼が背筋を伸ばし、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
思わず季璃も姿勢を正す。
「この前はごめん。女の子にあんな失礼な言葉を言ってしまって」
彼は深々と頭を下げた。
「いえ。もう過ぎた事ですから。私もお返ししましたし、あれでチャラでしょう」
季璃は言われた当初より怒りはない。
前世を思い出した事で、納得したから。
彼が思い出しているか否かわからない。
だが、彼はあの時、きっと前世に今世が引っ張られたに違いない。
(番の香りって獣人にとってたまらなく惹き付けられる香りらしいから)
「ありがとう。ただ、言わせて欲しい。決して君が衛生的に不潔な匂いを発していたという事では決してない。僕にとって、君の香りは頭を揺さぶられるほどの香りで。こう甘く、いつまでも嗅いでいたいような」
「もういいですから! わかりました! だからやめてください! 恥ずかしいです!」
まったく。真顔で何を説明しているのか。
こっちが恥ずかしい。
(人の匂いの話なんて、普通、会って2度目で話す内容じゃないでしょう!)
むうっと季璃は紫原を睨んだ。
「ごめん。どうも僕は君を怒らせてばかりだ」
「いいえ! でも、匂いの話は終わり! 謝罪も受け取りました! だから私たちが会う理由ももうありませんね。では失礼します!」
季璃はそう言って席を立った。
「待って」
そんな季璃の手を紫原が掴んだ。
「まだ何か?」
「謝罪だけなんて、僕の気がすまない。どうか償いをさせてくれ」
「償いなんて、必要ありません。そんな大それた事されたわけじゃないですから」
「いや、君を傷つけてしまっただろう。それに、君は僕たちと別れた後、倒れて救急車で運ばれたって」
「なんで知って。絵里は言ってないって、あ」
「そう、大から聞いた」
絵里には口止めしたけど、日田にはしてない。
詰めが甘かった。季璃は唇を噛む。
「倒れたのは、貧血です! 貴方のせいではありません。貴方が気にする必要はありません!」
「いや、急に走ったのも一因だろう。そして走らせた原因は僕にある。どうか償いをさせて」
上目遣いに切々と訴えるのはやめて欲しい。
その眼には弱い。フォルトと重なる。
フォルトも自分の魅力を知っていて、オーレリアを説得にこの技を使っていた。
そうとわかってもオーレリアと同様、季璃も逆らえない。
「わ、わかりました。わかりましたから、手を放して」
「ありがとう」
「もう」
季璃はもう一度座りなおした。
「それで? どうしたいんですか?」
「当初の目的を果たさせてほしい」
「当初の目的?」
「ほら、異性と出掛けるのは楽しいと思ってもらう事」
「ああ」
「だから、君が楽しいと感じるまで、僕は付き合うよ」
「は?」
「ん?」
「今の言い方だと、遊ぶのは一度ではなく、何回もというニュアンスに聞こえるですが、気のせいかしら」
「そうだよ。実感するのは一度ではわからないだろう」
「いえ、わかる! きっとわかるはず」
「大丈夫。僕も楽しむから」
何が大丈夫なのか。
そういえば、フォルトは気になる事はとことん追求する奴だった。
彼の中で何かがひっかかってるのかもしれない。
(まずい、まずい)
季璃は心の中で冷や汗をかく。
これは早々に決着をつけなければ。
しかし、この勝負(?)勝てる気がしない。
にこやかにこちらを見つめるクオーターの少年を、季璃はなすすべもなく見つめた。
予感的中。
あれから彼はサッカー部で忙しい筈なのだが、なぜか時間を見つけては季璃に会いにきた。連絡もまめにしてくる。そしてなぜか彼が季璃に会いに来れない時には、季璃が彼の学校にサッカーの練習を見に行く羽目になっていた。
(まずい。なんでこうなった)
今日も、サッカー部の貴重な休みに、こうして二人で会っている。
映画を観た帰り、少し公園で休もうとベンチにいる。
ちなみに今彼は飲み物を買ってくると、季璃の傍を少し離れている。
あれから季璃は何度、彼にもう十分だからと切り出そうとした。
しかし彼はそれを察知するのが上手く、するりとかわされてしまう。
(こうして彼と会うのが楽しくなって来たのもいけない)
そう。最初のうちは早く彼と離れよう、縁を切ろうとしていたのだが。
映画に行ったり。食事をしたり。絵里たちと出掛けたり。それが想像以上に楽しくて。
(だからこうしてずるずるきてしまったのよねえ)
そう。楽しい。楽しいすぎる。
このままずっと彼と一緒に過ごしたいと思うほど。
(でも)
もう前世のような思いはしたくない。
幸せだけど、どこか苦しい。
真面目すぎる。と、言われればそれまで。
彼の役に立つかどうかなんて関係ない、好きという想いがあればいい。
そう思える強さが、オーレリアにはなかった。
そしてきっと季璃にもない。
(妙に考えすぎるのも考え物ね)
季璃は自嘲した。
ましてや、今世はまだ高校生。このままずっと一緒に居られる可能性はかぎりなく低い。
これ以上彼に心を許す前に。
(やっぱり離れなくちゃ)
そう思っても。
「季璃」
こうして彼に優しく呼ばれると、胸がぎゅっと締め付けれれる。
離れたくないと思ってしまう。
「オレンジでよかった?」
「え、ええ。ありがとう」
「どういたしまして」
少しはにかむ顔に、泣きたくなるのはなぜなのか。
「清孝」
と、その時、不意に彼の名前が呼ばれた。
その声は凛として。彼が振り返った先にその人物はいた。
すらりとした豪奢な美人。伸びた背に流れるボリュームのある髪。適度なウェーブがかかり、彼女を引き立てている。きりりとした目元。紅を引いたような紅い唇。
白いワンピースがよく似合っていた。
「百合原先輩、どうしてここに?」
「ふふ。公園の脇の道で貴方を見かけて。ちょうどよかった。貴方に話があったの。今いい?」
「すいません。連れがいるので。話は明日学校でお聞きします」
「あら、そちらお友達?」
(この人。まるで今気づいたように言ってるけど。絶対最初から気づいていたよね)
それを敢えて無視するとか。
ある意味尊敬する。自分にはできない。
(自分に自信があるんだ)
怒りはなく、感心してしまう。
そしてそうしてしまうほど、きっと紫原に興味あるのだろう。
(うん。こうしてみると、2人はお似合いだよね。美男美女で)
考えた途端。ずきりと胸が痛む。
それを無視して季璃はジュースをベンチに置くと、立ち上がった。
これはいい機会かもしれない。
「あの! もう、用事はすみましたから。よかったら、この後、2人で行ってください」
「季璃?」
紫原が不審げに眉を顰める。
「紫原くん! 今までありがとう! もう十分! 十分だから! これで終わりにしよう!」
季璃は紫原の返事を待たず、くるりと二人に背を向けると全力で走り出した。
「季璃!?」
彼の驚いた声を振り切って。
どれだけ走ったのか。どこを走ったのか。
季璃は全くわからなかった。
あの二人から離れたくて。あの二人の並んだ姿を見たくなくて。
気が付いたら、鉄道の橋がかかった、川辺に来ていた。
「はあはあ」
季璃は橋脚に疲れた身体を預けて俯いた。
これでいい。これでよかったんだ。
もう前世のような苦しい気持ちはしたくなかった筈なんだから。
笑った陰に苦しさを隠すうしろめたさを感じたくなかったんだから。
(なのに)
なぜ、こうしてしまったほうが、より苦しさを感じるのか。
自分から離れたくせに、なぜこうも会いたいと思ってしまうのか。
(私ってばか?)
膝を抱え、季璃は涙がせり上がってくるのを感じた。
「季璃」
びくりと身体が跳ねる。
突然呼ばれた。涼やかな声。けれど、今はとても固い。
(なんで)
今、最も聞きたくて聞きたくない声が、彼女の頭上から降る。
おそるおそる見上げた先には、置いて来た筈の彼。
物凄く不機嫌な顔が、季璃の顔を見た途端、苦し気に歪んだ。
「君はずるい」
「え?」
「僕を置いて逃げたのは君なのに、そんな涙を浮かべて、僕の追求を逃れようとするなんて」
「ちがっ」
「違わない。君は知ってるんだ。そんな顔をした君を、僕が責められない事を。慰めずにいられない事を」
「っ」
季璃は返す言葉を失って、顔を膝に隠した。
「また、そうやって僕から逃げるの? どうして?」
「り、理由はさっき言ったっ」
下を向いたまま叫んだせいで、声がくぐもる。
でも顔は上げられない。あげたら、こらえている涙がこぼれてしまう。
「もういいの! もう十分なの!」
「だから、ほおっておけと」
彼の口から出た言葉に、またもびくりと身体動いた。
痛い。自分で言うよりもはるかに。
「うそつきだな、季璃は」
「うそじゃ」
「じゃあ、なんで、泣いてるの?」
「な、泣いてなんか」
「じゃあ、顔を見せてごらん」
「だめ!」
季璃の制止を気にもとめず、彼は彼女の前にひざまずくと、季璃の顔をそっと持ち上げる。
「季璃は本当うそつきだな。そして、強情だ」
「じゃあ、ほうっておけばいい」
「それはできないそうにないね。僕は季璃を愛してるから」
季璃の息が止まる。
「愛している。愛してる。ああ、ずっとこの言葉を言いたかった」
涙にぬれた季璃の目元に彼は唇を落とす。
「だめ、だめなの」
季璃はもはや考えられなくて、彼の口を両手でおさえる。
「なぜ?」
彼は口元にある彼女の指先にも唇を寄せる。
その切ないまでの軽い触れ合いが、季璃を大きく揺さぶる。
季璃はただただ、頭をフルフルと振る。
受け入れたい。受け入れられない。受け入れたい。
そこまで考えて、季璃は大きく目を見開いた。
(ああ、私、もうとっくに彼に落ちていたんだ)
どうしよう。どうしたらいい。
もう季璃には判断がつかなくなっていた。
それを見透かしたかのように彼は言葉を繋ぐ。
「季璃、君が僕とのことで、何か悩んで必死に壁を作ろうとしていた事には気づいていたよ」
彼は季璃の指に一つ一つキスをする。まるで鎖のように。
「でもね。僕は君を見つけた日から、放すつもりは一切なかった。だからね、季璃、諦めて、僕のものになって?」
溶けるような甘さを含んだ眼差しで季璃を見つめる。
それはまるで、じわじわとしみこむ、甘い毒のよう。
季璃は最後の抵抗で、指に力を入れる。
「これでもだめ? 季璃は本当、強情だなあ」
紫原はとうとう季璃をその厚い胸におさめた。
そして彼女の耳元で囁く。
「季璃、これ以上逃げてごらん。僕は、君を誰も目の届かないところに閉じ込めてしまうよ。僕だけを見て。僕だけの声だけしか聞こえないところへ。そうすれば、きっと君も逃げ出す気もなくなるだろう?」
「!」
その言葉に季璃は顔をあげ、彼を見る。
彼の瞳の奥はどこかぞくりとするほど危うい。
後少しで、本当に彼は堕ちてしまう。
(ああ、もうだめ)
これは観念するしかない。
彼はどんなに時が経っても変わらない。季璃の傍から離れない。
(自分も、もう離れられない)
何を理由にしても、やはり彼を好きになってしまった。
自分の気持ちになんとか折り合いをつけていかなければならない。
(幸い、時間はたっぷりある。そして前世よりも努力できる環境も)
これから頑張ればいい。
「季璃?」
まずはきっと季璃が逃げた事で傷つけてしまった彼に謝らなければ。
そして救いあげないと。
(バッドエンドはごめんだわ)
季璃はそっと両手で彼の顔を包み込む。
「ごめんね。もう逃げないから。追ってきてくれてありがとう」
そうして彼の唇に、自分の唇を寄せた。
今世こそ、なんの憂いもなく、幸せになると誓って。
匂いをテーマに何か書きたいと思い、出来上がった作品です。
恋愛メインで書くのって難しいですね。
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