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「まさに間一髪」
色香の漂う女の声が葉桜の耳に届き、彼女は自らの無事を認識した。
見下ろす足元を土砂の残りが流れていく。
「助かったわ。葛の葉」
安堵のため息と共に視線を上げた葉桜が見るのは、ハタチを少し過ぎたと思われる年上の女性。
いや、女性と言い切っていいものか。
彼女は葉桜の手を握ったまま何もない宙に留まり、髪を下した頭からは狐のようなとがった耳を見せている。
そして、幼い葛の葉には少し大きかった着物の胸元は、大きく成長した豊満な胸をどうにか隠し、完全に大人に変貌したなまめかしい足を惜しげもなくさらしていた。
「さて、あたしがこの姿をさらしたからには、生きては返さないよ」
式神葛の葉。
大きな九つの尻尾が風に揺れる。
切れ長の、金の瞳が山肌を撫でた。
「狐火、煉獄」
唇の前に立てた、人差し指と中指の間に吹き込む息が蒼い烈火となり、山の斜面の木々を撫でていく。
「葛の葉っ」
慌てた葉桜の声は、熱を持たない炎に溶けた。
「霊力の炎は物を燃やしたりはしない。
もちろん、燃やす炎も出せるけど?」
ゆっくりと高度を下げる葛の葉の唇が妖艶に微笑んだ。
「憑き物は?」
「消えたね」
葉桜に答えた葛の葉が、悔しそうに大きく髪をかきあげる。
崩れた大地を避けるように降り立つ彼女が、葉桜の手を離した。
「ほら、背中に負ぶさるかい」
背中を向けた葛の葉の細くくびれた腰から広がる曲線美に、丈の短い着物の裾から覗く、白くしなやかな足に、恥ずかしさを覚えた葉桜が視線を逸らす。
「なんで負ぶさらなくちゃならないのよ」
自分より、頭ひとつ分は背の高い葛の葉が顔だけをこちらに振り返った。
「豆葛の葉が言ってたろう。
いざとなったら背負って走ってやるって。
なんの義理もない山村の、つまらない要件に巻き込まれていたら、いつになっても帰れないぞ。
ほら」
もちろん葉桜が自ら負ぶさるわけが無いとわかっていてからかっているのは、葉桜もわかっている。
「そんな訳にはいかないわ」
頼ってくれた宿の女将や番頭のためにも、何かが起きているとわかっていてそのままには出来ない。
「はっ。相変わらずの甘ちゃんだね」
金の瞳を細めた葛の葉が言葉を吐き捨てた。
「あんたの婆さまに封じられた力も契約の五十年まで後数年。
早いとこ自由の身になりたいもんだ」
グイッと近づけた葛の葉の顔を、葉桜が睨みつける。
「悪事ばっかり働くからでしょう?
おばあ様の受け継いだ神刀〈紅桜〉は本当に素晴らしかった」
幼い頃に見た、紅桜の光り輝くような刀身が今も鮮やかに脳裏に蘇る。
一族に代々伝わる、退魔の力を秘めた刀。
「受け継げなかったクセに」
そこが葉桜の一番痛い所なのは誰よりもわかっている。
葉桜は悲しくなる気持ちを切り替えるように顔を上げた。
「とりあえず、葛の葉に戻って。
そんなはしたない格好で……妖狐の葛の葉は連れて戻れないわ」
「はしたない?
じゃあ豆葛の葉にもっと大きな着物を着せるんだね」
鼻で笑う葛の葉と睨み合う葉桜の視線が、伏し目がちに大地に落ちた。
「あ。油揚げ」
葉桜の小さな一言に、ぴくんっ。と耳が反応して、葛の葉が首をひねった。
その瞬間。
素早く葉桜の手が葛の葉の耳を掴む。
「戒めよ。封」
「あっ、ずるっ……」
印を切った葉桜の指先に霊力が込み上げる。
手の中の狐耳はそのままの大きさなのに、身体が小さく収縮した葛の葉が、足を折る葉桜の膝に静かな寝息とともに横たわった。
神刀〈紅桜〉……気になった方は
シリーズ管理している
薄桜記~彩【いろ】~
参照です。