第69章 恋人から妻へ
小一時間ほどいろいろ話を聴いて研究室を後にした。
大学からの帰り道、ヤーナの話に刺激されたつもりは無かったが、商業区へと自然に足は向かう。
いつもならショーケースに飾られた商品を見て歩くだけでも楽しいはずなのに、そんな気分も今やどこかに忘れてしまったかのように、ただひたすらインナーショップを目指す。
少し躊躇いながら店の中へ入っていく。
普通なら何気なしに立ち寄る店なのに、何で今さら恥じらいがあるのか自分自身でも不自然に思えたが、女性たちがランジェリーを手に取って見ている姿を目にし、自分もあれやこれと手に取ってみる。
少し大胆過ぎるかなぁ~と思ってみたり・・・これ喜んでもらえるかなぁ~などと独りよがりな妄想を膨らます。
店内をウロついている時、ふと我に戻った。
わたしは一体何を考えているんだろう~何でこの店を目指してしまったのだろう・・・やっぱりヤーナとの会話に刺激されてしまったからなのか。
『性欲も増進されるから・・・どうする?』この言葉にきっと気持ちを擽られたのかも知れない。
ご主人さまに愛されたいから可愛いランジェリーを買おうとしているのか・・・そんな事を考えると自分自身が可笑しくなってしまった。
きっと彼はそんなものに拘らないし、自然のままのわたしを受け入れてくれるはず・・・それに今すぐそういう関係になる分けでもないだろう。
手に取ったランジェリーを元に戻し、アニーは苦笑いを浮かべながら店を後にした。
暦にの上では春も近いが、海から吹き上げてくる風はまだまだ冷たい。
アニーはコートの襟もとをぎゅっと引き締めながら石畳の坂道を家路へと急いだ。
「今、帰りましたぁ~!」
「おかえり~!お疲れさまぁー!ははっ」
「はい!いろいろお話を聞かせて貰いましたよ~!あはっ」
「そっかぁ~・・・まぁ、温かいハーブティーでも煎れるから先に着替えておいでよぉ~!」
「はぁ~い、そうしますね!」
ショーヘイの優しい笑顔を見たら、先程の自分の先走る想いや行為が少し恥ずかしく思えた。
アニーは照れ隠しのように自分の部屋へと急ぎ足で駆け込んだ。
・・・・・・・・
ティーカップを片手にソファーにふたり凭れ掛る。
帰宅したアニーの顔を見る限り、落ち込んでいる様子も無かったのでひと安心はしたが、俺は俺なりに話の内容が気になった。
アニーはまず最初にハイヒューマンとハイエルフが何故血脈を残せないのかを医学的見地から聞かされたままの話を教えてくれた。
「そうなんだ・・・そういうことかぁ~」
「うん・・・」
「やっぱり、ふたりに子供は無理ってことなの?」
「『金の実』を使えば体質改善できるって!時間は掛かるだろうけど、何もやらないよりイイだろうからやってみなさいって!!」
「なるほど・・・」
「うん・・・だから、わたしは云われたように『金の実』を煎じて飲んでみる。ご主人さまもだよぉ~!あはっ」
アニーはヤーナに云われたことを実践してみようと心に決めた。
可能性がゼロでなければやってみる価値はある。
「うん・・・もちろん!」
「でね・・・ヤーナ先生に最初に訊かれたの・・・」
「何を?」
「あなたは彼と体を合わせたことがあるのかって!・・・何か言ってる自分が恥ずかしい!!」
俺は少し驚いた・・・が、薄く頬を染め、自分の言葉に照れくさそうに俯くアニーがたまらなく可愛く思える。
でも体の関係が体質改善にどう結びつくのだろうかと、ちょっとした疑問も同時に芽生えた。
「へっ?!そんなことも聞かれたのかぁ~うぅ」
「うん。何でそんなこと聞かれたのか最初解らなかったの・・・でも後で解ったの!」
「どう言うこと?」
「えっとねぇ~えっと・・・」
「ん?・・・」
「『金の実』はね・・・使うと性欲も増進されるからどうする?って笑われたの・・・あぅ」
もうアニーの顔は恥ずかしさで真っ赤になっていた。
目尻にも少し涙が滲んでいる・・・これを伝える事は、彼女には顔から火が出る思いだったのだろう。
「うぅ・・・」
ここには『理』を越えるとか、それが神の『意志』だなんていう『神の領域』的な話が入り込む余地はなかった。
ただ不妊治療に出向いた若妻とその妻の帰りを待っていた旦那の微笑ましい会話でしかなかった。
でもそれで良いのかも知れない。
ハイヒューマンやハイエルフである前に、我々はひとりの人間であり、ひとりの男と女なんだ。
人間として普通に当たり前のことを悩めばイイだけの事・・・それが自然の流れなんだと俺には思えた。
・・・・・・・・
「アニーはさ、俺が求めたら困る?」
「どうして?・・・」
アニーは体を寄せた体勢から見上げるように俺の顔を不思議そうな眼差しで見つめた。
そんな目で見つめられたら言葉が探せなくなる。
「どうしてって言われたら俺も困るけど・・・どうしてだろう?ははっ」
「わたしはね・・・ご主人さまに求められたいと思っています。それが今すぐでなくてもイイのです」
「うん・・・」
「言ったじゃないですかぁ~~ご主人さまの子供が欲しいって!あはっ」
「そうだよなぁ・・・俺もそれを望んでいる」
「わたしは・・・悠久の時を一緒に刻めることだけでも本当は嬉しいの!」
「うん、それは俺もだよ・・・」
「だけどね・・・そこにふたりの『愛の結晶』を授かればもっともっと嬉しいのです。だから可能性があるのならやれる事をやってみたいの!」
俺はその言葉に、アニーの心の強さを垣間見た気がした。腹を括ると男性より女性の方が強いってのが理解できる気がする。
「あぁ・・・そうだなぁ~」
「子供にねぇ~『お母さん』って呼ばれてみたいの!えへっ」
「いい響きだなぁ~・・・」
「うん!あはっ」
アニーの気持ちが伝わってくる。
本当に越えられるものなら『理』を越えてみたいと思う。
そして『家族』を作ってみたい。偽ざる本音だ。
ふたりが今抱える問題は、ジロータとシフォーヌも過って抱えた問題だった。そして、過去のすべてのハイヒューマンとハイエルフも同じように抱えてきた想いなのかも知れない。
けど、俺たちは『金の実』を手にしてしまった。これが『運命』と言われればそうなのかも知れない。
それは世界を変えてしまうことにも繋がりかねない。
『神』はいったい俺たちふたりに何をさせたいのだろう・・・例え『理』を神自身が俺たちに変えさせたいと思っているとしても何をどう変えさせたいのかも解らない。
このまま時に流されていれば見えてくるのだろうか・・・考えないようにしようと意識すればするほど頭の片隅を掠めいく。
しかし、それを悩み考えても今は何も為す術がない。
まずは目の前にあることからひとつひとつやってみるしかない。
だから『金の実』を足掛かりに、ふたりで階段を上ってみようと思う。
それがどういう結果になるのかは予想できないし、すぐに答えが出るもんでもない。
足を掛けた階段なら上る・・・一段上がればきっと何かが見えるだろう。
・・・・・・・・
子供を肩車して歩く傍らでアニーが笑顔を注いでくれる・・・そんな光景が脳裏に浮かぶ。
幸せの定義は個々に違うんだろうが、俺にはそんな光景がたまらなく幸せに思えてしまう。
こんな風に描ける生活を手にしてみたい。俺は関係を曖昧にしている自分にピリオドを打つ意を決した。
「アニー・・・」
「何ですか?」
「今さらなんだけどさ・・・」
「うん・・・」
「何か照れくさいなぁ~・・・」
気持ちを言葉にしようとすればするほど照れくさくなってしまう。
俺は苦笑いを浮かべながら頭をポリポリと掻いた。
「・・・・」
「俺たち一緒に住みだしてもうすぐ一年になるじゃない・・・」
「うん・・・」
「ハイヒューマンとしてじゃなくてさ、ひとりの男として言うよ!」
「何を?・・・」
『一緒になろう!そして俺の妻になって欲しい!!』
アニーは一瞬目を見開いた。
そしてその言葉を噛締めるかのように頷き、心優しいまでの微笑みを浮かべ俺の胸の中へ静かに目を伏せた。




