聖痕の乙女 第7話 ②
来賓を見送り、リアムとユーゴは家族と、ギルバートも部屋に戻る。
応接室にはオリヴァー、タリア、ドリスとウィリアムが移動していた。
「いやー、しっかし驚いたよ。タリアちゃんが第二王子と婚約とは! こんなに可愛いし、いいとこに嫁ぐとは思ってたけどさー」
「その話はもういいだろ。それより、ウィルの研究の話だ。俺も気になってたんだよ」
「あ! それ、忘れてた。婚約の話があまりにも衝撃的で! ウィル、例の小瓶、持ってきたんでしょう?」
「ええ、一応」
ウィリアムがポケットから取り出したのは手に収まるほどの小瓶だった。
「タリアちゃん、この小瓶の魔力って視える?」
「これは?」
「この小瓶はガラスに龍脈を削ったのもを砕いて混ぜて作った物です」
オリヴァーとドリスの様子から、ウィリアムはタリアの魔力を視る能力を知っていると判断し、タリアは小瓶を手に取って目を閉じた。
「水色……防御系魔法よりももっと淡い……それと、その場に留まってます。人体みたいに循環はしてないようですね」
「へー、水色、か。ただの透明な小瓶にしか見えないんだけど。じゃ、今のところ、ウィルの試みは成功してたってことじゃない?」
「そう、なりますかね? 小瓶を……」
ウィリアムの手に小瓶を返す。
「では、これはどうです?」
ウィリアムは目の前の空間を撫でるように手を動かして水を集める。そしてその水を小瓶に流し込んだ。
そしてタリアに差し出す。
「あっ、攻撃系魔法を付加しました? 橙色の粒子が不規則に流動して、少しずつですが、外に漏れ出してます」
ヒューっとドリスが口笛を吹いた。
「そんな、細かなところまで視えるんですか」
「はい。ドリスさんのお陰でより鮮明に視えるようになりました」
「ねー、だから言ったでしょう? タリアちゃんには魔力が視えるって」
「まだ半信半疑ですが……そうですね。もっと早くにお会いするべきでした」
タリアに小瓶を返してもらったウィリアムは、考え込むように小瓶を見つめている。
「ウィルは特殊魔法を間接的に付与する研究をしてるんだ」
「……特殊魔法を実体化させて、持ち歩いて、必要な時に使えるように。ってことでしょうか」
「回復系が近くにいなくても、それがあれば回復ができる、とかな」
この世界には回復系魔法を使える人間が存在しているので、医学というものは存在していない。
しかし回復系魔法の適正を持つ人間は希少なので、基本的には大きな街に在住している。
そのため、それ以外の町や村では薬師と呼ばれる人たちが、薬草を使って治療活動を行なっていた。
タリアの育った町は王都から離れ、ワイバーンでも二週間もかかるほどに遠い。だから薬師の存在は知っていたし、怪我をしたり、熱を出した時には薬師を頼るものだと思っていた。
タリアは危ないことはしない子供だったし、熱を出すことも一度もなかったので、薬草にどの程度の効果があるのか定かではないが。
(まさにポーション! 回復薬! それを開発しようとしてるんだ!)
タリアの思い描いているポーションの類は、ロールプレイングゲームなどで使用するもの。
その液体を飲めば、ある程度の回復、もしくは全回復するというもので、現実世界には存在しないものだった。
それをこの世界に創り出そうとしていることが、タリアの興味を引く。
ウィリアムの研究は回復薬の代わりになることはもちろん、他の特殊魔法の付与の可能性もある。
特殊魔法の適正は基本、一人に一つ。しかし特殊魔法の付与ができれば、一時的にではあっても二種持ちに近い力を発揮できることになる。
「とても面白そうな研究ですね」
「だろ? 俺も進展をずっと楽しみにしてたんだ」
オリヴァーもタリアと似たような理由で、この研究に興味を持っていた。
オリヴァーの場合は実戦で使えたらどんなにいいか。という希望も含まれているが。
「タリアさんのお陰で、やっと進展しそうです。この小瓶を開発した時には、これで完成だと思っていたんですけどね」
龍脈の水晶は削っても少しずつ元の形に戻る性質がある。
王城は龍脈の元々の形を生かして建ててあるのだが、階段部分は定期的に削らないと階段が消えてしまう。
削ったものは燃やしても消えず、溶けて固まるだけ。処分に困った先人たちは、それを加工して利用してきた。
龍脈を器にすると、食物を保存することが出来る。数日長持ちさせることが出来る。という性質を持っていたので、龍脈の近くにある都市では一般家庭でも必需品とされている。
ウィリアムはその性質を利用して、特殊魔法の保存もできないものかと研究していた。
「タリアさん、もう一度この小瓶を確認していただけますか?」
言われるまま、タリアは今一度小瓶の魔力を確認する。
「っ、中の、攻撃系魔法の粒子が減ってます! とても!」
「やはりそうでしたか。この小瓶に入れても、体感で十分程度。そのあとはただの水になってしまうようなんです」
これまでウィリアムは、何度も自分を実験台にして研究を繰り返していた。
瓶の中身を飲み、持続時間を測り、魔法を付与してからの時間を変えて飲み、時間を測る。それを何度となく繰り返していた。
その苦労は、タリアがいればしなくていい苦労だったと苦笑いする。
「あとはどうにか、持ち歩けるように何か考えれば」
「あっ!」
ウィリアムの言葉を遮って叫んだタリアは勢いよく立ち上がった。そしてそのまま応接室を飛び出す。
戻ってきた時には、厨房から持ってきた野菜のカケラを手にしていた。
「さっきの小瓶、貸してください!」
ウィリアムから奪い取るように小瓶を貰ったタリアは、野菜のカケラをその小瓶に入れた。
「葉っぱに回復魔法をかけました。攻撃系はまだ水に残っていそうだし、防御系だと瓶の色と見分けが難しいかもしれないので」
説明をしながら、タリアは目を閉じた。
水に浮く葉のカケラは黄色の粒子で覆われている。
タリアはやっと目を開けて、元の位置に腰をおろした。
「何を思いついたんだ?」
「さっきの話の中に、龍脈を削ったものを加工して食物を保存してるってあったでしょう? だから確かめてみたくて」
タリアは厨房に行き、食料を保管している箱を見つけた。それは小瓶と同じように無数の水色の粒子が留まっていた。
そして、その中に入っているもの、外に出ている食物も全て白い魔力が流れていた。
「例えば、この葉っぱが何もしない状態だと二日で枯れるか、腐るとします。でも、龍脈を加工した箱の中に入れておけば、もう二日長持ちすると仮定して……水には魔力が見えないけど、この葉っぱには魔力が視えました。人の生活魔法と思われるものと同じ色です。それで、今、この葉っぱに回復魔法を施して、それが数日間この中で留まっていてくれるなら……」
タリアは目を閉じ、もう一度小瓶の中の魔力を視た。先ほどと変化はない。
「うん。やっぱり回復魔法は流れ出してません。これなら、この中で葉っぱ自身の魔力が失われるまでの四日間は、特殊魔法も残っていると仮定できます。食物を食べることで体に取り込んでエネルギーに変えるように、特殊魔法も体に取り込まれて発動できるんじゃないかと」
ふと、視線が気になって周囲を見渡すと、目を見開いたウィリアムに凝視されていた。
「タリア、夢中になりすぎだ」
「あっ……」
思いついた内容が面白くて、実際に試してみることが楽しくて、タリアは現在十四歳であることを失念していた。
前の世界の記憶があるということを、ウィリアムは知らない。
呆れ顔のオリヴァーを見る限り、ウィリアムは完全にこの世界の記憶しかないとわかった。
「タリアさん、本当にすごいですね。魔力が視えると、こうも話が早いとは。本当にこれで魔法の付与が出来るとなると、ただ魔法をかけるよりも効果が出るのに時間がかかるのかも……そうなると摂取する時間も考慮して……」
十四歳とは思えない知識と仮説を披露してしまい、どう弁解しようかと思ったタリアだったが、ウィリアムは今後の研究内容に頭がいっぱいの様子。
ドリスの時のように詳しく説明をしないで済みそうだと、タリアはほっと息をついた。
「まずは飲んでどのくらいで効果が出るのか調べる方が先か……あとは」
「熟考中に悪いが、明日に向けての準備もある。そろそろ終いにしよう」
「はーい、ウィル、帰るよー」
「あ、はい」
よほど夢中になっていたのか、ウィリアムはドリスに手を引っ張られ、やっと顔を上げた。
ドリスとウィリアムを見送る為に玄関へと向かう。
「タリアさん」
帰り際、ウィリアムがタリアに小瓶を差し出す。
「これをしばらく預かっていただけませんか?」
それを受け取りはしたものの、なぜ預かるのかわからずに首を傾げる。
「この葉に施した魔法がいつまで持つのかを調べていただきたいのです」
「ああ。はい。それは構いませんが……明日から王城に移り住みますので、いつ結果をご報告できるか」
「心配には及びません。私も王城の研究室におりますので、暇を見て取りに伺います」
「それなら、お預かりします。それと、タリアでいいですよ?」
「……わかりました。それでは私もウィルと。では、また」
「はい、また」
ウィリアムが見えなくなるまで玄関から見送り、ドリスが大きく伸びをした。
「ふー、オリヴァーがいる間にウィルを連れてこられてよかったよ」
「ああ。本当に、たまーにいいことしてくれる」
「でっしょー? ほーんと、ウィルを引っ張ってくるの大変だったんだから」
「あいつ、私生活に興味ねーもんな」
オリヴァーは前々からタリアとウィリアムを会わせたかった。しかし、一日のほとんどを研究に費やしているウィリアムは、研究以外のことをしたがらない。息抜きをすることさえ嫌がるほど研究に没頭するので、オリヴァーの頼みであってもタリアと会う時間を作る努力すらしてくれなかった。
タリアのことは魔法研究所の上層部であれば、『スティグマータの乙女』の可能性を含めて検査を行った際の内容を知っている。
しかしウィリアムは、魔力が視えるなどあり得ない。もし見えたとしても証明のしようがない。とタリアの存在を知った時から思い込んでいた。
しかし、今日はどうしてもオリヴァーの家に連れて来たかったドリスは、下半身不随が治った経緯を話すことにした。
その話をしてやっと、ウィリアムを連れ出すことに成功した。
「タリア、あいつの研究、面白いだろ」
「はい、とても」
「……もっと食いつくかと思ってたんだけどな」
「十分食いついてますよ。できれば、もっと色々試したいですし」
「いや。強くなるために常備したいって、食いつくかと」
「……そう、ですね」
「どうかしたか?」
「私、これまで深く考えずに強くなりたいって言ってましたけど、この世界で人から強いって認められるのは、戦争で生き残って、功績を挙げた人なんだなって、やっと気付いて」
タリアはギルバートと話をして思ったことを口にしていた。
「ギルが聖騎士になるっていうのも、危険を乗り越えた先の話ですよね。オリヴァーさんが旅から帰ってくるのも、リアムやユーゴや聖騎士の人たちが任務から帰ってくるのも……いつ、誰が帰って来られなるかわからないんだって、やっと気付いて」
俯き、唇を噛み締めているタリアを、オリヴァーは優しく抱きしめた。
「そうだな。前の世界よりも確実に、この世界は危険だらけだ。だからと言って、閉じこもっていては何も変わらないし、閉じこもったその場所だっていつ危険になるかわからない。だからタリア。大切な人間を沢山作れ。もし、お前が危険な目に遭えば、そいつらを思い出して帰りたいと必死になる。そしてそいつらを見送る時は、絶対に帰って来いと笑顔で見送るんだ。お前に会いに、絶対に帰ってくると思えるように」
オリヴァーの腕の中で、タリアは静かに泣きながら、何度も頷いた。
危険な場所になど行かないで。そう言いたくても言えないから、明日は絶対に、笑顔でオリヴァーを見送るんだと、何度も自分に言い聞かせていた。
※ ※
オリヴァーが旅立つ、その日の朝。
朝食を終えてすぐ、リアムとユーゴの家族が家に帰る準備を始めた。
その間、タリアは子供達の面倒を見て過ごし、荷物の全てが馬車に積み終えるのを見計らって、子供達の手を引いて外に出た。
まだ、オリヴァーはいない。
外ではリアムの妻リリーと、ユーゴの妻ジーニアが待ち構えていて、競うようにタリアに抱きついた。
これまでの一年間、双方の家を行き来し、月に一度は一緒に過ごしてきた。
しかし今後は確実に会う機会が減る。だから今のうちにしっかり愛でておくのだと言って。
「オリヴァーさん、荷物それだけなんですか?」
「ん? ああ、身の回りの物だけ。あとは全部同行者たちが用意してくれてる」
そうこうしていると、オリヴァーはいくつかの武器とカバン一つを持って玄関に現れた。
タリアはやっと解放されて、リリー達は先に馬車に乗り込んだ。
オリヴァーと同行者の待ち合わせは王都レオを囲う壁の外。
壁の近くに屋敷を構えるリアムとユーゴの家族に門まで、馬車で送って貰うことになっている。
ユーゴと言葉を交わし、カバン一つを箱馬車に積み込んで、オリヴァーの出発準備は完了。
ジェームズが用意した昼食も一緒に積み込んだ。
「あ! 待ってくださーい! 写真! 写真をお持ちしましたー!」
オリヴァーが旅立つことを知って、写真屋は昨日の夕方に撮影したものを現像して持ってきてくれた。
出発前に間に合って良かったと言って、写真だけオリヴァーに託して帰っていく。
「間に合わないって言われてたが、間に合ったな」
嬉しい予想外に顔を綻ばせ、全ての写真を確認していく。
そして焼き増しした全員の集合写真を配る。
「リアム、ユーゴ。午後二時に駐屯所にタリアの迎えが来る手筈になってるから、しっかり引き渡し頼む」
「はい」
「丁重にお送りします」
「宜しくな。お前らは強くなったが、どんな任務でも気は抜くな。ギル……聖騎士になる前に、死ぬなよ」
「ああ。あんたこそ」
「はは、そうだな。タリア……は、昨日話したからいいか」
「ふふっ、気をつけて」
タリアは昨日決めた通り、満面の笑みをオリヴァーに送る。
「無事に帰ってきてください。ずっと待ってますから」
オリヴァーは歯を見せてニカッと笑い、四人を順番に見る。
「誰も、俺より先に死ぬな」
「わかった」
「オリヴァーさんは老衰まで生きるんですよね?」
「当たり前だ! それじゃ、行ってくる」
それぞれに挨拶を終えたオリヴァーは操打席に飛び乗り、手綱を引いた。
オリヴァーはまるで近所に出かけるみたいに、「じゃあな」と手を振った。
ゆっくりと、馬車が屋敷から遠のいていく。
(ちゃんと笑えてたかな……)
タリア以外はこれが初めての見送りではない。冗談を交えて見送る気持ちの余裕があった。
しかしタリアにはそんな余裕がなく、会話は最低限のみ。何を話していいかも分からなかった。
「いやーーー! パパと帰るーーー!」
「ナタリー! またすぐ会えるから」
「パーパーー! パーーパーーー!」
馬車から聞こえてくる声に、ユーゴが吹き出した。
泣き叫ぶ愛娘ナタリーの声に、リアムは今にも駆け出しそうな衝動を必死で抑えているようだ。
馬車からは豪快なオリヴァーの笑い声が聞こえる。
「ワイアット! 家族みんな、お前が守るんですよー!」
ユーゴがそう叫べば、箱馬車の窓が開き、そこから顔を出したワイアットが得意げに敬礼して見せた。
「なんか、しばらくオリヴァーがいなくなるのに、普段通りって感じだったな」
「そうだな」
「これでいいんじゃない? 湿っぽい見送りになっても嫌ですし」
誰も、今回のオリヴァーの調査の内容については一切知らない。
しかし、引退をしたオリヴァーが駆り出されるのには、特別な理由があるのではないかと推測できた。
オリヴァーにしか任せられないような、危険な調査になるのかもしれない。と。
「タリア様」
カーラの声に、タリアは振り返る。
「ご昼食までにご準備を」
「……そうですね」
「お手伝いいたします」
「はい。お願いします」
オリヴァー達が見えなくなるのを見計らって、カーラは声をかけていた。
タリアも、この家を出る準備をしなければならなかった。
「カーラ、僕たちに手伝えることありますか?」
「お手伝いいただけるのであれば、お荷物の運び出しを。そろそろ、タリア様のお荷物を取りに王城の方がいらっしゃることになっておりますので」
この一年で、タリアの荷物はかなり増えていた。
以前、王城でタリアの身の回りの世話をしてくれた侍女のフィオナが用意してくれた貴族用のドレスや装飾品の数々。
中には着られなくなってしまったものもあるので、新たにドレスが増えた。
タリアが王城で暮らすことが決まった一ヶ月ほど前からは、カーラが「しばらく着るものに困らないように」と、少し大きめのドレスも増やしてくれていた。
男性陣はタリアの部屋から荷物を運び出し、玄関ホールに移動させる。
その間、タリアはカーラに手伝ってもらって着替えをしていた。
「夢のような一年でございました」
着替え終えたタリアの髪を整えながら、カーラがポツリと呟いた。
「嫌だな。そんな……これが最後、みたいなのやめましょうよ」
「いいえ、最後になるかもしれません」
タリアが王子と婚約。今後は王城で暮らす。結婚後ももちろん王城で暮らすことになる。
確かに、この屋敷で暮らすことはもうないかもしれない。
「この一年で、背が伸びましたね。持ってきたドレスも丈が短くなりました。体つきも女性らしく変わってきたし、髪も伸びた。タリア様がいらした日が昨日のことのように鮮明で……あっという間の一年でした」
(旅立つ側より見送る側の方が、きっと辛いんだ)
タリアがクレアを旅立った日。両親との別れは寂しかった。しかし初めての旅に、新しい生活の始まりに胸を躍らせた。
しかし見送る側は、いつもそこにいたはずの人がいないと、ちょっとしたことで寂しい思いをする。それも何度も。その度に、旅立った人の無事を祈り、無事の帰宅を心のそこから願う。
今まさに、タリアは見送る側になったばかり。
そしてもうすぐ、この屋敷を旅立つ側にもなる。
カーラの寂しさが、辛さが理解できるからこそ、どんな言葉をカーラにかけていいのか分からずに黙り込んでしまった。
「いつか、どこかの貴族や王族とご婚約、ご成婚をするとわかってはおりましたが、まさか第二王子様とだなんて。まだ信じられません」
「……私も。婚約とか、まだ実感がなくて」
「きっと、時間が経てば実感も湧くのでしょうね。オリヴァー様だけではなく、この屋敷でお世話した方々は本当に立派な方たちばかり。近い将来、王子の妃になるタリア様にお仕えすることが出来て、本当に幸せです」
(この屋敷に、残りたかったな)
出来ることならば、オリヴァーにはどこにも行って欲しくなかった。
どこにも行かなくていいのなら、ずっとこの屋敷に居たかった。
タリアが育った町から遠く離れたこの町で、なんの気兼ねもなく好きなことをやって楽しく一年間を過ごして来られたのは、オリヴァーをはじめこの屋敷の人たち全てが暖かく迎えてくれたからに他ならない。
(婚約がなかったことになって、この屋敷に戻ってきたら……カーラさんは喜ぶかな。怒るかな)
第二王子との婚約はまもなく公式発表される。
その婚約が形式的なもので、双方に結婚の意思がないと知っているのは限られた数名のみ。
決して口外してはいけないことになっている。
二年か三年後、第二王子が国を離れ、その後のタリアはどうなるのか。
タリアはこの屋敷に戻れるならば戻りたいと考えている。
そうなった場合、戻ってきたタリアをカーラは喜んでくれるだろうか。
それとも第二王子との結婚が白紙になったことで、また相手を探さなければいけなくなったと怒るだろうか。
(その両方だと嬉しいんだけど)
カーラはよくタリアを叱る。それが怖くもあったが、決して嫌ではなかった。
前の世界で十分に大人だった永峰 茉莉子は、叱られることがなくなっていた。
職場で怒られることはよくあった。理不尽な怒りをぶつけられることも少なくなかった。
しかし、怒ると叱るでは根本が違う。
叱るのは、本当に相手のことを思い、良い方向に導こうとしてくれるからこそだ。
タリアの両親が怒ったり、叱ったりすることはほとんどなかった。
それは両親ともに温厚で、感情に任せて怒鳴ることのない人たちだったこともあるが、一番の要因はタリア自身。四歳にして二十七歳の精神が宿っていたから、両親に叱られるような危ない行動をしなかったためだ。
だからこそタリアは、きちんと叱り、行動を正してくれるカーラが大好きだった。
広間の振り子時計が正午を知らせる。
「さ、出来ましたよ」
名残惜しそうにカーラの手が離れて、タリアは向き直った。
「カーラさん、一年間、本当に……」
それ以上の言葉がでてくれそうになくて、堪らずタリアはカーラに抱きついた。
泣き出したタリアを抱きとめるカーラの腕が少しだけ震えていて、カーラも泣いているのだと気づいたタリアの涙は益々増えた。
しばらくして遠慮がちなノックが聞こえ、二人は泣き顔のまま顔を見合わせて笑う。
昼食の時間になっても降りてこない二人を誰かが迎えに来たのだろうと分かり、時間も忘れて別れを惜しんでいたと気づき、それを二人とも同時に気づいたのだと察して笑った。
扉の向こうには居心地悪そうなギルバートが待っていた。
涙は拭ったものの、隠しきれない泣いて赤くなった目を見て狼狽するギルバートに、タリアとカーラはまた笑った。
昼食を終えて、すっかり気持ちを切り替えられたタリアは笑顔で出発の時間までを過ごした。
第二王子との婚約が発表されてしばらくはどんな騒ぎになるかわからないので、しばらくタリアがこの屋敷に近づくことはできないかもしれない。
けれど騒ぎが収まったら、リアムとユーゴが休暇の時にはみんなでこの屋敷に集まろうと約束をした。
家族もこちらに呼べば数日滞在出来るので、タリアもゆっくり出来るだろうと。
そんな話を喜んだのはタリアだけではなく、ジェームズもカーラも喜んだ。
ギルバートは数日滞在した後、聖騎士養成学校の寮へと移り住む。そうなれば、この家にはジェームズ一家のみになってしまうからだ。
そうと決まれば、と、タリアは広間に置いてある自分の荷物から数日分の着替えを取り出し、カーラに渡した。
いつでも帰って来られるように。荷物を持ち込まなくても、すぐに来られるように。
タリアにとってここは第二の我が家で、ここに住む人たちは第二の家族だった。
そしてタリアは、笑顔で屋敷を後にした。
第7話 完