死の森の魔女 第8話
その旅路は急ぐものではなく、大きな町に入ると数日その町に滞在し、観光をした。
王都レオに入ってしまえば、レオから出る機会はなかなか来ない。
小さな村しか知らない子供達に色々な場所を見せられるまたとない機会でもあった。
町に入るとみんなで町の中を散策し、翌朝は宿の井戸や水場を借りてみんなで洗濯。洗濯物を干したらまた町を散策し、夕方になったら洗濯物を取り込んで荷造りをし、宿で食事を取って寝る。
また翌朝は食料を調達して出発し、また別の町に入る。その繰り返しだった。
道中、魔獣に襲われることも増え、馬車の操縦は子供達に任された。
タリアは馬車を操縦する子供には完全防御魔法をかけ、馬にも馬車自体にも同じように完全防御魔法をかけた。
生物以外にも魔法がかけられると知ったのは覚醒後。その物に魔力が宿っていれば魔法がかけられる。
それを初めて使ったのは、まだオリヴァーとギルバートの生存を知らず、自室に閉じこもった。誰にも入って来て欲しくなかったので、扉と窓に完全防御魔法をかけてみた時だった。
ナターシャはオリヴァーとタリアに教わって特殊魔法を使ってみようと試みたものの、上手くいかない日々が続いていた。
ナターシャは村の子供達に特殊魔法をかけることはできなかった。それは『スティグマータの乙女』の枷。
それ以前に、ナターシャは魔法を一切使ってこなかっただけでなく、魔法に対する知識がまるでないに等しかった。
以前、ウィリアムを魔法で眠らせたことがあるが、それはまだ子供達に魔法が使えた時期、夜泣きする子に悩まされ「早く寝てくれないかな」と思いながら撫でていて勝手に発動。以降、それだけは自在に使えるようになっていた。
この世界の魔法で重要なのは想像力。そのため、怪我や病気を魔法で治せるという概念も、攻撃から魔法で身を守るという概念も持ち合わせていないナターシャにはイメージさえ難しく、特殊魔法の発動がなかなかうまくいかなかった。
それはナターシャの生まれついた環境のせいでもあった。
小さな島の中でも活動範囲を決められ、人と接することができたのは義務教育の間だけ。
住んでいた離れに娯楽はなく、テレビも、漫画も、小説も、ゲームもない。そんな環境では『魔法』という言葉にさえ触れることができなかったのだ。
ナターシャは覚醒後のタリア同様、勝手に完全防御魔法と完全治癒魔法が働くため、それが魔法だという感覚もなく、他の人にもそれが当たり前にあるとさえ思っていた。
ルドルフは『スティグマータの乙女』は宝の持ち腐れだと言った。
近年の『スティグマータの乙女』は生贄にされるとわかっていたので、ナターシャと似た境遇だったと思われる。
狭い世界に閉じ込められ、最低限の教育を受けただけ。
せっかくの力があっても、それを使いこなすことは難しいのではないかとも言った。
王都レオまで、観光をしなければ三週間の道のりだが、観光をするので一ヶ月以上かけて進む予定になっていた。
そんな旅も終わりが見え始め、経由する町は残り三つとなっていた。
目的の町が小さく見え始めた頃に降り出した雨は次第に強くなり、町に到着する頃には土砂降りになっていた。
馬車を守り、魔獣と戦っていた三人もずぶ濡れの泥だらけになるほどだった。
急な雨だったためか、宿はどこも空き部屋が少なく、使っていない倉庫を使わせて貰えることになったので、毛布を貸してもらい、雨が止むまでそこで寝泊まりすることになった。
土砂降りで外に出られないので、食事すること以外にやることもなく、体力を持て余している子供達は走り回り、棒を剣に見立てて振り回し、遊んでいた。
この旅で魔獣と戦う三人を見て、特に男の子は憧れを抱いたようだった。
女の子たちはおしゃべりをしながら縫い物をしている。
タリアはナターシャと女の子たち頼まれて、刺繍を教えていた。
道具は途中の町で買い揃えてある。
その代わり、タリアは村の女の子たちにレース編みを教わっていた。
元々住んでいた村の女性たちはレース編みで生計を助けていたようで、最年長の女の子はデュランの一つ年下。その技術はしっかりと受け継がれていた。
しかし貴金属ほどの収入にはならないし、材料費がかからないデュランの貴金属に比べ、レース編みには材料費もかかるので少量しか作ることができないでいたらしい。
レースも刺繍もできるようになればお洒落なハンカチや小物入れを作れるようにもなるし、デュランの貴金属と一緒に販売もできるだろうというルドルフの意見もあって、女の子たちは率先して刺繍を覚えたがった。
オリヴァーの保護下にあるとはいえ、全く知らない土地で生活していくことに少なからず不安を持っていて、生活の足しになるのであればなんでも身につけておきたいと思っているのだ。
倉庫で過ごすことに息苦しさを感じ、タリアは一人、外に出た。
これまでの旅の間も、タリアは他のみんなと行動を共にしようとはせず、刺繍を教える時以外は一人になりたがった。
移動中の馬車でも、食事の時も席を離し、宿に入る時も個別の部屋を所望した。
馴れ合いを避けるように。
(ずっと雨ならいいのに……)
まだ昼過ぎだというのに、空は分厚い雨雲に覆われていて暗い。
激しく降り続いている雨は少し先の景色をかき消すほどだった。
このまま降り続けば数日この町で足止めされることになるだろう。
「タリアさん……」
倉庫の入り口の階段に腰掛けていたタリアは、呼ばれる声に振り返った。
ナターシャが入り口から出てきたところで、扉を閉めてタリアの横に腰掛けた。
「雨、止みそうにないですね」
「ええ……」
ぼんやりと地面に落ちる雨をただ見ているタリアは、ナターシャと会話をする気がなかった。
「あの……子供達と距離を取っている理由を聞かせて頂いても?」
タリアは困ったように笑う。
いつかは、その話題に触れられるだろう。そう予測していた。
「すみません。ただ……仲良くなりたくないんです」
子供達は人見知りすることなく、特にオリヴァーには懐いていた。
ルドルフもウィリアムも、自ら率先して子供達に絡む訳ではないが、話しかければ相応の対応をしている。
ルドルフはデュランと同じ年齢だったこともあり、良き相談相手としてデュランと仲が良くなっていた。
そんな中、タリアだけが子供達と一定の距離を保っている。
話しかければ最低限の受け答えをするが、必要のない会話には決して混ざらない。
子供達が話しかけたがっていると察すれば、あえてその場を離れたりもしていた。
「それは、枷のせいですか?」
「……ええ。すみませんが、一人にしてくれませんか」
「タリアさん……枷なんて気にしていたら、本当に一人になってしまいませんか?」
(だめだ……このまま話してたら……)
話を切り上げようと、タリアは立ち上がった。
しかし目の前は土砂降り。倉庫の中にはみんながいる。
移動のしようがなかった。
「せっかくこの世界に来たのに、一人で生きるなんて」
「やめてください」
「でも、せっかく沢山の出会いがあるのに、枷を気にして誰とも仲良くなりたくないだなんて」
「やめて! 貴女はまだ誰も失ってないからそんなことが言えるんです!」
タリアは叫んでいた。
「もし子供達が貴女を守って死んでいっても、同じことが言えますか! 力はあるのに誰にも使えないまま、
ただ死んでいくのを見ていることしか出来ない状況になっても!」
「それは……その時になってみないとわかりません」
「そうかもしれませんね! ああ、でも、貴女にはもしもの時のために攻撃系魔法もあるんだ。私のように、ただ見ているだけにはならない。いいですね、本物のスティグマータの乙女はっ!」
だめだ。止まらないーー
タリアは堰を切ったように叫び続けていた。
「枷が怖くて何が悪いんですか? 私には戦う力も、大切な人を守る力もない! もう二度と、あんな思いはしたくないんです! もう二度と、大切な人なんて作りたくない!」
タリアは土砂降りの中、走り出していた。その場から逃げたい一心で。
ナターシャがタリアを心配していることは十分にわかっていた。
ただ、これ以上、気持ちを吐露すればナターシャを傷つけてしまいそうで。
「待って!」
しかし、ナターシャはしっかりとタリアの腕を掴んだ。
その時だった。
タリアの頭の中に、知らない光景が流れ込んできた。
「え? な、に?」
ナターシャの声に、タリアは振り返ってナターシャを見る。
ナターシャの困惑の表情に、タリアはナターシャが同じものを見ていると察した。
その光景は、まるで何枚もの写真を一枚ずつ確認しているようだった。
沢山の人が、町が、恐怖に慄く光景だった。
「おい! なんだ、今の!」
倉庫から飛び出して来たオリヴァーも、その後ろにいるルドルフもウィリアムも驚愕の表情を浮かべていた。
「なんか今、やばいもんが頭に流れてきたんだが……お前ら、何かしたのか?」
(もう、嫌だ……)
タリアはナターシャの手を振り払い、全力で走り出した。
(私に何をしろっていうの! 私に何ができるっていうの!)
タリアたちが見たものは、複数の人型魔獣が町を、人を襲う光景だった。
それは一つの町だけの光景ではなく、いくつもの町の光景だった。
人型魔獣を大量にこの世に放つ。この世界から全ての人間が消えることになるぞ
魔女と名乗った着物の女性の言葉が、この先の未来で起こることを予期したような光景だった。
タリアは土砂降りの中走り、目に付いた路地に入って、身を隠すように小さく蹲った。
我は人々を滅ぼす魔女
五年だけ待つ
失敗は許されない
もう二度と大切な人を失いたくないのなら、我を殺しておくれ
魔女の言葉がタリアの頭の中を巡っていく。
魔女の言葉から、もう長いこと死ねないままこの世界に留まっているとわかる。
魔女は自らが殺されることを望み、二人の『スティグマータの乙女』がそれに失敗して殺された。
彼女は死にたいのだ。
魔女の言葉の全てを、タリアは語ることをしなかった。
自分が何をしても死ねないとわかり、オリヴァーとギルバートの生存を知り、二人を失いたくないという思いが一番強かった。
魔女の本当の目的を話せば、オリヴァーを巻き込んでしまうと思い、言えなかった。
魔女の言葉の全てを信じられなかったということもある。
信じたくなかったという気持ちもある。
タリアが魔女を殺しに行かなかった場合、魔女を殺せなかった場合のことを考えるのは、魔女の言葉が本当だと確信できた時でいいのではないか。
そう思い、考えることを先延ばしにして来た。
しかし、人型魔獣に襲われる町を、人を見てしまった。
多分それは未来を予知してのものだろう。
その未来を見てしまったことで、魔女の言葉が確実に近いものになった。
最悪の未来を考えずにいられなくなった。
考えることから逃げられなくなってしまった。
本物の『スティグマータの乙女』が二人、失敗している。
この旅で、タリアは自分が本当に中途半端な『スティグマータの乙女』なのかもしれないと思い知らされてばかりいて、本物に劣る自分が魔女を殺せるはずがないと思わずにいられない。
ナターシャという本物の『スティグマータの乙女』が目の前にいる。
けれど彼女にはオリヴァーがいる。子供達もいる。
力の足りない自分の代わりに、彼女を魔女の元に行かせたいくない。
それがタリアの思いだった。
タリアは寒さで体を震わせた。
どのくらい、その場にいるのか分からないが、雨に濡れ続け、体は冷え切っていた。
それでもタリアはその場から動こうとは思わなかった。
酷く疲れていた。
もう、何もしたくない。
もう、何も考えたくない。
「タリア……」
聞き慣れた、ウィリアムの声だった。
「こんなところに……捜したぞ」
タリアは蹲ったまま、少しも動くことはなかった。
「戻ろう。みんな心配してる」
その言葉に、首を横に振る。
「放っておいて」
「そんなこと、できるわけないだろ。ほら、立て」
「いや!」
ウィリアムが腕を掴み、タリアを立たせようとした。
しかしタリアは力任せにその手を振り払った。
そしてまた強く膝を抱える。
「お願いだから、放っておいて」
「だめだ。倉庫に戻りたくないなら別に宿を取る」
ウィリアムはタリアの両腕を掴み、今度は強引に立ち上がらせた。
「嫌だって言ってるでしょ! 何もしたくないのっ!」
タリアが暴れるので、ウィリアムの手にも力が入っていた。
「何もしたくないって、こんな場所にずっといるつもりか! 何かあったらどうする!」
「何かって何! 襲われたって私にはかすり傷一つ付かないのに、何かあるわけないじゃない!」
「襲ってくるやつが命を狙うとは限らないだろ! お前は女なんだぞ! 男に力づくで押さえつけられでもしたらっ」
「はっ、どうだっていい」
「良くないだろ!」
「どうだっていいですよ! どうせ、この体は私のなんだし、どうなろうが私の勝手! だから放っておいて!」
パンっと乾いた音が響いた。
ウィリアムがタリアの頬を叩いたことで、タリアは俯いたまま打たれた頬を押さえた。
「ただの八つ当たりだってわかってるんだろ? ナターシャさんにも八つ当たりして、逃げて」
「……分かってますよ、それくらい」
「だったら、いつまでそうしてるつもりだ? だいたい、色々溜め込みすぎなんだよ。少しも吐き出さないから爆発する」
「……分かってます」
「何に対して、そんなに苛立ってんだよ」
「そんなの……自分に対して、ですよ」
ナターシャと話している時、確かに苛立ち、怒鳴っていた。
しかし、ナターシャは決して悪くない。
枷を気にして誰とも深く関わらないで生きようとするタリアを止めようとしただけ。
ナターシャも自分を守ってくれた村の人達を亡くしている。
それでも残された子供達と懸命に生きてきた人なのだ。
タリアはただ、羨ましかった。
自分にはない力を持っているナターシャを羨ましく思い、同時に嫉ましくも思った。
そんな相手に気を使われ、心配され、苛立ち、怒鳴り散らしてしまった。
「もう、何も考えたくない。どうせ答えなんて分からないのに、考えることをやめられない」
「……何でもいいから、とりあえず思いついたことを言葉に出してみたらどうだ?」
ナターシャに謝らないと。
魔女についても考えないと。
みんなにも未来が見えてしまったのなら、知ってることについてどこまで話すか考えないと。
どこまで話すかを決めるには、今後自分がどうするのかある程度決めてからでないと、言いすぎて後々後悔することになる。
自分が何をすべきか、何をしたいのか、何ができるのかを考えなければいけない。
それらを考えるためには自分の無力さと向き合わなければいけない。
いい加減、思いを吐き出さないと心が保たないと、タリアは自覚していた。
けれど吐き出そうにも、誰に、何を、何から吐き出していいのか考えなければならない。
ただ一つ、今、吐き出したいことを思いついたタリアは、やっと顔を上げてウィリアムを見つめた。
今にも泣き出しそうな顔で。
「ウィル……なんで私は、こんな世界に来てしまったんだろう。来たくなんてなかったのに……」
どうしてこの世界にきたのか。どれだけ考えても答えを見つけられずにいる。
何をどれだけ考えても、行き着く先はいつも同じ。
この世界に来なければ、何も起こらなかった。
この世界に来なければ、何も得るものがなく、かわりに何も失わずに済んだ。
どうしてこんな世界に来てしまったのか。
それに理由があるのならば知りたい。
その問いに、ウィリアムが答えられないことをタリアは理解していた。
けれど自分の中だけに留めておくことに限界を感じ、口にしていた。
「こんな力なんて欲しくなかった。最初から何の力も持っていなければ、こんなに苦しむこともなったのに……私がこの世界にいなければ、みんな……あんな死に方しなくてよかったのに……」
「タリア、そんなこと言うな」
「だって……あの時、隣にいてくれたユーゴは、魔法が使えなかった私に寄り添って肩を抱いてくれてた。ユーゴの胸から剣が出て来た時、ユーゴは……私まで一緒に落ちないように、腕を下ろして……リアムは……首から血が噴き出してるのに……私に逃げろって! 二人とも最後まで、私を守ってくれてたっ! 私さえ、いなければっ……」
上ずり、掠れる泣き声。
ウィリアムの胸ぐらを掴み、何度も叩きつけながら。
これまで、オリヴァー邸での事件について話すタリアは淡々としていた。
淡々と、魔女に言われたことだけを話した。
そこで何を見たのかを話したのは、これが初めてだった。
「あの人型魔獣になってしまった人だって、私に逃げろって言った。オリヴァーさんに殺してくれって頼んでたっ……私がいなければあんな姿にならずに済んだはずなのにっ! 私がいたからっ、私がこんな世界に来ちゃったから、関わった人が、みんな……みんな不幸になってっ……」
一つ、溜めていたものを吐き出せば、止め処なく次から次へと溢れ出す。
嗚咽に阻まれることがなければ、自責の念も、この世界への不満も止まらず言葉にしてしまっていただろう。
締め上げられるような胸の痛みと、嗚咽でままならない呼吸に、タリアは言葉を口にすることさえできなくなっていた。
「……詳しく聞かせてほしいことは色々あるが……場所を変えよう」
ウィリアムはそのままタリアを抱き上げた。
タリアはウィリアムの肩に顔を隠すように埋め、肩を震わせて泣き続けている。
路地から出たウィリアムに、遠くから合図を送るルドルフが見えた。タリアを捜していたのだ。
ルドルフとの距離が近づくと、タリアが泣きじゃくっているとわかり、ルドルフは黙って宿を探してくれた。
部屋まで案内をすると二人の荷物を取りに戻り、「荷物は店主に預けておく」と。「明日、様子を見に来る」とだけ囁いて倉庫に帰っていった。
その宿は貴族用の宿。内装も豪華だし、部屋に風呂とトイレも付いていた。
この大雨で町に足止めを余儀なくされているのは商人や周辺の町の人なので、安い宿は客で溢れているが、貴族用の宿ならば空いていたのだ。
体が温まれば少しは落ち着くだろうと、ウィリアムに言われるままタリアは風呂へと向かい、その間にウィリアムは温かいお茶を貰いに行くついでに、夕食は届けてもらうように手配をした。
その際、濡れた服を洗って、翌朝までに乾かしてくれると宿の店主が言うので、ずぶ濡れだった上に地面に座り込んで泥だらけになってしまったタリアの服と、タリアを抱き上げていたので汚れたウィリアムの服を預けることにもした。
その全てが終わって、タリアが風呂から出てくるのを待っていたウィリアムだったが、風呂場から物音がしなくなり、タリアが出てくる気配もない。
まさか。
以前、赤く染まった浴室に倒れていたタリアを目の当たりにしているウィリアムは、焦って風呂場の扉を開けた。
視界が赤くないことにホッとはしたものの、うつ伏せに湯船に浮いているタリアがいてーー
「タリア!」
駆け寄り、両肩を掴んで仰向けになるよう、頭を抱えた。
「ウィル、どうしたんです?」
キョトンとウィリアムを見つめるタリアに、心配が杞憂であったと理解したウィリアムは深くため息を吐き出した。
「なかなか出て来ないから、溺れているのかと」
「溺れても、死にませんよ?」
「そう、だったな。水死体みたいに浮いてるタリアを見たら、そんなことすっかり忘れてた」
以前、タリアが覚醒したばかりの頃。何度も自殺を試み、魔力も体力も失っていたタリアは一人で風呂に入ることができなかった。
湯船で自らの体を支えることも出来ず、湯船に沈んだ。
その際、覚醒したタリアは水中で呼吸を必要としないことが発覚した。
体は膜のような魔力で覆われ、耳や鼻に水が入ることはない。口を開けても同じ。
息は吐き出しても吸うことはないので、水中の酸素を取り込んで、二酸化炭素は鼻や口から吐き出しているのだろうとタリアは考えていた。
「悪い。取り乱した」
「いえ。心配かけてすみません。湯船が久しぶりだったので、つい」
水に潜り、目を閉じる。
耳からはくぐもった水音のみが聞こえる。
情報を極限まで遮断される、水に潜るという行為が落ち着くのだと、タリアは補足した。
「ウィル?」
じっとタリアを見つめたまま動かず、瞬きもしていないウィリアムにタリアが声をかけても、ウィリアムは動かないまま。
「あの、退けてくれません? 出たいので」
頭を抱えられているタリアは半分浮いた状態で、態勢を変えにくい状況にあった。
「ウィル〜?」
ウィリアムの目前で手を振って、やっとウィリアムは瞬きをした。
「タリア……私を殴ってくれませんか?」
パーンっと軽快な音が浴室に響く。
タリアの平手打ちがウィリアムの頬に炸裂した。
「あ、いい音。態勢が悪くて力が入らなかったけど」
「……戸惑いってものを知らないのかよっ!」
ウィリアムはタリアの頭を支えていた手を避けるかわりに、うなだれ、目元を手で覆う。
「殴れって言ったのウィルじゃない」
「そうだけど! 先に理由を聞くなりしても良かっただろう!」
「言われた通りにして文句を言うとか、理不尽もいいところですね」
タリアは無遠慮に立ち上がり、ウィリアムに飛沫がかかることも気にせず湯船から出た。
浴室の外のタオルに手を延ばし、体を拭く。
「一応、殴って欲しかった理由を聞いても?」
ウィリアムがうなだれたまま動こうとしないので、タリアは仕方なくその理由を聞くことにした。
「葛藤に終わりが見えなかったから、タリアに殴られれば終わるかと」
「葛藤?」
「私のことどころではないタリアに手は出さないでおきたい。けど腕の中に裸のタリアがいて」
「ああ、そういう葛藤ですか」
「殴ってくれれば正気に戻れるかと」
「へー。で、正気に戻れたんですか?」
「まぁ、私を殴るのに戸惑いもしないのがタリアらしいのかな、と、気は逸れた」
「そう。手を出しても良かったのに」
「……は?」
タリアは会話をしながらウィリアムが浴室の入り口に置いておいてくれたバスローブを羽織り、ベッドルームへと進む。
「ちょ、今、なんて?」
ウィリアムはタリアを追いかけ、ベッドルームに走り込む。
「今さっき、手を出しても良いと言ったか?」
「ええ。言いましたよ」
「……タリアの気持ちが私に向いたとは、思えないんだが」
「ええ」
「……だったら、なんで」
「そうだなー。手近にいるから、かな」
髪を拭く手を止めたタリアは両手をベッドにつき、ニッコリと微笑んだ。
「抱かれてる間は何も考えなくて済みそうだし」
「……私じゃなくても、手近にいれば誰でも良いと言っているように聞こえる」
「そう言ったつもりですよ?」
「誰でも良いって、意味分かって言ってんのか」
「もちろん。前の世界では二十七歳。知識も経験もそれなりにあります」
「さっきもだが、なんでそんなに自分を粗末にしようとする! 自暴自棄になっているのは分かるが、後悔するのも目に見えてるだろ!」
「後悔なんてしない。この体は私のものですよ?」
「当たり前だろ」
「……あー、私ね、ずっとこの体を借り物だと思っていたんです。いつかは『タリア』に返す。だからそれまで傷物には出来ない。そう考えてました。だけど、そうじゃないって思い知らされた。だから、この体は私の自由にしていいって思えるようになったんですよ」
借り物の体。そんなことを考えていたのか。とウィリアムは思う。
同時に、自分の体をどうしようが自由だ。という考え方を否定したいと思う。
「別に、ウィルじゃなくてもいいんですよ?」
「……喧嘩、売ってんだな。私の気持ちを知ってる上でそんな言葉を言うなんて」
「はい。喧嘩売ってます。ほかの男に行く前に、ウィルが私を抱けばいいって」
「…………あーーっ、くそっ!」
観念したように、ウィリアムはベッドに近づく。
片膝をタリアの横につき、両手でタリアの頬を包む。
「ほんっと腹立つ。なんなんだよっ、人の気持ちを弄んで」
「ついでに一つ、我儘を言ってもいい?」
「なんだよ」
「……何も、考えたくないの。他を気にする余裕がなくなるくらいにして欲しい」
「わかった……得意だ」
「ふふっ……得意って」
「本当は、こんな形でなんて抱きたくない」
「知ってる。利用してごめ……」
謝るな。そう言わんばかりに、ウィリアムに啄ばむようなキスをされ、タリアは黙った。
それから二人は言葉を交わすことなく、ベッドへと沈んだ。
第8話 完




